家路に就かせてくださる主。

創世記30章25-43節(旧50頁) エフェソの信徒への手紙1章11-12節(新352頁) 1.今、私たちに与えられた状況の意味について。 伯父ラバンのためにヤコブは長い歳月の間、働きました。ヤコブは、まるで無料奉仕のような労働を20年もしなければなりませんでした。ヤコブは当初、ラケルをめとるために7年間の働きを約束しましたが、伯父ラバンは結婚の当日に、次女ラケルの代わりに長女レアをすり替えてしまいました。結局レアと結婚するようになったヤコブは再びラケルをめとるために、さらに7年間を働くことになりました。そして31章41節によると、ヤコブは2人の妻だけでなく、ラバンの羊のためにも、6年間を働いたと記してあります。しかし、気の毒にも彼に与えられた物質的な財産は、とても少なくみすぼらしかったのです。兄の長子の祝福を横取りしたヤコブの人生は祝福というより労働による疲れと適切な報酬のない呪いのような不条理なものになっていました。しかし、それでも彼は一生懸命働きました。彼は伯父にだまされ、家族の問題で思い煩い、正当な報酬が得られませんでしたが、それでも彼は自分に任された務めに最善を尽くして生きたのです。その結果、「わたしが来るまではわずかだった家畜が、今ではこんなに多くなっています。わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます。」(創世記30:30)ヤコブの労働により彼の伯父ラバンは栄えていきました。 ヤコブの足がいたるあらゆるところに神が祝福を及ぼしてくださり、その祝福がラバンにも行き渡ったわけです。 ヤコブへのラバンの行動は、明らかに指摘されるべき悪行でした。しかし、そんな不条理の中でのヤコブの人生にも、意味がありました。彼は責任を負わず、家族を捨てて逃げることも出来るはずでしたが、最後まで家族を守り、伯父との不条理な約束を守り、伯父の財産が豊かになるまで仕えました。彼は自分の状況に屈せず、任された務めをやり遂げて生きてきたのです。その結果はヤコブを通した神様の祝福でした。この本文を読みつつ、宗教改革者ジャン·カルヴァンの職業召命観という概念を思い出しました。神は、主の民それぞれがあらゆる活動に携わる中で、自分の召命を記憶し、神からの召命を尊重して生きることを命じられる方です。そして、私は職業だけでなく、私たちの人生のすべてにおいて神からの召命があると思います。つまり、今、私たちに託された状況は、主が私たちにくださった召命の一部だということです。確かに、ヤコブの20年は疲れと不条理の時間でしたが、主がヤコブにその状況を許してくださったことには理由があるのです。不当に感じられたその年月の間、ヤコブは自分の家を治める知恵を得、後を引き継ぐ子供たちが生まれ育ち、生まれ故郷にはヤコブの場所が設けられました。そして何よりも、自分のことだけを考えたヤコブが、もはや一種族を治める族長にふさわしく成長しました。今、私たちに許された全ての状況は神からの召命の一部です。私たちに与えられた現在の人生には神のご計画と御心が必ずあるのです。そして、主はこの我らの人生を通して、私たちを一層正しく導いてくださるでしょう。 2.この世の執拗さ。 したがって、私たちは今現在、自分の状況がうまく行かなくても、盲目的に不満を吐き出したり、すべてを諦めたりしてはならないのです。たとえ悪い状況だとしても、きっと神の御心と御導きがあるということを忘れてはいけません。今、皆さんの状況はいかがでしょうか? もしかして、到底納得できない状況下にいる方はおられませんか? しかし、いくら辛い状況の中だと言っても、それも神からの召命の一部であることを憶えて生きたいと思います。不条理や困難に無条件に我慢せよというわけではありません。不条理や困難の中でも自分に何ができるのか、また神が何を計画しておられるのかを顧み、すべてが主からの召命の一部であることを認識し、絶望せず主に尋ねつつ祈りの時間を持って乗り切っていくことを願いたいです。さて、伯父ラバンの不条理の中で生きてきたヤコブに、とうとう神の時が訪れました。「ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。わたしは今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存じのはずです。」(25-26) ヤコブがラバンとの約束を全うし、ついに生まれ故郷に帰ることを決心したということです。まだ末っ子のベニヤミンが生まれる前ですが、イスラエル民族を成す、ほとんどの息子たちがある程度成長し、ヤコブ自身にも自分の一族を導けるほどの知識と経験が出来たからです。 そして何よりも、神がアブラハムとイサクに与えてくださったカナンの約束の土地が、いまや神からいただいた自分の居場所であることに気が付いたからです。25節の「生まれ故郷」という表現の原文の意味は「自分が立っているべき場所」つまり自分が受け継いだ土地という意味です。異郷での不条理な20年の人生が、ヤコブに自分のまことの居場所を教えてくれたわけです。人の苦難と逆境はその人の居場所を示す人生の表示板なのです。苦難があるからこそ私たちの居場所である主のふところを憶えることが出来るのです。しかし、ラバンは優しい言葉で彼を手なずけました。「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ。」(27) ラバンは偶像を崇拝する者でした。彼は異邦の神の前で占いをし、その結果、ヤコブの主なる神が自分に祝福をくださったことに気づきました。しかし、彼は異邦の神を離れませんでした。ヤコブの主なる神と自分の異邦の神が別々の存在であり、ラバン自らが主なる神に属した者ではないことを示したわけです。