キリストと新しい出発を。
イザヤ書43章18~19節(旧1131頁) コリントの信徒への手紙二5章17節(新331頁) むかしむかしあるところに、善い羊飼いがいました。彼には100匹の愛する羊がいました。そんなある日、突然、空に黒い雲が垂れ込め、激しい雨風が吹き出しました。彼は急いで野原の羊の群れを呼び集め、羊小屋に入らせました。羊の数を数えた後、自分も家に入ろうとしたのですが、何度数えても1匹の羊がいませんでした。心細くなった彼は急いで上着を着て、雨風の中に走っていきました。風雨が強すぎて、見失った羊を見つけることは出来なさそうでした。それにもかかわらず、彼はあきらめず、野原へ、森へ、また川沿いへ、その羊1匹のために探し回りました。99匹の羊がいるから、あきらめれば良かったのに、彼は羊1匹のために探し続けたのです。結局、彼は川に溺れてもがいている羊を見つけました。川の水が増えて危険だったのに、彼はあきらめずに命をかけて羊を助け救いました。彼はすごく疲れてしまったのですが、救い出された羊を見て、疲れを忘れ、笑顔満面になりました。いつの間にか雨風はおさまり、晴間が見えてきました。羊を担いで家に帰ってきた羊飼いは大喜びで、友達や近所の人々を呼び集めて祝宴を張りました。 1. 新しい始まりを語る聖書。 以上の物語は、新約聖書のルカによる福音書15章に出てくる短い話を脚色したものです。キリスト教の神が、このように見失った一人の魂のために、ご自分のすべてを惜しげもなく、喜んで犠牲になさり、ご自分の愛する民を救い出してくださることを示す例え話なのです。聖書は、神が見失った民を愛されたあまり、ご自分の子イエス·キリストを十字架の犠牲にし、その代わりに見失った民を救われる神の愛の物語です。そして、神はこのように見失った民たちがキリストによって救われ、神と和解することを誰よりも望んでおられます。ですから、神は世のすべての人々がキリストを知り、もう一度、新しく始まる機会を与えてくださることを望んでおられる方なのです。キリスト教は、実に新しい始まりのための宗教であると言っても過言ではないほど、回復と和解と再出発を信仰の大事な価値にしているのです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」(イザヤ43:18-19) 新約聖書でもない旧約聖書の預言者に、神の御言葉をこのように宣べ伝えさせるほど、神はご自分の民の過去の罪を赦され、新しく始まることが出来るように、御心を遣っておられる方なのです。 新しい始まりは、本当に感激的で喜ばしいことであり、私たちの人生にとってかけがえのない祝福であります。私たちは人生を歩みながら、一度以上「あの時、ああしてたら、その時、こうしてたら」のような後悔をしがちです。しかし、誰かはこのように言いました。「歴史にもしもはない。」 実際、歴史にもしもはありません。すでに起こったことを元に戻すことは、映画でしか見られないことだからです。しかし、聖書は語ります。「過去のことは後ろにして、イエス·キリストによって、今から新しく進みなさい。」歴史の巻き戻しはありえないことですが、過去の生き方を反省し、新しく生き始めることは出来るということです。たとえ失敗、挫折、悲しみ、そして後悔が、私たちの人生の進みをさえぎっているとしても、聖書はそれにもかかわらず、神はあなたと一緒におられ、あなたが新しい出発をして幸せに生きることを望んでおられると声を限りに訴えているのです。過去のことに足を引っ張られて座り込んでいませんか? 昔の罪により、二度と前に進めないと悩んでいませんか? 世の中の皆が、君にはできないと指差ししていると思い、つまづていませんか? しかし、そのような世のささやきに騙されないようにしましょう。この世を創造し、あなたを知り、誰よりもあなたを愛しておられる、造り主なる神は、今日もあなたに語っておられます。「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」これが、あなたに向けた神の本当の御心なのです。 2. キリストによる新しい出発。 ところで、聖書は真の新しい出発のために、一つ先にしなければならないことがあると語ります。それはキリストの贖いによって、罪赦されることです。聖書の教えによると、世のすべての良くない物事が、人間の罪から生まれるので、その罪への解決が絶対に必要であります。