祝福をもたらす者。
創世記41章1~16節 (旧70頁) ガラテヤの信徒への手紙3章29節 (新347頁) 前置き 理想的なキリスト者のあり方とはどういうものでしょうか。一国の首相になって権力を振るう人になることでしょうか。大企業の社長になって財力と名誉を享受すして生きることでしょうか。偉大な学者になってノーベル賞を受賞することでしょうか。キリスト者が首相、社長、学者のような偉い人になることには何の問題もありません。しかし、それらがキリスト者の理想的なあり方であるとは言えないでしょう。キリスト者は文字通り、キリストによる者です。イエスの御言葉と生き方にならい、主の御心を追求しながら生きることこそが、キリスト者の真のあり方ではないでしょうか。そういう意味で、今日の本文に出てくるヨセフの人生は真のキリスト者のあり方につながっていると思います。昔の彼は自己中心的で他人を配慮しない愚かな姿でしたが、主は苦難と孤独の中で彼と共におられ、神中心的で他人に仕える者として養ってくださいました。そして、ヨセフが神と共に歩み、神によって立派な信仰者になった時、彼の人生に、ファラオに続くエジプトの首相という権力と財力と名誉がついてきました。重要なのは、首相、社長、学者など、偉い人間になることではありません。まず、主と歩み、神と隣人への愛と信仰を身につけた信仰者になること、それこそが最も大事なことなのです。 1.神の秘密を知る人。 前回と今日の本文に共通して出てくるのは夢です。前回の説教には、二人の高官の夢が、今日はエジプトの王ファラオの夢が登場します。もう少し前の創世記37章には、ヨセフの夢が登場し、28章にもヤコブの夢が登場しています。このように創世記にはいくつかの夢の物語がありますが、上記の夢の物語の共通点は、すべて、夢を見た人や周辺の未来のことを示しているということです。ヨセフの時代には聖書がありませんでした。ユダヤ人の律法であるモーセ五書も、ヨセフから約400年後に記されたものです。つまり、旧約の神は夢を通してご自分の民に主の計画や啓示を見せてくださいました。 「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。」(民数記12:6) ところで、ファラオや2人の高官は、神の民ではなかったのに、なぜ主は彼らにも夢による啓示をくださったのでしょうか? 実は彼らが特別だからではありません。その夢の啓示を解き明かす人が、まさに神の民であるヨセフだったからです。だからといって、現代にも夢が神の啓示の手立てであるとは言えません。なぜならば、決定的に神は真の神の言であるキリストをすでに遣わしてくださり、旧約と新約という聖書を与えてくださり、聖書を悟らせてくださる聖霊なる神を送ってくださり、牧師や長老という聖書の教師を立ててくださったからです。ですから、不思議な夢を見て、神の啓示を受けたと、勝手に信じ込んだり、しゃべったりすることは、キリスト者として控えるべき姿です。 また、上記の4つの夢の物語にはもう一つの共通点があります。それは、夢を見た人が、その夢の意味をまったく解き明かせなかったということです。神の御言葉は、誰もが解釈できるものではありません。神と共に歩み、真の信仰者として生まれ変わった人だけが、神の御言葉の秘義を知るようになるのです。牧師だけが優越で、普通の信徒は劣等だという意味ではありません。牧師も罪人なので、神の御言葉に精通することは出来ません。誰一人も、キリストの御恵みと聖霊のお導きがなければ、主の御言葉の秘義を悟ることができません。神の御言葉は秘義、つまり秘密なのです。神の御言葉は、あえて人間が聞き取れるものではありません。耳に聞こえるという意味ではありません。神の御心とご計画、お赦しと御救いを含んだ福音の御言葉を意味するのです。今、街に出て、通りすがりの人にイエスの救いと恵み、すなわち福音について話せば、おそらく 9割は私たちを変な人間だと思ってしまうかもしれません。いくら「主があなたを愛しておられます。」と言っても、人々は悟れないでしょう。なぜかというと主の御言葉を聞く耳がないからです。皆さん、主の御言葉を聞き、反応が出来るということは、至高の恵みなのです。毎週の説教を聞いて、心に動きが生じるということは、神がご自分の秘密を皆さんには隠されなかったという意味です。誰もが神の御言葉の秘密をいただけるわけではありません。たったキリストによって救われた者、主によって選ばれた者だけに、主は御言葉の秘密、福音の意味を悟らせてくださるのです。主の御言葉は、主の真の民だけに与えられる秘密なのです。 2.自分ではなく、神が。 ファラオと二人の高官が見た夢は、誰もが解き明かせない神の秘密の啓示でした。そして、その秘密はただ一人、神に選ばれた者ヤコブだけが解くことができるものでした。「そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、わたしたちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、わたしは元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。」(創41:12-13) ある日、ファラオは恐ろしい夢を見ました。夢の内容は本文のままですので省略しましょう。正直、今日の説教で夢の内容は重要ではありません。その夢が何であれ、ヨセフには夢の解き明かしが出来る能力があったというのが重要です。「そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。(創41:14)」ファラオが恐ろしい夢に思い煩った時、前回の本文でヨセフの解き明かしを聞いて生き残った給仕役長が、2年間すっかり忘れていたヨセフを思い起すようになりました。