先日、県庁の宗教係から連絡が来ました。宗教法人の代表者名義変更の件でしたが、牧師、教派など教会関係に馴染んでいないようでした。日本ではキリスト教はやや異質的な宗教であり、時には怪しく思われる時もあるようです。ヤコブもまたラバンの家でそんな存在でした。 もうこれ以上、ラバンの家はヤコブの家族がいるべき場所ではありませんでした。価値観が違い、ヤコブが受け継げない土地でした。それに気づいたヤコブに残されたのは、神が約束なさった自分の所、つまり約束の土地に帰ることしかありませんでした。しかし、ラバンはヤコブが離れないように口車に乗せて懐柔したのです。「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」(28)ラバンはヤコブの労働力を再び搾取するため、自分の貪欲のためにヤコブを送り出そうとしませんでした。「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」という言葉も、懐柔のための偽りに過ぎなかったと、何人かの学者たちは解釈しています。つまり、ヤコブはこれ以上ラバンの家にいることはできません。今、彼は断固としてラバンの懐柔を断ち切り、神が約束してくださった自分の土地に帰らなければなりません。私たちが生きているこの世も同様です。神への信仰のために新しい人生を生きようと誓う時、新約聖書ヨハネの手紙Ⅰの言葉のように「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり」(ヨハネ手紙一2:16)が私たちの回心を阻みます。しかし、私たちが神のもとに帰っていこうと悟り決めた時、確実に向き直って神のもとに進むべきです。世の甘い誘惑には新しい人生がないからです。帰らなければ、残るのはこれまでと同じ罪人としての憐れな人生にすぎないからです。 3.一方的な神の恵み 29節から43節までの物語は、時間の関係上、手短に説明させていただきます。ラバンが「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」と言った時、ヤコブは一つの提案をしました。それはラバンの家畜の中で、ぶちとまだら、黒みがかった家畜(以下、色のある家畜)を自分のものにしたいとのことでした。すると、けちくさいラバンは、表ではよろしいと言いましたが、その家畜をすべて息子たちの手に任せ、遠くに送ってしまいました。ラバンの貪欲さが垣間見える場面です。それでもヤコブは失望せず、白い羊から色のある羊が生まれるようにし、結局は豊かになりました。ところで、面白いことは、ヤコブが、白い羊と山羊が水を飲む時、皮をはいだ木の枝を彼らに見せると、彼らが色のある子を産むようになったということです。実は白い家畜と色のある家畜の違いは、遺伝学で言われる優性と劣性の違いから生まれる事柄です。白い家畜は優性遺伝子が強いと言われ、色のある家畜は劣性遺伝子が強いと言われます。しかし、白い家畜にも劣性遺伝子がありえますし、色のある家畜にも優性遺伝子がありえますので、白い家畜からも十分色のある子が生まれることが出来るのです。こういう概念は西暦19世紀に入ってから明らかになりましたので、ヤコブが生きていた古代には、家畜の親の色によって子の色が決まると信じていたのです。そのため本文に出てくる皮をはいだ木の枝は、家畜に何の影響も及ぼすことが出来ません。ただ、ヤコブの願いが込められた象徴的な物ではなかったでしょうか。 とにかく重要なのは、白い家畜の中から数多くの色のある家畜が生まれたということです。神が古代人が認識できなかった羊や山羊の遺伝子を用いられて、ヤコブに多くの羊や山羊を与えてくださったのです。「こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにラクダやロバなどを持つようになった。」(43) このことを通して、ヤコブはラバンにもらえなかった20年間の報酬を、神の介入によって、満ちあふれるほど受け取ることができました。人間の常識と理解を超える神の恵みが、ヤコブという存在を貧しい労働者から、一族を導くに値する族長として格上げさせたのです。ヤコブはラバンの家に来て途方もない苦労をしました。しかし、その経験を通して彼は多くのことを学び得ることができました。家族、子供、財物ができ、自分の部族を導くリーダーシップを養うことができました。そして、一番大事なことは、自分が神の約束の相続人であり、自分に必ず帰るべきところがあるということをしみじみと痛感することになったということです。このすべてが20年以上、ヤコブの人生を見守ってこられた主なる神の一方的な恵みだったのです。つまり、ようやくヤコブは神の祝福の実現を見届けることになったということです。 締め括り 「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 12それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェソ1:11-12) 今日の新約の本文のように、神はキリストを通して、その御心のままに一方的な恵みで、ご自分の民を導いていかれる方なのです。どんな苦難がご自分の民の生の中にあっても、主なる神は必ず民を見守り、結局は一番正しい道に導いてくださる方なのです。今日、私たちが分かち合った点は3つでした。第一、いかなる状況下でも、今の私たちの人生が神からの召命の一部であることを認め、神の御導きに信頼して生きるべきであること。第二、この世からの執拗な罪の誘惑と懐柔の中でも神からの召命を悟った主の民は、断固として神の方に向き直っていくべきということ。 第三、私たちの人生のすべてが、神の一方的なご恩寵のもとで、神の御導きによって進められているということ。それらの三つを忘れないようにしましょう。これからもヤコブは、多くの失敗を経て成長していきます。私たちの人生にも失敗があるものです。しかし、明らかなことは何があっても、神は私たちといつも一緒におられ、私たちを導いてくださるということです。今日の説教の題のように、主は私たちをまことの故郷、主のふところに導いてくださるでしょう。その神に信頼し、主を憶えて生きる私たちになっていきましょう。主なる神の豊かな恵みを祈り願います。

