抵抗の精神。

出エジプト記1章15-22節(旧94頁) エフェソの信徒への手紙 6章9節(新359頁) 前置き 前回の説教では、神の救いの歴史の余白について話しました。前回の説教の内容を手短に話してから、今日の説教に入りたいと思います。この世を生きながら、時々、私たちは神の助けが全く感じられない状況にあったりします。そんな時、私たちは神が本当に自分と共におられるのか疑うようになりがちです。しかし、そのように神の助けが感じられない時、私たちはそれを神の不在だと思ってはなりません。主は全能であり、全宇宙に満ちておられる方なので、どこにでも存在しておられる方です。したがって、不在は神の本質に合わない概念です。私たちは神の助けが感じられない時を、主がより深い恵みと救いを与えてくださるために、わざわざ置かれた余白の時間として受け止めなければなりません。主なる神は、ご自分の民一人一人の救いのために御子までも十字架で見捨てられた方です。そのような主が、ご自分の民を放っておかれるなんてあり得ないことです。主の意図的な余白はあるかもしれませんが、主は絶対にご自分の民を離れて不在になる方ではありません。出エジプト記のイスラエルの民が苦難のもとで泣き叫んでいた時、主はその余白の時間の中でイスラエルの救いを備えておられました。主は決して不在の方ではありません。主は救いのために余白を置かれるだけです。主の余白を不在としてではなく計画の一部として理解し、主の救いを待ち望む信仰者になりたいです。 1. ファラオの命令とヘブライ人の助産婦たち。 出エジプト記1章と2章にはヘブライ人(川を渡ってきた者たちという意味、すなわちユーフラテス川を渡ってきたアブラハムの子孫イスラエルを指す言葉。エジプト人は軽蔑の意味として呼んだという説もある。) に対するファラオの3段階の抑圧が出てきています。 一つ目は、前回の説教で学んだ重労働による抑圧です。しかし、聖書はこう述べています。「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し」(出エジプト記1:12) 前回の本文には、神が登場しておられなかったですが、神は見えないところで、むしろイスラエルを栄えさせ、守ってくださったわけです。そして今日、その二つ目の抑圧が出てきています。「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」(出エジプト記1:15-16) 大人のイスラエル人たちが重労働にも関わらず減らなかったため、ファラオは生まれたばかりの赤ちゃんを対象にして、悪いことをたくらんだわけです。ファラオはヘブライ人の助産師であるシフラとプアを呼び出し、男の子が生まれたら殺せと命じます。古代の帝国で、皇帝の命令は絶対的です。皇帝の命令に逆らうことは、すなわち死を覚悟するという意味です。しかし、シフラとプアは皇帝の命令があったにも関わらず、ヘブライ人の男の子たちを生かしました。 「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」(出エジプト記1:17) 助産婦たちがファラオより全能な神をさらに畏れていたためです。神への助産婦たちの信仰は、自分の命への脅威さえも超えるものでした。むしろ彼らは命をかけて、このように報告します。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」(出エジプト記1:19) ある意味で、とんでもなく、むしろ反抗のように感じられるほどの報告でしたが、ファラオは彼らに罰を与えられなかったです。神が彼らを祝福し、守ってくださったからです。エフェソ書6章9節には、こんな言葉があります。「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェソ6:9) 世の中には、数多くの権力者がいますが、そのすべての権力は神のお許しなしには成り立つことの出来ないものです。世の権力者たちは主の民の肉体の命を脅かすのは出来るかもしれませんが、その魂まで滅ぼすのは出来ないからです。主なる神は肉体も魂も両方とも滅ぼすことがお出来になる真の主人です。目の前の人間の脅威よりも恐ろしいのが、全能の至尊者である神の権威なのです。世の中の脅威と神の権威の間で、より偉大なものを選ぶのが信仰なのです。 2. キリスト者の抵抗の精神は神への信仰に基づく。 ここで、私たちはキリスト者の抵抗の精神の根本について知ることができます。キリスト者の抵抗は、ある特定の政治思想によるものではありません。私たちの抵抗は神の御言葉にその根拠を置き、神への信仰から始まるものです。今日の本文には助産師たちの名前が記してありますが、シフラとプアです。シフラの語源は「清い」プアの語源は「輝かしい」です。 新約聖書マタイによる福音書の山上の垂訓には「清い」と「輝かしい」に係わる2つの言葉があります。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:14)シフラとプアは単純に当時の助産師2人の名前だけを意味するわけではないと思います。彼らがどのような人々だったかを示すしるしだったはずです。清くて輝かしい信仰の助産師たちは、神を世の中の権力者よりも畏れていた人々でした。そして彼らは神への信仰によって当時エジプトの支配者であり、イスラエルを迫害者であったファラオの命令に抵抗しました。彼らは信仰によって命の危険に屈せず、神の御心をわきまえて従順に行ったわけです。そんな二人の信仰によってイスラエル民は数を増したのです。 キリスト者はひとえに三位一体なる神だけを真の王として崇める者です。