イエスだけが一緒におられた。

出エジプト記3章2-5節(旧96頁) 列王記上19章9-13節(旧566頁) マルコによる福音書9章2-13節(新78頁) 前置き 前回の説教で、イエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか。」とお尋ねになりました。世の中の人々はイエスを「洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人」と言っていましたが、主は弟子たちがご自分のことをどう思っているのかお試みになったのです。その時、ペトロが言いました。「あなたはメシアです。」ペトロの答えは正解でした。その答えをご確認なさった主イエスは、待っておられたかのように、メシアであるご自身が苦難を受けて死ぬことになると予告されました。するとペトロは、それを納得せず激しくいさめ始め、主はそんなペトロに「サタン、引き下がれ。」と厳しく叱られました。なぜ、主の死を止めさせようとしたペトロは、主に叱られたのでしょうか。信仰告白とは、知識だけを意味するものではありません。知識としてのペトロの信仰告白はこの上なく完璧でしたが、信仰としてのペトロの告白は不完全でした。主の御心ではなく、自分の思いをより強く主張したからです。真の信仰告白は知識だけで完成するものではありません。知ることと信じることがひとつになる時、すなわち知識(教理)に実践(信仰)が伴う時、信仰告白ははじめて真の信仰告白として成り立つものなのです。前回の説教は私たちに信仰に対する真の意味を教えてくれます。知ることと信じることが一つになること、私たちが追い求めるべき信仰の価値なのです。 1.高い山で変化された主。 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(マルコ9:2)それから6日後、主はペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、ある高い山に登られました。時々、聖書では「山」を神の栄光が現れる場所として描いたりします。今日の本文に登場するモーセとエリヤは、それぞれ自分の時代に神の山である「ホレブ(シナイ)」で神に会い、神はイスラエルの歴史上、最も偉大な王であるダビデにエルサレムのシオンという山をくださいました。また、主イエスが悪魔に3つの試練を受けられた時、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行って誘惑しました。このように聖書においての山は「神のご臨在の場所、聖なる場所、超越的な場所」などを意味する場合があります。(聖書に登場するすべての山がそのような意味を持つわけではないので解釈に注意すること)「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9:2-3)実は、今日の本文に登場する高い山が、正確にどこの山なのかは知られていません。 しかし、イエスが山の上に登られた時、主はこの世にはあり得ない輝かしい姿に変化されました。イエスの服が真っ白に輝くようになったということは、イエスの神聖さが表れたという象徴的なことを意味します。今では人間の世界で肉体を持った人間として生きておられますが、もともとキリストは本質的に神で、聖なる方であり、罪のない方であり、正しい方であり、偉大な方であることを示してくれるのです。また、イエスは山の上で旧約の代表的な2人の人物であるモーセとエリヤと会われましたが、彼らは旧約の始まりと終わりを意味する偉大な預言者として、旧約マラキ書の最後に記してある人たちでした。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラキ4:4-5)すなわち、イエス•キリストは神のご臨在の場所で、神としての神聖さを見せ、旧約時代の代表的な預言者2人に会い、ご自分が真の神であり、真の主であることを示してくださったのです。前回の説教で、自分の思いのためにイエスをいさめたペトロは、このような主の姿を見てどう思うようになったでしょうか?イエスは、自分の手ではどうすることもできない超越的で偉大な方であることを悟ったでしょうか。 2.モーセとエリヤとお会いになった主 「ペトロが口をはさんでイエスに言った。先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(マルコ9:5)しかし、ペトロはそう簡単に変わりませんでした。数日前には、メシアの苦難と死という神の御心を自分の思いに合わせようと主をいさめた彼は、今日は神性を見せたイエスとモーセとエリヤの姿を見てうっとりして、ずっと山の上にいたがっていたのです。ペトロは、実は恐れを抱きました。それでどう言えばよいのかも分からないほどでした。しかし、その中でもペトロは数日前にもそうだったように、今回も自分自身の思いのうち良いものを見出そうとしました。もしかしたら真っ白に輝く厳めしいイエスは、自分が望んできた強力なメシアの姿だったのかもしれません。その時、彼らは雲に覆われ、神の声を聞くことになりました。