ある日、突然。

創世記40章1~23節 (旧69頁) テサロニケの信徒への手紙第二3章3節 (新382頁) 前置き 前回の創世記39章の説教で、私たちは「主がうまく計らってくださった。」という言葉の意味について話しました。兄たちに裏切られ、エジプトに売られてしまったヨセフ、彼はエジプトの侍従長の奴隷となりました。ヤコブという大金持ちの最愛の息子だったヨセフが一夜にして他国の奴隷となってしまったのです。それでも、彼は絶望せず、熱心に主人に仕え、まじめに生きました。しかし、彼は淫らな女主人の偽りによって無実に濡れ衣を着せられ、投獄されることになりました。そして、長い間、監獄から出られず、悔しい時間を過ごさなければなりませんでした。ところが、聖書はヨセフの人生を、決して失敗だとは評価していません。むしろ、主がヨセフを守られ、彼の人生をうまく計らわれたと語っています。人間の目には失敗に見えるヨセフの人生でしたが、聖書は神が彼と共におられたと評価しています。これらを通して私たちは神の祝福とは、この世が語る祝福と異なるということが分かります。キリスト者にとって、真の祝福とは、私たちがいくら失敗と苦しみにさらされていても、神が私たちのことをあきらめられず、いつも共におられることを意味します。主がご自分の民を見捨てられない限り、その民には真の希望があるからです。以上が前回の説教の主な内容でした。 1。キリスト者を成長させる苦難と孤独の時間。 人間は有限な存在です。そのため、比較的に短い時間を生きます。ですので、人間は時間という概念に執着する傾向があります。その反面、永遠におられる主において、時間という概念は特別な意味を持ちません。短い生涯を生きる人間にとって、あまりにも大きなことが、永遠におられる主にとっては、非常に小さなことになってしまうということです。そういうわけで、人間にとっては大失敗のようだったヨセフの人生が、主にとっては失敗として評価されなかったのです。むしろヨセフの失敗はより明るい未来のための神の祝福と見なされました。したがって、キリスト者の人生においての失敗と苦難は、より明るい未来のための神の計画の過程だと言えるでしょう。神は人間の目には見えない、すべての物事をご覧になり、今現在、主の民の人生が失敗の中にあろうが、成功の中にあろうが、その人生全体は祝福であると評価してくださいます。残念なことに、このような神の時間観念は、人間に大きな苦しみを与える時もあります。私たちには耐えられないほどの失敗と苦難の時間なのに、神は何もしておられないように感じられ、恨む時もあるでしょう。しかし、私たちにどう感じられても、神の祝福、その本質は決して変わることがありません。私たちが人生の中で苦しみを感じるからといって、神の祝福が消えてしまうことはあり得ません。失敗と苦難の時が終わると祝福の時は必ず来ます。神と人が感じる時間の違いはあるかもしれませんが、神のご計画が破れたり取り消されたりすることはないからです。主は必ずその計画を成し遂げられる方なのです。 今日のヨセフの人生も同じだと思います。ある学者は、ヨセフが17歳から約10年間、エジプトで奴隷として暮らし、その後30歳までの3年間、牢獄にいたと主張しました。つまり、ヨセフは13年間、自由の身ではなかったということです。しかし、その13年間、ヨセフは神のお導きによって成長していきました。分別なく父親と兄たちに自分の夢を偉そうにしゃべっていた未熟なヨセフが、他国での奴隷暮らしを経て謙遜を身につけました。無実に投獄されて孤独な時間を過ごしたが、その経験を通して忍耐を学びました。13年という苦難と孤独の時間は、果たしてヨセフに無駄な時間に過ぎなかったのでしょうか? 最近、このような文章を読んだことがあります。「真の孤独とは、ただひとりでいることではない。自らの真の自由と自己の尊厳を自覚し、それを楽しむ高度な生き方の一つである。」信仰の文章ではありませんが、本当に有意義な言葉だと思いました。もしかしたら、孤独はこの世という束縛から自由を与え、自分のことを顧みさせる省察の機会であるかもしれません。また、苦難もその当時はつらい経験であるかもしれませんが、遠くから見ると弱い自身を強める成長の道具であるかもしれません。神はヨセフに苦難と孤独を与え、成長させ、一国の総理にふさわしく養っていかれました。そして時が満ち、ヨセフを一瞬にしてエジプト帝国の総理に引き上げてくださいました。 2.二人の宮廷の役人の夢とヨセフの解き明かし しかし、私は出来るだけ、皆さんが孤独と苦難に遭われないように祈っています。皆さんが神の祝福にあって常に平和と幸せであることを望んでいます。しかし、もし神がみ旨に従って孤独と苦難を許されるなら、皆さんが恐れられたり、絶望されたりせずに、神の善い計画を信じて、その信仰によって忍耐しつつ生きていかれることを願います。これ一つは確かです。神は苦難と孤独の後に必ず新しい始まりを与えてくださるということです。神の祝福にあって生きるキリスト者において、いちばん重要なことは、ただ苦難と孤独を乗り切ることだけではありません。その苦難と孤独の中に主が共におられるということ、すなわち苦難と孤独も結局は祝福という大前提の一部であるということを信じることです。「これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。」(創40:1-3)ヨセフが無実に獄中生活をしていた時、ニ人の高官がヨセフのいる牢獄に引き渡されることになりました。当時のエジプトはヒクソス人という異民族によって王朝が変わっていました。学説によるとヒクソス人は、もともとエジプト系の民族ではなく、北の地域から下ってきたセム族系の民族だったと言われますが、アブラハムの民族もセム族系で、彼らとは同じ祖先を共有していました。そして今日、牢獄に引き渡された2人の高官も、王に最も近いヒクソス人の権力者たちだったと推定されます。 