イスラエルと呼ばれる。
創世記32章23-33節(旧56頁) コリントの信徒への手紙二4章14-18節(新329頁) 前置き 前回の説教で、神はパダン・アラムを離れて故郷に帰るヤコブに御使いたちを遣わしてくださいました。 ヤコブは彼らを見つけ、マハナイム(二組の陣営)と名付けました。神は、なぜ二組の陣営の御使いたちを通してヤコブのところに来られたでしょうか。それはヤコブの所有、つまり二組の陣営(創32:11)を守ってくださるための、神の繊細な配慮と愛のためでした。しかし、ヤコブはマハナイムを見ても別に反応をしませんでした。神は彼の家路を守ってくださるためにマハナイムを送ってくださったのですが、ヤコブはただ他人事のように通り過ぎるだけでした。帰郷するヤコブを苦しめたのは兄の仕返しへの恐怖でした。ヤコブは昔、自分の行いによって兄の怒りを買ったことがあり、それが恐ろしかったわけです。マハナイムの神が自分と共におられるにもかかわらず、ヤコブは神への信頼よりは、自分の恐怖に執着するだけだったのです。そんな状況の中でも、ヤコブは神ではなく、自分の不完全な対策だけを頼りにしていました。結局、彼は一番最後になってようやく神の御助けを探し求めたのです。神はいつもご自分の民と一緒におられる方です。しかし、多くの人々は、このヤコブのように、神よりは自分の考えに捕らわれがちだと思います。前回の説教ではこのようなヤコブの姿を通じて、私たちの信仰について顧みました。 1.ヤコブ的な人生の結果-恐怖。 ところで、ヤコブはなぜ兄を恐れるようになったのでしょうか。それは、過去にヤコブが犯した不義があるからです。ヤコブはヘブライ語の「アカブ」に由来する名前です。アカブは基本的に「かかとをつかむ」という意味の動詞ですが、状況によっては「だます、ごまかす、あざむく」という意味を持つ場合もあります。ヤコブは生まれた時、兄のかかとをつかんでいました。生まれつき、嫉妬が強く、競争的で自分の必要のためなら、どんなことでも企める性格の人だったということです。彼の野望は結局、兄に与えられるべき、長子の権利を欺き、奪い取ることにまでつながりました。最終的にヤコブは長子の権利を不当に騙し取ることに成功しますが、むしろ、それによって故郷から逃走するかのように離れ、ラバンによって奴隷同然にこき使われるようになり、今日の本文では兄の仕返しを恐れ、苦しみと憂いの中で日々を過ごすことになってしまいました。罪は人の平安を奪います。罪を犯した当時は(まるで、ヤコブが長子の権利を奪い取ったように) 良い結果につながるかのように見えるかもしれませんが、必ず、その罪によって、以後さらに大きな苦しみがもたらされます。もし、この世で苦しい報いを受けなかったとしても、正義の神によって死後必ずその罪が裁かれるでしょう。自分に与えられた神の祝福と導き以外のものをむさぼる時、人は罪を犯すようになり、その結果は惨めさ、憂いと思い煩い、結局は霊的な死に至ることになります。 新約聖書のヤコブの手紙は、こう語っています。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:15) ヤコブの野望は欲望から生まれたものです。彼は幼い頃、聞いたアブラハムとイサクへの神の祝福を欲しがっていたかもしれません。双子に生まれたのに何分違いで弟になったのが悔しかったかもしれません。だからといって、自分の野望どおりに父と兄を欺き、不当に長子の祝福と権利を横取りすることは明らかに罪でした。罪は罪です。いかなる美辞麗句を散りばめても、罪は罪として、その報いを受けることは決まっています。今日のヤコブの恐怖は、まさにその罪への報いに基づきます。神は彼を長子としてくださり、アブラハムとヤコブの祝福を受け継がせてくださる方ですが、彼の罪についてうやむやに終わらせる方ではありません。ヤコブは自分の罪への報いを受けているのです。世の中には自分の欲望のために、他人を欺き、奪い取る場合が本当に多いです。「自分、自分の家族、自分の共同体、自分の国」のために他人や他団体、他国を苦しめるということです。しかし、それは明らかに罪なのです。「自分」が中心となる人生は、差し当たり、幸せであるかもしれませんが、その結果は辛いでしょう。それがまさにヤコブ的な人生なのです。これは、人間なら誰もが持っている欲望に由来するものです。果たして、私たちはヤコブ的な人生から自由だと断言できるでしょうか。「自分」ではなく「みんな」、「自分だけ」ではなく「他人も」の人生を生きたいものです。 2。神とヤコブ、二人きりの格闘。 そうした思い煩いの中で、ヤコブは兄の怒りを鎮めるために人間にできる数多くの対策を講じます。「その夜、ヤコブはそこに野宿して、自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物を選んだ。それは、雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹、乳らくだ三十頭とその子供、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭であった。」(14-16)(現代で言えば莫大な財物)ヤコブはエサウに数多くの家畜を贈り物として送り「また、先頭を行く者には次のように命じた。兄のエサウがお前に出会って、『お前の主人は誰だ。どこへ行くのか。ここにいる家畜は誰のものだ』と尋ねたら、こう言いなさい。『これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります』と。」(18-19)また先頭の僕に、自分を極めて低くしてエサウに言い伝えるよう命令しました。しかし、それにもかかわらず、ヤコブの思い煩いは消えませんでした。結局、神が介入してくださらなければ、何も解決できない状態になってしまったのです。人間にできるすべての努力を尽くしたにも関わらず、ヤコブの悩みは全く解けませんでした。結局、彼は家族と財産のすべてをヤボクの渡しから向こう側に送り、独り後に残って夜を過ごすことになりました。その時、何者かが来て、ヤコブと夜明けまで格闘しました。彼が誰なのか聖書は明らかにしていませんが、文脈上、神の御使い、あるいは神ご自身であるでしょう。 