神が結び合わせてくださった。

申命記24章1-4節(旧318頁) マルコによる福音書10章1-12節(新80頁) 前置き イエスはマルコによる福音書9章で、神の国においての生き方について教えてくださいました。3人の弟子たちと山の上に登られ、変容した姿を見せられながら、神の御心が人の思いと違うことを示してくださいました。下山の後には弟子たちが追い出せなかった悪霊を追い出され、神の国は口先ではなく信仰の実践によって成り立つということを教えてくださいました。また、自分を低くして他人に仕える者こそ、神の国では本当に偉い者であることを教えてくださいました。最後に他人を排除せず、お互いに理解しあい、仕えあって生きることが神の国の法則であることをも教えてくださいました。神の国を生きるということは、この世の法則とは正反対に行うということを、主イエスは教えてくださったのです。そしてイエスは今日の本文で、この世のやり方とは反対に行く、神の国の法則を結婚という主題を通じて、もう一度教えてくださいました。 1。ファリサイ派の人々が離婚について質問した理由。 今日の本文の冒頭には、イエスを目の敵のように思っていたファリサイ派の人々が、再びイエスを訪ね、主を困らせようと試みる姿が描かれています。「ファリサイ派の人々が近寄って、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうかと尋ねた。イエスを試そうとしたのである。」(マルコ10:2) 当時、結婚と離婚の問題はイスラエル社会において、非常に敏感なことでした。昨年、マルコによる福音書6章の説教でお話ししましたように「ヘロデ・アンティパスとヘロディア」の不正な結婚を戒めた結果、斬首刑で殺された洗礼者ヨハネに関する問題が、世間で話題になっていたからです。ヘロデ・アンティパスは、当時ガリラヤ地域の支配者で、彼はヤコブの兄エサウの子孫でした。そのため、彼はユダヤ系の血を引いた女、つまり兄弟の妻であり、自分の姪であるヘロディアと無理やりに結婚しました。その過程で二人は元の配偶者との離婚を押し切りました。そういうわけで、彼の離婚と結婚について一言でも発言すると、洗礼者ヨハネのように殺される可能性がありました。だから、皆が言動に非常に注意していたはずです。ファリサイ派の人々は、その点を用いて、イエスの見解を悪用しようとしたのかもしれません。今日のファリサイ派の人々の質問は、単なる宗教的な質問ではなかったのです。 ところで、主はファリサイ派の人々が尊敬している、ある人の名前を取り上げられ、彼らの計略に陥れられずに主の見解を示してくださいました。その尊敬する人とは、律法の重要な人物である「モーセ」でした。「イエスは、モーセはあなたたちに何と命じたかと問い返された。」(マルコ10:3) このモーセという名前が出てくるだけで、ファリサイ派の人々はイエスを告発することが出来なくなってしまいました。モーセという名前が出た以上、これは政治の問題ではなく、ユダヤ教の宗教的な問題になるからです。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました。」(マルコ10:4) 主がモーセの命令について問いかけられた時、彼らは申命記24章1-4節の言葉を思い起こしたでしょう。今日の旧約の本文、申命記24章1節をお読みします。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」ここで「恥」とは何でしょうか?ヘブライ語の直訳としては「裸、脱いだ下半身」という意味で、象徴的には「汚れ、恥」を意味します。(創世記9:21裸のノアに使われた表現)つまり、妻にこのような「汚れ、恥」がある場合、律法では「離縁状を書いて、妻を捨てることができる」と記されていたのです。 2。結婚を軽んじる世。 「イエスは言われた。あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」(マルコ10:5) しかし、主はこの旧約の言葉の本当の意味について改めて語られました。それは「恥ずべきことを理由に、勝手に妻を捨てても良いという意味ではない。むしろ男たちの頑固さにより、女たちが無分別に捨てられないように、また、女性が新しく嫁げるように、神が特別に配慮してくださったのだ。」という意味なのです。なぜなら、ユダヤ人が考えた「恥ずべきこと」にはとんでもないことが多かったからです。保守的な解釈で、この「恥」という言葉は「妻の性的な堕落」を意味する表現でしょう。しかし、その場合、ユダヤでは石に打たれて死ぬに決まっていました。家から追い出されるくらいの恥は、性的な堕落以外のことだったということです。「ヒレル派」というラビの学派では、この「恥」について、こう解釈したと言われます。「妻との関係で満足がないこと」「妻の料理がおいしくないこと」「妻が隣の妻よりきれいでないこと」つまり、恥ずべきことというのが、夫の気に入らないすべてのことだったという意味です。このように、当時イスラエル社会では、あまりにも簡単に妻が離縁されることが多かったようです。そして追い出された妻たちは、日常生活が不可能になり、結局は本当に堕落して売春につながったりあるいは乞食となったりしたのです。しかし、離縁状がある場合は、また別の人と結婚ができたようです。 