「これは私の愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)マタイによる福音書では、弟子たちがその声を聞いて、ひれ伏して恐れたと記されています。第二ペトロ1章17-18節にも、この話が記されています。自己中心的に信仰を理解し自分の思いのままにしようとしたペトロは、おそらくこの状況を経験しつつ、神がご自分でイエスの道を導いておられることを、だからこそ、主は人間の手によって左右されないことを改めて悟ったのかもしれません。 信仰の主導権は我々にはありません。我々の信仰の主は神だからです。今日の本文にはモーセとエリヤという旧約の2人の人物が登場します。「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」(出3:2)エジプトの王子として育ったイスラエル人モーセは、ある事件によって40歳の時にエジプトから逃げ、ミディアンで80歳まで羊飼いとして生きました。彼はもう若い年ではありませんでした。40代の頃、血気盛んで権力があった時に、神は彼を召されませんでした。しかし、年を取って彼が力の弱い80歳の年寄りになった時、神ははじめて彼をお呼び出しになったのです。羊を飼っていた彼が神の山であるホレブに登った時、神は燃え上がる柴の炎の中で彼に出会われました。炎の柴は燃え尽きずにあり続けました。その中で神はモーセにエジプトに行って主の民を救えと命じられました。神は燃え上がる柴を通して強いけれども弱いように、弱いようでも強いというように、ご自分を示してくださいました。神は人間の認識ではとうてい理解できない方でした。神は熱くて強烈な炎のさまと、弱くて燃え尽きてしまう柴のさまを通して、猛烈だけれど焼き尽くさず、弱いけれど滅びない、逆説を示し、人間の常識を超える神という存在の神秘を教えてくださいました。 また、数百年後、モーセが神に出会ったホレブ山で預言者エリヤも神に会います。「主は、そこを出て、山の中で主の前に立ちなさいと言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12)当時、邪悪な王アハブと王妃イゼベルに対抗していたエリヤは、命の脅威を受けつつ神の山までたどり着くことになりました。エリヤが神の御前に自分の困難を吐き出したとき、神は彼の前で、激しい風、恐ろしい地震、猛烈な火を見せてくださいました。しかし、主はそれらにはおられませんでした。むしろ、主はその後の静かにささやく声の中におられたのです。以降、主はエリヤを導き、ご自分の御手で邪悪な王と王妃をお裁きになりました。もしかするとモーセとエリヤは、神の強力な姿を望んでいたかもしれません。しかし、神は二人の考えとは全く異なる形でご自分を示してくださいました。神はモーセとエリヤの思いではなく、ご自分の思い通りにお働きになったのです。主はご自分の民の信仰を主権的に導かれる方です。私たちの信仰の主は私たち自身ではなく、まさに主なる神であります。 3。しかし、ただ主だけが一緒におられた。 「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけないと弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(マルコ8-10)神の声に恐れてひれ伏すことになった弟子たちが再び立ち上がった時、雲も神の声も、モーセも、エリヤも消え、ただイエスだけが、彼らと一緒におられました。聖なる神の声、輝くイエスの姿、偉大なモーセとエリヤ。弟子たちはその素晴らしさの中で永遠に過ごすことを望んだのかもしれません。しかし、神はペトロと弟子たちに自分の思いではなく、御子イエスの御言葉を聞くことを彼らに命じられました。そして一瞬、そのすべてが消え、イエスだけが弟子たちと一緒におられるようになったわけです。山を下りるとき、主は再びご自分が死に、復活することを教えてくださいました。しかし、もうこれ以上ペトロは主をいさめず、ただついていくだけでした。彼の心の中に主の死と復活がどんな意味なのか、自分の思いとは全く異なる主の御心があることをぼんやりでも悟ったからでしょう。結局、弟子たちは自分たちの思いと主の御心が違うということに気付き始めたでしょう。 締め括り 神は、誰よりも華やかで強力に、ご自分の御心のままに、この世界の支配がお出来になる方です。しかし、主はこの世のやり方とは全く違う方法でこの世界を治められる方です。最初、ペトロと弟子たちは現実的な権力と名誉を持っているメシア(軍事、政治的な権力者)としてイエスを理解し、また、その権力者メシアの右腕としての自分たち(弟子)という概念で、イエスとその務めと自分たちの立場を理解していたかもしれません。しかし、主は華麗な形ではなく、素朴だが確かな計画を持って、主の御業を成し遂げていかれました。私たちの信仰はこの主の素朴だが確かなご計画を信じ受け継いで、その主に従順に聞きしたがって生きることです。もしかしたら、日本のキリスト教人口が、全人口の5割くらいになり、教会の数も多く、教師も十分にいるのが、私たちの望みであるかもしれませんが、神はご自分の御心によって少ない人口、少ない教会数、少ない教師数であっても日本の教会を大事に保たれるのではないでしょうか。規模が大きいからといって正しいとは言えないからです。私たちの思いとは全く違いますが、神はその御心によって、今も後もこの日本の教会を愛し導いてくださると信じます。今日の本文を通して、他のどんなものでもなく、いかなる状況下であっても私たちと一緒におられる主イエスだけを仰ぐことを願います。私たちにとって本当に大事なことは大きさと華やかさではなく、イエス•キリストに聞き従う真の信仰であるからです。どんなことがあってもイエスだけが私たちと一緒におられ、その御心によって我々sを導いてくださいます。

