本質の変化
出エジプト記 19章5~6節(旧125頁) エフェソの信徒への手紙 2章1~10節(新353頁) 前置き 前のエフェソの信徒への手紙1章の2回の説教では、教会が持つ大事な二つの意味について学びました。その一つは、教会は主なる神が天地創造の前にあらかじめお定めになった主の民を、キリストによって、お呼び出しくださり、主に礼拝する存在として打ち立ててくださった「神を礼拝する共同体」ということでした。その二つは、イエス·キリストは教会だけでなく、この世のすべての上におられる、教会と世界の頭であり、教会はその方の体として、すべてを満たしているキリストの満ちておられる「キリストの体なる共同体」ということでした。私たちの志免教会も、そのような神に礼拝するキリストの体なる教会として天地創造の前に選ばれ、世のすべてを満たしているキリストに満ちておられる共同体なのです。私たちはエフェソ書を通して、教会とは何か、志免教会は主の体なる共同体として、どう生きるべきか、自ら考える機会を持たなければならないと思います。今日はエフェソ書2章の御言葉を通じて、教会という存在と主に呼び出された私たちがキリストによって本質的にどのように変化したのかを学び、もう一度私たちの存在理由について考える時間であることを願います。「教会」という共同体には確かな哲学と意義があります。キリストを知る知識に満ちた共同体、その方を宣べ伝える共同体、その方の御心に聞き従う共同体、私たちは教会の意味をはっきり憶えつつ生きなければなりません。 1. 生まれながら神の怒りを受けるべき者だった私たち。 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。…しかし、憐れみ豊かな神は…罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」(エフェソ書2:1-5一部) 今日の本文は「あなたがた」すなわち教会という共同体の意義を簡潔に教えています。本文によると、教会は前は死んでいたのに、今では神の愛によって生き返った存在です。ここで「あなたがた」とは1次的に「エフェソ教会」を、2次的には「世々の教会」を意味します。つまり、私たちは本文の言葉から、昔のエフェソ教会も、今エフェソ書を読んでいる志免教会も「キリストにあって過ちと罪による死から生き返った存在」であるということが分かります。そして、2-3節を通して、以前「過ちと罪」によって死んでいた私たちが、どんな状態だったのかを知ることが出来ます。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:2-3)「過ちと罪」のために死んだ存在であった私たちは「空中に勢力を持つ者」に従う存在でした。「空中に勢力を持つ者」に従う存在というのは「神の創造の摂理と御心」に従う人生ではなく、この世を支配する悪に従い、神に逆らう人生を意味します。「空中に勢力を持つ者」とは、よく言われる「サタン」のような邪悪な霊的存在を意味するとともに、最も根本的な意味としては、神の摂理に逆らうすべての思想や理念や精神とも言えます。 私たちがよく「サタン」と言う存在は、邪悪な存在、悪魔、悪霊などを意味する場合が多いですが、その語源となるヘブライ語は「逆らう者、対敵する者」に近いです。ですから、神に逆らい、敵対するすべての存在が「サタン」になりうるということです。つまり「誰かがサタンに欺かれて神に逆らうようになった。」と理解するよりは「神に逆らうからサタンと呼ばれる。」と解釈したほうがより正しいと思います。過去、神に逆らう人生を生きた私たち、主の御言葉と合わない人生を生きていた私たちは、もしかしたら「空中に勢力を持つ者、不従順な者たち、サタン」そのものであったかもしれません。だから、私たちは、自分の罪の理由を外から探してはなりません。自分自身が神に逆らう「空中に勢力を持つ者、不従順な者たち、サタン」の一部だったことを認め、自分の中から罪を探す心構えが必要です。私たちは自分の罪について他人のせいにしたり、言い訳をしたりすることが出来ないという意味です。キリストを知る前の私たちは、そんな存在でした。自分の「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた、生まれながら神の怒りを受けるべき者」つまり、本質的に主の怒りのもとにいる呪われた存在だったのです。神を知ろうともせず、神の御言葉に正反対に行い、真の主人である神を無視し、自分自身が神の座を奪い取って自らが主人となって生きる存在だったのです。