最後の晩餐

出エジプト記24章3~8節 (旧134頁) マルコによる福音書14章12~26節 (新91頁) 前置き イタリアのミラノに「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ(意味は聖マリアの恩寵)天主堂」というカトリック教会があります。そこの壁面には、あの有名なレオナルド·ダ·ヴィンチの作品「最後の晩餐」が描いてあります。今日の週報にも掲載した絵です。おそらく、この絵を知らない方はおられないと思います。今日の本文では、このイエスと12人の弟子の最後の晩餐が描かれます。今日の本文を通して、主が弟子たちにお与えになった晩餐、すなわち聖晩餐について話し、いくつかの教訓を学びたいと思います。少しずつ、マルコによる福音書に現れる主イエスの十字架での出来事が近づいています。そして、まもなく受難週が始まり、私たちは復活節の礼拝を迎えることになります。今日から復活節まで、主の受難と死と復活を記念し、黙想する時間になることを願います。 1.聖餐 – 主が与えてくださった晩餐。 聖餐はプロテスタント教会を表す二つの聖礼典の中の一つです。(ちなみにカトリックは7つ)一つは洗礼、もう一つは聖餐です。しかし、私たちは割と洗礼より聖餐のほうを軽んじているかもしれません。若い頃からの月一度の聖餐式に慣れており、その大事さを忘れがちだからです。しかし、聖餐にはとても深い意味が含まれています。果たして聖餐は私たちの信仰において、どんな意味を持っているのでしょうか? 今日の本文からも分かるように、もともと最後の晩餐は、主の死を記念する特別な食事ではありませんでした。ユダヤ人の祭りである過越祭と除酵祭の慣習的な食事だったからです。元旦やお盆に家族が集まってする食事が誰かを記念する儀式ではなく、家族同士の楽しい時間であることと似ているでしょう。このように古い仕来りである過越祭の食事が、弟子たちにとって主の死を記念する壮絶な食事までではかなかったはずです。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った。」(12)つまり、イエスがこの食事に意味を与えられるまでは、最後の晩餐は最後の晩餐ではなかったということです。ただ毎年行われる慣習的な祝日の食事だったでしょう。しかし、主がこの食事にみ言葉を与えられた時、慣習的な祝日の食事は、この世で最も特別な食事、聖晩餐になりました。 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(22-24) 昔の出エジプト時代、神はイスラエルをエジプトから脱出させるために、エジプト全土に10の災いを下されました。そして最後の災いとして死の天使を遣わされます。その時、主はイスラエルを死から守ってくださるために子羊を屠り、その肉を食べ、その血を家の入口に塗るように命じられました。イスラエルの民はその言葉に従い、死の天使の過越しを待ちながら、子羊の肉を食べ、その血は入口に塗りました。以後、その行為は過越祭の大事な仕来りとなり、夕食のかたちになりました。おそらく、今日の本文の晩餐は、このような過越祭を記念する食事だったと思われます。ところが、そんな食事の席で主は不思議なことを言われます。「このパンを取りなさい。これは私の体だ。 この杯を飲みなさい、これは私の血、すなわち契約の血だ。」過越祭の食事は、大昔の出エジプトを記念して飲み食いする慣習的な食事であるだけなのに、主はまるでご自身が子羊にでもなったかのようにパンと葡萄酒に意味を与えられたわけです。 ここで、私たちは最後の晩餐の意味について、思わされるようになります。出エジプトを目の前にしたイスラエルの民を神の死の裁きから救うためにいけにえとされた子羊。イスラエルはその羊の肉を食べ、その羊の血を入口に塗って、主の裁きから救われました。子羊は神のご計画に従い、自分のすべてを惜しみなく捧げ、イスラエルの民を神の裁きから守ったのです。その子羊の肉は神の民だけに許された食物であり、その血は神の民だけを救う、神との契約の血でした。最後の晩餐でイエスがパンと杯とをあずからせてくださったのは、そして、そのパンと杯の意味について教えてくださったは、そのパンによって、パンを取った者たちが神の民であることを、その杯によって、杯を飲んだ者たちが神の死の裁きから救われる契約の血の下にあることを思い起させるためでした。つまり、イエスはご自身がその過越祭の子羊のような存在であり、ご自分のすべてを捧げ、晩餐に参加した主の弟子(民)たちを救われることを教えてくださったわけです。したがって、過越祭の最後の晩餐は、その昔の過越祭の子羊のように、主イエスがご自分のすべてを与えてくださるという契約と救いの場だったのです。そして、聖餐は主がご自分の民に与えてくださる救いと契約の最後の晩餐の再現なのです。 2.主の救いと契約にいなさい。 「彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。」(出24:5)「モーセは血を取り、民に振りかけて言った。