生きている者の神。
創世記41章37~57節 (旧72頁) ヨハネの黙示録11章15節 (新465頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教で、主は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。主のこのお答えは一見「この世とも、宗教とも、妥協して生きなさい」という中途半端な言葉のように感じられるかもしれません。しかし、実際、この言葉の本当の意味は「やむを得ず、この世の王に支配される現実にいても、しかし、あなたたちは真の王である神を追い求めて生きなさい。」でした。私たちは自分の信仰とは全く異なる世の中を生きています。しかし、私たちは自分自身が神に属している存在であることを忘れてはなりません。たとえ、この世に生きているといっても、私たちは神の所有です。私たちの一歩一歩が神のご統治の中にあるということを憶え、キリスト者らしさとは何かを自ら問いつつ生きる志免教会であることを望みます。 1.復活を信じない世。 今日の本文には、イエスのところにサドカイ派の人々が訪問する場面が出てきます。サドカイ派とは、ギリシャ語「サッドゥカイオス」をカタカナで表現したものですが、その語源はヘブライ語の「ツァドク(義)」です。ところで、ツァドクは義という意味ですが、ダビデの時代の祭司長の名前(サムエル記下8章)でもあります。ということで、サドカイ派は、その祭司長「ツァドク」の子孫祭司たちか、ツァドク家に追従する集団だった可能性が高いです。その起源が何であれ、彼らは名称の語源「義」とは違って、神殿を掌握した変質した集団でした。サドカイ派の人々は旧約聖書の中でも、もっぱらモーセ五書だけを聖書と認め、聖書の奥義を無視し、ただ文字的にだけ理解しようとしました。これは今日の本文とも関わりがあります。モーセ五書には「人が生き返る。」という復活の概念が記録されていませんが、おそらく、そのような理由からサドカイ派の人々は復活を信じなかったのでしょう。(旧約聖書には猫や猿の記録もありません。だからといって、この世に猫と猿がいないと言えないでしょう?) しかし、もしかしたら、モーセ五書に復活がないとのことで、復活を信じないというのは言い訳ではないでしょうか。サドカイ派の人々は非常に政治的で、世俗的で、現実的な集団だったと言われます。彼らはイスラエルの神殿を占め、宗教税の徴収を独占し、世俗的な政治権力への関心も多かったと言われます。もし、彼らが復活を信じる信仰的な存在として生きようとするなら、彼らはすべての既得権を諦めなければならなかったかもしれません。 もしかしたら、彼らは「復活を信じない。」ではなく、「復活を信じることを拒む。」だったのかもしれません。復活の精神を信じれば、自分たちの不浄な富と名誉を捨てなければならないからでしょう。今日、サドカイ派の人々がイエスのところに来て、「7人の兄弟と1人の兄嫁」が復活の時にどのようになるのかと質問したのは、基本的に復活を信じないという自分たちの思いを前提にして、イエスの復活観を嘲弄するための意地悪な挑発でした。「イエス、あなたは死者の復活を主張している。ならば、こういう場合にはどうなる?」という歪んだ心で、とんでもない質問をしたわけです。私たちは、このサドカイ派の人々の物語を通じて、信仰のない宗教人が、どこまで変質してしまうのかを知ることができます。キリスト教の復活が持つ概念は、ただ単純に「死んだ者が肉体的に生き返る。」という文字的な意味だけではありません。聖書が語る復活は基本的に「罪によって堕落した人が、神の救いによって新たにされる。」という意味を持っています。もちろん、私たちは死者の肉体的な復活という聖書の教義も信じています。しかし、聖書でいう生まれ変わり、つまり以前とは異なる、神がくださった新しい価値観によって生きる人生も復活の一側面でもあります。そのため、イエスを信じ、救われて神と隣人を愛することを誓った私たちも、すでに復活した存在であると言えるでしょう。しかし、この世の常識は復活なんてないから、ただ自分自身だけのために生きなさいと語っています。まるで、サドカイ派の人々のように、ただ、この地上での自分の安楽だけを追い求め、復活を否定して生きることを訴えているのです。 2.生きている者の神。 このように復活を信じないサドカイ派の人々に、イエスは復活の真の意味について語られました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」(マルコ12:24) サドカイ派の人々は祭司の集団です。当然、モーセ五書に限っては、詳しく知っているはずです。しかし、主は彼らが聖書をよく知らないと指摘されました。聖書に含まれている真の意味は無視し、ただ文字的な内容だけに捉われて聖書の教えを誤解していたからです。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(25)「めとったり、嫁いだりする。」という表現は、当時ユダヤの慣用句で、世の中に非常に執着する様を意味する言葉だったと言われます。(結婚自体を否定する意味ではない。) そういうわけで、主は他の福音書で次のように語られたのです。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」(ルカ17:27) つまり「めとったり、嫁いだりする。」という表現は、まるで、サドカイ派の人々のように神の救いと復活には無関心で、ひたすらこの地上のものだけに目を注いで生きるという意味として理解できるでしょう。しかし、復活した者はそういう地上の価値観から完全に自由になることを意味します。