罪人の友イエス·キリスト。

民数記 35章9~15節 (旧276頁) ヘブライ人への手紙4章14~16節(新405頁) 前置き 主イエス·キリストのご降誕を喜び祝います。この世のすべての罪のある者、貧しい者、弱い者の友になられ、彼らと共に歩んでくださるために来られた主イエスの愛と恵みを喜びたたえます。このクリスマスに、ここに集っておられる皆さまと、また我らの家族、友人、近所の方々にキリストによる、主なる神の愛と恵みとが豊かに注がれることを心より祈り願います。今日はクリスマスの本当の主人公である主イエス・キリストのことをお話ししたいと思います。 1. 罪人の大祭司となるイエス・キリスト。 今日は、クリスマス記念礼拝ですが、聖書の本文の言葉はクリスマスとあまり関係ないように見えるかもしれません。クリスマスといえば、ベツレヘム(イエスの生まれ故郷)の飼い葉おけに生まれたイエス、東の方からの占星術の学者たち、マリアとヨセフ、大きくて輝かしい星、野原の羊飼いたちと空の天使の讃美など、主イエスの誕生についての物語が多いからです。それでは、私がクリスマスと全く関係なさそうな本文を選んだ理由は何でしょうか。それは、なぜイエスがこの地上に人間として生まれなければならなかったのか? 東の方の学者たちがイエスを訪れた理由は何か? なぜ大きくて輝かしい星がベツレヘムに向かったのか? なぜ数多くの天使たちがイエスの生まれにあたって「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と讃美したのか、というクリスマスの物語が持つ本当の意味について話したかったからです。なぜ、唯一の創造主のひとり子は人間となり、この地上にお生まれになったでしょうか? そして、その方がこの地上に来られたということは、私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか? 私は今日の説教を通して、このように言いたいです。「イエスは今を生きる、この世のすべての罪人の友になってくださるためにこの地上においでになったのです」と。 聖書には、神がこの世のすべてを創造され、それらを見て喜ばれたと記してあります。そして、被造物の頭である人間を創造された後、彼らを見て最も喜ばれたと書いてあります。つまり、神は人間のために世界をお創りになったわけでした。しかし、やがて人間は神の座を欲しがって神を裏切ってしまいました。その罪のため、人間は神に罰を受け、みじめな存在になってしまいました。しかし、人間を完全には見捨てなかった創造主の神は、人間を愛したあげく、彼らと和解することを決定されました。それで、人間の代わりに罰を受けて死ぬ、罪のない存在を遣わそうと決心されました。しかし、神を裏切った最初の人間の子孫は、依然として最初の人間が犯した罪の支配の下にいるため、誰も他の人間の罪を赦すために、代わりに死ぬことができない状態でした。罪人が他の罪人の罪を赦すことはありえないからです。そこで、神が選ばれた方法は、まったく罪のないご自分の子を人間に生まれさせ、罪人に代わる贖いの献げ物にして、他の罪人たちを救う方法でした。それによって神は、いわゆる「三位一体」の御父と御子と御霊の中の御子なる神を人間に生まれさせ、この地上に遣わされたのです。そして、その御子なる方がまさに主イエス·キリストなのです。 今日の新約聖書の本文は、このように語ります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15) 本文は、このイエス·キリストが、罪人を罪から救ってくださる大祭司であると証ししているのです。イエスは、自ら(罪のない)人になって人間の弱さ、悲しみ、痛み、苦しみと(聖書には試練と書いてある) 私たち人間が感じる感情を同じように体験され、神でありながらも、人間になり、人間を理解し、主に頼る者たちを代表してくださる大祭司になってくださったのです。私たちがクリスマスにイエスのご降誕をお祝いする理由は、人間が、もうこれ以上ひとりぼっちで自分の罪、弱さ、悲しみ、痛み、苦しみに束縛されて挫折ばかりするのではなく、このイエス·キリストに出会うことによって、主と共に生きることができるようになったからです。いわば、私たちと永遠に離れない真の友が、天から地に来た日だからです。主イエスは、今日も私たちを見守っておられます。