カエサルのもの、神のもの。
レビ記19章1~2節 (旧191頁) マルコによる福音書12章13~17節 (新86頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教で取り上げた、主な話は「真の権威とは何か?」でした。宗教指導者たちがエルサレム神殿の境内でイエスに会った時、彼らはイエスに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」と問い詰めました。これは「お前はどの団体の所属か?」という意味としての 世俗的な質問でした。宗教指導者たちは人による権威、つまり人の基準によって所属のないイエスを判断し、彼ら自身の権威がイエスよりも優れていると威張るために、こういう質問をしたのです。しかし、イエスは全く予想外の返事をされました。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」イエスは、この質問を通して、彼らのような、人による基準ではなく、神による基準を通して権威についてお話しになりました。人は目に見える基準で自分の地位や権威を前面に出そうとする傾向があります。しかし、主は外なる人ではなく、内なる人をご覧になり、その信仰の純粋さをお試みになります。真の権威とは、神のみ旨に適う人に与えられる主の賜物です。この世の権威は、社会的な地位、学閥、財産の有無から生まれるかもしれませんが、神からの権威は神と隣人への愛、神の御言葉への従順さ、真の信仰で、神から民に与えられるものです。 1.人の言葉について。 「人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」(マルコ12:13)前回の本文で、自分たちの権威を前面に出し、イエスとの論争で優位を占めようとした宗教指導者たちは、イエスのこの言葉に何の答えもできず、顔が潰れることになりました。 しかし、彼らはあきらめず、別の計略を編み出しました。それはファリサイ派とヘロデ派の人々を同時に送り、主に困った質問をさせることでした。ファリサイ派の人々は旧約聖書の専門家でした。つまり、彼らは宗教と法律の専門家だったということです。(旧約聖書にはユダヤ人の宗教法と刑法、民法があまねく含まれている。) そしてヘロデ派の人々はヘロデ王を熱烈に支持する政治的な人々でした。この両者は、普段互いに仲が良くなかったのですが、ユダヤの伝統を大事にするファリサイ派と異邦出身の王の権力にしがみついたヘロデ派が仲が良いわけにはいかなかったからです。しかし、彼らは自分たちの不条理を指摘されるイエスを共同の敵として狙ったため、宗教指導者たちの要請に応じてイエスを困らせるために協力したわけです。イエスのところに来た彼らは言い出しました。 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(マルコ12:14)彼らはイエスのところへ来るやいなや、きれいな言葉でイエスをたたえました。しかし、その言葉は真心をこめた言葉ではありませんでした。イエスを苦境に陥れるために試し、さらに自分たちの必要を満たすための偽善でした。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」(マルコ12:15) しかし、イエスは彼らの偽りを全て知っておられました。言葉は実に大事なものです。「時宜にかなって語られる言葉は銀細工に付けられた金のりんご。」(箴言25:11) 旧約聖書の箴言にもこのような言葉があるほどです。しかし、主は話し手の心を何よりも大切に思われる方です。私たちがいくら立派な言い方、丁寧な言葉遣い、綺麗な言葉で祈るといっても、真心がこもっていなければ、その祈りは神に拒まれ、無駄になるでしょう。言葉で人を騙し、心と言葉が違う生き方に注意しましょう。いつも神が私たちの言葉と心を見ておられることを憶えていきましょう。 2。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。 「イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。彼らがそれを持って来ると、イエスは、これは、だれの肖像と銘かと言われた。彼らが、皇帝のものですと言うと」(マルコ12:15-16) 宗教指導者たちに送られたファリサイ派とヘロデ派の人々は、丁寧な言葉遣いとは反対にイエスを困らせようとしました。「ローマ皇帝であるカエサルに税金を払うのは律法に適いますか。」との質問でした。つまり、ユダヤ人としてローマ皇帝に税金を払うべきかどうかのことでした。デナリオン銀貨は当時ローマ帝国の貨幣で、労働者の一日分の労賃でした。ユダヤ人は、このデナリオンに2つの反発心を持っていたと言われます。一つ目は祖国を侵略して支配する異邦のローマ帝国への政治的な反発心、二つ目はデナリオンに刻まれたローマ皇帝の肖像を偶像と見なした宗教的な反発心でした。ファリサイ派とヘロデ派の人々が税金について質問した理由は簡単でした。