それだけでなく、特別な場合は、妻が夫を離れることもあったようです。この場合は権力と財産のある富裕層の女性たちにあったと言われます。ローマの詩人であるデキムス・ユニウス・ユウェナリスという人のある詩には、このような語句があると言われます。「前々に合意したでしょう。あなたはあなたの好きなことを、私は私の好きなことをしても良いと。」ここで、好きなこととは自由な性生活のことです。このように、ローマの裕福な女性たちの間では、自由な婚外の性関係、夫の浮気に合わせて自分も浮気をすることが少なくなかったと言われます。おそらく、ヘロデ・アンティパスと再婚するために元夫と離婚したヘロディアも、このようなローマの文化の影響を受けたのかもしれません。いずれにせよ、ローマ時代にも現代人の考えを超える奇想天外なことがあったようです。男が妻を追い出そうが、裕福な女が不倫をしようが、このような姿は主イエスにおいて、神の創造の摂理と合わないものでした。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9) 神は離婚を許されなかったのですが、世の中は結婚と離婚をあまりにも軽んじていたのです。 3。離婚が問題ではなく、離婚をもたらす人の罪が問題だ。 人生において、結婚の重要性は、言うまでもないことです。しかし、生きながらやむを得ず、離婚しなければならない場合もあります。結婚10年目に、自分が同性愛者だと打ち明けた夫に離婚された人、妻の不倫によって離婚された人、配偶者の過度なかけ事や株式投資、事業拡張による金銭的な問題のため離婚した人、配偶者の暴力によって離婚した人など、実際に残念な事情を持った人が少なくありません。このように配偶者の過ちによって離婚される場合まで、罪に定めることは現実的に無理だと思います。しかし、家庭をまともに守らない者、浮気で配偶者を捨てる者、配偶者に暴力を振るう者、結婚を軽んじる者、自身の欲望を理由に家庭を壊し、離婚にまで至らせる者は、明らかに罪を犯した者で、神に判断されるでしょう。結婚は大事なものです。神はこの世での人間の歴史をアダムとエヴァという男と女の結婚から始められました。神は夫婦を一心同体として召されました。だから、主はこう言われたわけです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 厳密に言えば、今日の主題は離縁についての話ではありません。離婚をもたらす人の罪に対する警告の言葉なのです。わたしたちの教会の場合、50年近くの結婚生活を続けてきた方々がおられます。今までのように、これからも配偶者を愛し、幸せに過ごしてください。やむなく独身でおられる方々も、今後の神の計画がどうなるか分からないので、まず今の周りの人々を大事にして過ごしていきましょう。いつも配偶者の立場から考えて生きましょう。配偶者は神がくださった最も近い隣人です。「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(Ⅱコリント11:2) パウロはコリント教会への自身の伝道について、純潔な花嫁を花婿であるキリストに婚約させたことと表現しました。つまり教会は妻であり、キリストは夫であるということです。主イエスはご自分の花嫁である教会のために命を捧げられました。また、歴史上の教会は時々堕落したとしても、必ず夫であるキリストに立ち戻りました。このような主と教会の関係に照らして、夫婦は最後まで互いを見捨ててはならず、愛によって生きるべきです。それがまさに夫婦に向けた神の御心なのです。 教師の働きを始めてから10年が経ちました。この10年間、未信者の主人と結婚した女性信徒さんたちと数多く会ってきました。志免教会にもご主人が教会に通っていない方がおられます。しかし、クリスチャン・ホームでないからといって、あまり失望しないでください。実はその結婚も神が結び合わせてくださった関係だからです。その中で、配偶者に仕え、信仰を守って生きる皆さんの姿を、神はきっと喜ばれるでしょう。自分に許された結婚を大事にして、配偶者を愛することが主の御心であることを忘れないようにしましょう。今日の主題は簡単明瞭です。主がお許しになった結婚を自分の使命と考え、大事にして生きる時、主は褒めてくださるでしょう。そのような生活の中で教会をご自分の花嫁のように守ってくださるイエス•キリストの愛を見つけたいと思います。そして、そのような人生が、この地上において神の国を生きる聖徒の人生の一部分であると信じます。今週も神様の恩恵が志免教会の歩みと共にあることを祈ります。

イスラエルとなったヤコブ、しかし