まことの信仰の告白 

イザヤ書45章5-6節(旧1135頁) マルコによる福音書8章22-9章1節(新77頁) 前置き 前回の説教では、イエスが弟子たちにファリサイ派とヘロデのパン種に注意させられた物語について学びました。いくらイエスの弟子であるといっても、イエスの御心に気付くことができず、世の流れのままに従って生きる人は、ファリサイ派やヘロデのパン種のような人生を生きる人になってしまいます。ここで、ファリサイ派とヘロデのパン種とは何でしょうか。自分の価値基準に陥り、神と隣人に仕えず、自分自身を中心として生きる、主の御言葉への実践がない生き方です。イエス·キリストを信じる人は、キリスト教という宗教の儀式や教理、そして自分の価値基準だけにはまり込んで生きるのではなく、私たちが属しているキリスト教の教えと教理のまことの源であるキリストに倣い、主イエスの価値基準を受け入れ、神と隣人への愛を追い求め、実践して生きるべきです。つまり「キリスト教」の「教」を強調するのではなく「キリスト」を強調して生きる人なのです。それこそがキリスト者のあり方であり、真に目覚めている人の生き方なのです。今日は、私たちが追求すべき真の信仰告白とは何か、前回の御言葉とつなげて考えてみたいと思います。 1.信仰に目覚める段階 前回の新約本文の最後には、イエスがベトサイダの村で盲人の目を治してくださる出来事が記してありました。時間の関係で、短く取り上げましたので、今日はもう一度、盲人の物語について探ってみたいです。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、何か見えるかとお尋ねになった。」(23)イエスが盲人を連れ出して、目につばをつけ、按手をなさると盲人の目が見えるようになりました。ここで「目につばをつけた。」という表現は、ややともすれば、迷信的な治癒行為に見えるかも知れませんが、一部の学者は、つばをつける行為を「主が盲人の罪をとがめられる象徴的な行為」と理解しました。つまり、盲人の悔い改めを促す象徴的な意味合いだったということです。悔い改めと罪の赦しがない限り、主が癒してくださるといっても、その真の意味を生かすことができないからです。盲人の目に唾をつけてから、主は盲人の目に両手を置かれ、治してくださいました。ところが、なぜか盲人の目はいっぺんに見えることにはなりませんでした。主はたった一度の按手で目を治せる方だったはずですが、どうして何回にもわたって盲人の目を治してくださったのでしょうか。「すると、盲人は見えるようになって、言った。人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(24) ここで「見えるようになった。」という表現を直訳すると「見上げる」という表現となります。目が開いた盲人が、世界を見るようになったという意味です。ところが「木のような何かが歩いているように見える」だけで、明確には見えませんでした。 ここで「見あげる」と訳されたギリシャ語は「アナブレポ」です。何の悟りも伴わず、ただ何かを「見あげる」という意味なのです。「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」(25)主がもう一度、按手をなさったとき、彼の目は「よく見える」ようになりました。これは「ディアブレポ」というギリシャ語です。これを直訳すると、「見抜く」という意味になります。そして最後に、「はっきり見える」という表現は「エムブレポ」です。直訳すると「見分ける」という意味となります。つまり、24-25節の盲人の目が治る際に、それぞれ違う意味の3つの「見る」というギリシャ語が使われたということです。私は、それらを通して、信仰の目覚めの三段階について考えてみました。主を主として信じず、ただの偉人としてだけ認識する「アナブレポ」、主の御言葉を聞いて信仰を込めて求める「ディアブレポ」、主の御心に気付き、答えて生きる「エムブレポ」。私たちの信仰はこれらの三つの段階を経て成長していきます。教会に通い、礼拝に出席し、主の御名を唱えて祈るからといって、私たちの信仰が完全になるとは言えません。イエスの御心とは何かを見抜き、見分け、悟って、主への信仰で、その御心を受け入れ、実践して生きる段階になってからこそ、真の信仰者として認められるでしょう。私たちの信仰はいかがでしょうか? アナブレポ、ディアブレポ、エムブレポのうち、私たちは、どの段階に立っているでしょうか。 2.主イエスとは誰なのか? ベトサイダで盲人を癒してくださった後、イエスは弟子たちと再び異邦のフィリポ・カイサリア地方に足を運ばれました。主はそこで弟子たちにお尋ねになりました。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに人々は、私のことを何者だと言っているかと言われた。」(27) これまで弟子たちは、主の御旨にそぐわない行動を少なからずやってきました。異邦人を差別し、主の御心に気づかず、ファリサイ派の人々のように本質から外れた愚かな姿を見せてきたのです。