いちばん偉い者はだれか?

詩編147編6節(旧987頁) マルコによる福音書9章30-37節(新79頁) 前置き 前回の説教では、高い山から地上に降りてこられたイエスと3人の弟子たちの物語と、町に残っていた弟子たちが悪霊に取り付かれた子から悪霊を追い出せず、ユダヤ教の律法学者たちと議論ばかりしている物語について話しました。それらを通して私たちは、キリスト者がいるべき所、キリスト者の信仰と祈りについて聞きました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネといった3人の弟子たちを連れて山に登られたイエスは真っ白に輝く姿に変容されました。そして、旧約の偉大な人物であるモーセ、エリヤとお話になりました。また、雲から神の声が聞こえ、弟子たちは畏れと共に素晴らしさを感じました。しかし、イエスは再び弟子たちを連れて素晴らしい山の上ではなく、悲しみと苦しみに満ちた山の下に降りてこられたのです。これを通じて私たちは、キリスト者は世の中とかけ離れた、素晴らしい宗教を追求する存在ではなく、山の下の世界、すなわち低いところに仕えて生きる存在になるべきであることを学びました。そして、信仰がなくて悪霊を追い出すことができず、議論ばかりしている残りの弟子たちの物語を通じて、主による信仰の実践が、悪に満ちたこの世を変える動力であることをも学びました。最後に私たちは、この世を変える本当の祈りとは、そのような信仰によって神のお導きに反応することであることをも学びました。 1.ご自分のことを隠されるキリスト。 「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活すると言っておられたからである。」(マルコ9:30-31) マルコによる福音書を読みつつ到底理解できない場面があります。それは主がご自分のことを隠される場面です。マルコによる福音書には、何箇所も主が自らを隠される場面が登場します。「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」(マルコ3:12) 主は、ご自分のことを言いふらそうとする汚れた霊どもに、主を表さないよう警告されました。「イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。」(マルコ5:43) 主は会堂長のヤイロの娘を生き返らせた後、それを隠されました。「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。」(マルコ7:36) 耳が聞こえず舌の回らない人を癒してくださってからも、そのように命じられました。また「ペトロが答えた。あなたは、メシアです。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(マルコ8:29-30) 主をメシアだと告白したペトロにも話さないように命じられました。そして、今日の本文でも、主はご自分の死と復活を隠すように命じられたのです。 主は、なぜご自分のことを隠すように命じられたでしょうか。これについては、学者たちの様々な主張や仮設がありますが、それでも、なぜ主がご自分のことを隠されたのかについては、明確な正解がありません。ただ、これかも知れないという学者たちの仮説があるだけです。しかし、明らかなことは、主がご自分のことを弟子たちには隠さず、むしろ明確に教えてくださったということです。主はこのように言われました。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:23) 主イエスの福音は、世の中の全ての人が聞けるものではありません。響き渡る音としての声ではなく、その福音に隠されている御言葉を信仰によって受け入れる者だけが分かり、信じることが出来る霊的な秘密なのです。人々に主の福音を聞かせようとしても、皆がそれに気づくわけではありません。耳に聞こえてきても、福音はまるで秘密のようにその真理を簡単には与えません。主は十字架での死と復活以来、これ以上隠さず弟子たちと聖書を通して、ご自分について明白に教えてくださいました。それにもかかわらず、世のすべての人がイエスの福音に気づくことはできませんでした。今日、私たちが主の御言葉を聞いて悟ることができるというのは、誰にでも与えられるありふれた恵みではありません。しかし、十字架での死と復活前には秘密だったこのキリストの福音が、今では私たちに秘密ではなく良いお知らせとして常に教えられています。この主の福音を聞いて悟ることが出来る私たちになることを心から祈ります。 2.弟子たちの「いちばん偉い者」についての論争 主は8章でペトロが主への信仰を告白した後、高い山から降りてくる時、そして今日の本文で何度も、ご自身が「人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」と言われました。しかし、弟子たちは「その言葉が分からなかったが、怖くて尋ね」ることが出来ませんでした。イエスを信じる者には、誰にでも理由があるでしょう。人が理由もなく、何かをするということは普段ないからです。おそらく、弟子たちにもイエスを先生として招き学ぼうとする理由があったはずです。しかし、その一番大きな理由は、やはり主がメシアだと思ったからでしょう。当時「メシア」という言葉には極めて政治的な意味がありました。例えば、日本は歴史的に他国に征服されて植民地になったことはありません。もちろん、太平洋戦争でアメリカに負けたことはありますが、アメリカは早く日本を同盟国としましたので、植民地や敗戦国としての屈辱が他国に比べては少なかったと思います。