互いに助け合いなさい。
申命記5章16節(旧289頁) エフェソの信徒への手紙6章1~9節(新359頁) 前置き 今年の志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)です。この言葉は、教会の本義について教える言葉です。 私たちは、エフェソ書を通じて、教会とは何かについて学んできました。教会は天地創造の前にあらかじめ定められた主の民がイエス·キリストによって救われ、召し出され、主の体として一つになった共同体です。したがって、教会はこの世の価値観ではなく、キリストの御心に適う生き方で生きなければならない存在です。聖書によると、キリストの御心に適う存在は、神と隣人を愛して生きる者です。したがって、エフェソ書の1-3章ではキリストと教会の関係について神学的に説明し、4-6章ではキリスト者の実質的で実践的な生き方(奉仕と愛の生き方)について説明しているのです。今日の教えも4~6章に属する実践的な話です。今日の本文では、親子の関係、そして主従関係について話していますが、親子と主従関係だけでなく、普遍的なキリスト者の生き方についても学ぶことができます。今日の本文から主なる神の尊いお教えを学ぶことを祈ります。 1.親と子供たちに。 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です。 そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができるという約束です。」(1-3) 今日の本文はまず子供たちへの勧めから始まります。それは、自分の親を敬うべきということです。「約束を伴う最初の掟」とは、基本的に神がモーセに与えてくださった「十戒」を意味するものであり、より広く考えると、十戒で代表される「律法の精神」を意味するものでもあるでしょう。つまり、旧約の律法も、新約の福音も親への尊敬を何より大切にしていたということです。 「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(4) また、エフェソ書は子供たちだけでなく、親にも子供たちを大事に育てることを勧めています。子供たちを軽んじて扱うことではなく、怒らせないで尊重の気持ちで大切にしつけ諭しなさいということです。これらによって、私たちは親子の関係が、主にあって、互いに尊敬と尊重で成り立つべき関係であることが分かります。親それぞれ違いますが、一般的に親は幼い子供を自分に属する存在として考えがちだと思います。それがやりすぎて、保護者という名目で自分が望むことを強いる場合も少なからずあります。愛と執着を勘違いして子供を牛耳ってしまうのです。しかし、子供は親の所有ではありません。自分の思い通りに操れない自我を持った独立の存在です。 子供たちは、親を通して生まれたのですが、親と同じように神の被造物です。つまり、主なる神の所有なのです。したがって、私たちは子供たちを愛するとともに、個人として尊重し、神に託された存在として大事に養っていかなければなりません。子供たちも同じです。生まれた時から親の懐で育ってきたため、親を当たり前な存在と考えがちだと思います。礼儀作法をよく教えた家庭もあるでしょうが、成長するにつれて親を軽んじて、大事にしない子供たちも少なからずいます。しかし、聖書は語ります。「何よりも親を敬いなさい。」 今日の本文にはこんな言葉があります。「主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。(ディカイオス)」ここで正しいという言葉は「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」あるいは「キリストによって義とされた。」の「義、正しさ」と同じ表現です。つまり、主イエスに救われた、正しい者は「当たり前に親を敬う者」ということです。親子の関係は複雑微妙です。しかし、聖書ははっきり言い切っています。互いに敬い尊重し、愛し合って生きていきなさいということです。親だからといって、むやみに権威を強いてはならず、子供だからといって親を軽んじてはならないということです。親も子も皆神の被造物であり、キリストのものです。キリスト者なら近ければ近いほど、お互いを大切に助けあう存在として親子に接しなければなりません。 2.主人と下部たちへ。 今日の本文は親子の関係だけでなく、主人と下部(本文では奴隷)の関係についても話しています。「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」(5) エフェソ書が記された時代のローマには奴隷制度がありました。ところがローマの奴隷制度は、東洋やアメリカの奴隷制度とは、少し違う概念でした。呼称は奴隷でしたが、彼らは主人に属し給料をもらい、能力によって自由民のように扱われる者もいました。