まことの信仰の告白 

イザヤ書45章5-6節(旧1135頁) マルコによる福音書8章22-9章1節(新77頁) 前置き 前回の説教では、イエスが弟子たちにファリサイ派とヘロデのパン種に注意させられた物語について学びました。いくらイエスの弟子であるといっても、イエスの御心に気付くことができず、世の流れのままに従って生きる人は、ファリサイ派やヘロデのパン種のような人生を生きる人になってしまいます。ここで、ファリサイ派とヘロデのパン種とは何でしょうか。自分の価値基準に陥り、神と隣人に仕えず、自分自身を中心として生きる、主の御言葉への実践がない生き方です。イエス·キリストを信じる人は、キリスト教という宗教の儀式や教理、そして自分の価値基準だけにはまり込んで生きるのではなく、私たちが属しているキリスト教の教えと教理のまことの源であるキリストに倣い、主イエスの価値基準を受け入れ、神と隣人への愛を追い求め、実践して生きるべきです。つまり「キリスト教」の「教」を強調するのではなく「キリスト」を強調して生きる人なのです。それこそがキリスト者のあり方であり、真に目覚めている人の生き方なのです。今日は、私たちが追求すべき真の信仰告白とは何か、前回の御言葉とつなげて考えてみたいと思います。 1.信仰に目覚める段階 前回の新約本文の最後には、イエスがベトサイダの村で盲人の目を治してくださる出来事が記してありました。時間の関係で、短く取り上げましたので、今日はもう一度、盲人の物語について探ってみたいです。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、何か見えるかとお尋ねになった。」(23)イエスが盲人を連れ出して、目につばをつけ、按手をなさると盲人の目が見えるようになりました。ここで「目につばをつけた。」という表現は、ややともすれば、迷信的な治癒行為に見えるかも知れませんが、一部の学者は、つばをつける行為を「主が盲人の罪をとがめられる象徴的な行為」と理解しました。つまり、盲人の悔い改めを促す象徴的な意味合いだったということです。悔い改めと罪の赦しがない限り、主が癒してくださるといっても、その真の意味を生かすことができないからです。盲人の目に唾をつけてから、主は盲人の目に両手を置かれ、治してくださいました。ところが、なぜか盲人の目はいっぺんに見えることにはなりませんでした。主はたった一度の按手で目を治せる方だったはずですが、どうして何回にもわたって盲人の目を治してくださったのでしょうか。「すると、盲人は見えるようになって、言った。人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(24) ここで「見えるようになった。」という表現を直訳すると「見上げる」という表現となります。目が開いた盲人が、世界を見るようになったという意味です。ところが「木のような何かが歩いているように見える」だけで、明確には見えませんでした。 ここで「見あげる」と訳されたギリシャ語は「アナブレポ」です。何の悟りも伴わず、ただ何かを「見あげる」という意味なのです。「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」(25)主がもう一度、按手をなさったとき、彼の目は「よく見える」ようになりました。これは「ディアブレポ」というギリシャ語です。これを直訳すると、「見抜く」という意味になります。そして最後に、「はっきり見える」という表現は「エムブレポ」です。直訳すると「見分ける」という意味となります。つまり、24-25節の盲人の目が治る際に、それぞれ違う意味の3つの「見る」というギリシャ語が使われたということです。私は、それらを通して、信仰の目覚めの三段階について考えてみました。主を主として信じず、ただの偉人としてだけ認識する「アナブレポ」、主の御言葉を聞いて信仰を込めて求める「ディアブレポ」、主の御心に気付き、答えて生きる「エムブレポ」。私たちの信仰はこれらの三つの段階を経て成長していきます。教会に通い、礼拝に出席し、主の御名を唱えて祈るからといって、私たちの信仰が完全になるとは言えません。イエスの御心とは何かを見抜き、見分け、悟って、主への信仰で、その御心を受け入れ、実践して生きる段階になってからこそ、真の信仰者として認められるでしょう。私たちの信仰はいかがでしょうか? アナブレポ、ディアブレポ、エムブレポのうち、私たちは、どの段階に立っているでしょうか。 2.主イエスとは誰なのか? ベトサイダで盲人を癒してくださった後、イエスは弟子たちと再び異邦のフィリポ・カイサリア地方に足を運ばれました。主はそこで弟子たちにお尋ねになりました。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに人々は、私のことを何者だと言っているかと言われた。」(27) これまで弟子たちは、主の御旨にそぐわない行動を少なからずやってきました。異邦人を差別し、主の御心に気づかず、ファリサイ派の人々のように本質から外れた愚かな姿を見せてきたのです。イエスの弟子として呼び出され、主と常に連れ立った者たちでしたが、彼らの姿はイエスの弟子にふさわしくない状態でした。今日、主は、そのような彼らの信仰と認識を試してみようとされました。「弟子たちは言った。『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(28) まず弟子たちは、「世間の人々がイエスをエリヤ、洗礼ヨハネ、旧約の預言者と言っている。」と語りました。エリヤは旧約の最も代表的な預言者であり、マラキ書で、また遣わされると預言された者です。つまり、人々はイエスがエリヤのように神からの偉大な預言者であると認識していたのです。