新しい人の生き方

レビ記11章45節(旧178頁) エフェソの信徒への手紙4章17~32節(新356頁) 前置き キリストの教会は、天地創造の前に神に選ばれ、キリストによって救われ、聖霊のお導きによって生まれた神に愛される共同体です。キリストは、この教会を打ち立てられるために、ご自分の十字架の血潮によって罪人を赦され、喜んでご自分の体(民、教会)としてお呼び出しくださいました。かつての罪人たちは神を知らない異邦人のような存在でしたが、キリストの救いは異邦人のような罪人(神の愛の外にいる)を、神の子供(神の愛の中にいる)に生まれ変わらせました。したがって、キリストのもとにいる私たちは、もはや異邦人ではなく、神の子供であり、家族である存在です。また、エフェソ書は、この教会をキリストを頭とする「一人の新しい人」と表現しています。キリストが頭となる一人の新しい人、主は私たち教会をご自分の体として何よりも大切にしてくださいます。そのため、私たちはもう異邦人ではなく、新しく、主イエスの体として生きていく理由を持つのです。今日は、一人の新しい人、主の体なる教会の生き方について考えてみたいと思います。 1. 古い人の生き方。 「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。」(エフェソ4:17) 今日の本文には異邦人という表現が出てきていますが、すでにエフェソ書2章にも、この異邦人についての話しがありました。エフェソ書が語る異邦人とは、旧約聖書の神の民である「ユダヤ人」の反対の概念です。ここで言うユダヤ人とは、血統だけがユダヤ族のユダヤ人ではなく、神の御言葉に従順に聞き従って生きる、神の真の民を意味する表現でした。つまり、異邦人は、神の御心に逆らう神の民でない存在を意味します。そして、今日の本文は、そのような異邦人みたいな神を知らない者の姿を「古い人」と表現しています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て」(4:2) 神の招きとキリストの救いと聖霊の導きによって、主の教会となった私たちは、主の聖なる民というアイデンティティを持っています。しかし、私たちが最初から神の聖なる民だったわけではありません。私たちは生まれた時、神を知らない状態にの霊的な「異邦人」でした。聖霊のお導きで教会に招かれ、み言葉にあずかって、キリストへの信仰を持つことが出来なかったら、私たちは依然として神を知らない「異邦人、古い人」に生きていたでしょう。 今日の本文は、神を知らない「異邦人、古い人」の生き方について、このように述べています。「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」(エフェソ4:17-19) 神と無関係な「異邦人、古い人」は「神の御言葉」という人生の基準がないため、自分自身が人生の基準になります。自らが基準になったため「創造主の御言葉」という広くて豊かな基準とは比べ物にならない、つまらない自分の判断が人生の基準となってしまうのです。罪の支配下の一介の人間の愚かさ、暗い知性、無知、心のかたくなさが基準になるので、その人生は無感覚、放縦、ふしだらな行いで、自分の欲望に支配され、結局、神の命から離れることになってしまうのです。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」(20) そして、パウロはキリストの民である教会は、主からそのように学んでいないと語ります。つまり、神を知らない異邦人、古い人のような行い、無知、心のかたくなさ、放縦など、そのすべての正しくないものは、主の民である教会の生き方にふさわしくないということです。 2. 新しい人を身に着けなさい。 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:22-24) 今日の本文はキリストの体となった教会を成すキリスト者が、これ以上異邦人、古い人の姿で生きてはならないということを教えています。そしてさらに「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなさい」と語ります。ここで大事な表現が2つありますが「真理と正しさ(義)と清さ(聖)」と「新しい人を身に着ける」です。 改革神学では「真理と正しさと清さ」が、初めの人間の犯罪によって失った「神のかたち」であると解釈します。創世記では、神がご自分のかたちにかたどって人間を創造されたとの記録があります。このかたちとは、五体、つまり肉体の形という意味ではなく、神の本性に似た存在という意味です。しかし、罪によって堕落した人間は、この「真理と正しさと清さ」という神のかたちを失ってしまいました。そのため、神は、人間が失った「真理と正しさと清さ」を回復させてくださるために、イエス・キリストを遣わされたのです。主イエスは「真理と正しさと清さ」の源であり、その方の体として召された民に、喜んでご自分のかたちを回復させられることを望んでおられる方です。私たちは、主イエスによって「真理と正しさと清さ」を回復した「新しい人」として呼び出されたのです。 ところで、エフェソ書は「真理と正しさと清さ」の新しい人を「身につけなさい」と語っています。聖書は「真理と正しさと清さの新しい人になりなさい」とは言いません。生まれつき罪を持ってきた私たちは「真理と正しさと清さ」を成し遂げることも、手に入れることも出来ません。