税金を払うべきと言えば政治、宗教的にユダヤ人を背くことになり、税金を払ってはいけないと言えばローマ帝国を反対する政治犯として指し示されることになるからです。 しかし、主はローマの法律を破らない範囲で、ユダヤの律法をも犯さないお答えを言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」しかし、この答えは、かなり曖昧な言い方であるかもしれません。聞き方によっては「皇帝に税金を払いなさい。そして、神にも捧げるべきものを捧げなさい。」という優柔不断な言葉に聞こえる可能性もあります。しかし、本文では「彼らは、イエスの答えに驚き入った。」と記録されています。この言葉は驚き入るくらいですか。現代人である私たちにはそう感じられないと思います。しかし、当時の人々は私たちとは違う反応をしました。なぜでしょうか?その理由は日本語聖書には翻訳されていない「しかし」という表現にあると思います。日本語聖書には記録されていませんが、ギリシャ語原文の解釈は、こうなります。「カエサルのものはカエサルに返せ、しかし、デオのものはデオに返せ。」(マルコ12:17) つまり、この言葉は「皇帝にも税金を払い、そして神にも献金を捧げなさい」という優柔不断な言葉ではなく「皇帝に義務を果たしなさい。 しかし、神へのあなたたちのとるべき在り方を忘れないようにしなさい。」という表現とも解釈できるからです。つまり、この主のお答には、主の質問が含まれているのです。 主は、神を信じているが、仕方なく皇帝の支配の下で生きていかなければならない当時のユダヤの人々に「このような状況の中で、あなたがたは、どのように生きており、どのように生きていくべきなのか。」と質問をされたのです。イエスを困らせるための意地悪な質問が、イエスのお答えによって、質問した者たちと周辺の群衆への質問となって返されたのです。皇帝のものが別にあり、神のものが別にあるのですか? 律法は、この世のすべてが神のものであると述べています。しかし、ユダヤ人は世の中の権力に屈し、神の民らしい人生を生きていませんでした。律法は大事だと思ってはいましたが、まともに律法に適う生き方をとることができず、宗教と社会の不条理を見てもあえて指摘することをしなかったのです。「皇帝のものは皇帝に、しかし、神のものは神に返しなさい。」イエスの、この言葉はローマ帝国の支配を否定しない範囲で、神に仕えるユダヤ人の在り方について問うているのです。これはまた、私たちキリスト者にも、この世での生き方についての質問をしているのです。 3.政治をどのように理解すべきなのか? 私たちは、主イエスの民である教会ですが、世俗的な世の中に生きています。そして、私たちの考えとは異なる指導者を迎えなければならない場合が多いです。特に日本は議院内閣制国家であるため、一般市民による直接選挙ではなく、国会議員の中から選出された与党第一党の代表が「内閣総理大臣」となる方式の政治システムをとっています。つまり、もしかしたら、私たちは自分の意向とは、まったく異なる政治状況の下で生きているのかもしれません。そういえば、私たちは、ローマ帝国の支配下に生きていたユダヤ人の状況と似たような状況であるかもしれません。日本に住んでいますが、自分の意向とは違う指導者の下にいる可能性があるからです。しかし、このような状況も、主がお許しになったものであることを認め、このような政治の下でも、キリスト者なら、どのように神の民らしく生きていくべきか、この社会の中でどのようにして、神を表わしつつ生きることが出来るだろうかを常に考えながら生きていくべきでしょう。 私たちは「皇帝」の世界に生きる「神」の民です。そして、イエスは今日の言葉を通して、私たちにご質問なさいます。「この日本の社会に生きている我が民よ、しかし、あなたたちは神のものを神に返して生きているのか。」 締め括り 「皇帝のものは皇帝に、しかし、神のものは神に返しなさい。」というイエスの御言葉を、常に念頭に置いて生きていきたいです。世の中の政治と状況に流されないで、にもかかわらず、キリスト者である私たちが、どのように生きていけば、神に神のものを返すことができるだろうか、私たちの在り方について常に思い巡らしながら生きていきましょう。 明らかなのは、この世のすべては神のものであるということです。世の中の権力と政治はキリストが再臨され、この世の終わりの日に全て消えてしまうでしょう。しかし、神は永遠におられるでしょう。私たちは、この世の価値観を超越する神の価値観を追い求めながら生きなければなりません。皆さんは日本人、ニュージーランド人、そして韓国人という国籍を持っておられますが、皆さんの本質は天国、つまり神の国の民なのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(レビ19:2) 聖なるもの、すなわち神によって区別された存在、私たちはまさにこの区別された神の民というアイデンティティを持った存在であります。私たちのこのような本質を、ぜひ憶えてください。皇帝の世界の中に生きていますが、神に従う人生を過ごす志免教会になりましょう。