創世記33章1-20節(旧56頁) 前置き 前回の創世記32章の説教では、故郷に帰るヤコブの姿が描かれました。 20年間の奴隷のような生活を終えたヤコブは、神の恵みによって老獪(ろうかい)なラバンに財産を奪われることなく無事に故郷に帰ることができました。しかし、ヤコブには依然として心配がありました。それは20年前、兄に犯した過ちに対する恐怖でした。全能なる神がすべてを備えられて故郷に帰れと命令されたのに、ヤコブは神の導きより、兄の報復をより恐れていたわけです。神はそのようなヤコブにご自分の御使いを遣わされ、夜通し格闘をさせられました。つまり、神がヤコブと格闘されたということです。夜明け頃、神はヤコブを祝福し、これからヤコブではなくイスラエルであると新たに名付けてくださいました。その出来事を通じてヤコブは神が自分と一緒におられることを悟ったのです。ヤコブはその出来事を「主の顔を見たこと」のように思い、神と闘った場所を「ペヌエル」すなわち「神の顔」と名付けました。 1.神との格闘-祈り 前回の説教の内容について、もう少し話してから、今日の本文に入りたいと思います。「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」(創世記32:24) 神は民と格闘をされる方です。前回の説教で格闘と訳されたヘブライ語は「レスリング」のような力比べのイメージを持っていると話しました。倒れそうで倒れない、互いに制圧しあい、力を競うかのような模様が、まさにヤコブと神の御使いがした格闘のイメージなのです。これによって、私たちは神がご自分の民と力比べをする方であることが分かります。現代のキリスト者にとって、神との力比べとはどういう意味でしょうか。それは単刀直入に言えば祈りです。なぜ全能なる神が、まるで力比べをするかのように民と祈りという格闘をされるのでしょうか。ヤコブが兄のゆえに思い煩う時、御使いを遣わされ「すべてのことを私に任せ。君は恐れずに故郷に帰れ!」と一言だけ通報してくださったら、ヤコブも気楽に帰郷したのではないでしょうか。それがより効率的ではないでしょうか。考えてみたら、私たちの人生にもこんなことが少なからずあります。 私たちの家庭や職場に困難なことが生じて切実に祈る時、主が一言だけ答えてくださればよさそうですが、事実、そういうことはありません。牧師に相談しても「一緒に祈りましょう。」という答えが全てです。 一体、神はなぜ速やかな答えではなく、祈りという遠回りを選ばれるのでしょうか? それは神がご自分の民を尊重される方だからです。 神学校時代に「聖霊論」という授業を受けた時の教授の話が思い起こされます。「聖霊は聖なる恥ずかしさで働かれる方である。」聖霊なる神が恥ずかしがるなんて一体どういう意味でしょうか? それは神が全能者だからといって独善的に支配されないということ、ご自分の民への礼を失されず、尊重してくださるという意味でした。神は民の人生と選びが無理やりに侵されないように慎重にその人生に介入される方です。民を束縛して、勝手に引っ張る暴君のような方ではありません。むしろ祈りという力比べによって少しずつ、しかし、変わることなく一緒に歩んで行かれる方なのです。ヤコブの人生には愚かなことがたくさんありました。また、私たちの人生にも愚かなことが少なくないと思います。しかし、主は絶対に無理やりに民を引っ張られる方ではありません。力比べのように長い祈りを通じて、悟らせて導かれる方です。 「引っ張っていく」のではなく「導いていく」のです。  ですから、お祈りの回答がすぐに出なくても挫折したり失望したりしないでください。神は私たちの祈りの中で私たちのすべての願いを聞いておられるからです。 2.イスラエルとなったヤコブ、しかし…。 しかし、そういうわけで、問題も生じえます。それは神からの問題ではなく、人間からの問題です。神が祈りという力比べを通して少しずつ変えて行かれるため、人間が神の御心に気づくことが出来ず、自分の思い通りにしようとすることです。今日のヤコブがそうでした。「ヤコブはスコトへ行き、自分の家を建て、家畜の小屋を作った…ヤコブは…カナン地方にあるシケムの町に着き、町のそばに宿営した。ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建てて、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。」(17-20) 兄のことで心配していたヤコブは、神との格闘の後に兄と再会することになりました。創世記32章7節によると「使いの者はヤコブのところに帰って来て、兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございますと報告した。」と記されています。エサウがヤコブを「迎える」ために来ていたということです。ここで「迎える」という表現は「カラ」というヘブライ語で「軍事的遭遇」というニュアンスの意味も持っています。日本語では優しいニュアンスに見えるかもしれませんが、原語的にはその意味が曖昧なのです。しかし、神と夜通し格闘をしたヤコブは、最終的に兄と和解することで終わることが出来ました。それは、格闘のような祈りの結果だったのです。 ここまでは本当に良かったと思います。兄との再会という絶体絶命の危機の中で、神と闘ったヤコブが主にいただいた力と恵みで兄との関係を円満に解決したからです。ところで、これくらいになったら、神に感謝し、神の御心を聞き、従順に従うべきなのに、ヤコブは兄の招きを避けるために嘘をつき、またベテルで神に帰るという創世記28章の約束を破り、異邦人のシケム(当時異邦人の大きい町)へ行きました。神と祈りの力比べをして主の答えも受けたヤコブですが、問題が解決されるやいなや、再び自分勝手な生き方に戻ってしまったのです。今日の説教のタイトルは「イスラエルとなったヤコブ、しかし」です。それでは「しかし」の後に私は何を言いたかったでしょうか?「再びヤコブになってしまったヤコブ」なのです。信仰とはもともと波のようなものです。