それらを回復させてくださるのは、おひとり主イエスであり、私たちはその方によって真理と正しさと清さをいただくようになるのです。「なる」と「身につける」は全く別の意味です。本当に「真理と正しさと清さ」の持ち主はキリストおひとりだけであり、私たちはその方によって「真理と正しさと清さの新しい人」と見なされるようになるのです。神も私たちが罪ある不完全な存在であることを知っておられます。そして、キリストが再臨なさる終りの日まで、罪を持った人間は、初めの人間のように完全な存在にはなれないということも知っておられます。しかし、キリストが私たちを「ご自分の体」と認めてくださるなら、父なる神は私たちを「真理と正しさと清さの新しい人」と見なしてくださるのです。だから、私たちはキリストによってのみ、神のかたちを回復することができます。そして、キリストによってのみ「異邦人、古い人」の姿を脱ぎ捨てる機会を得ることが出来るのです。パウロは主の体なる教会として、キリストによって古い人の愚かさを脱ぎ捨て、主の体なる「新しい人」として真理と正しさと清さを追い求めて生きることをエフェソ教会と私たちに願っているのです。 3. どう生きるべきか? では、今日の本文に照らして、私たちがどう生きるべきなのか考えてみましょう。果たして「愚かな古い人の姿」とは何であり「真理と正しさと清さの新しい人」とは何でしょうか? 私たちは、今日の本文の 25 節から 32 節の言葉からヒントを得ることができます。本文が長いので、今しばらく25-32節の言葉に目を通していただければ幸いです。「愚かな古い人の姿」にはいろいろありますが、特に今日の本文には「偽り、怒り、盗み、悪い言葉」を指摘しています。一、偽り、ヨハネの福音書8章44節には「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」とあります。ここで、悪魔とはエフェソ書2章2節の「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」つまり、神に逆らう悪霊のことでしょう。偽証してはならないという十戒もあり、教会でなくて、偽りは悪いというのが世の常識です。しかし、聖書はさらに、偽りが神に逆らう者、悪魔の本性であることを語っているのです。二、怒り、怒らない人はいません。現代の精神医学でも、無理して怒りを我慢するより、賢く怒る方が心の健康に良いという話もあります。しかし、他人を傷つけるための怒りは「古い人」の本性だと聖書は警告しています。だから、今日の本文は怒っても罪を犯さず、日が暮れる前に和解することを語っています。 「悪魔にすきを与えてはなりません。」(4:27) そして、この怒りが悪魔にすきを与える悪魔の道具であることを明確にしています。一瞬、怒っても、それを罪にまでつなげないように気をつけましょう。怒りは古い人のものであり、悪魔の道具であることを忘れてはなりません。三、盗み、盗みもキリスト教でなくても悪いということは常識です。十戒の8戒にも「盗んではならない」と書いてあります。しかし、私たちは、単純に人の物を盗むことだけが盗みではないということを知らなければなりません。隣人の苦しい状況を知りながら気付かないふりをすること、自分の益のために他人の益を妨げることも、広い意味としては、盗みなのです。神は豊かな者が貧しい者を助けることを聖書の様々な箇所で教えてくださいました。キリストはご自分の命を罪人たちに分け与えてくださるために、ご自分の命を捨てられたのです。私たちは主の体なる教会として、盗みについてより広い認識を持って理解するべきです。最後に悪い言葉、簡単に言えば他人への悪口と言えるでしょう。そして、他人を憎む心にまで至ると思います。この世を生きながら気に入らない、憎い人が必ずいるでしょう。人間だから、当たり前です。しかし、聖書はそれでさえ制御することを命じます。誰かに悪口を言いたい時、憎しみが湧き出る時、これらはキリストによって新しい人となった私たち教会には、ふさわしくない姿であることをぜひ憶えてください。悪い言葉は明らかに悪魔のものだからです。 締め括り パウロは教会に告げます。「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(4:24)「偽りを捨てて真実を語りなさい」「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」「盗みをやめて困っている人を助けなさい」「悪い言葉ではなく、恵みの言葉を言いましょう」「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」パウロは、このように教会のあり方について力強く語っているのです。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」(レビ記11:45) 今日の本文を読みながら、旧約聖書レビ記の言葉が思い起されました。神はエジプトから脱出した、イスラエルの民に明確に言われました。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」私たちはキリストによって新しい人となった主の体なる教会です。今日の御言葉を通じて、私たちが取るべき生き方について考えてみましょう。主イエスの教会にふさわしい生き方のために、特に心していく志免教会の兄弟姉妹であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。