私たちの罪、私たちの悲しみ、私たちの痛み、私たちの弱さを同情してくださいます。そして、私たちが主の恵みを求める時、主イエスは必ずご自分を探す者たちを見捨てられず、出会ってくださるのです。 2. 私たちの逃れの町になってくださるイエス。 今日の旧約本文には「逃れの町」という言葉が出てきています。「ヨルダン川の東側に三つの町、カナンの土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。これらの六つの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、過って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる。」(民数記35:14-15)逃れの町とは、旧約時代、神がイスラエルに土地を与えてくださる時、イスラエル人、外国人を問わず、過って人を死なせた者、例えば、木を切る際に、斧の刃が勝手に飛んでしまって誰かが当たって死んだなどの場合、死んだ者の家族に無惨に復讐されないように避難できるような場所でした。もちろん意図的に殺人した人は必ずそれに相応する刑罰を受け、殺されるのが旧約の律法でした。ただし、過ちによる死のため、人々が互いに復讐しあって殺し合う悲劇がないように、神が、ご自分の律法で逃れの町を定めてくださったのです。もちろん、過ちで人を死なせた、その人は逃れの町で自分の過ちを認め、反省と悔い改めをするべきだったでしょう。このように神は盲目的に人を罰し、殺すのではなく、自分の罪を認める罪人を憐れみ赦してくださるために、逃れの町という制度をくださったわけです。 ところで、この逃れの町に避けた人は、いつ自由の身になれるのでしょうか? 一生、逃れの町に束縛されて死ぬ日を待つしかないのでしょうか。しかし、彼らも自由の身になる時がありました。「人を殺した者は、大祭司が死ぬまで、逃れの町のうちにとどまらねばならないからである。大祭司が死んだ後はじめて、人を殺した者は自分の所有地に帰ることができる。」(民数記35:28) 当時の大祭司が生を全うして死ぬ日、は逃れの町の罪人らは、その町から出て自由になることができました。神が大祭司の死によって、彼らの罪が贖われたと見なしてくださり、彼らの罪を赦してくださったからです。罪人のために罪のないイエスが死んで罪人を赦してくださるという概念は、まさに、このような逃れの町の大祭司の物語と深くかかわっています。神は罪人をすぐに罰せられず、見守り、大祭司の死ぬとき、贖罪して、新たな人生を生きるとこが出来るようにお待ちくださったのです。すなわち、私たちの大祭司であるイエスが罪と弱さで無力になっている罪人のために死んでくださった時に、人は罪から赦されるようになったのです。イエスが十字架で私たちの罪に代わって神の御前で刑罰を受けて死んでくださることで、私たちは自分の罪から自由になる手立てを得ることになりました。したがってイエスは旧約の逃れの町のように私たちを守り、大祭司のように、ご自分の命をかけて、私たちを罪から救ってくださる方です。イエスがこの地にお生まれになったことをお祝いする理由は、このようにイエスが人間の罪と弱さをご自分の体で背負ってくださった救い主だからです。 締め括り 今の世界で、クリスマスが持つ意味はどうなっているでしょうか。クリスマスは「キリストに礼拝する日」という意味のラテン語ですが、現実はイエス·キリストより、サンタクロースの方が有名になっている日であるかもしれません。罪人を赦し救い、友になってくださるイエス·キリストを記念すべき日ですが、むしろ、パーティー、デート、飲み会の日のように認識されているかもしれません。このようなクリスマスを、キリスト者は正しく憶え、感謝すべきではないでしょうか。主は罪人の友になってくださるために、私たちの逃れの町と大祭司になってくださるために、この地上にお生まれになりました。そして、私たちに真の平和と喜びを与えてくださるために十字架でご自分をささげ、死んでくださいました。そして、主は私たちの永遠の命のために復活し、真の救い主として今も私たちと共におられるのです。このようなイエス·キリストの愛と恵みを憶えるクリスマスになることを願います。メリークリスマス。主イエスのご降誕をおめでとうございます。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。 イメージファイル Freepik