キリストのからだを立てる奉仕。

旧約の箇所はありません。 エフェソの信徒への手紙4章1~16節(新355頁) 前置き キリスト者は、神の恵みのもとで、キリストによって呼び出された存在です。神は天地創造の前に、すでにご自分の民をお選びになり、キリストの御名によって召されたのです。そして召された者たちを教会という名で一つにしてくださいました。神はご自分の民を教会にしてくださるために、イエス·キリストの愛と犠牲とを通して、民を罪から救い出してくださいました。また、民の救いのために死んだイエス·キリストを生き返らせ、教会の頭にされ、そのキリストを中心として民を一人の新しい人のようにしてくださいました。したがって、主の教会を成すキリスト者は、お一人、イエス・キリストの体なる存在なのです。もうこれ以上、私たちは自分自身の主人ではなく、イエス·キリストのものとなって生きていくのです。前回のエフェソ書1~3章の内容は、その点をとても大事に語っていました。エフェソ書は1~3章では、キリストと教会の関係について神学的に語りました。そして4~6章では、その神学的な話を基に実践的で現実的な話、つまり、キリスト者の望ましい生き方について語ります。今日の説教を通して、教会を成す私たちが、どのように生きるべきなのかを一緒に考えてみたいと思います。 1.主の民の望ましい生き方。 「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェソ4:1-3) 先ほど、お話ししました1-3章の教えに基づき、パウロは主の民である教会が神のお呼び出し(お招き)にふさわしく生きることを勧めます。神のお呼び出しにふさわしい生き方とは、どういうものでしょうか? 今日の本文は、このように述べています。 「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」「高ぶることなく」とは、一言で謙遜のことです。私たちのすべてが神の恵みのもとで、キリストによってなされたから、自身を高めず、キリストと他者に仕えて生きなさいということです。柔和とは、私たちのすべての欲望を抑制し、神の御心に従順に生きることを意味します。柔和はギリシャ語で「プラウテス」と言いますが、「統制された力」を意味します。人に馴らされていない自然の馬を野馬といいます。野馬はとても気が荒いので、人が乗れないものです。しかし、戦国時代やローマ時代の時代劇を観ると、戦争で勝利した将軍が乗った飼い慣らした馬は自分勝手に動かず、主人の意志に従って動きます。人間より力が強いですが、主人の意志によって自分の力をコントロールするからです。 このような概念をギリシャ語で「プラウテス」と言い、今日の本文の「柔和」の原文なのです。キリストの外にいた私たちは、まるで野馬のように自分の欲望に忠実な存在でした。しかし、キリストのものとなった私たちは、主の栄光のために自分の欲望を統制する「プラウテス」の存在にならなければなりません。それが聖書が語る「柔和」のイメージなのです。また、本文に戻り、私たちは愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなければなりません。私たちは長く忍耐しなければなりません。誰かが気に入らないからといって簡単に怒ってはなりません。自分が嫌いに思う、その人を私たちの主は、命をかけられたほど、愛しておられるからです。それを心に留め、簡単に憎まないで忍耐し、むしろ赦しあい、平和を実現して生きるべきです。そして、聖霊によって一致された、この教会を何よりも大切にし、愛して生きなければなりません。パウロは、私たち教会が、このように生きることを望んでいるのです。私たちはキリストにあって一つとなりました。私たちの救い主がおひとりキリストで、私たちを導いてくださる方が、おひとり聖霊で、これらすべてをご計画なさった方が、おひとり父なる神なのです。私たちは民族が異なり、苗字が異なり、考え方も互いに異なりますが、それでも私たちは共通したお一人のキリスト、主イエスの民であり、主の体である存在です。したがって、私たちはキリストにあって、聖霊によって一致された存在という私たちのアイデンティティを絶対に忘れてはなりません。 2.それぞれに与えられたキリストからの賜物。 「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エフェソ4:7) 主は民を召され、教会を打ち立てられ、この教会が健全に立てられていけるように、信徒それぞれに賜物を与えてくださいました。賜物とは、英語でギフトという意味で、神がキリストと聖霊を通して、私たちに与えてくださった各自の才能と務めのことです。「そこで、高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられたと言われています。昇ったというのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」(エフェソ書4:8-10)パウロは詩篇68編18節の言葉を引用して、主がご自分の民に賜物をお与えになったと語ります。