イエスの弟子として呼び出され、主と常に連れ立った者たちでしたが、彼らの姿はイエスの弟子にふさわしくない状態でした。今日、主は、そのような彼らの信仰と認識を試してみようとされました。「弟子たちは言った。『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(28) まず弟子たちは、「世間の人々がイエスをエリヤ、洗礼ヨハネ、旧約の預言者と言っている。」と語りました。エリヤは旧約の最も代表的な預言者であり、マラキ書で、また遣わされると預言された者です。つまり、人々はイエスがエリヤのように神からの偉大な預言者であると認識していたのです。しかし、マラキ書で預言されたエリヤとは、主ではなく、主の道を準備する洗礼者ヨハネを示すことでしたので、この認識は間違ったものです。 人々はイエスについてはっきり分かっていなかったということです。 そこで、主は弟子たちの考えを尋ねました。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」(29)すると、ペトロが答えました。 「あなたはメシアです。(油注がれた者、キリスト、救い主)」 今、私たちが生きているこの世では、イエスはどのように理解されているでしょうか?おおむね、この世ではイエスを世界三大聖人の一人としてよく認識しています。(イエス、孔子、釈迦)それでは、私たちはイエスを、どのように告白しているでしょうか? 私たちは毎週、使徒信条などの信仰告白を通して、主が救い主、すなわちキリストであることを告白しています。ペトロの答えは正解です。「主はキリスト」です。マタイによる福音書では、もっと詳しく書いてあります。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16) 私たちもペトロのようにイエス・キリストへの正しい信仰の告白をするべきです。ところで、今日の本文に一つ不思議な点があります。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(31-33) ペトロが見事な信仰の告白をしたにもかかわらず、主は彼をサタンと叱られたのです。 3.正しい信仰には知識と実践が伴うべき。 ペトロはよほど悔しかったに違いありません。主をメシアと告白し、主の身柄を案じただけなのに、主に叱られたからです。サタンだなんてひどすぎでしょう。しかし、私たちはここでのペトロの心中をよく見分けるべきです。ペトロは主に「諫め」ました。 この「諫める」という表現は「エピティマオ」というギリシャ語で「非難する、とがめる、戒める、禁じる、問い詰める。」などの意味です。つまり、ペトロは、主の御心を受け入れられず、自分の思いに主の御心を合わせようと、主に向かって「エピティマオ」したわけです。「あなたは旧約聖書に預言されたメシアだ。本当のメシアならイスラエルを回復させ、ローマ帝国を破り、世界の支配者になってほしい。我らはその力強いメシアの弟子としてここにいるのだ。なのに、あなたが死ねば、私たちはこれからどうする? 我が家族はどうする。イスラエルはどうする。 あなたは死んではいけない。私のために生きてほしい。」おそらく、こういう思いではなかったでしょうか。つまり、「あなたの思いではなく、私の思い通りにならせてもらいたい。」ということ、これがさまにペトロの心に隠れていた本音ではなかったでしょうか。ペトロの告白は完璧でした。しかし、その思いは純粋でなかったでしょう。それがペトロの問題でした。主はそれを見抜かれたのです。 おそらく、他の弟子たちもペトロと、それほど変わらなかったはずです。それぞれにとって、自分が求める私的な意図が込められていたはずです。そして、そういう心は私たちにもあるかも知れません。そのような心に主イエスは警告なさったのです。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエスが十字架にかけられなければ、この世の罪の問題は永遠に解決できなくなります。罪人が神の御前に進む手段が無くなります。神のより大きな御心、この世を罪から救われること、そのためにはイエスが死ぬしかすべはありません。それが、神の摂理であり、計画であるのです。つまり、弟子たちは主の御心を正しく理解していなかったのです。 ただ、主イエスを利用しようとしたということです。これがまさに先週、お話ししましたファリサイ派のパン種のような生き方であり、今日、私たちが学んだ「アナブレポ」つまりイエスをただの聖人ほどに見なした信仰のレベルなのです。主イエスの弟子と呼ばれるに値する人なら、自分の思いではなく、主の御心に気付いて生きるべきです。 ファリサイ派のパン種のような生き方をを脱ぎ捨て、「アナブレポ」の信仰から脱し、「ディアブレポ」ひいては「エムブレポ」の信仰にまで至るべきです。「主はキリストであり、生ける神の子です。」という聞こえのよい言葉だけが、私たちを証明するわけではありません。私たちの信仰告白と、私たちの信仰の生き方や行為が釣り合う時、私たちは真の信仰告白的な人生を生きるようになるのです。 締め括り 「私が主、ほかにはいない。私をおいて神はない。私はあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる。私のほかは、むなしいものだと。私が主、ほかにはいない。」(イザヤ45:5-6) 主は、旧約イザヤ書で、民が主を知らなかったときにも、力を与えてくださいました。そして、主はご自分の権能で、主を知らない民が主を知るようにしてくださると約束されました。その結果が私たちが主イエスの民となったということです。すべてが主の御導きによることです。というわけで、主への信仰告白は、まったく主の導きによる恵みです。 主への信仰の告白に、我々の知識や知恵や力は、何の意味をも持つことが出来ないということです。主が教えてくださったからです。ですので、私たちは主への信仰に自分の意図や思いを込めてはいけません。ただ、謙遜に主に従うだけです。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(34) 私たちが自分のために勝手にしかける信仰ではなく、主に導かれる謙遜な信仰。これを告白し、従って生きるときにはじめて、私たちの信仰告白は完全なものとなるしょう。そういう信仰を追い求める志免教会を目指したいと思います。

