キリストの愛を知る。
本日の旧約の箇所はありません。 エフェソの信徒への手紙3章1~22節(新354頁) 前置き エフェソの信徒への手紙は、福音の全般的な内容をまとめた、パウロの神学の集大成と呼ばれる書です。パウロは1-3章を通して、神の予定、選び、キリストの救い、教会の意義、そして福音の重要性について語り、また、4-6章を通しては、教会を成すキリスト者が取るべき理想的な生き方と信仰について語ります。今日取り上げる3章は1-2章の内容の結論であり、エフェソ教会へのパウロ個人の心の伝えであり、救いと恵みを与えてくださった神へのパウロの祈りの記録であります。今日の説教では、1-2章の内容を手短にまとめ、3章を通して神の恵みについて考えたいと思います。今日の本文を通じて、キリストの福音と教会のあり方についてもう一度学ぶ時間になることを願います。 1.1章と2章の復習 今日の本文に入る前に、1-2章で学んだ内容を手短に復習してみましょう。まず、1章です。神はイエス·キリストによって、ご自分の民を祝福してくださいます。神はキリストにおいて、天地創造の前から主の民を選ばれ、キリストによって聖なる者とされ、救いの恵みを与え、教会にしてくださいます。つまり、神はイエス·キリストにあって、天地創造の前から、すでにキリスト者の集まりである教会をご自分の民として予定されたわけです。主の教会、すなわち私たちは、そのような神のご予定のもとで、イエス·キリストの十字架の贖いによって、主の民と召されることになったのです。したがって、教会は天地創造の前から神に選ばれ、キリストによって一つになった主イエスの体なる共同体です。また、神はキリストを十字架の死から復活させ、この世のすべてを支配する権勢を与えてくださいました。主の体である教会は、そのキリストをこの世の中に宣べ伝える義務を持った、キリストが満ちておられる場所なのです。私たちは1章の説教を通して神の予定、キリストの死と復活、キリストの体である教会の意義について学ぶことができました。1章で最も強調したいことは、世界の真の支配者であるキリストが、私たちの教会の頭であり、教会はキリストの体であるということでした。 次は2章です。パウロは主に召されたキリスト者も本来は異邦人だったと語ります。異邦人は旧約聖書の、主に選ばれた民であるユダヤ人と反対の概念で、神に選ばれていない存在のことです。今、エフェソの信徒への手紙を読んでいる私たちも、最初は異邦人として生まれました。異邦人は、この世を支配する悪い霊のもとで神に逆らい、自分の欲望だけに忠実にする本質的な滅びの存在です。異邦人は神と何の関係もなく、むしろ神に不純従に行う、呪われるべき死の存在でした。しかし、神は主の愛と恵みによって、この異邦人のような存在だった罪人たちをキリストにおいて赦し救ってくださいました。そして異邦人のようだった私たちを主の民、霊的ユダヤ人として生まれ変わらせ、私たちに真の命を与えてくださいました。キリスト者はキリストによって、死から生命へと、その本質が変わった存在です。イエス·キリストは、異邦人のように神の恵の恵みからはずれていた私たちを、ご自分の血によって救われ、神と和解できるようにしてくださったのです。だから、キリストは私たちの平和であります。今や、私たちはキリストの恵みの中で異邦人ではなく神の民、主の家族として生きることができるようになりました。このすべてがキリストの恵みによって、私たちに与えられた神の愛なのです。 2.福音は神の秘密。 それでは、今日の本文である3章について話しましょう。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。」(3:1) 1章と2章で、天地創造の前からの神の予定と選び、キリストの恵みと救い、教会の意義について語ったパウロは、3章を通して、エフェソ教会への自分の願いを語ります。「こういうわけで」という表現があるというのは、3章が前の1、2章に続く内容であるという意味でしょう。この時期、パウロはキリストの福音を伝道することへのユダヤ人の偽りの告発により、ローマに連行され、自宅軟禁の状態でした。自宅にはいたが、まるで監獄同然の状態だったのです。しかし、パウロはこういう状況の中でも「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっている」と表現します。(ここでの異邦人という表現は、エフェソの信徒への手紙2章の神に逆らう異邦人という意味ではなく、外国人のエフェソ教会員を意味する。)パウロは束縛された自分の状態への嘆きではなく、むしろその束縛の状態さえも、キリストにおいての自分の使命のための時間であると考えたわけです。信仰にはこのように素晴らしい力があります。現実的に何の罪もなく束縛されている悔しい状況ですが、パウロはむしろ、そんな時間さえ異邦の兄弟姉妹のための、キリストにあっての意味ある時間だと思ったのです。キリストへの信仰は、私たちの人生に虚しさではなく使命感と希望を満たします。キリストがパウロにくださった、その信仰を、私たちにも与えてくださいますよう祈ります。 「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(3:5-6) パウロは前の1,2章に出てきた神の予定と選び、キリストによる救いと教会の意義、すなわち神の福音が、以前の時代(旧約時代)には、世の中に秘められている神の秘密な計画だったと語ります。そして、神はキリストの死と復活によって、その計画を世の中に公に告げ知らせられたのです。