それらが今日の本文が語る「過ちと罪によって死んだ者」の生き方であり、生まれながら神の怒りを受けるべき者であり、まさに私たち自身の過去の姿だったのです。 2. 本質の変化とは何か? ところで、今日の本文ははっきりと話しています。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ書2:4-6) 昔、神に逆らい、空中に勢力を持つ者の一部であるかのように生き、本質的に主の怒りの下にいる者として、過ちと罪によって死んだ私たちが、憐れみ豊かな神の愛とキリストの恵みによって生き返り、その本質がまったく変わったという意味です。つまり、私たちは自分自身の功績や力で変化を受けたわけではなく、神の憐れみとキリストの恵みによって、新たな存在となったのです。主の怒りの下にいた者が、主の恵みの下にいる者として生まれ変わったのです。そして、キリストの恵みによって教会という存在として召されたのです。ここで私たちは一つの真理を知ることができます。私たちの内から始まった罪の問題が、私たちの外からの、キリストの恵みによって解決され、それによって私たちが救いを得ることになったということです。私たちは「死の存在」でしたが、キリストによって「生命の存在」に変わったのです。これがまさに本質の変化です。キリストの外にいる時の私たちは「死」に支配される存在でしたが、キリストの中にいる私たちは「生命」であるキリストのご統治を受けていきる存在となったのです。 したがって、キリストの統治を受ける、主の体なる教会は本質的に「生命」の存在です。教会員一人一人が立派な者だから「生命」の存在となったわけではなく、教会の主であるキリストが「生命」の存在でおられるから、教会も生命の存在として神に見なされることになったわけです。私たちの本質が変わったということは、徹底的に受動的な意味を持つのです。唯一キリストの恵みでなければ、私たちがいくら努力しても本質の変化を成し遂げることはできないからです。「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ書2:9) だから、私たちは自分自身の行いを誇ってはなりません。「自分の立派な信仰を誇る。」ではありません。「自分に信仰をくださった主を誇る。」なのです。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェソ書2:10) そして私たちは徹底的にキリストにおいて「善い業」(私たちの善良な行いを意味するのではなく、主の善い御心に聞き従うこと)のために生きなければなりません。したがって、教会での私たちの業は「自分の信仰的な満足」を成し遂げる行為ではありません。教会の業は、ひたすら「イエスによる神の御心」に従順に従うことであり、その御心が成し遂げられるために主の栄光のために生きることなのです。時々「キリストの手足となって隣人に仕える。」という言葉をよく耳にしますが、キリストの手足となるということが、まさに善い業(神の御心に聞き従う生き方)という意味ではないでしょうか。 締め括り 出エジプト後、主の山(シナイ山)にイスラエルの民をお呼び出しになった神はモーセにこのように言われました。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19:5-6) 神はその昔、アブラハムと結ばれた契約のもとで、イスラエルに聖なる民としての本質的な変化を命じられました。これは過去のエジプトの奴隷だったイスラエルが、本質を変えて神の聖なる民に生まれ変わる大事な意味のご命令でした。新約時代の教会は、旧約時代のイスラエルの精神的な延長線の上に立っています。それは、空中に勢力を持つ者に従い、自分だけのために生きていた私たちが、キリストにあって、その本質が変わり、神の御心に聞き従う存在とならなければならないということです。私たちは果たして本質が変化した存在として生きているでしょうか? 私たちは死ではなく生命の本質を持った存在にふさわしく生活しているでしょうか? 私たちの生活の中にキリストの香りが漂っているでしょうか? 死から生命へとその本質が変化した存在、教会はそのようなキリストによる生命の勢いを発して生きるべき存在です。神と隣人を愛し、自分より主の御心と隣人の有益のために生きなければなりません。そのような人生こそがまさに教会という共同体が当然追求すべき生命の生き方ではないでしょうか。エフェソ書の言葉を通して、志免教会のあり方を再確認する私たちであることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。