神の摂理は揺れ動かない。

創世記30章1-24節(旧48頁) フィリピの信徒への手紙1章15-18節(新361頁) 前置き 前回の創世記29章で、私たちはヤコブとラバンという二人のずる賢い人たちによって、レアという無辜の女が苦しんだことを聞きました。残念なことに、この世では、ずる賢い指導者によって無辜の人々が苦しめられることがまれではありません。最近のウクライナとロシアの戦争も、そのような脈絡で説明できるものでしょう。世の人々が、ずる賢い指導者の肩を持つことは多いものの、彼らに苦しめられる弱者のためには(ただ同情するだけで)積極的に肩を持つことはあまりありません。だから、弱者はさらに苦しみがちです。米国と欧州がウクライナの肩を持つ理由も、ウクライナのためではなく、自国の利益がかかっているからです。この世は徹底的に力の論理で操られるものです。しかし、主は世の中とは違って、その苦しむ者たちの痛みを憶え、慰めてくださり、一緒にいてくださる方です。主は力の論理ではなく、愛と公平の摂理で世を見守っておられるからです。レアは苦しんでいましたが、彼女には主が一緒におられました。神は彼女に多くの息子をくださり、彼女の痛みに応えてくださいました。神は弱者を大切に愛してくださいます。私たちが弱い時、神に慰められる理由は、その主が弱い私たちを愛しておられるからです。今日は30章の物語を通してヤコブの家族の話をもっと探ってみたいと思います。 1.信仰の不在 – 争いと葛藤をもたらす。 お姉さんや妹さんがおられる女性の皆さんは幼い頃、姉妹たちとどう過ごされましたか? 子供の頃、物心のつく前には、お菓子やおもちゃなどで揉めることもあったと思いますが、多くの場合、お姉さんや妹さんと仲良くされたと思います。ままごと、あやとり、せっせっせ、縄跳びなどの素朴な遊びでも、小さなことにおいても、楽しく幸せに過ごされたと思います。聖書には記してありませんが、おそらくレアとラケルも、そのような子供の時を一緒に過ごしたでしょう。ところが、そうだったはずのレアとラケルは、悲しいことに一人の男のせいで、互いに憎み合う敵(かたき)となってしまいました。その一つの理由は、ラケルの弱い信仰のためでした。もちろん、ラケルが理解できないわけではありません。姉は息子を4人も産んだのに、自分は1人の子供も産めなかったので、劣等感や悲しみに包まれたのは当然のことでしょう。それが人間の本能だからです。しかし、人力で解決できない、妊娠の故に、ラケルはお姉さんを憎むばかりでなく、主なる神にも不信心を犯してしまいました。 「ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、私にもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、私は死にますと言った。 」(1)どうしようもない状況で、神の民に求められるのは忍耐と信仰です。しかし、ラケルはそうしませんでした。 姉レアは愛されない女でした。夫のヤコブはいつもラケルだけを愛しており、父のラバンはレアにそんなに関心が無かったと思われます。 おそらく、彼女は一人ぼっちだったに違いありません。しかし、彼女には主への信仰があり、悲しい時にも賛美し、祈ったと思われます。レアの4番目の息子の名前が「賛美する」という意味のユダであることから、その点が推測できます。その反面、ラケルは何でも自分が望むものを何とか手に入れようとする人だったと思われます。ラケルは、自分の思いのままにならないと、夫に怒り、死ぬと脅かし、かわいそうな姉レアを憎みました。そして、姉に勝つために、自分の召使を通して息子を儲けようとしました。「そのときラケルは、私の訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、私の願いを聞き入れ男の子を与えてくださったと言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。」(6)「そのときラケルは、姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)ついに勝ったと言って、その名をナフタリと名付けた。」(8) 彼女はすべてにおいて、主への信仰ではなく自分の感情を中心としました。召使が生んだ息子たちの名前も、争いを示唆する表現だからです。問題はそのようなラケルの弱い信仰のせいで、信仰に生きたレアも不信心に陥っていくことです。ラケルの競争心理に巻き込まれ、レアも競って自分の召使を夫に与えたからです。ラケルの不信心は、争いと葛藤だけを残したのです。 2.恋なすびについて。 そしてラケルの不信仰は、今日の恋なすびの物語で、その極みを見せてくれます。「小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。ラケルがレアに、あなたの子供が取って来た恋なすびを私に分けてくださいと言うと、レアは言った。あなたは、私の夫を取っただけでは気が済まず、私の息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょうとラケルは答えた。」