人の罪と主の赦し
イザヤ書59章1~ 2節 (旧1158頁) ローマ信徒への手紙 1章18 ~ 32節(新274頁) 前置き ある宣教師がいました。彼は長年宣教をしてきましたが、先住民の一人もイエスを信じていませんでした。人々は彼を友達と認めましたが、神を信じてはいなかったのです。そんなある日、近所の先住民が宣教師を訪問しました。二人はお茶を飲みながら、歓談をかわしました。その時、ふとイエスの生涯に話題が移りました。宣教師は人の罪とイエスの死と罪の赦しについて話しました。その日、先住民は自分の罪に気づき、衝撃を受け、悔い改めることになりました。それを皮切りに、その地域に本当の宣教が始まり、多くの先住民がイエスを救い主として信じることになりました。その宣教師の問題点は、先住民と親しくは過ごしたが、福音の核心である罪と赦しを教えなかったことにありました。その宣教師は、今までの自分の誤りについてやっと気づくことになりました。 1.罪の影響 キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。出世のための宗教でも、瞑想や省察のための宗教でもありません。キリスト教はイエス・キリストによって天地万物を創造された真の神と和解し、一緒に生きる宗教なのです。そのように創り主である神と歩んで行きながら、時には神によって幸せを経験し、また時には神と逆境を乗り越えつつ、最後まで神と共に進む宗教が、まさにキリスト教なのです。その歩みの結果の一つが、死後、天国に入るということです。それは目標ではなく、ただ神の賜物の一つに過ぎないのです。創り主、神と共に生きることそのものが既に私たちの天国が始まったということであり、私たちの救いが成し遂げられはじめたという意味です。 ところで、その神に出会うことを妨げる深刻な問題があります。それは罪という問題です。今日の旧約聖書を見てみましょう。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ書59:1-2)罪によって、造り主から離れた人間が、真の救いを得るためには、絶対に造り主、神の御前にいなければなりません。御前にいるということは、神と共に歩むという意味です。しかし、罪がある限り、人間は神の御前にいることが出来ません。罪が神と人間の仲を隔てているからです。 実に神には人を救ってくださる十分な権能があります。しかし、人に罪がある限り、主は人を救うことが出来ません。主の手が短いわけでも、主の耳が鈍いわけでもありません。厳密に言って、できないわけではなく、しないのです。なぜなら、罪は神の正反対のものだからです。罪は神と人間の間の巨大な隔てをもたらします。罪は人間に恵みと哀れみをくださる神の御顔を隠すものです。罪は神の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人間が神に救われることが出来ないようにする結果、人間が神に見捨てられるしかない悲惨な結果をもたらします。だから、人が自分の罪を解決していない以上、その人は絶対に救いを得ることも、神と共に歩むことも出来ないのです。 2.罪の悲惨さについて。 ソクラテスは「無知は罪なり。」と言いました。彼はキリスト者ではありませんが、彼のこの言葉は正しいと思います。罪から生まれた惨めさの一つは無知です。罪を持っている人は、自分にどんな罪があるのか、何が問題なのかが分かりません。分からないので、解決が出来ず、解決が出来ないので、救いに至ることも出来ません。今日の新約本文であるローマの信徒への手紙は罪人がどれだけ悲惨であるかを明らかに語っています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:20)世界の創造の時、神はすべての被造物が神を知ることが出来るように神の神性を示してくださいました。だから、罪のない状態の被造物は、神の存在を感じ、知ることが出来ます。しかし、罪によって神とその神性に気づかないようになった人間は、自力では、神を知ることが出来なくなってしまいました。 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23)しかし、人は神性を求める存在です。人間の本能がそれを証明します。『誰なのかはっきり分からないけど、きっと全能者はいるのだ。』という人の漠然とした感覚は、よくあるものです。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、人間の罪のため、人は自分が勝手に願うものを神だと定めてしまいます。木を、石を、獣を、人を神にしてしまいます。日本はその名前どおり、古くから太陽を神と崇めて来た国です。それによって生まれた存在が天照大神でしょう。太陽をお天道様と呼ぶことにも、そのような文化が溶け込んでいるからではないかと思います。