聖書には格闘と書いてありますが、原語的には「レスリング」に近い、互いに取り組んで力比べをするイメージの闘いです。ある学者たちは、この状況を神の御導きと御守りを願い求めるための壮絶な祈りとして理解しました。自分としてはこれ以上何もできないほど無力になった時、自分のすべてをかけて神と談判をするということです。彼は生き残るために神の御使いに絶対に負けないよう最後まで持ちこたえつつ、去らせませんでした。時々、神はご自分の民を人生の新しい段階に導かれる時、暗闇と孤独の中に一人きりにさせられる場合もあります。そして、その一人きりの民のところに来られ、神と民の1対1の状況を作り、民を祈りの場に導かれます。徹底した無力さと、すべてが失敗したという絶望感を覚えさせ、神以外にはいかなるものにも頼れない悲惨な状況まで追い込まれ、神だけを求め祈るようになさるのです。このような神はひどい方なのでしょうか。いいえ、そうしなければ、人間はけっして神に帰ってきません。苦難があるからこそ、主を探し求めはじめるのです。皮肉かもしれませんが、それは神の祝福のもう一つの姿なのです。今までのような罪深い神なき人生を諦めさせ、神との歩みに招かれることだからです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10) 3。ヤコブがイスラエルと呼ばれる。 「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」(26)ヤコブと格闘していた神の御使いは、ヤコブの切実さによって自分が勝てないことを見て、ヤコブの腿の関節を打ちました。ここで、腿とは「ヤレク」というヘブライ語で、状況によっては「男性の生殖器」あるいは「最も重要なもの」を意味する場合もあります。神の御使いがヤコブとの格闘の時、つまり壮絶な祈りの時、ヤコブの最も重要なものを打ったということです。いかに皮肉なことなのでしょうか。神の御助けを切に願い求める者の最も重要なものを、神が打たれるということです。しかし、ここに逆説的な神秘があります。「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、ヤコブですと答えると、その人は言った。お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(28-29)神の御使いを離さなかったヤコブ、神に祝福を強く求める(27)ヤコブに、神は彼がもうこれ以上、神から離れられないように、彼の最も重要なものを打たれたのです。そして最も重要なものが無力になったヤコブ、神の他に拠り所がなくなったヤコブに「お前は神と人と闘って勝ったからだ。と言われたのです。(イスラエルの語源は、ヘブライ語「サラ」競う、優れる、権力を握る。すなわち、「神と競う、あるいは神が治める。」という意味。) 今まで、ヤコブは自分が自分の主のようになって生きてきました。自分が願うものを手に入れるために生きてきたのです。ヤコブの人生は、まるで、力比べのような人生でした。彼はいつも人生という力比べに勝利するために生きてきたのです。長子の権利のための力比べ、ラケルを得るための力比べ、ラバンから抜け出すための力比べ、自分の利益のために力比べのような人生を生きてきたのです。しかし、その終わりに、何があったでしょうか。それは兄への恐怖だけでした。 もし、兄との関係がうまく解決されても、彼はきっとまた別の心配で生きていったはずです。しかし、神の御使いと闘った彼は、自分が一番重要にしていたものを打たれる神を見つけました。自分の最も重要なものをあきらめて、神だけを頼りにして生きる時に、真の平和があることに気づき始めたのです。自分が中心となるヤコブ的な人生は、常に不安が支配します。しかし、自分の中心を神にささげる時、ヤコブの人生には真の平和が訪れました。ヤコブとして生きてきた彼がイスラエルに生まれ変わったのです。「ヤコブは、わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きていると言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」(31)ヤコブは、この格闘の出来事を神との対面として理解しました。聖書によると神の御顔を見ると人は死にます。しかし、ヤコブは生き残ったと思ったのです。神と対面して生き残った彼にとって、もうこれ以上兄の仕返しは、大したことではないでしょう。「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。」(32)彼が神と対面した時、彼の人生に本当に明るい太陽が昇ったということです。 締め括り 聖書が語る勝利は、「万事が自分の思い通りになる」という意味ではないでしょう。むしろ、「主の御心にあって生きる人生」に近いのです。神の御心通りに、我らの主イエスは十字架で息を引き取られました。この世の基準でイエスは敗北者だったかもしれません。しかし、神はイエスの死を通して罪を裁き、再び復活させられることで、その死を勝利にしてくださいました。ヤコブは御使いとの格闘で腿の関節がはずれましたが、主と対面して真の平和を得、これ以上自分勝手に生きることができない存在になりましたが、それよりも大事な主の祝福をいただきました。神と一緒に歩む者の人生は一見自分の思いのままに生きられないと見えるかもしれませんが、いっそう深い恵みの人生に変わっていくでしょう。 新約聖書の言葉が思い出されます。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます。」(Ⅱコリント4:16) 神の御導きに従って生きる時に、私たちは外的には、自分中心の人生から遠ざかるかもしれません。しかし、私たちの内面は主によってますます新たにされていくでしょう。この逆説的な聖書の真理が、私たちを真の勝利と栄光へと導くでしょう。神の御導きによって、私たちが重要だと思っていた物事をあきらめる時に、私たちは本当に勝利する人生を経験することになるでしょう。主がヤコブにくださった逆説の勝利を憶え、キリスト者の人生について悩み、顧みる一週間になることを願います。