イエスだけが一緒におられた。

出エジプト記3章2-5節(旧96頁) 列王記上19章9-13節(旧566頁) マルコによる福音書9章2-13節(新78頁) 前置き 前回の説教で、イエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか。」とお尋ねになりました。世の中の人々はイエスを「洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人」と言っていましたが、主は弟子たちがご自分のことをどう思っているのかお試みになったのです。その時、ペトロが言いました。「あなたはメシアです。」ペトロの答えは正解でした。その答えをご確認なさった主イエスは、待っておられたかのように、メシアであるご自身が苦難を受けて死ぬことになると予告されました。するとペトロは、それを納得せず激しくいさめ始め、主はそんなペトロに「サタン、引き下がれ。」と厳しく叱られました。なぜ、主の死を止めさせようとしたペトロは、主に叱られたのでしょうか。信仰告白とは、知識だけを意味するものではありません。知識としてのペトロの信仰告白はこの上なく完璧でしたが、信仰としてのペトロの告白は不完全でした。主の御心ではなく、自分の思いをより強く主張したからです。真の信仰告白は知識だけで完成するものではありません。知ることと信じることがひとつになる時、すなわち知識(教理)に実践(信仰)が伴う時、信仰告白ははじめて真の信仰告白として成り立つものなのです。前回の説教は私たちに信仰に対する真の意味を教えてくれます。知ることと信じることが一つになること、私たちが追い求めるべき信仰の価値なのです。 1.高い山で変化された主。 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(マルコ9:2)それから6日後、主はペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、ある高い山に登られました。時々、聖書では「山」を神の栄光が現れる場所として描いたりします。今日の本文に登場するモーセとエリヤは、それぞれ自分の時代に神の山である「ホレブ(シナイ)」で神に会い、神はイスラエルの歴史上、最も偉大な王であるダビデにエルサレムのシオンという山をくださいました。また、主イエスが悪魔に3つの試練を受けられた時、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行って誘惑しました。このように聖書においての山は「神のご臨在の場所、聖なる場所、超越的な場所」などを意味する場合があります。(聖書に登場するすべての山がそのような意味を持つわけではないので解釈に注意すること)「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9:2-3)実は、今日の本文に登場する高い山が、正確にどこの山なのかは知られていません。 しかし、イエスが山の上に登られた時、主はこの世にはあり得ない輝かしい姿に変化されました。イエスの服が真っ白に輝くようになったということは、イエスの神聖さが表れたという象徴的なことを意味します。今では人間の世界で肉体を持った人間として生きておられますが、もともとキリストは本質的に神で、聖なる方であり、罪のない方であり、正しい方であり、偉大な方であることを示してくれるのです。また、イエスは山の上で旧約の代表的な2人の人物であるモーセとエリヤと会われましたが、彼らは旧約の始まりと終わりを意味する偉大な預言者として、旧約マラキ書の最後に記してある人たちでした。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラキ4:4-5)すなわち、イエス•キリストは神のご臨在の場所で、神としての神聖さを見せ、旧約時代の代表的な預言者2人に会い、ご自分が真の神であり、真の主であることを示してくださったのです。前回の説教で、自分の思いのためにイエスをいさめたペトロは、このような主の姿を見てどう思うようになったでしょうか?イエスは、自分の手ではどうすることもできない超越的で偉大な方であることを悟ったでしょうか。 2.モーセとエリヤとお会いになった主 「ペトロが口をはさんでイエスに言った。先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(マルコ9:5)しかし、ペトロはそう簡単に変わりませんでした。数日前には、メシアの苦難と死という神の御心を自分の思いに合わせようと主をいさめた彼は、今日は神性を見せたイエスとモーセとエリヤの姿を見てうっとりして、ずっと山の上にいたがっていたのです。ペトロは、実は恐れを抱きました。それでどう言えばよいのかも分からないほどでした。しかし、その中でもペトロは数日前にもそうだったように、今回も自分自身の思いのうち良いものを見出そうとしました。もしかしたら真っ白に輝く厳めしいイエスは、自分が望んできた強力なメシアの姿だったのかもしれません。その時、彼らは雲に覆われ、神の声を聞くことになりました。「これは私の愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)マタイによる福音書では、弟子たちがその声を聞いて、ひれ伏して恐れたと記されています。第二ペトロ1章17-18節にも、この話が記されています。