(14-15)恋なすびとは、中東で育つ、男の性機能と女の不妊治療に良い植物と言われます。今日の本文でレアの息子ルベンが、その恋なすびを取ってきたのですが、ラケルはそれが姉の手に入るかと気になって自分が取ろうとしました。レアの恋なすびを横取りし、レアの妊娠を防ぎ、自分が使おうと、ねたんで手に入れようとしたわけです。ところで、面白いことは、姉の恋なすびを取るために、ヤコブと自分の夫婦関係の順番を売ったということです。当時でも今でも中東には一夫多妻制が存在します。そして、夫には妻たちと順番を定めて床を共にする義務があり、妻たちにも夫に定期的な夫婦関係を要求する権利があると言われます。それは誰にも譲れない大事な妻たちの権利であり、神に与えられた大切な行為とされていると言われます。ところで、ラケルは姉へのねたんで、その権利を恋なすびと引き換えてしまったのです。 ラケルは、姉への妬みに目がくらみ、神にいただいた大事な妻の権利をおろそかにしてしまいました。ある学者は「ラケルがヤコブとの夫婦関係を売ったことは、エサウが長子の権利を売ったことに比べられるほどの深刻なことだった」と主張しています。結論的に、恋なすびを手に入れたにもかかわらず、ラケルは子どもを儲けることが出来ませんでした。皮肉なことにラケルがヤコブをレアに譲った日、レアはまた子どもを身ごもることになったのです。ラケルの不信心は姉を憎むようにし、姉のものを欲しがるようにし、神に与えられた大事な権利である夫婦関係までも投げ捨てるようにする、大きな罪になりました。しかし、その結果は気の毒にも、姉にだけ子供ができ、自分には何も出来ない正反対の状況になったということです。ヤコブの祖父アブラハムは「信仰」によって義とされました。ここで信仰とは、すべてが主の御心通りに成し遂げられると信じ、主のお導きを待ち望むことを意味します。もちろん、これは「全てのことが主の御手の中にあるから、自分は何もしなくていい。」という意味ではありません。世の流れの中でも主の導きがあることを信じ、有益な時も、無益な時も、主に感謝し、託された人生を誠実に生きることを意味します。主の民が信仰を持って生きる限り、主は必ずご自分の時に民の信仰に答えてくださるからです。残念なことにラケルにはそれができず、ヤコブの家族は彼女の不信心によって争いと葛藤に巻き込まれたわけです。 3.人間の葛藤に揺るがない主の摂理。 ところで、私たちの姿もラケルとあまり違っていないかもしれません。私たちに罪がある限り、ラケルのように不信心から完全に自由になることが出来ないからです。人間は誰もが不信心を持っており、その不信心の根源は、人間の中心にある罪からもたらされるからです。信仰の完成期である今の皆さんは、罪を警戒し、常に悔い改めておられるでしょうが、若い頃を思い起こされると、これまでの私たちの欲望と罪の歩みが振り返られるでしょう。もしかしたら、今でも私たちは、このラケルのような者であるかも知れません。しかし、にもかかわらず、一つの希望があります。それは、私たちの信仰が弱くても、私たちが他人との争いを起こしても、私たちが欲望に浸っても、主の御前で恥ずべき罪を犯しても、いかなる状態であっても、神の摂理に全く影響を及ぼせないということです。レアとラケルがあれほど揉め、争ったにもかかわらず、神の御目に、それらのことはヤコブの子供たちが増える過程であり、神の計画が成就していく道のりであるにすぎませんでした。 当時はヤコブの家の大騒ぎだったのかもしれませんが、結局、そのすべての葛藤と対立が、イスラエル民族を形成していく最も早い道のりになったのです。神は実に人間の不信心さえも、主のご計画を成し遂げるための道具として用いられる全能な方であるのです。神の摂理は人間が持っているいかなる罪、争い、障害にも全く揺れ動かないものだからです。 私たちは今後も神に召される日まで、罪を犯し続けるかもしれません。自分が意識して犯す罪でなくても、知らず知らず犯す罪がきっとあるはずです。知らず知らず隣人ともめ、知らず知らず神に逆らう時もあるかもしれません。しかし、そのすべての私たちの失敗にもかかわらず、主なる神のご計画とご意志と摂理は決して変わること無く成就されていくでしょう。ここに私たちの希望があるのです。なぜ、死ぬべき罪人である私たちがキリストの功績によって、正しい者として、救われた者として認められるのでしょうか? 私たちの罪と愚かさが、キリストの御救いにちっとも影響を及ぼせないからです。狭い私たちの視野からヤコブの家を見れば、めちゃくちゃと見えるでしょう。神の民としての価値が無いと思われるかも知れません。しかし、広い神の視野から見ると、ヤコブの家の無茶苦茶なさまは、かえってイスラエルという民族の基礎を固める絶好の機会と見えるでしょう。私たちの人生も同様です。差し当り、私たちの人生がめちゃくちゃに見えるかも知れない時でも、神の御目には私たちの人生が一番良い方向に進んでいる状況であるかも知れません。神は私たちの状況によって影響を受けられず、むしろ私たちの状況を超えて、私たちを一番良い方向に導いていくことが出来る方でいらっしゃるからです。ですから、今日の悲しみや辛さにつまづかないようにしましょう。神への希望を持って生きて行きましょう。それがまさに私たちの持つべき信仰なのです。 締め括り 「他方は、自分の利益を求めて、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリピ1:17-18)おそらく、当時のキリスト者の中には、パウロへの妬みで競争心を持った人々がいたようです。彼らは福音伝道のためにローマ帝国によって投獄されたパウロを侮辱し、苦しめるために、競って伝道活動を行ったようです。