上がる時があれば、降りる時もあり、降りる時があれば、また上がる時もあるものです。ところで、上がるのは良いのですが、なぜまた降りてしまうのでしょうか?神が恵みを与えて引き上げて下さっても、また降りてしまう理由は、人間に罪の性質が残っているからです。使徒パウロは言いました。「自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(第一コリント9:27) 彼の言葉のように罪を制御しない限り、人は再び罪の中に飛び込んでしまうからです。 3.目的地はシケムではなく、ベテル。 皆さん、信仰が成長したと感じられる時が、一番つまづきやすいものです。ヤコブがイスラエルとなったからといって、すべてが終わったわけではありません。私たちがこの地上での人生を完全に終えて神に召される時まで、私たちの信仰はいつも現在進行中のさまです。私たちはいつも同じ罪によってつまづいたり弱くなったりするでしょう。私たちはイエス•キリストによって新約の新しいイスラエルとなりました。それは主イエスの恵みと救いによるものです。しかし、依然として私たちにはヤコブの性質が残っていることを忘れてはいけません。イエスによってキリスト者となり、主の義によって私たちも義と神に見なされた存在ですが、私たちに罪の性質があることを謙虚に受け入れ、どのように生きていくべきか、常に顧みて生きなければならないでしょう。神が信者から罪を完全に取り去られなかった理由は、神の力が弱いからではありません。その罪に気づき、自分の限界を見つけ、主だけに頼って生きさせられるためです。だから新約のイスラエル、つまりキリスト者となったからといって気を緩めてはなりません。常に自分自身を振り返り、自分の罪を悔い改め、主の御心を察して、正しい道に向かって生きていきましょう。イスラエルではなく、ヤコブの道を選んでしまったヤコブに、次の本文では大きな困難が近づいてきます。 そして、ヤコブには、主なる神とのまた違う力比べの格闘が近づいてきています。次の説教の内容をあらかじめお話しますが、ヤコブの娘ディナはシケムの首長の息子に強引に犯されました。怒ったヤコブの息子たちはシケムの人々を虐殺します。瞬く間にヤコブの家族は、その地方で危険な存在と目されてしまいます。ヤコブの人生は再び風前の灯火のようになります。そして彼はまた神の前に進むことになります。自分がパダン・アラムに向かった時、夢の中で神と出会った所、ベテルに立ち戻り、神の御前に悔い改めることになります。神は彼を再び祈りの場、神との力比べの場に呼び出してベテルへと導かれたのです。今の時代を生きていく私たちにとって、ベテルとはどういう意味を持つでしょうか。神の御心に従う人生を意味します。自分の欲望と思いをやめ、神の道に進む人生こそが、私たちにとってベテルに行く道であるのです。キリストにならって、その方と一緒に歩む人生こそが、まさにベテルに赴く人生なのです。しかし、私たちが自分の欲望と思いのため、神に従順に聞き従わない時、また罪の道に入ってしまう時、主なる神は再び、ご自分の民を力比べつまり祈りの場に呼び出されるでしょう。そのような霊的な訓練を通じて、主は民が気づくまで、民を導いていかれるでしょう。ベテルではなくシケムに向かう人生に神との格闘は続くでしょう。そして結局、民は厳しい格闘の末に悟り、正しい主の道に向かうことになるでしょう。 締め括り ヤコブはイスラエルとなりましたが、再びヤコブの人生に向かってしまいました。旧約聖書の偉大な先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブは、皆完璧な聖者ではなかったのです。実はキリスト以外に聖書に完全な人はいませんでした。皆が罪人だったからです。しかし、神は選ばれた民を決して御捨てられず、格闘の場、祈りの場に呼び出され、彼らを訓練させ、最後まで導いてくださいました。ドルト信仰基準という改革教会の教理には「聖徒の永遠堅持」という概念があります。それは、神が一度お選びになった、ご自分の民の信仰がいくら弱くても決して御捨てられず、救いに至るまで堅く守って導いていかれるという意味です。神は一度選ばれた民に罪と愚かさがあっても、絶対にあきらめられない方です。ヤコブのように祈りの格闘を通じて、正しい道に導かれつつ天国に入るまで、民を見守ってくださるのです。私たちはイスラエルよりヤコブに近い本性の存在であるかもしれません。しかし、今日も主なる神はキリストを通して、私たちを義と認めてくださり、祈りの力比べによって導いていかれます。この主を憶え、主の御心に適う人生になりますよう生きていきましょう。今週も主の祝福が豊かにありますように。

団体ではなく全体を。