たとえば、貴族の家庭教師の中に奴隷の身分を持った者が少なくありませんでした。時には、主人の助けで奴隷の身分を清算して自由を得、ローマ帝国の市民になる者もいたと言われます。そういう意味として、今日の本文に出てくる奴隷は、現在の会社員とも、ある程度重なっているかもしれません。とにかく聖書はこの下部たちに「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」と勧めています。現代的に再解釈して言うと、会社員が会社のために誠実に働き、キリストに仕えるように自分の上司に仕えるという意味でも理解できるでしょう。ただし、間違って理解してはなりません。これは、社長や人事管理者に賄賂を渡したり、法律以上に激務したりしなさいという意味ではありません。上司が自分に親切であれ、不親切であれ、自分のすべてのことを神が見守っておられるからという気持ちで誠実に生きていきなさいという意味です。 キリスト者は、神が自分の生活を見守っておられるという前提を持って生きる存在です。他人の目を意識せずに、ひとえに神の御前でキリストの肢として誠実に生きるのです。人生のすべてをキリストに仕えるかのように生きるのです。また、今日の本文は主人(上司)にも勧めています。「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(9) ローマ帝国の奴隷が、他文化圏の奴隷とやや違ったからといって、彼らの生殺与奪権が主人たちになかったというわけではありません。ローマの奴隷たちも主人の扱い次第で、他の文化圏の奴隷たちのように悲惨に最期を迎える場合もあったでしょう。しかし、聖書はキリスト者なら無慈悲な主人になってはならず、自分と下部の真の主人である神の前に畏れをもって行うことを勧めます。「彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」神の前ですべての人間は同等です。この地に主人と奴隷として生まれただけで、すべての人間が、神にかたどって創造されたのは同じです。神において主人と下部はありません。皆が神の形で造られた大事な存在だからです。ですから、キリスト者の上司なら、地位の上下を問わず、人を人として扱う慈愛と奉仕の心で部下に接しなければなりません。自分が主人ではなく、神が真の主人でおられるという認識を持って、下の人々を配慮しつつ生きるべきです。 3.キリスト者の普遍的な生き方 今日の言葉を通して、私たちは親子の関係、主従の関係について学びました。そして、この2つの例は共通点を持っています。相手の高低を問わず、互いに大事に扱いあうべきということです。親は子供を尊重し、子供は親を敬わなければなりません。上司は下部を慈愛で接し、下部は主人に誠実に仕えるべきです。地位の上下を問わず、キリスト者なら相手に丁寧に接するべきです。そのような人生こそが神と隣人に仕え、愛するキリスト者の望ましい生き方ではないでしょうか。ですから、今日の説教の題を「互いに仕えあいなさい」と決めたわけです。親子に対する例話は親と子供だけでなく、教会内の信仰の先輩と後輩の間にも適用できる話でしょう。親が子供を愛し尊重するように、信仰の成熟した先輩キリスト者が、まだ信仰の弱い後輩キリスト者を愛するものです。子供が親を敬うように後輩キリスト者も先輩キリスト者を尊敬し、彼の信仰から良いことを教えてもらうのです。主人と下部の関係は、教会の牧師と信徒にも適用できる話でしょう。(もちろん牧師が下部の立場に立っていると私は力強く主張したいです。)牧師は主に仕えるように、差別なく教会員に仕え、教会員たちは牧師を尊重するのです。このように今日の本文を私たちの教会生活にも適用できるでしょう。 締め括り エフェソ書が、繰り返して、互いに仕えあい、愛し合うことを強調する理由は、教会が主イエス·キリストの体だからです。三位一体なる神には、一つの位格が他の位格より優れているという概念がありません。御父、御子、御霊が同じ権能と同等の権威を持っておられます。ただし、御子と聖霊がへりくだり、進んで御父の御心に聞き従われるのです。教会員の生活も同じです。牧師、長老、執事が優れているわけではなく、新しい信者が劣っているわけでもありません。皆が主のもとで同等のキリストの体して存在するのです。したがって、聖書は互いに自分より兄弟姉妹を優れた者とし、互いに仕えあうことを勧めているのです。自分自身を低くし、兄弟と姉妹を高め、互いに愛し合い、誠実に仕え合うこと。それが教会として召された私たちキリスト者がとるべき望ましい生き方ではないでしょうか? 天地創造の前に招かれたキリストの体なる共同体。このようにキリストの体と呼ばれる私たちは、世の価値観ではなく、キリストの価値観、謙虚と愛と奉仕の価値観をもって、この世を生きていかなければなりません。志免教会もそうであることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。