主イエスが再臨なさる日、私たちは真の復活を経験するでしょう。その日、私たちは、この地上での辛さと束縛と価値観から自由になり、創造の時に神にいただいた、最も健康で美しく、望ましい姿で主なる神の御前に立つことになるでしょう。 復活の時、私たちはまるで天使のように、いや天使よりも優れた存在として、罪もなく、死もなく、呪いもなく、神の傍らで至福を享受することになるでしょう。世俗的なサドカイ派の人々は、神が与えてくださる復活と御救いさえも自分たちのレベルに合わせて、世俗的に理解していたのです。その後、主はサドカイ派の人々たちを指摘され、彼らが最も自信を持っているモーセ五書の出エジプト記の言葉を取り上げて言われました。「死者が復活することについては、モーセの書の柴の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」(26-27) 神は命を与えてくださる方です。創造の時にすべての被造物に命を与え、冬が終わり春が始まるたびに命を与えてくださいます。皆さんと私が生まれた時も命をくださいました。主なる神はすべての命の源です。そして、主はご自分によって救われた民の命をも永遠に保たせてくださる方です。したがって、主の民においては体は死んでも、その魂は常に主と共に生きているのです。そして、イエスが再臨なさる最後の日に、ホコリのように腐って無くなってしまった私たちの肉体が新しく復活し、神と共にいる魂と再び合わせられ、完全な復活を成し遂げることになるでしょう。だからキリスト者は死んでも生きている存在なのです。 主はあえて千年以上の前に亡くなったアブラハムとイサクとヤコブを言及されました。そして、彼らは生きている存在だと言われ、神の民は死んでも生きている者であることを教えてくださったのです。イエスを主と崇める私たちキリスト者は、この世に住んではいますが、この世に属していない聖別された存在です。この世に属する者であるなら、死ねばすべてが終わるかもしれませんが、キリスト者にとって死は終わりではなく、新しい始まり、永遠の命の始まりなのです。まるで母親の胎内で10ヶ月を過ごした赤ちゃんが、外の世界に何があるのか分からないことと同じように、私たちは死後に何があるのか分かりません。しかし、聖書は明らかに命の主が私たちを待っておられることを証言しています。この命の主は、先に話しましたように、イエスが再臨なさる日、最も完全な復活を私たちに与えてくださるでしょう。私たちはそれを待ち望みつつ生きる存在です。ですから、この地上の世俗的な価値観に心を奪われないようにしましょう。必要だけの富と名誉に満足し、それを用いて神と隣人に仕えながら生きていきましょう。 一日が千年のようで、千年が一日のような神の時間観念の前で、私たちは百年も生き延びられない小さな存在です。したがって、サドカイ派の人々のようにこの地上に束縛されて生きるのではなく、永遠の命の主の懐を待ち望んで生きていくことを願います。 3.すべての呪いを退けられる命の主。 ここで一つ話したいことがあります。それでは、命の主は、死後にだけ、私たちを助けてくださる方なのでしょうか。違います。私たちの現実の生活でも命の主は一緒におられ、助けてくださる方です。この度、丙午(ひのえうま)という迷信について聞きました。その年に生まれた女性は気性が激しく夫の命を縮めるという話でした。しかし、それはこの地上の世俗的な束縛による迷信に過ぎません。まるで、サドカイ派のように世の価値観に執着した昔の人々が作り出したとんでもないでたらめに過ぎないのです。命と復活の主を信じる私は断言します。神の命をいただいて生きる主の民に、この世の迷信は何の影響も及ぼすことができません。神社やお寺のお守りもいりません。吉日、凶日を気にして引越を延ばす必要もありません。キリスト者である私の親は、吉日凶日を一切気にせず、引越をしました。むしろ凶日は引越代が安くなってお得でした。そして、今まで何の呪いも、災いもなく暮らしています。これが神の命とキリストの復活の力なのです。キリストを信じて、すでに復活した命の存在となった私たちは、神の命の祝福の下に生きる存在です。主イエス・キリストが十字架ですべての呪いを打ち砕かれたからです。この世での毎日がキリストの贖いによって吉日となり、どの年に生まれたとしても復活の主に属した私たちは、この上ない祝福をいただいた存在です。私たちは主の命によってこの世の束縛から自由になった幸いな存在なのです。 締め括り 「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト記3章5-6節) 神はモーセに「足から履物を脱ぎなさい。」と言われました。この世への執着と束縛を捨て、素直に神の御前に出てきなさいという意味です。また、この世ではなく神に属した聖別された存在としていなさいという意味です。イエス·キリストは私たちの履物を脱がせてくださる方です。主が成就された命の復活によって私たちをこの世の執着と束縛から自由にしてくださったのです。この世のすべては死によって終わります。しかし、主の民は命によって始まります。アブラハム、イサク、ヤコブは、肉体は死にましたが、彼らは生きている者として認められました。神の命と主の復活を求めて生きる私たちは、今日の御言葉のように生きている者、神の所有として永遠に主と共に歩んでいく者となるでしょう。このような命の主を頼りにして生きる私たちであることを願います。主の恵みが命の主に属している皆さんの上に豊かに注がれますように。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。