しかし、パウロは、彼らの行為に怒るどころか、かえって先のことを深く考えて喜んだのです。パウロは、自分への彼らの妬みと競争心が、福音伝道のための神の道具になると思ったわけです。私たちは、このようなパウロの目線から世界を見つめるべきです。教会、もしくは、私たちの人生に遺憾なこと生じる可能性は高いです。しかし、そのすべては神のご計画や御導きに何の悪い影響も及ぼすことが出来ません。私たちは変わらず主の御心通りに導かれ、主は最後まで私たちを御心のまま、導いていかれるでしょう。神の摂理に揺れ動きは決してありません。私たちはこの神の民として生きているのです。だから、私たちに困難がある時、恐れないようにしましょう。ただ、神を信じ、祈り、主の摂理を待ち望みましょう。主はすべてのことを必ず正しく成し遂げていかれるからです。

目を覚ましなさい。

ヨナ書4章10-11節(旧1448頁)  マルコによる福音書8章11-26節(新76頁) 前置き 前回の説教では、イエスが異邦の地域での最後の奇跡として、七つのパンと小さい魚少しとをもって4000人に食べ物を与えてくださった出来事について話しました。6章での5000人に食べ物をくださった奇跡がユダヤ人への恵みであれば、8章での4000人に食べ物をくださった奇跡はユダヤ人ではなく、異邦人への恵みでありました。これを通して、私たちは主がユダヤ人だけでなく異邦人をも、差別なく愛しておられる方であることが分かりました。イエスはすでに選ばれた者だけの主ではなく、この世の全ての存在の主でいらっしゃいます。そして、主はすべての存在を公平に愛してくださる方です。主のからだなる教会が教会員同士だけでなく、周りの未信者をも愛し、仕えるべき理由は、まさにこの理由があるためです。今日の本文は、4000人に食べ物をくださった出来事の後、ガリラヤに戻ってこられたイエスが、弟子たちに霊的な目を覚ますことを促される物語です。今日の本文を通して、主イエスは弟子たちに何を教えてくださるでしょうか。 共にみ言葉に聞きましょう。 1.今の時代のファリサイ派は誰か? 「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(11-12)イエスは異邦の地域からガリラヤに戻って来られました。イエスが到着された時、イエスを待っている者たちはファリサイ派の人々でした。彼らは、すでに前からイエスとしっくりいっていませんでした。 彼らにとってイエスはユダヤ教に逆らう異端者でした。イエスがユダヤ教が禁ずる不浄な者たちと付き合い、弟子たちに伝統的なユダヤ教の儀式である断食をさせず、安息日に働き、昔の人の言い伝えを守っておられなかったからです。そして、今回はユダヤ人が嫌がる異邦人4000人に食べ物を与えられました。そのため、ファリサイ派の人々はイエスを律法を乱す者と見なしていました。そういうわけで、彼らはイエスに「あなたが本当に律法的に正しい者なら、天からの証拠を見せなさい。」と要求したわけです。しかし、彼らが嫌がっているイエスの行為は、律法の大事な価値である愛の実践に基づくことでした。イエスは誰よりも律法に熱心だったのです。その反面、ファリサイ派の人々は愛の実践には関心がなく、ただ自分たちの宗教的な儀式を重んじるだけでした。 ここで「天からのしるし」とは、「神からの証拠」を婉曲に表現した言葉です。伝統的にユダヤ人たちは、直接、神の御名を口にしません。聖なる神の御名を罪深い人間が口にすることが神への無礼だと考えているからです。しかし、神の証拠を求めること自体が、神へのさらに深刻な無礼なのです。宗教儀式として「無礼を働かないために神の御名を呼ばないこと」と、「神に認められた正しい人を自分が認めたくないから、神の証拠を求めること」のうちで、どちらが無礼なのでしょうか? ユダヤ人たちは自分たちの宗教儀式はよく守っていましたが、実質的な神の御心である愛の実践を行っておられるイエスのことは理解していませんでした。信仰のある者たちは、イエスが神からの方であることに気付いていました。イエスの言葉と行為が、神から来られたことの証拠でした。しかし、ファリサイ派の人々は自分たちの伝統と基準だけを重んじ、主イエスが神の人であることを見分けられませんでした。私たちは聖書を読みつつ、ついファリサイ派を批判しがちです。また、私たちは彼らとは違うと思うかもしれません。しかし、目に見える宗教行為や教理などを強調するだけで、神の御心に従わない人は、ファリサイ派の人々と異なるところがないでしょう。宗教的、神学的なことだけを強調し、人生の中で少しも愛の実践がない、知識と行為がかけ離れた人生、それこそが、まさにファリサイ派的な人生なのです。 2.ヨナの物語 今日の本文でイエスは、このようなファリサイ派の人々にいかなるしるしも見せてくださいませんでした。それで、今日の本文の平行本文であるマタイによる福音書12章を参照してみました。「イエスはお答えになった。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイ12:39) ここでヨナのしるしについて考えてみたいと思います。マタイによる福音書の12章40,41節に、ヨナについての二つの話がすでに記してありますが、今、私が話すのは、それらとは別の話です。預言者ヨナは旧約聖書ヨナ書の主人公でありますが、登場するのはヨナ書のみではありません。「イスラエルの神、主が、…預言者…ヨナを通して告げられた言葉のとおり、…イスラエルの領域を回復した。」(列王記下14:25)列王記下にもヨナは預言者として登場しています。ヨナは旧約のイスラエル民族の預言者として、イスラエルの復興を熱望する愛国者であり、民族主義者でした。