(彼がヨセフを忘れていたのは、エジプトの動乱の時代にヤコブを守るための神の導きであったという前回の説教の内容を覚えてください。) そして彼の話を聞いたファラオは急いで監獄のヨセフを呼びました。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」(創41:15) 永い苦境に苦しめられてきたヤコブが、突然エジプトの君主であるファラオと出会うことになったのです。 ヨセフを呼び出したファラオは、自分の恐ろしい夢のため、相当、思い煩っている状態でしたので、ヨセフを手厚く扱いました。13年間最悪の生活を続けてきたヨセフは一夜にして帝国の最高権力者の前に立つことになったのです。そして、その最高権力者がヨセフに助けを求める様になっていました。例えば、皆さんが最悪の状況で13年間を過ごしてきたのに、ある日、突然アメリカの大統領が、この世の中で皆さん一人だけができる、あることを頼むために、皆さんを呼び出して「何々さん、どうか助けてくださいませんか。」と言ったら、皆さんはどんな気持ちになりますでしょうか? 「13年間、何一つ上手くいかなかったのに、私だけが出来ると?」と意気揚々になるのではないでしょうか? しかし、ヨセフの答えは違いました。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」(創41:16) ヨセフはまず自分自身ではなく神のことを前面に出しました。「私ではなく神がなさるのです。」と自分を低め、神を高めて謙遜に対応したのです。これは謙遜なふりをしているわけではなく、本当に「神だけがお出来になる。」という確信に満ちた一種の「信仰の告白」でした。私たちがヨセフを偉大な信仰の人物と評価する理由は、まさにこのヨセフの信仰のためです。彼がエジプトの首相になったからではなく、彼にひたすら神だけを頼りにする信仰があったからです。私たちにも、このような信仰の告白があることを願います。「自分」ではなく「神」だけを高め、頼りとする信仰であることを祈ります。 3.祝福をもたらす者。 その後、ヨセフはファラオの夢を完璧に解き明かし、これによってエジプトの首相に推戴されることになりました。まるで、13年間の苦境がなかったかのように、一瞬にしてエジプトの最高権力者になりました。彼を推薦した給仕役長よりも高い身分になったのです。エジプトの奴隷であり、囚人だった彼が、エジプトの全国民を治めるファラオに次ぐ人物になったわけです。そして、エジプトは、ヨセフによって深刻な飢饉を徹底して備え、飢餓から自由になる祝福を得ました。エジプトだけでなくエジプト周辺の他の民族もヨセフの知恵によって蓄えた穀物を買い取ることが出来たのです。神が創世記12章でアブラハムに約束された「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」という御言葉が、アブラハムのひ孫であるヨセフによって一次的に成し遂げられることになったのです。(最終的にはイエス•キリストによって) いわば、ヨセフは祝福の源になったということです。私たちは前回の説教でヨセフが兄たちによってエジプトに売られた後、エジプトの侍従長ポティファルの家で約10年、そして無実に濡れ衣を着せられて監獄で約3年を過ごしたの話を聞きました。この約13年という年月の間、ヨセフは主人に主の祝福をもたらす人になりました。 「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(創39:2-3) また、彼は無実に投獄されたにもかかわらず、牢獄でさえ周りの人々に祝福がもたらされるようにしました。「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(39:21-23) 神が共におられるという祝福を得たヨセフは、その祝福を自分一人だけで占めることではなく、周辺の人々にまで流し出しました。文字通り「祝福の源」となったのです。そして結局、このヨセフはエジプト全国と周辺民族にまで、神の祝福をもたらす祝福そのものとなりました。私たちはこのヨセフの物語によって示された祝福の人という概念を、私たちの主イエス•キリストを通じて、もう一度確かめることができます。主イエスは神の独り子ですが、罪人の死と苦難を見過ごされませんでした。自ら人間になられ、人間の罪と苦しみ、悲しみを背負ってくださいました。そして、人間の代わりに死に、復活して、罪人が救われる道を完成してくださいました。キリストこそが人間の根本的な問題である死と罪を打ち砕き、罪人が正しい人に生まれ変わって救いを得ることが出来る、真の祝福をもたらしてくださったのです。また、主の体なる私たち教会も、主によって神と隣人を愛し、周辺の人々に祝福を流し出す祝福の人として呼び集められたのです。この話を聞くとふとこの新約の言葉が思い起こされます。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」 締め括り 今日は3つの点について学びました。一つ目に、神の御言葉は誰にでも与えられるものではなく、徹底的に隠されている秘密であるということです。しかし、キリストの民には、その秘密が明るみに出ているということです。二つ目に、キリスト者なら、自分のことではなく、神のことをまず誇りとするべきということです。真の信仰者になっていけばいくほど、「私」ではなく「神」を最優先にする人になっていかなければなりません。最後に、ヨセフが祝福をもたらす人になったように、私たちもまた、そのような人になって行きたいということです。私たちの主イエス·キリストが真の祝福をもたらす祝福の人としておいでになったので、主の体となった私たち教会も祝福の人としてのアイデンティティを持って生きるべきです。今日の本文を通じて学んだいくつかの教訓を憶えつつ、今週も恵みにあって過ごしていきましょう。父と子と聖霊によって、アーメン。