なぜ、ベテルなのか

創世記35章1-7節(旧59頁) ヨハネの黙示録2章4-5節(新453頁) 前置き ヤコブは創世記32章で、神にイスラエルという新しい名前をいただきました。それによって、彼はもはや過去のような、騙して奪いとる存在ではなく、神と共に歩む人生を生きなければならない存在となりました。しかし、彼の人生はそう簡単には変わりませんでした。神の恵みによって兄エサウとの問題が解決されるやいなや、ヤコブは神の望まれるところではなく、自分の目で見て好むところに行ってしまったからです。兄との問題で恐れ戦いていた時は、神に寄りかかって離さなかったのに、神が問題を解決してくださると、彼は神の御心ではなく再び自分の思いのままに振舞ってしまったのです。前回の説教では、それをイスラエル的な人生ではなく、ヤコブ的な人生に戻ってしまったと表現しました。そしてその結果、創世記34章で、ヤコブはあまりにも悲惨な状況に置かれてしまいます。そんな彼に神は再び現れ「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。」と言われました。なぜ、神はヤコブをベテルに呼び出されたのでしょうか?今日の物語を通じて、キリスト者の人生と神の導きについて話してみたいと思います。 1.34章のあらすじ-惨めで残酷な人間たちの物語。 まず、33章後半と34章全体のあらすじを話してみましょう。33章で兄と再会したヤコブは、幸いにも兄と円満に和解することができました。エサウはヤコブの家族と群をエスコートして自分の場所であるセイルに一緒に行こうとしましたが、ヤコブはいろいろな言い訳をし、嘘までついて兄をセイルに行かせました。(33:12-16) そして彼は兄の家とまったく違う方向であるシケムの町に向かいました。(ヤコブとエサウが再会した場所からセイルは南、シケムは西)当時シケムは、その地域の商業、宗教、政治の中心地である大きな町でした。ヤコブは、その近くに自分の天幕を張って、その土地の一部をシケムの父ハモルの息子たちから買い取りました。ここで、土地を買い取ったのは、そこに長く留まるつもりだったという意味です。ヤコブは若い頃、パダン・アラムに向かう時、神に誓願を立てたのに(28:20-22) ベテルに帰らず、自分の目に良く映ったシケムの町に長く留まるために土地を買ったのです。そして自分勝手に祭壇を築き、「神はイスラエルの神」という意味の「エル・エロヘ・イスラエル」と呼びました。(33:17-20) 絶体絶命の瞬間にしばらく神に頼るようになっていたヤコブは、危機が消えると、すべて忘れたかのように、神の御心ではなく、自分の思い通りに生き始めたのです。彼は神によってイスラエルと呼ばれる存在となりましたが、全くイスラエルらしく生きなかったのです。 ところで、34章からヤコブの家に問題が生じ始めます。ある日、ヤコブの一番目の妻であるレアから生まれた娘ディナが、その土地の娘たちを見に出かけました。(34:1会いに行くではなく、見に行くの方が原文に忠実)ここで「その土地の娘たち」という表現にも「見に行く」という表現にも、神とは関係ない存在、神の御心に適わない行為のニュアンスが含まれています。そして、彼女はシケムの町の族長ハモルの息子であるシケムに強制的に辱められました。(34:2) それを聞いたヤコブは、愛していないレアが生んだ娘だったからか、彼女のために真剣な対応をしませんでした。ただ牧畜をしている息子たちが帰ってくるのを待つだけでした。(34:5)その後、息子たちが帰ってきた時、彼らは非常に嘆き憤りました。(34:7) ディナを恋い慕うようになったシケムは、父ハモルを通じて、ヤコブの息子たちにディナを嫁としてくれと言いました。するとヤコブの息子たちは「割礼を受けていない男に、妹を妻として与えることはできません。そのようなことは我々の恥とするところです。」と言い、その提案を断りました。(34:14)すると、ハモルとシケムは町の人々と話し合い、割礼をすることにしました。しかし、シケムがディナと結婚しようとする理由も割り切れません。もちろん、シケムがディナを恋するようになったのは事実のようです。しかし、この結婚を通じて、ヤコブの家族と併合し、その財産を自分の部族に吸収しようとする純粋ではない思いもあったようです。(34:20-25) 三日後、シケムの男たちが割礼の痛さのため、何も出来ない時、ヤコブとレアの息子たちであり、ディナの実の兄たちであるシメオンとレビはめいめい剣を取ってセゲムを奇襲し、男たちをことごとく剣で殺し、シケムを略奪しました。神と民の聖なる契約を意味する割礼を敵を討つための殺人の手段として使ったのです。彼らは家畜と財物を奪い、子供と女性たちを捕らえました。(34:35以下)この話を聞いたヤコブは「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか」と言いました。ヤコブはこのような状況の中でも息子たちの罪と、娘の傷には一切触れずに、ただ自分と家族(おそらく、ラケルとヨセフ)の安全だけを心配していたのです。結局、このすべての残酷な出来事は、ヤコブがシケムに行って生じたことであり、ヤコブがエサウのために感じた恐怖よりも、はるかに深刻な結果として襲ってきました。34章をよく読んでみると、「神、主」などの表現が一つもないことが分かります。つまり、34章は神と全く関係のない人生を生きていたヤコブと、その家の問題、そして神のない人生の罪と悲惨さをよく示しているのです。もし、ヤコブが神との約束を記憶してベテルに行ったとすれば、イスラエルになったヤコブが家族を信仰の道にただしく導いたとすれば、こういうことはなかったでしょう。