しかし、マラキ書で預言されたエリヤとは、主ではなく、主の道を準備する洗礼者ヨハネを示すことでしたので、この認識は間違ったものです。 人々はイエスについてはっきり分かっていなかったということです。 そこで、主は弟子たちの考えを尋ねました。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」(29)すると、ペトロが答えました。 「あなたはメシアです。(油注がれた者、キリスト、救い主)」 今、私たちが生きているこの世では、イエスはどのように理解されているでしょうか?おおむね、この世ではイエスを世界三大聖人の一人としてよく認識しています。(イエス、孔子、釈迦)それでは、私たちはイエスを、どのように告白しているでしょうか? 私たちは毎週、使徒信条などの信仰告白を通して、主が救い主、すなわちキリストであることを告白しています。ペトロの答えは正解です。「主はキリスト」です。マタイによる福音書では、もっと詳しく書いてあります。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16) 私たちもペトロのようにイエス・キリストへの正しい信仰の告白をするべきです。ところで、今日の本文に一つ不思議な点があります。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(31-33) ペトロが見事な信仰の告白をしたにもかかわらず、主は彼をサタンと叱られたのです。 3.正しい信仰には知識と実践が伴うべき。 ペトロはよほど悔しかったに違いありません。主をメシアと告白し、主の身柄を案じただけなのに、主に叱られたからです。サタンだなんてひどすぎでしょう。しかし、私たちはここでのペトロの心中をよく見分けるべきです。ペトロは主に「諫め」ました。 この「諫める」という表現は「エピティマオ」というギリシャ語で「非難する、とがめる、戒める、禁じる、問い詰める。」などの意味です。つまり、ペトロは、主の御心を受け入れられず、自分の思いに主の御心を合わせようと、主に向かって「エピティマオ」したわけです。「あなたは旧約聖書に預言されたメシアだ。本当のメシアならイスラエルを回復させ、ローマ帝国を破り、世界の支配者になってほしい。我らはその力強いメシアの弟子としてここにいるのだ。なのに、あなたが死ねば、私たちはこれからどうする? 我が家族はどうする。イスラエルはどうする。 あなたは死んではいけない。私のために生きてほしい。」おそらく、こういう思いではなかったでしょうか。つまり、「あなたの思いではなく、私の思い通りにならせてもらいたい。」ということ、これがさまにペトロの心に隠れていた本音ではなかったでしょうか。ペトロの告白は完璧でした。しかし、その思いは純粋でなかったでしょう。それがペトロの問題でした。主はそれを見抜かれたのです。 おそらく、他の弟子たちもペトロと、それほど変わらなかったはずです。それぞれにとって、自分が求める私的な意図が込められていたはずです。そして、そういう心は私たちにもあるかも知れません。そのような心に主イエスは警告なさったのです。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエスが十字架にかけられなければ、この世の罪の問題は永遠に解決できなくなります。罪人が神の御前に進む手段が無くなります。神のより大きな御心、この世を罪から救われること、そのためにはイエスが死ぬしかすべはありません。それが、神の摂理であり、計画であるのです。つまり、弟子たちは主の御心を正しく理解していなかったのです。 ただ、主イエスを利用しようとしたということです。これがまさに先週、お話ししましたファリサイ派のパン種のような生き方であり、今日、私たちが学んだ「アナブレポ」つまりイエスをただの聖人ほどに見なした信仰のレベルなのです。主イエスの弟子と呼ばれるに値する人なら、自分の思いではなく、主の御心に気付いて生きるべきです。 ファリサイ派のパン種のような生き方をを脱ぎ捨て、「アナブレポ」の信仰から脱し、「ディアブレポ」ひいては「エムブレポ」の信仰にまで至るべきです。「主はキリストであり、生ける神の子です。」という聞こえのよい言葉だけが、私たちを証明するわけではありません。私たちの信仰告白と、私たちの信仰の生き方や行為が釣り合う時、私たちは真の信仰告白的な人生を生きるようになるのです。 締め括り 「私が主、ほかにはいない。私をおいて神はない。私はあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる。私のほかは、むなしいものだと。私が主、ほかにはいない。」(イザヤ45:5-6) 主は、旧約イザヤ書で、民が主を知らなかったときにも、力を与えてくださいました。そして、主はご自分の権能で、主を知らない民が主を知るようにしてくださると約束されました。その結果が私たちが主イエスの民となったということです。すべてが主の御導きによることです。というわけで、主への信仰告白は、まったく主の導きによる恵みです。 主への信仰の告白に、我々の知識や知恵や力は、何の意味をも持つことが出来ないということです。主が教えてくださったからです。ですので、私たちは主への信仰に自分の意図や思いを込めてはいけません。ただ、謙遜に主に従うだけです。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(34) 私たちが自分のために勝手にしかける信仰ではなく、主に導かれる謙遜な信仰。これを告白し、従って生きるときにはじめて、私たちの信仰告白は完全なものとなるしょう。そういう信仰を追い求める志免教会を目指したいと思います。