日常においての復活を考える。

イザヤ書60章1-3節(旧1159頁) ヨハネによる福音書11章25-26節(新189頁) 今日は主イエスの復活を記念する復活節です。今日、私たちはイエス・キリストの復活を記念し、一緒に喜ぶためにここに集いました。 私たちが主と崇め、告白するイエス·キリストは死から復活された方です。その方は罪のため、苦難を受け、死んでいくべきすべての罪人のために天から来られ、その罪人の代わりに神の罰を受け、死に、人間の罪と苦しみと死を担ってくださいました。イエスの死によって罪人は罪と死の苦しみから自由になり、神の恵みと救いを得ることができるようになったのです。そしてイエスはその死からよみがえられ、その方を信じるすべての者に死の権能に勝利する信仰と希望を与えてくださいました。この復活のイエスを喜び、私たちにも復活を与えてくださった主を覚えて生きていきたいと思います。 1.死 人間はひょっとしたら死ぬために生まれるのかも知れません。すべての人が年を取って老いていき、いつか必ず来る自分の最期を悩むということがそれを証明します。あの有名な一休宗純(1394~1481)はこう語りました。「世の中は起きてフンして寝て食うて後は死ぬるのを待つばかりなり。」この室町時代の有名な僧は、人の人生がこのように無駄なもので、結局、死んで終わるということを一行の文章で表現したのです。いくら一生懸命生きるといっても、結局、死によって人生が終わるのは定まっているからです。 7年くらい前、昭和時代の文化に深い興味がわき、1970-80年代の日本の歌手や俳優について探求したことがあります。その中でも1980年代の「セーラー服と機関銃」という歌と映画で有名だった薬師丸ひろ子さんが特に好きでした。1978年にデビューして一時かなり人気の俳優兼歌手で、去年は紅白歌合戦にも出演しました。「さようならは別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束」この歌をご存知の方もおられるでしょう。そんなある日、番組で50歳を過ぎてコンサートを準備している彼女を見ることになりました。もちろん50代はまだ若いとは思いますが、薬師丸さんの少女の姿だけを覚えていた私は、彼女の中年の姿を見て、かなりショックを受けました。時が経ち、かわいい少女は中年の女性になっていたのです。 その時、私は老いていくということについてじっくり考えさせられました。人がいくら熱心に生きていっても結局は年を取って老いてゆき、100年にも至らない短い人生を経て、死の問題を解決できず死んでいくということが本当に悲しく思いました。そういう意味で、この世は喜劇というより悲劇に近い舞台かもしれないと思いました。文学で喜劇と悲劇を区切る目安は、悲しい物語、楽しい物語ではなく、主人公が問題を解決できず死んで終われば悲劇、主人公が生き残って問題を解決すれば喜劇だと言われます。いくら悲しい物語だといっても主人公が生き残れば喜劇、いくら楽しい物語だと言っても主人公が死ねば悲劇になるのです。そういう意味で人間は死という人生最大の問題を解決できないまま、結局その死によって生を終える悲劇の主人公であるかもしれません。いくらお金持ちで、権力者で、名誉のある者であるといっても、人間は結局、死を迎えるからです。聖書もこの死を人生の最大の問題として指し示しています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」(ヘブライ9:2) つまり、人は無条件に一度は死ぬしかないということです。ところで、聖書は死についてそれ以上のことを語ります。死んでも生きている人がいれば、生きていても死んでいる人がいるということです。 2.聖書が語る死と生命 「その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27) 聖書は人が一度死ぬことは定まっていると言います。しかし、それだけで終わりません。その後には神の裁きが残っていると語ります。私たちは裁きという言葉を聞くと裁判所を思い浮かべ、つい恐ろしさを感じがちです。しかし、「裁き」のギリシャ語の語源は「区別する」という意味を持っています。聖書で裁きと訳された原文は法定用語としても使われますが、日常用語としても使えるものです。つまり、すべての人が死んだ後、神の公正な区別のもとで、死後の歩みが定まるということです。聖書はここで、神に正しい人として区別された者は死後にも神と一緒に生き、正しくない人として区別された者は死後に見捨てられると語ります。聖書は、真の死は肉体の死だけを意味するのではなく、世のすべてを区別なさる神に見捨てられることであると述べているのです。したがって、死は老いて衰えて死ぬ肉体の死だけを意味しません。