神の民が、神なき人生を生きる時、彼の人生には悲惨さと残酷さが残るだけです。 2.ベテル-お待ちくださり、お呼びくださる神 35章に入って、神はヤコブが直面している最悪の状況をご覧になり、すぐヤコブに仰せになりました。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」(35:1) ベテルという場所は、神が祖父アブラハムと父イサクの神ではなく、ヤコブ自身の神としてヤコブと出会ってくださったところなのです。彼にとって自分の家族の神、自分の知り合いの神ではなく、まさに自分自身の神になってくださったところだったということです。「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。」(創世記28:12-13) ヤコブがどんな人生を生きてきたのか、どんな性格の人間なのか、そのような条件による選びではなく、全能なる神が一方的な恵みでヤコブに現れ、彼と一緒に歩むヤコブの神になってくださった場所です。そして、そこはヤコブ自身が神への誓願のために再び戻ってくると約束したところでもあります。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(創世記28:20-22) たとえ、当時のヤコブが「主がわたしの神となられるなら」という条件的な表現で話したとしても、すでに祖父アブラハムの時からヤコブをお選びくださった神は、ベテルでのヤコブの誓願を記憶され、ヤコブの神として彼の全生涯の中でいつも一緒にいてくださったのです。創世記34章では、神という表現が一度も出てこなかったように、創世記34章でのヤコブは神のない人生の極みを見せてくれました。神にイスラエルと呼ばれるようになったにもかかわらず、彼の人生は依然として神のない人生だったのです。しかし、それにもかかわらず神は彼の歩みを一瞬も見逃されず、彼に神が最も必要な時に現れ、最も正しくて安全な道に彼を導いてくださったのです。ヤコブの娘は神のない世の中の歓楽に憧れ、ヤコブの息子たちは世の中の人々でさえやらないような残酷な虐殺と略奪を犯してしまいました。ヤコブ自身も神の民という自分の立場を知っているにもかかわらず、神を無視して自分の思い通りに生きようとしました。もし神が当時のカナン人が崇拝していた異邦の神々のような存在だったら、ヤコブは悲惨に最後を迎えることになったでしょう。しかし、神は機会をくださり、ヤコブと家族が生きる道を教えてくださいました。それは「ベテルに上ること」でした。 「ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」(創世記35:2-3) その時やっとヤコブは神の御心に気づき、自分の家族が持っていた不浄な偶像崇拝の道具を捨てさせ、悔い改めさせて自分が若い頃に誓願したベテルの神に向かって進み始めました。ベテルに上るということは、神のない人生を辞めるという意味です。ベテルに上るということは、自分の罪を神に告白し悔い改めるという意味です。ベテルに上るということは、ひとえに神のみを自分の主と認め、お導きに自分の人生を委ねるという意味です。ベテルに上るということは、初めて神に出会った時、神にいただいた恵みを憶え、追い求めて生きていくという意味です。神はベテルという最初の約束の場所から、少しも離れられずにヤコブを守りつつずっと待っておられたのです。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。ヤコブはやがて、… ベテルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。」(創世記35:5-7) そして、ヤコブがベテルに着くまで彼の道を守ってくださいました。 締め括り 「あなたは今シケムに立っているか?ベテルに立っているか?」今日の本文は私たちにこう問うています。個人の差があるでしょうが、神様は各々の民に相応しい方法で出会ってくださいます。ある人とは静かに、またある人とは激しく出会ってくださいます。しかし、共通点は神がイエス•キリストを通して私たちの神になってくださるということです。神との初めての出会い以後、世の中に出ると神と遠ざかったり、神を忘れたりする場合もしばしばあります。そのような人生を生きていれば、私たちは自然に神との初めての出会いを忘れて神のない人生を生きることになりえます。しかし、神は必ずご自分の選ばれた民を憶えられ、また会いに来られます。ただし、神のない人生の中で思いがけない困難に置かれる可能性もあります。そして、その困難によって私たちは神を再び憶え、帰っていくことになります。その時、私たちはシケムではなく、ベテルに足を運ばなければなりません。自分のことを振り返り、悔い改めつつ神に進まなければなりません。もし、そのようなことがあれば、神が待っておられるベテルに上りましょう。主イエスはヨハネの黙示録を通してこう言われました。「悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:5)現代を生きる私たちにとって、ベテルに上るということは悔い改めて主への信仰を回復するということです。自分勝手の生き方から、神の御言葉による生き方に立ち戻るということです。今の自分の人生がうまくいかないと思われるなら、自分の心や行いを顧みてください。自分がシケムに立っているか、ベテルに立っているか、反省しましょう。そして、主の御心とは何か推察しましょう。なぜベテルなのでしょうか。そこに私たちの主がいらっしゃるからです。