  聖書朗読 民数記11章24-30節(旧232頁) マルコによる福音書9章38-50節(新80頁) 前置き 前回の説教の主題は、イエスの弟子たちの議論から始まりました。「誰がいちばん偉いか?」という極めて世俗的な議論でした。それで、イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と、主の民が取るべき生き方を教えてくださいました。この世のやり方は強い者によって左右されます。弱い者は無視され、疎外されます。しかし、イエスが追求する世界は、高い者が低い者に仕え、強い者が弱い者を助けるところです。イエスご自身がいちばん高くて偉い方でしたが、最も低いところの弱い者たちに仕えるためにこの世に来られ、十字架で死んでくださったからです。そういうわけで、主イエスの民において、誰かに仕えることは基本的な生き方なのです。主イエスの御心を承り、自分のことを低くし、他者を高めて仕えることが主イエスの民の生き方なのです。主はそのような者を真の「偉い者」とされ、必ず祝福してくださるでしょう。主の民の中で最も偉い者は低い所の弱い者に仕える人です。それがまさに主イエスの方式なのです。 1。イエスを信じる他の共同体を排除しようとしたヨハネ。 イエスが低いところの弱い者に仕える人こそが、真に「偉い者だ。」と言われるやいなや、弟子ヨハネが言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(38) 先ほど、主が弱い人に仕えることこそが、キリスト者の在り方であると言われたにもかかわらず、ヨハネはすぐに他人に仕えるどころか排除するようなニュアンスで話し出したのです。このヨハネという人は、どんな者だったでしょうか。私たちはヨハネによる福音書、ヨハネの手紙、ヨハネが記した啓示録などを通じて「愛の使徒ヨハネ、敬虔な人ヨハネ、啓示の人ヨハネ」などで、彼を思い起しがちかもしれませんが、主の生前のヨハネはかなり偏向的な人だったようです。ルカによる福音書の9章には、このような出来事が記してあります。「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。」(ルカ9:54) イエスが十字架を背負われるためにエルサレムに足を運ぼうとされた時、主は先に使いの者をサマリア人の村に送られました。当時、ユダヤ人とサマリア人はそんなに仲が良くない状態でした。ユダヤ人はサマリア人が異邦人との混血民族だからと嫌がり、サマリア人はユダヤ人に差別されていたので、好きになれなかったのです。そういうわけで、サマリア人はユダヤ人の団体だったイエスと弟子たちを受け入れなかったのです。 そこで、憤ったヨハネと彼の兄ヤコブは「私たちが天からの火で彼らを焼き滅ぼしましょうか?」と大胆な発言をしたのです。その時、主は彼らを厳しく戒められました。また、マルコによる福音書の3章17節によると、主はヨハネとヤコブに「雷の子ら」というあだ名を付けてくださいました。それだけにヨハネは非常にタフで、自分と異なる思いの人を排除しようとする性格の人だったのかもしれません。そんな彼がヨハネの手紙Ⅰでは、愛を唱えているので、主の恵みの偉大さがしみじみと感じられてきます。おそらく、ヨハネはイエスのかたわらで一緒にいる自分が偉い人間だと勘違いしていたでしょう。メシアである主イエスがイスラエルの王様になってご支配なさると、自分たちもその左と右とで権力者になるだろうと考え、うぬぼれていたかもしれません。つまり、ヨハネは、自分が正しい者だと思っていたということでしょう。イエスが正しい方だから、自分も正しいと根拠のない自信に満ちていたかもしれません。その結果、彼は自分と違う人を差別し、排除する人物になっていたのかもしれません。以前、他教会で、たくさんの祈りと聖書の学びによって、そうでない人を軽蔑し、差別し、排除しようとする人を目撃したことがありますが、彼は紛れもなく主の御言葉を完全に誤解していたでしょう。低くて弱い者に主のように仕えることこそが、真に正しいキリスト者の生き方であるという主の御言葉を忘れてはならないでしょう。 2.低い者に仕えるということ= 他人を排除しないということ。 そんなヨハネに主は言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(39-40) 偏見と排除のヨハネをなだめるかのように、主は主の御名で悪霊を追い出している者たちを許して良いと言われました。それを聞いてヨハネは恥ずかしかったかもしれません。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(41)イエスは一人の存在、一つの団体だけのために来られた方ではありません。時々、キリスト者の中にも、知らず知らず、我が主、我が教会の主、我が教派の主、我が民族と国の主と勘違いをしつつ生きる人もいます。しかし、主はある存在に束縛される方ではありません。むしろ世の万物が主に属しており、誰も主を独り占めすることはできません。また、我が教会だけが真理にあずかっているわけでもありません。主なる神の御言葉を聞いて行うすべての教派が主の真理にあずかっているのです。しかし、あまりにも数多くの教会が自分たちだけが主の真理を持っているかのように振る舞い、他教派は排除しようとする場合があります。結局、同じ三位一体なる神を信じているにもかかわらず、互いに対立しあってしまうのです。   例えば、プロテスタント教会とカトリック教会は、互いに相手を警戒する傾向があります。宗教改革以来、プロテスタント教会とカトリック教会の間には、あまりにも多くの誤解と偏見が積もってきました。それゆえ、今でもカトリック教会に挨拶でもしようと行くと、神父さんが「この人なんで来たんだろう?」と訝しげに見つめます。考えてみれば、こっちからもカトリックの神父さんが来れば「ええ、なんで?」と怪しく思うかもしれません。しかし、教理は少し違っても、結局プロテスタントもカトリックもイエスを救い主として信じることはあまり違いありません。