神を離れて神なしに生き、主への信仰も、主との交わりも持たず、神と一緒に歩まず生きていき、結局、神に「私は君のことをまったく知らない」と見捨てられることが、まさに聖書が語る本当の死なのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-26) 今日の本文でイエスがご自分に対して「私は復活であり、生命である」と言われたのには、まさにこのような意味が含まれているのです。聖書によると、人の生と死をお裁きになる神は、イエスという「神と人の間におられる唯一の仲裁者(仲保者)」を送ってくださったと言われます。神を知らない人や、神に逆らって生きてきた人でも、神から遣わされた仲裁者であるイエスを信じ、その方と一緒にいれば、神の正しい判断によって彼は正しい人として区別されるのです。聖書はこれを救いと言います。そして、ここで「正しい」という意味は、神の御旨に適うという意味です。また、イエスと神への信仰で生きる人は、死後にも真の喜びを持って神と一緒に生きていくでしょう。そして、最終的に神がお定めになった終わりの日にはイエス・キリストが死から復活されたように、イエス・キリストを信じる人も最も完全で美しい姿で死から復活するでしょう。聖書が語る本当の死とは、肉体の死を超える神との関係が断絶した状態を意味します。そして、聖書が語る命とは神との関係が回復し、生きても死んでも神と一緒に歩んでいくことです。イエスはこの永遠の命、神と人の和解のためにこの地に来られ、その和解をご自分の死と復活を通して成し遂げてくださいました。したがって、イエスを信じる者は死んでも生きている者として神に認められ、いつかイエス•キリストのように死から復活して永遠に神と生きていくでしょう。 3。日常においての復活を考える。 今日の説教はここで終わってもいいかもしれません。聖書が語る死、命、救い、そして復活について語り尽したと思うからです。しかし、皆さんと一緒に日常を生きている牧師として、神学的かつ哲学的な話ばかりすることでは、何だか物足りないと思います。もっと実践的な話をして説教を終わりたいです。イエスによって死に勝ち抜き、命を得て終わりの日に復活するという話は本当に重要な教えです。しかし、それだけで満足して生きることには、果たしてどういう意味があるでしょうか。日本キリスト教会の大信仰問答には、復活についてのこういう箇所があります。「問97:イエス・キリストの復活を通して、この世に何がもたらされましたか。答:罪によって死んだ者を生かし、始祖の堕落によってまったく損なわれてしまった神のかたちを、再び創造されることによって、新しい時代を来たらせてくださいました。」私はここで「新しい時代を来たらせてくださる」という表現に注目しました。イエス·キリストの復活がこの世に新しい時代をもたらすということです。つまり、イエスの復活は、死後に私たちに与えられる新しい命と幸いだけを意味するものではないということです。聖書と説教を通して、復活について学び信じるようになったら、私たちは必ずその聖書の言葉を自分の人生に適用し、主のお導きに従って実践して生きるべきです。そういうわけで、今日の説教の題も、命と救いと復活だけで終わるのではなく、「日常においての復活を考える」なのです。 イエス·キリストへの信仰によって死の恐怖から逃れ、命を得て、復活の希望を抱くことになった者なら、この世の普通の人たちのようにただ自分の欲望にだけ従って生きてはなりません。イエス·キリストが私たちを死の恐怖から救ってくださり、私たちに命の喜びを与えてくださり、私たちに復活の希望を与えてくださったように、私たちはイエス·キリストの手と足となって、この世で愛を実践し、イエスの復活による新しい時代がこの世で成し遂げられるように、キリストの民にふさわしく生きていくべきです。イエス·キリストの到来を告げ知らせた洗礼者ヨハネは、このように語りました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだなどという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(ルカ3:8,11)彼は実践的な信仰を強調したのです。真の復活のある人生は、ただ復活を信じることで終わりません。 御言葉を通して、私たちにくださる聖霊のお導きをよくわきまえ、神と人を愛し、キリストにならって主の忠実なしもべとして生きていくのです。キリストによる復活を信じる人なら、キリストによる復活の命にふさわしい人生を生きていくべきなのです。私はそのような生き方がまさに復活のある人生の真の意味ではないかと思います。 締め括り 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ60:1-3)神は旧約の民であったイスラエルに、起きて光を放てと命じられました。つまり、主の民にふさわしく正しく生きることを命じられたということです。この命令は、今を生きている私たちにも同様に当てはまる言葉です。特に、旧約のイスラエルと比べものにならないほど、キリストによって恵まれた私たちは、さらに光を放って生きるべきです。イエスの民として神と隣人を愛し、善を追い求め、悪を退けることで、私たちは一生を通して復活の権能を輝かして生きるべきです。この復活節の礼拝が、そういう人生を誓う機会になりますようにしたいものです。主の復活を喜び、復活のある人生を誓って生きる皆さんに三位一体なる神の豊かな愛と恵みが満ち溢れますように。主の祝福を祈り願います。