見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」(出24:8)いけにえの肉と血への言及は、出エジプト記24章にも現れます。旧約において、神に捧げられた献げ物は、神だけのものとされ、その肉を完全に焼き尽くすかたちで、人が食べてはならないものでした。ところが、唯一、和解の献げ物だけは捧げた者が、祭司からその肉を分けてもらい、食べても良いものでした。5節には、和解の献げ物について書いてありますが、これが和解のいけにえとなった主の体、つまり聖晩餐のパンの根拠ではないかと思います。そして、8節の契約の血は、主の血、つまり主が与えてくださった杯の根拠ではないかと思います。そのため、聖餐は旧約のいけにえの献げ物と深い関係を結んでいると思います。最後の晩餐が単なる仕来りによる食事ではない理由は、まさにこの旧約の律法と関係を持っているからです。この晩餐を通して、主イエスは、ご自分の民を罪から救われるための旧約のいけにえの席に自分自身を置かれたからです。それについて、新約のヘブライ書は次のように述べています。「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブライ9:11-12) したがって、最後の晩餐は主が、ご自分で計画なさった真の律法の行為であり、しかも繰り返して行わなければならない昔の律法の行為そのままではなく、完全な大祭司であり、完全な贖いの献げ物であるキリストが、ご自身を捧げられた新しい律法の行為なのでした。そして、その新しい律法の行為は、今やキリストの福音という新しい約束の中に成し遂げられ、私たちに与えられているのです。ですから、私たちの聖餐は、昔の律法の献げ物にある真の意味を現す行為であり、さらに新しい福音の中で成し遂げられた、主の救いを現す私たちの福音の行為なのです。私たちは聖餐を行うたびに、パンを通して今現在私たちがキリストの民であることを憶え、杯を通して今現在私たちがキリストの救いと約束のもとにいることを憶えるようになるのです。ある学者はこう言いました。 「聖餐はパンと杯を用いて、主の肉と血を象徴する単純な象徴行為ではありません。聖餐は今現在私たちが主の民であり、主の救いの中にいることを再確認する地上から天上に引き上げられる実質的な約束の行為なのです。」したがって、聖餐はキリストへの私たちの信仰を飲み食いによって公に告白する聖なる行為なのです。そのため、洗礼を受けず、信仰告白をしていない者は聖餐にあずかることが出来ないのです。このような聖餐の意味を憶え、私たちは主に与えられた晩餐すなわち聖餐にあずかるべきなのです。 3.「二つ考えたいこと」 最後に気になる人物がいるので、手短に言及して説教を終えたいと思います。それはイスカリオテのユダです。「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』」(18)前回の説教の本文にも、イスカリオテのユダがイエスを裏切る場面が出てきていましたが、説教の分量の関係で話しませんでした。主はユダがご自分を裏切ることをすでに知っておられたにもかかわらず、彼を聖晩餐の席に招かれました。ここで、私たちは2つのことを考えるようになります。一つ、主はご自分を裏切る人さえも差別なく、主の恵みの場に読んでくださるということです。考えてみたら、本文の晩餐に参加したすべての弟子たちが、主の十字架の苦難の時、主を見捨てて逃げてしまいます。とういうのは、皆が裏切り者だったということです。しかし、最後まで立ち返ってこないのはユダ一人だけでした。愛の主は主を裏切る人さえもお赦しになる方です。そのような主の呼び声の前で、すべての罪人は裏切りと立ち返りという分かれ道の前に立っているのです。二つ、主の晩餐の席にいる私たちも裏切り者になり得るということです。日曜礼拝、水曜祈祷会を欠かさず出席し、牧師、長老、執事の務めを尽くしているからといって、自分の信仰には異常なしと考えてはなりません。私たちはいつでも主を裏切ることができる罪ある存在だからです。自分自身を信じてはなりません。民を諦めず最後まで導いてくださる主を信じて生きるだけなのです。 締め括り 今日は聖餐の意味について、そして、短くともイスカリオテのユダについてお話しました。私たちは主の晩餐に招かれ、主によってパンと杯をいただいた主のものです。しかし、私たちには、イスカリオテのユダのような罪の本性があります。いつも自分が主に属しているという信仰と、自分も主を裏切ることができるという反省の間で、自らをわきまえつつ生きていきたいと思います。しかし、私たちの信仰は自分の力によって与えられ、保たれるものではなりません。すべてが主のお導きによって成り立つものです。したがって、私たちを聖晩餐、すなわち信仰の道に導いてくださった主を信じ、自分の信仰が折れないように絶えず祈っていきましょう。主が私たちの人生を導き、終りの日に主の御前に立つときまで共に歩んでくださることを信じていきましょう。そのような志免教会でありますように祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。