マリア崇拝や煉獄など、理解できない教理ももちろんあるでしょうが、深く掘り下げてみると、彼らなりの理由があるかもしれません。何よりも彼らが救われるかどうかは、私たちではなく、神がご判断なさるべき問題なのです。重要なのは、彼らも教理でイエスを認め、イエスの救いを最も重要視しているということです。(皆さん、誤解はしないでください。カトリック教会のために弁明しているわけではありませんので。)今日の本文の物語が、前回の本文につながっている理由は何でしょうか?ひょっとしたら、低くて弱い者に仕えるという意味は、貧しくて弱い人に仕えることだけでなく、自分と違う存在への配慮と尊重という意味でもあるのではないでしょうか?私たちは自分も知らないうちに、主の御心とは違う排除と偏見とを抱いて生きているかもしれません。しかし、主から私たちに許されたのは排除と偏見ではなく、ひたすら愛と奉仕であるだけなのです。 3. 団体ではなく全体を。 内村鑑三の朝鮮人の弟子に咸錫憲(ハム・ソクホン1901-1989)という神学者がいました。内村の弟子であるだけに、彼も「韓国的無教会主義」を唱えた人です。余談ですが、ここで「無教会主義」を誤解してはいけません。「教会なんていらない」という意味ではなく「信仰の唯一の根本は、教会とその仕来りではなく、聖書の御言葉からのみ」というのが無教会主義の本来の意味です。無教会主義についてはいつかもう一度話す機会があると思います。ところで、この咸という人は自身の著書で「全体と団体」ということについて語りました。「全体は宇宙の根本、すなわち神の意思そのままを反映することであり、団体は利己的な自分という存在たちの集まりに過ぎない。」つまり、彼の主張は「全体」というのは、「神の御心に従う完全な被造物としての共同体的な存在」を意味することであり、「団体」というのは「利己的な自分たちという存在の欲望によって造られた共同体的な存在」ということです。これはあくまでも、咸という人の思想であって、聖書の教えでないので、参考だけにしてください。彼は「全体」を大事に考えました。私たちは時々「全体主義」あるいは「ファシズム」等の表現により「全体」へのネガティブなニュアンスを感じがちだと思いますが、咸が言った「全体」はそれとは距離が遠く、神の御心が成し遂げられる共同体という意味です。 私は、今日の本文を通じて、神学者 咸が語った「全体」について考えてみました。彼の思想を借りて、果たして我が教会は「全体」を目指す共同体であるでしょうか?もし、教会のすべての人々が今日の本文のヨハネのように行動するならば、教会はただの「団体」に過ぎないでしょう。それは主に従う共同体ではなく、利己的な「自分」たちの集まりであるだけです。しかし、私たちが他者を排除せず、むしろ、彼らに仕え、主の御言葉に聞き従って生きていけば、我が教会は神の御心に従うという意味の「全体」としての教会になるでしょう。今日の本文で主は恐ろしい警告をされました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(42)また、主は地獄まで言及されます。(地獄を文字通りに仏教的な地獄として理解するより、主の厳しい裁きとして理解する必要がある。)自分と違う者を排除する者はすなわち他者をつまずかせる者であり、このような者たちは地獄の炎のような恐ろしい裁きを受けるという厳重なご警告をなさったわけです。43-50節が単純に悪い者たちの死後処分を意味するのではなく、前の言葉とつながった内容であるということを憶えておくべきです。私たちが、ただ利己的で、他者を排除し、偏見を持つ「団体」のような存在になってしまったら、主に地獄と表現されるほど恐ろしく叱られるでしょう。また、そうでなく、他者を尊重し、仕える時、私たちは世の塩のような者になるでしょう。 締め括り 最後に今日の旧約の本文に触れて終わりましょう。全部話すと長くなるので手短に触れてみましょう。本文を読めばすぐ理解できると思います。モーセの後継ぎであるヨシュアが、長老の集まりに出かけていないエルダドとメダドにも、神の霊がとどまって預言状態になったのを見て、文句を言うと、モーセは言いました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(29)ヨシュアは排除を望みましたが、主は皆に主の霊を許してくださったのです。主はすべての者の神です。そして、主に属している者同士は、互いに認めあい、理解しあい、受け入れつつ生きる必要があります。主の民が主の民を愛しあうことが出来なければ、いかにして教会の外の存在を愛することが出来るでしょうか。もちろん、私たちは我が教会、すなわち日本キリスト教会の伝統と教えを大切にしなければなりません。しかし、私たちのものをしっかり守るべきであるだけに、他者のものも尊重して生きていく必要があります。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」この言葉を憶え、他教会、そして、教会内でも兄弟、姉妹への理解と愛を持って生きるとき、真の平和があり、主もそれを喜ばれるでしょう。志免教会が団体ではなく、全体を追い求める教会として、教会内外で愛を成し遂げて生きること祈り願います。

聖霊を通して一緒におられる主。