そして、この詩篇の言葉のように、主イエスが 地上に降りてこられ、十字架で死ぬことで教会を打ち立てられ、父なる神の右に昇られ、教会とこの世を満たされたと語ります。つまり、主イエスが私たちにくださった賜物は、教会と世を満たすための主の恵みなのです。 志免教会では、牧師、長老、執事が小会を成して教会に仕えます。しかし、小会メンバーが他の兄弟姉妹より優れているからではありません。主が志免教会の総会を用いられ、皆さんの心を導いて小会員を選び、彼らに主からの賜物を与え、教会に仕えさせられるのです。牧師は説教を通して、信徒を養い、祈りつつ小会を導きます。しかし、それは牧師が偉い人だからではなく、キリストの思い通りに教会に仕えるための賜物をいただいたからです。長老や執事も他の信徒より特別なので選任されたわけではありません。神の働き手として教会に仕えるために賜物をいただいて選ばれたのです。皆が牧師になるわけではないし、皆が長老や執事になるわけでもありません。しかし皆が神にそれぞれの賜物をいただき、教会に仕えるのです。神は教える者、仕える者として牧師を呼ばれ、働かせられます。神は長老を呼ばれ、信徒を代表する知恵を賜物としてくださいます。神は執事を呼ばれ、教会のために働ける知恵を賜物として与えてくださいます。小会員だけでなく、私たち皆が主から賜物をいただき、誰かは庭を掃除し、誰かは食事を用意し、誰かは教会の庶務を担当し、誰かはオルガンを演奏します。そして、そのすべては、主がご自分の体である教会を豊かに満たされるためにくださった賜物によって分けられます。 3。教会を健全に立てる奉仕のために御言葉を学ぶ。 このような賜物は、教会を健全に立てるための神の恵みから来ます。ところで、今日の本文はこの賜物を話しながら「教える者」について先に語ります。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、」(エフェソ書4:11-12) 教える者について話した理由は、主の賜物が先に主の御言葉を学ぶことから始まるからではないかと思います。 使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師、皆が御言葉を教える務めです。ローマ書にこういう言葉があります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ書10:17) 主の御言葉を聞き学ぶことから、私たちは自分自身について知り、信仰が深まり、その中で主が自分にくださった賜物を見つけ、その賜物どおりに教会を健全に立てていくようになるからです。教会はなによりも御言葉が優先されるべき共同体です。主の御言葉が私たちの前に立ち、導くのです。したがって、私たちは教会での務めに飲み込まれず、まず、主の御言葉に耳を傾けるべきなのです。主の御言葉を通じてのみ、私たちは私たちの真の賜物を見つけることができます。主の御言葉を通じてのみ、自分の位置と才能と務めについて知り、謙遜に仕えることができるようになるからです。 志免教会には、たくさんの仕事があります。情熱と才能を持って教会に仕える人が必要です。しかし、それよりも大事なのは、主の御言葉を学び、そこから自分の賜物に気づくことです。そして御言葉によって見つけた賜物を基礎とし、教会の仕事に臨むべきです。ですから、教会の仕事だけに心を奪われ、兄弟姉妹を傷つけないように気をつけましょう。主の教会では「教会の仕事」より、主の言葉に従って、お互いに愛し合い、寛容を持って忍耐することが、さらに大事なのです。今日の説教のタイトルは教会を立てる奉仕です。忙しくたくさんの仕事をすることが一番ではありません。教会を健全に立てていくためには、仕事がうまくいくことだけでなく、互いの関係の中で自らを犠牲にし、愛し合うことがより一層大事です。教会で行われる奉仕の最も重要な目標は、教会員が愛し合い、主にあって一致し、一緒に進んでいくことです。したがって、一人にあまりにも多くの務めを負わせないようにし、また、たくさん働く人は、自ら高ぶらないように気をつけて、皆がキリストのもとで一緒に成長していけるよう、教会員同士を助け合って愛し合って生きるべきなのです。「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:15-16) 私たちはこの言葉を大事に憶えるべきです。 締め括り 今日は教会を立てる奉仕という題で、一緒に考えてみました。主は私たちを召され、私たちに主の体なる教会を健全に立てていく使命を与えてくださいました。そして、その使命は、主にいただいた信徒同士の愛によって果たされるべきものです。 主イエスの体なる、この志免教会のために仕えてまいりましょう。しかし、その情熱が兄弟姉妹を躓かせる石にならないように気をつけましょう。主にあずかった愛の中で、お互いに愛しあい、奉仕しあい、健全で美しい志免教会を作っていきましょう。キリストの御名によって選ばれた神の民にふさわしく、三位一体なる神、御父、御子、聖霊が、お互いに愛しあわれたように、私たち志免教会も兄弟姉妹たちを心から愛しつつ生きていきましょう。 それが主がお望みになるキリスト者の生き方ではないでしょうか。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。