給仕役、料理役と訳された原文は、お酒を造る者、パンを焼く者と翻訳できますが、単なる醸造人や料理人という意味ではありません。毒殺のおそれのため、ファラオに最も信頼される人だけが、この務めを引き受けることができると言われます。つまり、彼らはファラオに次ぐ権力者だったということです。歴史学者たちは、おそらく、この時期がエジプト帝国の政治的な混乱期だったと見なしています。これによって、その二人の投獄が権力闘争に負けた結果であることが分かります。さて、この出来事は無実に監獄暮らしをしていたヨセフに小さな機会を与えました。「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいないと二人は答えた。ヨセフは、解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてくださいと言った。」(8) ヨセフが、この二人の高官と自然に出会い、夢を解き明かすことになったからです。ところで、10年以上、外国で奴隷として過ごし、監獄に閉じ込められていたヨセフに大きな変化が生じました。それは夢に対するヨセフの考え方が変わったということです。昔の彼は、神が将来の啓示のためにくださった夢を自分勝手に解き明かし、父と兄たちを怒らしました。自分のために神の啓示の夢を間違って利用したわけです。しかし、今の彼は夢の解き明かしが神にあると認め、過去とは違って謙虚に行いました。10年以上の苦難と孤独が、ヨセフの未熟さを成長させ、神おひとりだけを崇める信仰の人物に養ったのです。 3.神の御言葉をありのままに伝えるようになったヨセフ。 以後、給仕役と料理役の夢を聞いたヨセフは、完璧にその夢を解き明かしました。「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前、給仕役であったときのように、ファラオに杯をささげる役目をするようになります。」(13)神がくださった夢の意味を、以前は自分の必要と自慢のために利用したヨセフでしたが、今回は違いました。彼は神がくださった夢の意味を正しく解き明かし、加減なく伝えました。「三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます。」(19) 神の御言葉なら、その相手が高官だといっても、その言葉が聞きづらいといっても、ヨセフはありのままに述べ伝えました。結局、ヨセフの解き明かしどおり、給仕役は復権し、料理役は処刑されてしまいました。神に御言葉を託された者は、その御言葉を加減なく伝えなければなりません。一点一画も人の耳に聞き良く、省いたり、加えたりしてはなりません。自分の欲望のために誤用してもいけません。主の御言葉がありのままに世に伝えられるように自分の命をかけてまで、そのまま伝えるべきです。それが御言葉をいただいたキリスト者の宿命です。約100年前、日本帝国時代のキリスト教殉教者の中には、こんなことを問われる場合もあったと言われます。 「天皇陛下が上か?イエスという者が上か?」聖書の言葉通り、当然イエスが上だと言った者たちは無残な拷問を受け、殉教されたと言われます。また、日本でも朝鮮でも、教会の指導者という者たちが「教会を守るためには仕方がない」という口実で、偶像崇拝を禁じる御言葉に背き、宮城腰背をすすめたとも言われます。私たちは聖書の御言葉を通じて「主なる神おひとりのほかに神などない」ということを学び信じています。もし、誰かが私たちに凶器を突きつけて偶像崇拝をさせたら、果たして私たちはどのように対応すべきでしょうか? 主の御言葉をいただいたキリスト者は、自分にいかなる被害があっても、その御言葉通りに行わなければなりません。この話が聞きづらく感じられる方がおられるかもしれません。しかし、牧師は正しい御言葉の説教の義務を託された者ですので、公に宣べ伝えるしかありません。今日の本文のヨセフがエジプトの高官の前で、主がくださった夢をありのままに解き明かした理由は、人間の権力より神の権勢をより畏れていたからでしょう。今までのヨセフの苦難と孤独は、このように彼を成長させ、神の御前で立派な信仰者として養いました。しかし、残念なことに、このように神の御言葉をありのままに伝えたにもかかわらず、ヨセフは再び忘れ去られます。給仕役が復権し、ヨセフとの出来事をすっかり忘れてしまったからです。 締め括り 忘れ去られたヨセフ、しかしある日突然。 その出来事以来、ヨセフはさらに2年間、余儀なく監獄暮らしを続けることになりました。しかし、神が計画された苦難と孤独の時間が終わると、ある日突然、ヨセフはファラオの前に召し出されました。神がファラオにも難解な夢を与え、ヨセフが活躍する機会をくださったからです。そしてヨセフはお見事にその夢を解き明かし、堂々とエジプトの総理になりました。主はなぜヨセフを給仕役と共に、直ちに解放させてくださらず、むしろ忘れ去られるようになさったのでしょうか? 一部の歴史神学者は、ヨセフが監獄にいた時期がエジプトの政治的な混乱期であったと推定しています。つまり、主は孤独と苦難という名の巣でご自分の民ヨセフが安全に孵化するまで、彼をこっそり守ってくださったのです。そして、政治的に落ち着いた、ある日突然、誰よりも偉い者にしてくださったのです。ヨセフからしては苦難と孤独の時間でしたが、神からしてはヨセフを安全に守ってくださる時間でした。この新約の言葉が思い起こされます。「主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。」(2テサロニケ3:3)苦難と孤独は辛いものです。それらによって神を恨むこともあり得るでしょう。ただし、苦難と孤独も、結局は神の計画の中にあるということ、主の時になれば、大きな祝福をもって報いてくださることを信て生きていきたいと思います。苦難と孤独は神の祝福の過程です。これを忘れずに、常に信仰に生きる私たちになることを祈ります。