しかし、創世記1章は、きっぱりと太陽を含むすべてのものが、ただ神の被造物にすぎないと語っています。人間の罪は罪に気づかないようにするだけでなく、とんでもないものを神にする心を与え、真の神を冒瀆する偶像崇拝までもたらします。 「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28)罪に生きる人への最も危険で、悲惨な神のお裁きは、神が彼らを自らの罪に放って置かれ、見捨てられることです。本文の「渡す」という表現はギリシャ語「パラディドミ」の翻訳ですが、「見捨てる。」という意味です。「してはならないことをするように。」すなわち、神がどのような形の憐みもくださらず、罪を犯し続けるように放っておかれ、赦されずにお裁きになるということです。これを神学的な用語で、神の遺棄と言います。「捨てるために残す。」という意味です。そのような人たちからは29-31節までの数多くの罪が現れます。罪が罪を産み出し、罪が罪を増やし、罪によって人が神から永遠に見捨てられるという意味です。これが罪の恐ろしい結果であり、最も悲惨な呪いであるのです。 3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。 未信者が信仰を持とうとする時、一番難しいのは自分の罪を認めることだと思います。犯罪者なら、比較的に納得しやすいかもしれませんが、法律的に犯罪したことのない普通の人々は、自分が罪人であることを納得しにくいでしょう。しかし、聖書はこのように語っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(ローマ3:23)旧約聖書の創世記で人類を代表するアダムとエバが神を裏切って離れた後、人々は罪の中に生きることになってしまいました。アダムとエバの話は時空間の超えて私たちに教えてくれます。神を裏切って離れることから、罪が生まれるという最も基本的な罪の理由を。 罪とは矢と的との関係と似ています。矢が的に当たらない場合、スコアがないように、罪は人が神の基準から外れる時に生じます。したがって、神がお定めになった法則に従って「神の御心に聞き従うこと、神と一緒に歩むこと」を満足させない時、人生で、新しい罪が生じ続けるようになります。しかし、人は皆、すでに罪を持っているので、自力では、神の御心に適うことが出来ません。そして、赦してくださる神を知ることも出来ません。つまり、人間は自ら罪を解決することが出来ないということです。だから、人は自然に罪に生きるしかありません。そして、その罪は引き続き別の罪をもたらします。最終的に罪人は罪によって神に見捨てられ、永遠の死を迎えるしかありません。 イエス・キリストが私たちのところに来られた理由は、まさにこの罪の問題を解決してくださるためです。私たちが福音を福音と呼ぶ理由はこのためです。「自力で解決できない罪を解決できるお方がいらっしゃる」という良いニュースだからです。神から来られたイエスは、罪を赦してくださる方です。そして人が満たせない神の基準を代わりに満足させてくださる方です。私たちは、このイエスの罪を赦す力、神の基準を満たす力を、私たちを救ってくださる主の恵みとして信じる時に、神の赦しを得ることができます。私たちが果たせないことを、キリストが代わりに成し遂げてくださり、自分の赦しのために何も出来なかった私たちが、キリストによって赦されたということを信じる時、私たちは神に赦されることが出来ます。イエス・キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決するために、私たちに代わって十字架につけられ、死に、私たちを救い、私たちのために神から新しい命を受けてくださいました。罪の結果は恐ろしい悲惨さですが、その悲惨さから私たちを救ってくださる主がおられるため、私たちは希望を持つことが出来るのです。 締め括り パウロは今日の本文を通じて私たちにも罪があることを示します。私たちは、すでに救われ、主の中にいると存在ですが、罪ある人間ですので、誰かを憎み、悪い思いをし、神の御心に適わない時が、しばしばあるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じているからです。私たちは、キリストの罪の赦しによって日々新たにされる者です。そして、主を信じる私たちは、主のお導きにより、その罪から立ち返って、神の恵みに進むことが出来ます。罪は私たちを惨めにし、神に見捨てられるように働きますが、イエス・キリストは私たちが悔い改める時、その罪をいつも赦してくださり、私たちが神と一緒に生きるように導いてくださいます。この私たちの罪、そしてキリストの赦しを憶えつつ福音の本当の意味について顧みる志免教会であることを祈ります。