十字架のイエスを仰ぎ見る。

イザヤ書53章1-7節(旧1149頁) ガラテヤの信徒への手紙2章19下-20節(新345頁) 前置き 今日から受難週が始まります。多くのキリスト者が、この受難週を通してキリストの苦難を思い起こし、自分の罪を悔い改め、栄光の主の復活を記念します。しかし、私たちは主の苦難を記念していても、その苦難についてよく理解していません。それは、人間が想像できるレベルの苦難ではなく、言葉では言い表せないほどの苦難であり、被造物が計り知れないほどの大きく、深く、広い意味を持っているからです。主の苦難を説教している私さえも、主の苦難を完全に理解することはできません。もしかすると、私はイエスの苦難がまったく分からない人であるかもしれません。しかし、それでも我々は主の苦難を理解できる範囲で学び、記念していくべきでしょう。私たちが主イエスの苦難をすべて理解するすべはないでしょうが、それでもその苦難の理由は、ほかの誰でもない私自身という罪人の救いのためだからです。今日の説教を通して主の苦難を学び、黙想して過ごす一週間になることを心から願います。 1.イエスの苦難について 説教を始めるにあたり、まず主がなぜ苦難を受けられることになったかを考えてみたいと思います。初めに神が天地を創造された時、神はその完成をとても喜ばれました。また、ご自分にかたどって人間を創り、何よりも満足されたのです。この世の創造そのものが、神の形を持って創られた人間への贈り物のようなものだったからです。しかし、人は自分の欲望のために神を裏切って罪を犯し、その罪の結果、神との関係が絶えるようになってしまいました。永遠の命である神と断絶することになった人間に訪れたのは永遠の死であり、まさにその永遠の死から人間の苦難は始まったのです。神と一緒に生きるために創造された人間が、神から離れることになったため、人間の苦難は必然的なものでした。神に背いた者に幸せはあり得ません。ただ苦難が待っているだけです。けれども、神は苦難の中の人間を見捨てられず、その人間を赦してくださるために自ら人間の姿で来られました。私たちはその方を私たちの主イエス•キリストと信じています。イエスは罪人を苦しめる永遠の死による苦難、つまり神との断絶という苦難を自らの体で代わりに背負って、罪人を救うためにこの世に来られたのです。 そういうわけで、キリストは罪人が担うべき苦難と侮辱と断絶を代わりに担当してくださいました。三位一体なる神は、三つにいまして一つなる神です。御父、御子、聖霊は、永遠の昔から永遠の未来まで、一つであり、絶対に断絶できない関係でおられます。お互いへの信頼と愛にあって、この世を導いていかれる方なのです。しかし、肉となって来られた神、御子が人間が担うべき苦難を、代わりに背負い、十字架で死んでいかれた時、神は人間の救いのために三位一体の関係から御子を断ち切って地獄のような苦難に投げかけられました。「陰府に下り」という使徒信条の告白は、このような神とキリストの断絶による苦難を言い表す表現なのです。私たちもこの世を生きつつ、苦難に遭う時があります。心の苦難、肉体の苦難など、数多くの苦難が私たちの人生にあります。しかし、我々の苦難と主の苦難は質的に全く異なるものです。神は私たちの苦難に対しては、イエス•キリストという仲保者をくださり、私たちと一緒にいて守ってくださいますが、イエスの苦難に対しては、徹底的に背を向けて死へと導かれました。我々の苦難には、仲保者がいますが、キリストの苦難には仲保者はいません。つまり、主イエスはすべての苦しみと痛みを徹底的に経験してくださったという意味です。罪人のために、そのすべての苦難を経験なさったキリストは、最終的に死の権能に勝利され、我々の救い主となってくださったのです。 ここで、私たちが誤解してはならないことがあります。イエス•キリストの苦難を、ただの肉体の苦難として受け止める誤解です。イエスの苦難は聖晩餐の後、オリーブ山でローマ兵士に逮捕された時点から始まったものではありません。キリストの苦難は、父がキリストをこの世に送ろうと計画された時から、キリストが飼い葉おけの赤ちゃんに生まれる前から、もしかしたら人間が堕落して神に追い出された時から始まったのであるかもしれません。神が人間になることそのものが、まさに苦難なのです。それだけに主は罪人を愛し、進んで苦難を受け、命を捧げられたのです。したがって、イエス•キリストの苦難は、私が受けるべき苦難であり、イエス•キリストが神に見捨てられたことは、私の代わりに見捨てられたということを、私たちは必ず覚えておくべきです。そして、そのすべての苦難を乗り切って復活されたイエス•キリストは永遠に変わらない私たちの仲保者として、今も後も私たちと一緒におられる方なのです。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5-6) 2.十字架-苦難が栄光になった象徴。 