自己中心的に信仰を理解し自分の思いのままにしようとしたペトロは、おそらくこの状況を経験しつつ、神がご自分でイエスの道を導いておられることを、だからこそ、主は人間の手によって左右されないことを改めて悟ったのかもしれません。 信仰の主導権は我々にはありません。我々の信仰の主は神だからです。今日の本文にはモーセとエリヤという旧約の2人の人物が登場します。「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」(出3:2)エジプトの王子として育ったイスラエル人モーセは、ある事件によって40歳の時にエジプトから逃げ、ミディアンで80歳まで羊飼いとして生きました。彼はもう若い年ではありませんでした。40代の頃、血気盛んで権力があった時に、神は彼を召されませんでした。しかし、年を取って彼が力の弱い80歳の年寄りになった時、神ははじめて彼をお呼び出しになったのです。羊を飼っていた彼が神の山であるホレブに登った時、神は燃え上がる柴の炎の中で彼に出会われました。炎の柴は燃え尽きずにあり続けました。その中で神はモーセにエジプトに行って主の民を救えと命じられました。神は燃え上がる柴を通して強いけれども弱いように、弱いようでも強いというように、ご自分を示してくださいました。神は人間の認識ではとうてい理解できない方でした。神は熱くて強烈な炎のさまと、弱くて燃え尽きてしまう柴のさまを通して、猛烈だけれど焼き尽くさず、弱いけれど滅びない、逆説を示し、人間の常識を超える神という存在の神秘を教えてくださいました。 また、数百年後、モーセが神に出会ったホレブ山で預言者エリヤも神に会います。「主は、そこを出て、山の中で主の前に立ちなさいと言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12)当時、邪悪な王アハブと王妃イゼベルに対抗していたエリヤは、命の脅威を受けつつ神の山までたどり着くことになりました。エリヤが神の御前に自分の困難を吐き出したとき、神は彼の前で、激しい風、恐ろしい地震、猛烈な火を見せてくださいました。しかし、主はそれらにはおられませんでした。むしろ、主はその後の静かにささやく声の中におられたのです。以降、主はエリヤを導き、ご自分の御手で邪悪な王と王妃をお裁きになりました。もしかするとモーセとエリヤは、神の強力な姿を望んでいたかもしれません。しかし、神は二人の考えとは全く異なる形でご自分を示してくださいました。神はモーセとエリヤの思いではなく、ご自分の思い通りにお働きになったのです。主はご自分の民の信仰を主権的に導かれる方です。私たちの信仰の主は私たち自身ではなく、まさに主なる神であります。 3。しかし、ただ主だけが一緒におられた。 「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけないと弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(マルコ8-10)神の声に恐れてひれ伏すことになった弟子たちが再び立ち上がった時、雲も神の声も、モーセも、エリヤも消え、ただイエスだけが、彼らと一緒におられました。聖なる神の声、輝くイエスの姿、偉大なモーセとエリヤ。弟子たちはその素晴らしさの中で永遠に過ごすことを望んだのかもしれません。しかし、神はペトロと弟子たちに自分の思いではなく、御子イエスの御言葉を聞くことを彼らに命じられました。そして一瞬、そのすべてが消え、イエスだけが弟子たちと一緒におられるようになったわけです。山を下りるとき、主は再びご自分が死に、復活することを教えてくださいました。しかし、もうこれ以上ペトロは主をいさめず、ただついていくだけでした。彼の心の中に主の死と復活がどんな意味なのか、自分の思いとは全く異なる主の御心があることをぼんやりでも悟ったからでしょう。結局、弟子たちは自分たちの思いと主の御心が違うということに気付き始めたでしょう。 締め括り 神は、誰よりも華やかで強力に、ご自分の御心のままに、この世界の支配がお出来になる方です。しかし、主はこの世のやり方とは全く違う方法でこの世界を治められる方です。最初、ペトロと弟子たちは現実的な権力と名誉を持っているメシア(軍事、政治的な権力者)としてイエスを理解し、また、その権力者メシアの右腕としての自分たち(弟子)という概念で、イエスとその務めと自分たちの立場を理解していたかもしれません。しかし、主は華麗な形ではなく、素朴だが確かな計画を持って、主の御業を成し遂げていかれました。私たちの信仰はこの主の素朴だが確かなご計画を信じ受け継いで、その主に従順に聞きしたがって生きることです。もしかしたら、日本のキリスト教人口が、全人口の5割くらいになり、教会の数も多く、教師も十分にいるのが、私たちの望みであるかもしれませんが、神はご自分の御心によって少ない人口、少ない教会数、少ない教師数であっても日本の教会を大事に保たれるのではないでしょうか。規模が大きいからといって正しいとは言えないからです。私たちの思いとは全く違いますが、神はその御心によって、今も後もこの日本の教会を愛し導いてくださると信じます。今日の本文を通して、他のどんなものでもなく、いかなる状況下であっても私たちと一緒におられる主イエスだけを仰ぐことを願います。私たちにとって本当に大事なことは大きさと華やかさではなく、イエス•キリストに聞き従う真の信仰であるからです。どんなことがあってもイエスだけが私たちと一緒におられ、その御心によって我々sを導いてくださいます。