ところで神は彼に、当時の強大国であったアッシリアの首都ニネベに行き、神の御裁きを宣べ伝え、悔い改めさせることを命じられました。しかし、愛国者であったヨナは、敵国のアッシリアにまで御憐みを示される神が、到底理解できませんでした。 彼は「イスラエルの神が、なぜ敵国のアッシリアまで憐れんでおられるのだろうか?」と思ったのです。そこで彼は船に乗って反対方向のタルシシュに逃げました。その途中、彼の船は台風にあい、結局、ヨナは巨大な魚に呑み込まれてしまいました。 その後、ヨナは神によって劇的に救われ、ニネベにたどり着きました。ヨナは結局、仕方なく神の御裁きをニネベの人々に宣べ伝えることになったのです。ところが、意外とニネベの人々は素直に、しかも徹底的に悔い改めました。実は、ヨナは敵国アッシリアが滅びることを願っていました。しかし、神は、あのアッシリアも愛しておられたのです。それでもヨナはアッシリアの滅びを望んで、ニネベの東側の、とうごまの木の生い茂った場所からニネベを眺めました。その夜、神は虫でとうごまの木を枯らし、翌日、日差しと暑い風に疲れたヨナは神に怒りました。すると、神はお答になりました。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ4:10-11)ひょっとしたら、このようなヨナの姿がイエスの当時のファリサイ派の人々の姿ではなかったでしょうか? 神の御言葉を研究し、敬虔な宗教人として生きていると言うものの、自分の価値基準に妨げられて、神の御心が聞き取れず、御言葉通りに生きられず、宗教儀式的な情熱だけに閉じ籠っている人々。主イエスがおっしゃったヨナのしるしという表現には、こういう意味もあったのではないかと考えてみました。 3.自分中心から逃れ、神の御心に目を覚ましなさい。 再びマルコによる福音書に戻って、ファリサイ派の人々と論争されたイエスは、その場を離れて弟子たちに次のように戒められました。 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15)すると、弟子たちは自分たちにはパンがないと論じ合っていました。イエスはファリサイ派の人々と当時の指導者であったヘロデの悪、つまり主の御心である律法の精神から離れ、ただ、自分の見た目だけ、自分の権力や欲望だけを大事にし、他人を愛しない悪い姿をパン種にたとえて仰いましたが、弟子たちは、 主の意図に気付くことが出来ませんでした。弟子たちはイエスの御心が分からず、異邦人を嫌がり、ファリサイ派の人々の生き方を踏襲していました。実際、イエスの弟子というタイトルを持っていたにもかかわらず、彼らはイエスよりもファリサイ派やヘロデの価値観に近い姿でした。つまり、イエスはご自分の弟子たちがファリサイ派の人々とヘロデのような自己中心的な見方から脱して、主の御心を学び、主のように律法の精神である愛の実践を為遂げる存在になることを願っておられたのです。その後、イエスは、ある盲人に出会い、彼の目を癒してくださいました。主と一緒にいるにもかかわらず、まだファリサイ派の人々のような霊的な盲人である弟子たちの前で、主はまさに「霊的な目を覚ましなさい」というしるしとして、盲人の目を治してくださったのではないでしょうか? 「5000人に食べ物を与えてくださった主は、ユダヤ人を愛される方でした。そして、4000人に食べ物を与えてくださった主は、ユダヤ人だけでなく異邦人も愛される方なのです。ユダヤ人か異邦人かを問わず、差別なく愛を実践することが、主イエスの御心であり、律法の真の精神であるのです。 もし、私たちが自分の好きな存在だけを好み、愛して生きるなら、私たちもヨナ、ファリサイ派、ヘロデ、今日の本文の弟子たちとそんなに違いの無い者になるかもしれません。我々は霊的な目を覚まして、イエスの心と業に倣って生きていくべきです。 聖書をたくさん読むからといって、祈りを長く頻繁にするからといって、膨大な神学的な知識を持っているからといって、神の御心に適っていると思わないようにしましょう。隣国の韓国の教会には聖書を100回も読み、一日に数時間を祈っていると威張る牧師たちが少なくありません。しかし、彼らは韓国社会で認められず、教会内部の権力を貪り、他の宗教に配慮せず、かえって嫌悪したりしています。聖書をただ一回読んでも、そこに記してある律法の精神とイエスの御心に倣い、神と隣人を私自身のように愛し、神の御旨を追い求めなければ、そのすべての(聖書の)読書と祈りと宗教儀式は無駄になるだけです。私たち自身を顧み、ますます実践していく生き方が大事です。我々の中に弟子たちの愚かさ、ヨナの憎しみ、ファリサイ派のパン種はありませんでしょうか。 締め括り 志免教会に来てから3年間、数え切れないほど、神と隣人への愛を力強く説教してきました。しかし、時には、自分自身に愛以外に説教の素材が足りないのだろうかと問い掛けたりします。しかし、不思議なことに、聖書を読めば読むほど、一番多く目に付くのは、この愛の実践なのです。この間、水曜祈祷会で聖書を読む時も、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(コリントⅠ13:1-3)という言葉が出て来ました。おそらく、これからも私は愛の実践について、絶えず説教していくでしょう。宗教儀式だけに気を遣い、頭でのみ考え込んで、実践のない人生はファリサイ派のパン種のような人生です。主はそこから脱して、本当に主の御心に目を覚ます人生を望んでおられます。愛を実践して生きましょう。御言葉によって神の愛を悟り、悟った愛を実践して生きる時に、神は私たちを喜び、祝福してくださるでしょう。これからも変わることなく、愛を実践する共同体「志免教会」として生きていくことを心から祈り願います。