キリストが、このように私たちの代わりに苦難を受けられたことにより、もはや私たちの苦難は、私たちを滅ぼす死の脅威としての苦難ではなく、キリストの御守りと御愛の中で乗り越えることが出来る苦難となりました。新約聖書では、こういう苦難(キリストの支配下で受ける苦難)を栄光のための必須要素としてまで描いているほどです。キリストはすでに死の苦難に打ち勝ち、主の恵みのもとで我々と一緒におられます。ですので、私たちの苦難は私たち自身を成長させる訓練にはなるものの、私たちを滅ぼす死の道具にはなれません。主が苦難の概念を変えてくださったからです。私たちはこれを十字架から学ぶことが出来ます。元々十字架はローマ帝国の処刑道具だったと言われます。 特に、ローマ皇帝や政権を脅かす政治犯や、ローマ市民を殺そうとしていた奴隷に下された残酷な刑罰で、長い時間、苦痛を与えつつ最大限に死なないようにし、人間の精神的、肉体的な限界まで追い詰めた後殺す、最もひどい刑罰でした。これからの内容はけっこう残酷ですので、ご理解をお願いします。まず、十字架刑に処せられる死刑囚は、気絶するまで厳しくムチに打たれました。この時、ムチの先端には動物の骨片や、鋭い鉄片などがついていて、一度打つたびに罪人の肉片が剥がれ落ち、周りは血まみれになるほどでした。3世紀の歴史家エウセビオスの記録によると、このようなムチ打ちによって、ひどい場合は血管や筋肉が剝きだされ、さらにひどい場合は腹が裂かれて死ぬこともあったと言われます。 そのため、死刑囚の家族はムチを打つ執行人に賄賂を渡すほどだったそうです。優しくしてほしいという意味ではなく、苦痛を減らすために早く死なせてほしいという意味でした。すでにぼろぼろとなった死刑囚は、18-50Kgの横型の大きな木の棒を背負って刑場まで歩いていきました。その時も、ムチ打ちは休まず続きました。刑場に到着した死刑囚は、5-7インチの金釘に手首とかかとが刺されました。背負っていた木の棒は、その後、さらに大きな縦型の棒に固定され、死刑囚は十字架につけられることになります。すると、死刑囚は体重を支えるために体を動かし、その時、手首とかかとから血が噴き出します。この時、感じられるめまいは想像を超え、同時に激しい苦痛がして死刑囚が気絶することもあると言われます。そんな状態で、死刑囚は死ぬまでパレスチナの乾燥した気候にさらされ、徐々に枯れていくかのように死んでしまいます。そして最終的に死刑囚が死んだら生死を確認するために足の骨を折りますが、その場合、生きている死刑囚も足の骨が折れるショックによって絶命するのです。残酷な描写で申し訳ございませんが、これが実際にローマ時代に行われた十字架刑でした。何の罪もない主イエスは、罪人の救いのためにこういう十字架に処せられ、死んでくださったのです。 ところで、この十字架刑は旧約の焼き尽くす献げ物に非常によく似ています。イスラエルの民が焼き尽くす献げ物のため神殿に上る際、傷のない献げ物(雄牛、雄羊、雄山羊、鳩)を持ってくると、祭司は彼の手を生け贄の頭に乗せ、彼の罪を犠牲に転嫁し屠らせました。そして、犠牲の血をとった祭司は、その血を祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基に絞り出し、肉は完全に焼き尽くして神に捧げました。それは民の変わりに犠牲を屠り、民の罪を贖う意味を持っていたのです。主イエスもご自分の民の贖いのために、ご自分の血を流し、十字架につき、まるで燃え尽くされるようにパレスチナの乾燥した気候の中で死んでいったのです。もともと十字架は呪いと恥の象徴でしたが、主イエスはこの十字架の上で人類のすべての罪を担われたのです。その後、時が経ち、キリスト教はローマ帝国の国教となり、十字架も処刑道具からキリストの贖いと恵みの象徴と変わったのです。つまり、イエスは十字架で罪人の代わりに苦難を受け、焼き尽くす献げ物のように死んでくださいました。この意味が変わった十字架のように、主はご自分の苦難を通して、私たちの苦難を主の栄光に変えてくださったのです。主の苦難は、ただのロマンチックな救いの物語ではありません。 私たちの救いのための主の壮絶な犠牲と愛の物語なのです。 締め括り 「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) キリストは、私たちの救いのために苦難を受けて死に、私たちの平和のために復活されました。そして、キリストは私たちを主の苦難と十字架にお招きになります。キリストはすでに十字架で苦難を受け、救いを成し遂げられましたので、もはや我々の苦難は死に至る苦難ではありません。そして、十字架はもはや恥と死の十字架ではありません。私たちは主の苦難と十字架を黙想し、主の苦難から学び、主と共に生きていきます。私たちが苦難に遭った時、主はその苦難の中におられ、私たちが十字架を仰ぎ見る時、一緒にその十字架を背負ってくださるでしょう。主の苦難が私たちを正しい道へと導き、主の十字架は私たちの義を証明するでしょう。今年も受難週が始まりました。私たちはこの一週間をどう生きていくべきでしょうか。今日の本文を憶えて、苦難と十字架の主を謙遜と愛をもって従って生きたいと思います。

主イエスの苦難を記念して。