詩編139章7-10節(旧979頁) ヨハネの手紙一4章13-16節(新445頁) 前置き 今日は聖霊なる神が、この地上に降りてこられたことを記念する聖霊降臨節です。ヨハネによる福音書14章16節によると、イエスは十字架で亡くなられる前夜、最後の晩餐後、ご自身が父のもとへ移られても「弁護者」というまた別の存在を遣わしてくださり、その方が主の民と永遠に一緒にいるようにすると約束されました。また、使徒言行録2章には、イエスの約束どおりに主の民のところに訪れてこられた、この「弁護者」の降臨について記されています。そして、私たちは、この「弁護者」という方が、御父、御子と共に三位一体であられる聖霊なる神であることを、聖書を通じて知り、信じています。「弁護者」聖霊は文字通りに、地上にいる主の民のために弁護してくださる、いわば助け主であります。私たちが感じられなくても、聖霊はいつも私たちと一緒におられ、私たちに信仰を与え、その信仰を守ってくださり、御父と御子を私たちとつなげてくださる方です。御父と御子はこの聖霊を通して、昨日も、今日も、明日も私たちと一緒におられ、私たちを神の恵みへと導いてくださいます。今日は聖霊降臨節を迎え、「弁護者」聖霊について分かち合いたいと思います。 1.なぜ、ペンテコステなのか。 先ほど、私は今日が「聖霊降臨節」だと言いました。しかし、日本の多くの教会では、おもにペンテコステという名称をよく使います。ところで、なぜ「聖霊降臨節」を「ペンテコステ」と言うのでしょうか?まず「ペンテコステ」とはギリシャ語で「50」を意味する表現です。旧約聖書申命記16章16節には「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。」と記録されています。ペンテコステを意味する「50」は、この除酵祭と七週際の間の日数と関係があります。説明が複雑かもしれませんので、週報の裏面に図を載せましたので、ご参照ください。除酵祭は過越祭の翌日から始まる(出エジプトの時の過越祭に神が施してくださった御救いを記念する)一週間の祭りであり、七週際はその除酵祭の初日から7週間目になる日の翌日であります。つまり、七週際は除酵祭の初日から50日になる日なのです。ですから、ペンテコステという言葉はイスラエルの「七週際」をギリシャ語式に表現したものです。そして、聖霊降臨の日が、まさにこの七週際、ペンテコステだったのです。このペンテコステ(七週際)は旧約のイスラエルの祭りで、当時ローマ帝国のあちこちに散らばって暮らしていた多くのユダヤ人たちが、旧約の律法の命令に従ってエルサレムの神殿に出て神の恵みを記念し、感謝する日でした。 使徒言行録2章によると、聖霊はこのペンテコステに降臨されました。そして天から強い炎のように聖霊が降臨され、イエスの弟子たちに臨まれた時、一同は「聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と言われます。つまり、聖霊の力によって、自分もわからない、しかし、はっきりとした主イエスの福音を外国語で話すようになったということです。その時、七週際すなわちペンテコステを守るために外から帰ってきたユダヤ人たちは、彼らが話す主の福音を聞いて、自分の罪に気づき、悔い改めてイエスを信じるようになったのです。その時、イエスの弟子の一人であったペトロがほかの弟子たちと立ち上がり、主の御言葉を説教しました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(使徒言行録2:17-18) この日エルサレムでは3000人ほどのユダヤ人たちが洗礼を受け、イエスの民になったと聖書は証言しています。したがって、私たちは便宜のために「ペンテコステ」とは呼びうるでしょうが、その日が聖霊なる神が、キリストによって本格的に主の民に臨まれた「聖霊降臨節」であることを忘れてはいけません。志免教会はなるべく、ペンテコステよりは聖霊降臨節で、この日を記憶し守りたいと思います。 2.聖霊とはだれなのか? ところで、聖霊降臨という呼び方のため、私たちはつい聖霊が新約時代になってから、はじめて地上に来られた方と誤解しやすいです。しかし、聖書はこの聖霊なる神が旧約時代にもおられたことを証ししています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:1-2) 神の霊すなわち聖霊は、創造の前にすでに存在しておられる方でした。「彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ」(出エジプト記35:31) 聖霊は出エジプト時代にも神の民と一緒におられ、知恵と英知と知識を与えてくださる方でした。「霊はわたしを引き上げ、カルデアの方に運び、わたしを幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。」(エゼキエル書11:24) また、聖霊はイスラエルが滅びてしまい他国の捕囚となった時も、いつも一緒におられました。つまり、聖霊は創造の時から常におられる方であり、その民がどんな状況に置かれても、離れられず一緒におられる方だったのです。日本キリスト教会の大信仰問答は、聖霊についてこのように述べています。「聖霊は父と子から出るもの。