しかし、36年間、日本に支配された韓国は、はなはだしい民族的なプライドの傷を経験しました。そういうわけで、反日の底にはプライドの傷があるということでしょう。(これは自民党の石破茂氏の見解です。当事者として一理あると思います。)このようなプライドの傷は、イエスの時代のユダヤ人にもあったようです。そのため、この世を裁き、変えてくれる「メシア」の存在は、イスラエルを独立国に導く軍事的、政治的な救い主として受け入れられる傾向がありました。 弟子たちは、おそらくそういう存在としての「メシア」イエスに集まったかもしれません。ところが、そうであるべき「メシア」イエスが自ら死ぬと断言しておられるのです。そして、3日後によみがえると、到底分からないことを話していおられます。そういうわけで弟子たちはイエスのその言葉が怖く、あえて避けようとしていたでしょう。主の復活以後、聖霊のお導きで福音を聞く耳が開かれた後になってから、ようやく弟子たちは主がどのような「メシア」として、この地上に来られたのかを悟ったでしょう。とにかく、今日の本文当時の弟子たちはイエスを政治的、軍事的なメシアとして理解していたことが明らかです。そのため、誰がイエスの右腕になってイスラエルの指導者になるだろうか、あるいはもう少し進んでイエスが亡くなったら、誰が主の後継ぎとしてイスラエルを統治するだろうかと、互いに論争したのかもしれません。「偉い者」本当に耳に良い言葉です。子供たちが素晴らしい学校に進学し、医療職、法律家、政治家になって世の中で尊敬される立派な人になったら、いかに誇らしいでしょうか。私たちも、たぶんそのような考えから自由ではないでしょう。しかし、自ら死ぬと断言する不思議な「メシア」イエスは、弟子たちの考えとは全く違う教えをくださいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35) 3。世の価値観の反対側に行く福音 主は「いちばん偉い者は、すべての人の後で、他人に仕える者」とおっしゃったのです。イエスの御言葉は本当にあり得ない不思議な論理でした。当時の偉い者といえば、他人の上に君臨し、支配し、一番先に立つ者であることが当然でした。弱肉強食の法則は現代とあまり違いがなかったのです。しかし、人権という概念がない時代でしたので、さらに過激だったのです。「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(36-37)また、主は幼い子供一人を抱き上げられ、この子供のような弱い者を受け入れるのが、まさにイエスを受け入れることと同じようなことだとおっしゃいました。当時、幼い子供は人間以下の存在とされていました。現代では、子どもの人権が大事な時代になりましたが、当時は大人に比べて病気ですぐ死んだりすることが多く、大人になる前は認められない社会的な弱者だったのです。しかし、主はそのような最も低い存在である子供を取り上げ、このような何でもない者に仕えることこそが、御国では最も偉い者の在り方であることを教えてくださったのです。 主のお教えはこのように、この世とは全く異なる価値観に基づきます。これは単なる謙遜の美徳を身につけろという倫理道徳的な意味とは違います。メシアとしてこられたイエスは自ら死ぬと予告されました。当時、イスラエルが考えた「メシア」という概念はイスラエルを勝利へと導く者のことでした。そして、「キリスト」という概念はローマ皇帝だけに捧げる最高の賛辞でした。ところで、ヘブライ語の「メシア」に当たる、ギリシャ語がこの「キリスト」であるだけに、メシアは普通の人が享受できない権力の中心を意味する表現だったのです。しかし、主は権力ではなく犠牲、君臨ではなく奉仕、高さではなく低さのために来られたのです。神の御国はこの世とは反対側に行くものです。低いところの人々を高め、強い者は自らを低くし他人に仕え、金持ちは貧しい者を助け、力を誇示するよりは他人を生かすことに使います。すべてが世の中とは正反対、つまり逆説的です。イエスの死は、罪人を生き返らせる命の死でした。人に命を与えるために、主はご自分の命を死と変えました。しかし、神はそのイエスの死を真の命に変えてくださいました。これがキリスト教の逆説的な価値観です。自分の命を捧げて他人を死から生かす、そして神がそれを報いてくださる、この世の破壊的かつ強圧的な価値観とは全く正反対の生命と仕えの価値観なのです。 締め括り 自ら自分を低くすることは、本当に難しいものです。自己中心的なプライドを捨てて、他人に仕えることを喜び、自分が損をする人生を自ら求めて生きるという意味です。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(マタイ5:39-42) しかし、主イエスはキリスト者の生き方について、このように教えてくださいました。自ら低くする人生は本当に難しいですが、我々の主がそのように生き、民たちにもそれを命じておられます。「主は貧しい人々を励まし、逆らう者を地に倒される。」(詩編147:6)「貧しい」に訳されたヘブライ語「アナブ」は謙遜な者、自らを低くする者を意味する場合もあります。こういう人は神に「励まされる」と記してありますが、原文的に「主が力強く持ち上げる」という意味もあります。自ら低くする者は神によって高くなるという意味でしょう。このような逆説が神の神秘なのです。自らを低くし、他人に仕えて生きる時、私たちは主によって高められ、真の偉い者になるでしょう。このような神の法則を信じて謙遜と仕えを実践して生きる私たちになりたいものです。こういう生き方を追い求める、真に偉い者である志免教会になることを祈ります。