ヨエル書2章12-14節(旧1423頁) マタイによる福音書26章17-30節(新52頁) 前置き 今年の復活節も、もう2週間後になっています。そして今日はレント、つまり四旬節の5週間目です。私たちは、毎年の四旬節と復活節を通して、イエス•キリストの苦難と復活と救いを記念します。主イエスが私たちのために苦難を受けられたということは、どういう意味でしょうか? また、主の復活は何を意味するでしょうか。そして、私たちのための救いとは何でしょうか? 復活については復活節記念礼拝を、救いについては今後の多くの説教を通して、また考えてみる予定ですので、今日は主イエスの苦難と、その苦難を記念するいくつかの理由について話してみたいと思います。付け加えて、私たちが今日、あずかろうとしている聖餐の意味についても部分的にでも考えてみましょう。   1.主の時を記念する。 「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうかと言った。イエスは言われた。都のあの人のところに行ってこう言いなさい。先生が、わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をすると言っています。」(17-18)過越祭と除酵祭は出エジプト記の有名な物語である、神の十の災いの中の「長子の裁き」(エジプトへの神の最後の災い)からイスラエルだけが救われたことを記念する旧約の祭りです。 過越祭と除酵祭はイスラエルの暦においてのニサンの月(現代の3、4月頃)の14日目と15日目の日のことで、連続している2日間です。イスラエルは一日が始まる時が、前の日の日の入りからであると見なしていたため、過越祭の夕方は、即ち除酵祭の始まりを意味していました。そいうわけで、人々は過越祭を除酵祭の一日目のように考える傾向があったと言われます。「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。」(出12:7-8)人々は、過越祭に生贄の羊をほふって、その血を入り口の二本の柱と鴨居に塗って神の裁きを免れ、その肉は日没後、除酵祭になった時、酵母のないパンと一緒に食べました。我々の主であるイエスは、まるでこの過越祭の羊の血と肉と除酵祭の酵母のないパンのように、主を信じる民の救いのためにご自分のすべてを与えてくださった方です。我々が聖餐を大切に守る理由も、このような主の苦難と救いを聖餐を通して記念するためです。 イエスは、この過越祭が終わって除酵祭が始まる時、ご自分のすべてをくださるために弟子たちと最後の晩餐を持たれました。その前に主は「わたしの時が近づいた。」と言われました。ここで言う「時」とは、単なる物理的な時間を意味することではありません。ギリシャ語には2つの時間に関する概念があります。それはクロノスとカイロスです。クロノスとは、私たちが意識している物理的な時間を意味します。本日の礼拝は10時15分から始まっており、11時20分頃に終わる予定です。このような単純な意味としての時間が、クロノスです。カイロスとは、例えば皆さんが大切な人に出会った時など、人生にあって特別な意味の時間、つまり決定的な瞬間としての時間を意味します。今日、主イエスが言われた「私の時」とは、どの時間を意味するでしょうか? それはカイロスです。このカイロスは消滅する時間ではありません。「今は午前10時半だが、次は夜10時半である」というような流れる時間ではなく、人が恋人や配偶者や子供と初めて出会った時に感じた特別な記憶が、何十年後にも特別な記憶として残っているように、カイロスは変わらない意味を持つ特別な時間なのです。神はご自分の決定的かつ特別なカイロスのために主イエスをお遣わしになりました。そして、神のカイロスが到来した時、イエスを十字架の生け贄としてくださり、ご自分の民、つまり私たちを救ってくださったのです。 イエスは神がお定めになった、そのカイロスの時間がやってきた時、人類の罪を赦してくださるためにご自分の尊い命を進んで捧げてくださいました。これによりイエスは、私たちの過去と現在と未来の、すべての時間に存在する、恐ろしい罪をご自分の時間、カイロスの中で解決してくださいました。そして、主のカイロスは人間のそれとは違い、決して変わらない絶対的な時間ですので、今後も永遠に変わりません。だから、主イエスの苦難による、私たちの救いは永遠に変わらないものです。イエスは2000年前におられた古代の方であり、私たちは現代を生きる現代人であると、かけ離れて感じられると思います。しかし、イエスはそのカイロスという絶対的に変わらない決定的な時間の中で私たちの救いを守り、保たせてくださいます。ですので、主は終わりの日に私たちが主によって復活させられ、神と永遠に生きる時まで、私たちを絶対に諦められず導いてくださるでしょう。主を信じる私たちは、すでにイエス・キリストの絶対的かつ変わらない永遠な時間であるカイロスの中で生きているからです。四旬節はこのような主の時間を記念する期間でもあります。主の苦難によって、私たちが主の時間の中で生きるようになったということ、そのために私たちの肉体が死んでも、私たちの存在は主の懐にあり、最後の日にまた生き返るだろうということ。四旬節の期間、私たちはその永遠の命を与えてくださったキリストと、その方のカイロスを記念するべきです。 2.「イエスが主であることを記念する。」 