いずれも本質を共にし、能力と栄光とにおいて等しく」だから、聖霊は全能な神ご自身でいらっしゃるのです。 時々「聖霊を注ぐ」という表現のため、聖霊を人格的な存在ではなく、勢いや力のような非人格的な存在と誤解する場合もありますが、聖霊は父なる神と御子イエスから出られ、この世のすべてを治められる存在であり、御父と御子より劣る存在ではなく、能力と栄光において父、子と同じ本質と権威を持っておられる、明らかな神なのです。聖霊は偉大な三位一体の一つの位格であり、私たちに礼拝と賛美を受けられるべき神なのです。こういうわけで、日本キリスト教会信仰の告白は、聖霊についてこう述べています。「父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊」したがって、私たちは、この聖霊を父なる神と御子イエスのように神として崇めるべきです。日本キリスト教会では「聖霊様」という表現をあまり使っていませんが、実は「聖霊様」という表現は、神学的に何の問題もなく、むしろ聖書の教えに忠実な表現でしょう。しかし、今まで日本キリスト教会が使ってきた表現であるので、「聖霊なる神」という表現をそのまま使って良いでしょう。「聖霊様」であれ、「聖霊なる神」であれ、いずれも良いのです。重要なことは、聖霊は創造の前にもおられ、終末の後にもおられる、無限な御父、御子のように私たちに礼拝と賛美を受けられる偉大な神であるということです。 3.聖霊を通して、私たちと永遠に一緒にいてくださる主。 ところで、今日を生きていく私たちにとって最も重要なことは、イエスがこの聖霊を私たちに「弁護者」として遣わしてくださったということです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ福音書14:16) イエスは人類の最も偉大で完全な救い主であり、先生であったのに、なぜ弁護者という別の存在を遣わそうとされるでしょうか? 主イエスはいつか世を去り、御父のところに帰らなければなりませんでした。イエスは造り主として、この世が始まる前からおられた真の神です。しかし、主はまた罪人たちを導き、その罪人たちの代表者になって御父と和解させるために肉となってこられた完全な人でもあります。ですから、主イエスは完全な神であると同時に完全な人でもある方なのです。ということは、肉体を持った人でもありますので、時空間を超越することはされないという意味です。それは主イエスが全能な方でないという意味でしょうか。いいえ、違います。完全な神であり、完全な人なので、自ら人としてのアイデンティティを守ろうとするという意味なのです。「できない。」わけではなく、「しない。」でしょう。そうしてこそ罪人を代表する肉体を持った人としてあり得るからでしょう。そのため、主は代わりに時空間を超越する霊的な存在を遣わしてくださったのですが、その方がまさに「弁護者」聖霊なのです。 つまり、聖霊は創造の前から常におられた方ですが、イエスの御救いと御導きをこの世で成し遂げるために象徴的に再び降臨されたのです。聖霊はいつもおられた方ですが、人類への主イエスの愛と救いの意志をあずかってもう一度降臨されたということです。旧約時代には多少厳しく感じられる方でもありましたが、今はキリストの御救いによって、主の民に信仰を与え、力を与え、救いを成し遂げ、愛を施してくださるために来られたのです。その一例として、旧約の聖霊は一度民に臨まれても、民の罪によって離れられる場合もありましたが、新約の聖霊は一度民に臨まれると永遠に離れられない方なのです。そして、ご自分の御業を通して父と子とのことを示してくださる方です。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」(ヨハネの手紙一4:13) 主は「弁護者 聖霊」である聖霊を通して私たちの内にとどまられ、私たちも「弁護者 聖霊」を通じて主の内にとどまるのです。このように私たちは聖霊によって神と永遠に交わり、主が再び来られる日まで信仰を守りつつ生きることができるのです。聖霊はいつも私たちと一緒におられます。悲しい時は一緒に悲しみ、嬉しい時は一緒に喜び、主なる神との歩みが出来るように導いてくださるのです。 締め括り 「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139:7-10) 旧約の偉大な人物であるダビデは神が聖霊を通して、いつどこでも一緒にいらっしゃるということを告白しました。新約の聖霊と比べて、旧約の聖霊の方はかなり異なる方式で働いておられたにもかかわらず、ダビデは聖霊の存在をこのように理解したわけです。まして、キリストの愛と救いを通じて、私たちと一緒におられる聖霊は、どれほど恵みと愛と真理とで私たちと一緒におられる方なのでしょうか。聖霊は私たちと常に一緒におられ、神への知識と主への信仰とキリスト者への生の指針を与えてくださる、生ける神なのです。その方によって、私たちは自分の罪に気づき、御言葉を学び、祈りの課題をいただき、主の民として生きていくのです。今日、聖霊降臨節をきっかけにし、この聖霊を憶えつつ生きていきましょう。父と子に比べて、ご自分を表さずにいつも謙遜に働かれる聖霊、その方はいつも私たちを父と子へと導いてくださいます。聖霊の御業を感謝して生きる志免教会になることを心より願います。