そして、キリスト者の真の法は、三位一体なる神がお与えくださった聖書の御言葉のみです。世の中の法律も私たちに与えられた法ではありますが「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ローマ書13:1) 私たちはこのローマ書の御言葉に基づいて、一時的にこの世の法を了解しているだけです。永遠に私たちに与えられた法は主のみ言葉だけです。つまり、私たちは神の御言葉に逆らう間違ったこの世の法については、決して認めてはなりません。私たちは間違った法に抵抗しなければならない存在です。新日本キリスト教会の先輩たちは、日本帝国時代の旧日本キリスト教会に対して、このように評価しました。「旧日本キリスト教会は神の御言葉に背き、日本帝国の御用団体になってしまった。」神とその方の御言葉ではなく、権力と民族に屈服してしまったという意味です。また、植民地朝鮮の教会はどうだったでしょうか? 神社参拝に反対した人はきわめて少なく、多数の牧師は宮城腰背をただの国家儀礼だと言い訳をし、日本帝国に屈服してしまいました。その人たちが、まさに私と皆さんの先達なのです。彼らの姿には、今日の本文の助産師たちのような信仰は見えません。信仰による抵抗に失敗したのです。キリスト者は抵抗しなければなりません。聖書に照らして正しいことを支持し、間違ったことには拒否しなければなりません。命がけの覚悟で、主の御言葉に逆らう間違ったことに徹底して抵抗するべきです。 3. 世の権力への抵抗、自分の罪への抵抗。 私たちは 2 つの存在に抵抗しなければなりません。第一に、この世の悪い権力です。去年の韓国の大統領選挙以来、私に「ユン大統領が当選し、日韓が仲良くなって良かったね。」と言われる方が何人かいました。確かにユン氏が大統領になって日韓の関係が良くなって良かったと思います。しかし、韓国の国内でのユン氏の歩みはどうでしょうか? 労働者を弾圧し、検察が国政の要職に入って牛耳り、夫人の母の不正に知らないふりをし、庶民のための政治はしていません。弱い者よりは強い者のために政治をしているのです。「日本での生活が楽になった」という私自身の益一つあるだけで、韓国国内の弱い者の事情は悪くなったという事実に私はどうすればいいか戸惑っています。日本の政治はいかがでしょうか? 自分は日本人ではないので良い悪いとは言えませんが、皆さんのご判断はいかがでしょうか。もし、日本でも韓国でも悪い政治があるなら、教会は抵抗しなければなりません。その良し悪しの判断は、主の御言葉である聖書に照らしてするものです。日本キリスト教会は、日本の政治家が間違った政策を広げようとしたり、主張したりすれば、すぐに首相宛てに抗議声明を送ります。首相に「それは正しくありません。間違っています」と激しく抵抗するのです。私が日本キリスト教会を愛する理由の一つです。 第二に、私たちが抵抗しなければならない、もう一つの存在は私たち自身の罪の本性です。悪魔は絶えずキリスト者の信仰を妨げます。まるで、本文でイスラエルを弾圧するファラオのようです。しかし、誘惑と妨害を拒否するのも私たち自身であり、受け入れるのも私たち自身です。悪魔は補助するだけで、罪を選ぶのは自分自身なのです。私たちは、このような自分自身の罪の本性に向かって抵抗しなければなりません。人を憎むことも、御言葉に逆らうことも、罪を犯すことも、すべての決定は私たち自身次第です。そんな自分の罪の本性に抵抗しなければなりません。私は志免教会の皆さんを愛していますが、皆さんの罪の本性までも愛しているわけではありません。私自身の罪の本性をも愛していません。愛する妻ですが、彼女の罪の本性までも愛してはいません。私たちはこの自分自身の罪の本性に抵抗しなければなりません。使徒パウロはローマ書でこう言いました。「善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」(ローマ16:19) 他人を愛し、善を行い、自分への節制には賢く、他人を憎み、罪を犯し、自分の欲望には愚かであるべきということです。それがキリスト者の抵抗の生き方なのです。ヘブライ人の助産師たちのように清くて輝かしい信仰によって、ファラオ(罪の本性)に抵抗するキリスト者として生きていきたいです。 締め括り 「ファラオは全国民に命じた。生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト記1:22) 助産師たちの抵抗が激しくなると、ファラオは直接エジプトの国民にヘブライ人の男の子たちを川にほうり込めと命じます。これがファラオの3番目の弾圧でした。助産師たちが抵抗したにもかかわらず、結局世の権力は3番目の弾圧を推し進めたわけです。しかし、こんな弾圧の中でも神はモーセを生かしてくださり、彼を通して結局出エジプトを成し遂げられました。事実、キリスト者の抵抗は、世の大きな権力に勝つことはできません。私たちはあまりにも弱い存在だからです。しかし、私たちが抵抗する時に真の権力者である神は私たちの抵抗を無視されず、また別の恵みを備えてくださいます。助産師たちの小さな抵抗はイスラエルの指導者モーセを生かし、神は彼を用いてイスラエルをエジプトから救ってくださいました。世の権力への抵抗、私たちの罪の本性への抵抗、私たちの抵抗は弱いですが、私たちは決して忘れてはなりません。真の権力者である、主イエス・キリストが私たちの抵抗を祝福し、助けておられるということを。今日の御言葉に登場した二人の助産師シフラとプアの信仰にならい、抵抗して生きる私たちになることを祈ります。父と子と聖霊の名で。 アーメン。