パウロは自宅軟禁の束縛された状態でしたが、それにもかかわらず、神が自分にキリストのその秘密である福音を伝える資格を与えてくださったと感謝し、将来、福音が世界中に伝えられることを願っています。私たちは毎週の説教を通して、神の愛とキリストの救い、すなわち福音について聞いていますが、私たちにとって、福音とはどういうものなのでしょうか。私の場合、初めて主に出会った時、神の愛とキリストの救いに感激して胸が熱くなった記憶があります。しかし、時間が経つことにつれ、福音に慣れすぎて、感謝と感激が薄くなり、当然のことと考えてしまう時があります。皆さんはいかがでしょうか。しかし、私たちは絶対に忘れてはなりません。私たちに慣れすぎている、この福音は、旧約時代の人々にはあまりにも貴重な秘められた神の計画でした。それは秘密だったのです。私たちはキリストによって、その秘密を知るようになり、その秘密どおりに神の救いを得るようになりました。その恵みと愛を私たちは一生忘れてはなりません。 3.キリストの愛を知る。 さて、14節から21節まででは、パウロがエフェソ教会のために神に祈ります。パウロは神の予定と選び、キリストの救いと恵み、教会の意義とエフェソ教会への自分の心を話した後、感激して神に感謝の祈りを捧げるのです。私はパウロの手紙を読むたびに、どうして、パウロはこんなに変わらず神への感謝と感激と情熱に生きることができるだろうかと、感心するようになります。私もキリストの恵みと救いと愛に感謝して生きようとしてはいますが、そう簡単ではありません。そこで、時には挫折したり、悩んだり、時には情熱が冷めたり、信仰が弱くなったりする時もあります。「私は牧師という務めにふさわしい人間だろうか」と懐疑心にとらわれる時もあったのです。しかし、考えてみたら、実はパウロも人間として信仰のために受けた、苦しい時があったでしょう。それにもかかわらず、パウロは最後まで主への信仰を諦めず、祈りつつ生きてきたわけでしょう。今日14節から21節までの言葉を見ながら、そう思わされるようになりました。私の信仰が弱くなった時、この祈りの言葉を読みながらパウロのように祈り、乗り越えていきたいと思います。14節から21節までに、どんな祈りがありますでしょうか? 「御父が、その豊かな栄光により、力をもって私たちの内なる人を強めてくださるように」(16)「私たちの心の内にキリストを住まわせてくださるように」(17)「私たちをキリストの愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(17)「私たちにキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解させてくださるように」(18)「人の知識をはるかに超えるキリストの愛を知るようにさせてくださるように」(19)祈りつつ生きていきたいと思います。 特に19節の言葉が目に立つんですが、「人の知識をはるかに超えるキリストの愛を知るように」(19)とは、どういう意味でしょうか? 実は自分の家族、配偶者、子供、友人の心も分からないのが私たち普通の人間です。ましてや、私たち人間がキリストの心を知るすべがありますでしょうか? しかし、神は聖書を通して、今日も私たちにキリストの愛を教えてくださいます。まるで恋人のラブレターのように、聖書は今日もキリストの広い、長い、高い、深い愛を、絶えず証ししているのです。エフェソの信徒への手紙1-3章を通じて、私たちは神がキリストを通して、教会をどれほど愛しておられるかを知ることができました。ここ数週間、私たちはエフェソの信徒への手紙1,2章と3章の前半の言葉を通じて、神の予定、選び、キリストの救い、教会の意義など、神学的で信仰的な教えを学びました。そして、今日の3章の後半に出てくるパウロの祈りを通じて、私たちは、そのようなすべての知識が、ただ頭の中の知識で終わることではなく、パウロのように祈りと生き方において、私たちの身についた実践的な知識でなければならないことを学ぶようになります。キリストの愛を知っているということは、御言葉を通じて学んだ主の愛を吟味し、私たちの祈りと生活で表すという意味ではないでしょうか。前回の説教を通じて学んだ神の秘密である福音の知識を自分のものにし、祈りと共に私たちの生活の中で実践しつつ生きる志免教会であることを祈ります。 締め括り 1-3章を説教しながら、私たちは神の予定、選び、キリストの救い、教会の意義について学びました。特に「キリストは教会の頭、教会はキリストの体」という志免教会にとっても、とても大事な教えがたくさんあったのです。今年、志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソの信徒への手紙2:22)です。エフェソの信徒への手紙は、教会のアイデンティティについての、とても大事な知識を私たちに教えてくれます。前のいくつかの説教を通して知るようになった教会の意義とキリストの愛を憶え、私たちのアイデンティティを確実に立てて、主の御心に従順に従いつつ生きる、私たちになることを祈ります。次回から学ぶ4-6章は、1-3章を通じて学んだ内容を私たちの生活の中で、どのように実践的に適用すれば良いかに対しての内容です。エフェソの信徒への手紙の説教を通して、神の福音の知識を学び、身につけ、神の民、教会にふさわしく生きる私たちになることを願います。今週も教会の頭であるキリストの愛のもとで歩んでいく、志免教会であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。