喜び、祈り、感謝。

エレミヤ書 29章11節 (旧1230頁) テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節(新379頁) 前置き 2024年が明けました。今年も主のお導きの中で、神に信頼し、隣人を愛し、正しい信仰に立っていく志免教会になることを祈り願います。今年の主題聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18)です。主の体なる教会である私たちが、日頃に主にあって生き、信仰によって喜びと祈りと感謝をもって生きていきたい希望で、この主題を決めました。使徒パウロは信仰者が常に喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きることこそ、神が望んでおられること、つまり「神の御心」だと明確に語りました。今年、志免教会が神の御心に従って、常に喜び、絶えず祈り、すべてにおいて感謝して歩む教会であることを願います。今日の本文を通じて、私たちが追い求めるべき信仰について考えてみましょう。 1. テサロニケ教会についての手短な知識。 使徒言行録15章でパウロはいわゆる「第2次伝道旅行」と呼ばれる宣教の旅を始めます。パウロは以前にもイエス·キリストの福音を宣べ伝えるためにエルサレムを離れ、小アジア地域(現在のトルコ)のあっちこっちに行巡り、イエス·キリストが神の子であり、人間を罪から救うために来られた唯一の救い主であると伝道しました。その宣教の旅の後、エルサレムに帰った彼は、また、福音伝道のために小アジアの方に2回目の旅行を始めたわけでした。パウロは、今のトルコ地域での宣教に特に意を注いでいたようです。そんなある日「トロアス」(トロイの木馬で有名な場所)という町に滞在していたパウロは、夜に主からの幻をいただくことになりました。それはマケドニア人、つまり現在のギリシャ北部の人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という幻でした。小アジア地域での伝道に尽力していたパウロは、自分の関心と意志が小アジアにあったにもかかわらず、神がくださった幻に従って自分のすべての計画を撤回し、マケドニア州フィリピに向かうことになりました。 パウロは律法学者として相当の知識を持つ、現在日本でいえば「前途有望な東大出身博士」のようなエリートでした。イエスに出会う前、彼は頑固な信念で、ユダヤ教思想に傾倒し、キリスト者の絶滅を願っていた情熱的なユダヤ人でした。そうだった彼が、自分が気を遣っていた小アジアの宣教を一夜の幻で止め、神のご命令に従って他の地域に渡っていったわけです。そして彼はそこでの福音伝道によって大きな迫害と苦難を受けます。主の御心の前でパウロは自分のすべての計画とこだわりを止め、主に聞き従い、迫害までも覚悟したのです。そんな中、パウロはテサロニケという町に着き、そこでテサロニケ教会が打ち立てられる種になります。しかし、パウロはそこでも「イエス·キリストだけが真の王」と伝道し、敵対なユダヤ人たちとテサロニケの人々の脅威を受けて身を避けることになります。パウロはテサロニケを離れて命を救いましたが、生まれたばかりのテサロニケ教会はどうなるか分からない状態でした。それ以来、パウロにとってテサロニケ教会は、特に心に引っかかる教会になったに違いないでしょう。果たして、テサロニケ教会は迫害の中で生き残ったでしょうか? 2. 迫害と苦難の中でも勝利する教会。 ところで、テサロニケ人への手紙第一1章6、7節には、こう書いてあります。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」パウロは脅威を避けて離れなければならなかったが、彼の伝道によって生まれたテサロニケ教会は、パウロの不在、すなわち指導者の不在にもかかわらず、主の御言葉を大事にし、堅く信仰を守ったのです。テサロニケ教会のために心を痛めていたパウロにとって、テサロニケからの良い知らせは、大きな喜びであったに違いないでしょう。キリスト教の歴史上、教会が最も純粋だった時は迫害と苦難の時代でした。迫害と苦難があればあるほど、教会は信仰の上に立ち、純粋になりました。むしろ教会が帝国の国教となり、多くの財産と権力を手に入れた時、主の御言葉から離れて腐敗し始めました。神は、たとえ地上の教会がなくなるとしても信仰的に腐敗することは望んでおられません。今、志免教会の状況を考えてみると、高齢化の会員も多く、経済的にも豊かではありません。皆さんが神に召されたら、志免教会はすぐになくなるかもしれません。しかし、志免教会の存廃よりも重要なことがあります。それは、志免教会の純粋な信仰です。 「なくなると言われても純粋な信仰を守るか。」「世の中の価値観に妥協して生き残るか。」