聖書が語る新しい始まりは、その罪の解決の後、有効になるのです。名称からも分かるように、キリスト教はイエス·キリストを信じる宗教です。しかし、キリスト教が、他宗教と異なる点は、天国に入るため、あるいは欲望の実現のため、それとも自分の有益のために信仰を持つことではないということです。(他宗教を非難するわけではありません。違いを話しているだけです。) キリスト教の目標は、キリストによって自分の罪が赦され、神と和解し、主と一緒に生きることなのです。それによる神のお贈り物(おまけ)が死後の楽園、人生の有益などなのです。夫婦が互いの財産を狙って結婚するわけではなく、愛しているから結婚すると同じように、キリスト教も他の理由ではなく、神と和解し、共に生きるためにイエスを信じ、信仰を持つということです。したがって、キリスト教の最も重要な信仰の姿はまさに「キリストによって、自分の罪を赦され、神と和解する新しい人生。」なのです。旧約聖書の創世記には、神の天地創造以後、人間が自分の意志で堕落する姿が描かれています。蛇に誘惑されたアダムとエヴァが、すすんで知識の木の実を取って食べ、神を裏切って呪いを受けるという物語は、皆さんも聞いたことがあると思います。 これは、人間は悪の影響を受けやすく、その結果、罪を犯し、結局は滅びに至りやすい存在であるということを意味する物語です。そういうことで、神は自分の罪に束縛され、自ら真の善を行うことが出来ない人間のために、一つの計画を立てられましたが、それは人間の罪を赦し、真の善へと導く完全な存在を、この世に遣わしてくださることでした。そして、聖書は、その完全な存在が、「イエス·キリスト」であると証言しています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23) 聖書が語る罪とは、殺人、暴力、詐欺などの凶悪な犯罪だけを意味するわけではありません。隣人を愛しないこと、心の中に憎しみと怒りがあること、怠惰と貪欲、淫らな行為と暴言、造り主を知ろうともせず、拒否することなど、人間が行うべき善を行わない、すべてのことも罪であると語っているのです。しかし、聖書は神に遣わされた存在、イエス·キリストによって、それらの罪が赦されると力強く証しています。そして、その罪の赦しによって、もう一度新しい人生を始める力を得ることができると述べています。そういうわけで、今日の新約本文は「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:17)と語っているのです。つまり、聖書は新しい始まりへの第一歩はキリストとの出会いに基づくと教えているのです。 締め括り 最後に、ある日本人の牧師の話をして、説教を終わりたいと思います。前科7犯のヤクザ出身の進藤龍也牧師は、高校中退後、18歳にヤクザになりました。悪いことばかり犯しながら生きていた彼は、28歳の時、暴力組織の組長代行となりましたが、覚醒剤中毒が原因で破門になり、組織から退出されました。彼は3度目の刑務所服役中に前妻が差し入れた聖書を読み、イエスを信じ、回心することになりました。彼の人生は完全に壊れていたのですが、聖書に記された神の御言葉は、彼の罪を悟らせ、神の赦しを得る方法を教えたのです。そして、彼は結局イエス·キリストに出会い、信仰者になりました。それから、彼は昔の生き方をきれいに清算し、牧師としての新しい人生を始めることになりました。彼は出所後、2005年に神学校を卒業し、同時に開拓伝道を始め、現在は埼玉県川口市の単立教会「罪人の友、主イエス・キリスト教会」の牧師として働いています。今では、日本各地の刑務所の収監者との手紙連絡および面会を通して、キリストの福音を宣べ伝えています。 彼は後日書いた著書でこう語りました。「人生が計画通りにうまく行かず、絶望して間違った人生を生きてきたと後悔と挫折に陥る時、一人の命を大切にしてくださる神は決して、あなたのことを諦められないことを覚えてください。」神は、あなたの新しい始まりを応援しておられます。神はあなたを絶対に諦められません。イエス・キリストの恵みにより、この神と出会いがありますように切に祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。