「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。弟子たちは非常に心を痛めて、主よ、まさかわたしのことではと代わる代わる言い始めた。 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、先生、まさかわたしのことではと言うと、イエスは言われた。それはあなたの言ったことだ。」(21-25) 主イエスは過越祭の食事の途中、弟子の中の誰かがご自分を裏切るだろうと言われました。その時、弟子たちは「主よ」という表現をしました。しかし、そのうちのイスカリオテのユダだけは「先生」と表現しています。私たちは「主」という表現を、まるで口癖のように何気なく使用したりします。しかし、主と先生とは全く違う重さを持っています。主とは「キュリオス」というギリシャ語で「皇帝、王、絶対者」の代名詞として使う呼称です。しかし、先生はヘブライ語で「ラビ」です。皆さんは私をキム先生とは呼んでおられますが、私を「主なるキムさま」とは呼ばれません。当たり前でしょう。私は聖書を教える牧師ではありますが、人を救う主には絶対になれないからです。主と先生の違いはこれほど、明白なのです。多くの人々がイエス•キリストを知ってはいますが、主に主として仕える人は少ないのです。私たちは、主イエスに「私の主」として仕えているでしょうか? それとも「私の先生」として仕えているでしょうか。イエスを適当に偉大な先生として扱う私たちではなく、私たちのすべてとも代えることの出来ない、かけがえのない大切な存在として、私の救い主、私の王、私の主としてイエスを記念する四旬節の期間にしたいものです。 3.霊と肉の救い主であることを記念する。 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(26-28) 私たちは、なぜ聖餐の杯とパンを「食べる」のでしょうか? キリスト教は霊的な宗教であり、ヨハネの福音書によると神は霊ではありませんか。しかし、神は霊と肉と両方とも創造された方です。神がこの世を創造なさった時、主は世の中の秩序を正されると共に肉体を持った物質的な存在をも創造されました。そして、その最後には、人間という肉体を持った存在を造られたのです。そして神はその被造物すべてをご覧になって善しとされました。我々は、神の御手によって霊と肉を持った存在として生まれました。そういうわけで、神は私たちの肉体も大事にされます。たとえ、人間の罪によって人間の肉体が欲望を追い求めたり、悪に流れやすくなったりしても、神はご自分が、その御手で造られた肉を大事にされるのです。もちろん、その前提は、主に赦され、罪から解放された存在としての肉のことです。 その罪を赦してくださるために、神は自ら肉となって、キリストとして来てくださり、その肉体を持ったキリストを通して、肉体を持って生まれた私たちを罪から解放してくださったのです。主が私たちに「食べる」という行為を通して、主イエスを記念させられる理由も、このような理由があるからです。神は霊だけを大事にし、肉は不浄に扱われる方ではありません。霊と肉、両方とも主に創造されたからこそ、神は私たちの霊肉ともに大事にされるのです。私たちは、食べる行為である聖餐を通して、神が私たちの霊だけをお救いになった方ではなく、肉体をもお救いになった方であることが分かり、信じるようになるのです。神は私たちのすべてを主イエスを通して救ってくださったのです。ですから、私たちはイエスを霊的な救い主としてのみならず、肉の救い主であることも信じるべきです。つまり、霊と肉を含む私たちの人生のすべてにおいて、主が愛し、導き、救いを望んでおられることを忘れないようにしたいものです。主に救われた私たちは、死後に楽園に入ることだけを考えてはなりません。肉体を持って生きている今この瞬間も、私たちは主と共に歩む神の国を生きていることを肝に銘じて生きるべきです。だからこそ、四旬節を通して、今、私たちの日常について顧みる時間を持つべきでしょう。私たちの霊と肉は、いずれも主によって救われたからです。 締め括り 「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(29) 時間の関係上、やや飛躍的な説明になってしまうでしょうが、主イエスがおっしゃった29節の言葉の意味は「これから私はあなたたちの救いのために死ぬ。」と解釈が出来ます。主イエスは私たちの罪を赦し、私たちを新たにしてくださるために死んだお方です。そして、主はぶどうの木に象徴される、まことの喜びの中で私たちを復活させ、永遠に治めてくださるでしょう。この四旬節の期間が、その主の苦難と救いを憶える時間であることを願います。「主は言われる。今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」(ヨエル2:12-13)この期間を通して形式的な宗教行為から脱し、真に自分自身を振り返って、罪を痛感し、悔い改め、主イエスの苦難と救いを黙想する時間としたいものです。主の苦難があったからこそ、我々の救いもあるという、変わらぬ真理を憶えて生きたいと思います。神の恵みがレントを通して、主を愛する民の上に豊かにありますように。