という分かれ道の前で、神への純粋な信仰を守るのが正解です。そのような信念で生きる時、主の御旨によって教会の存廃は定めされるでしょう。信仰者の真の勝利は、ただの生き残りではありません。志免教会の存廃はあくまでも主の計画と選びにかかっています。私たちにとって重要なことは、今この瞬間、主を愛し、その方の御言葉に従順に従い、伝道し、隣人を愛して生きることです。もしかしたら、私たちは今、私たちが信仰の上に正しく立っているより、将来に私たちの教会が無くなるのではないかというおそれに心を奪われ、必要以上に心配しているかもしれません。 私は志免教会が、これからも長く、この地域で礼拝と伝道をし、隣人を愛する共同体として残ることを願います。しかし「生き残り」に執着してしまい、人数、予算などに心を奪われ、一喜一憂することはなかったらと思います。苦難と言っても過言ではない、今の日本の教会の現実の中でも、最後まで主への信仰を守り、すべてを主にお委ねして従うことを願います。すぐになくなってもおかしくなかった無牧教会だったテサロニケ教会は、それにもかかわらず信仰を守り、主によって守られました。それが主が望んでおられる本当の勝利ではなかったでしょうか? 3.喜び、祈り、感謝 2024年1月現在、聖書に記されているテサロニケ教会はありません。現在のテサロニケには、その昔の古代テサロニケ教会の跡が残っているだけです。主に褒められた教会だったにもかかわらず、歴史の移り変わりの中で消えていったのです。しかし、その昔、テサロニケ教会が追い求めていた主イエスの福音、信仰、神と隣人への愛はいまだに生き残り、今の他の国と他の民族のまた別の教会で続いています。テサロニケ教会はなくなりましたが、テサロニケ教会の信仰は生き残って続いているということです。今日の本文は語ります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」喜ぶことがあまりなく、祈りをしても変わることがそんなにないように見え、感謝することより感謝しにくいことが、はるかに多いこの世の中で、キリスト者は、どのように喜びと祈りと感謝を保って生きればいいでしょうか? 教会は建物を意味しません。本当の教会は目に見えません。もちろん一つの地域の目に見える教会も教会と呼ばれますが、それよりも大きな意味としての教会は、イエス·キリストを主とあがめる全世界の神の民の集まりを意味します。そして、主はそのすべての教会の頭として、今も目に見えない大きい教会を導いておられます。 私たち自身の大変な状況に捕らえられ、喜べず、祈りへの確信もなく、感謝もできない教会になるより、私たちの現在の状況と事情がどうであれ、それらを乗り越えて、この世のすべての教会を見守っておられる主に信頼して生きることを望みます。喜べない時も、信仰によってあらかじめ喜び、祈りが早く叶わない時も、最後まで主のお導きを待ち望み、感謝することが、あまりないような状況でも、神への信頼によって感謝を作り出す私たちであることを願います。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(18)今日の本文は、それこそがキリスト・イエスにおいて、私たちに求められる神の御心であると証ししているのです。長くても100年前後の短い人生の心配にとらわれて苦しむ私たちではなく、すべての結果を主に任せて決然と信仰を守って喜び、祈り、感謝しながら生きる私たちであることを願います。このような私たちの人生をご覧になり、主はご自分の御心に従って私たちの歩みを導いてくださるでしょう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という聖書の御言葉(ヘブライ人への手紙11:1)があります。自分の目に映る現実のために絶望せず、見えない主のお導きを信じて生きる2024年であることを願います。 締め括り 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)旧約時代、神はご自分を背反し、偶像を崇拝し、悪事を犯して、結局滅ぼされていまったイスラエル民族にこのように言われました。そして、70年後、主は彼らを赦してくださいました。旧約の犯罪した民にもこのような計画を持っておられた神が、ご自分のひとり子の贖いによって救われた新約の教会に、いかに大きな計画を持っておられるでしょうか? 神の御心は主の民の平和であり、将来と希望であることを私たちは旧約の本文から知ることができます。このような主の御心を憶え、今日の新約聖書の本文のように神への信頼によって、常に喜び、祈り、感謝しつつ、今年を生きる私たちであることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。