全能なる神の確実なお選び。
新共同訳聖書 創世記25章19-34節(旧39頁) ローマの信徒への手紙9章11-13節(新286頁) 前置き アブラハムの死後、彼の相続人であったイサクは、もはや父によってではなく、自分ひとりで神の御前に立つことになりました。神はアブラハムとの契約を覚えられ、喜んでイサクの神になってくださいました。アブラハムはカナンという広い地域(九州ぐらい)で神と契約を結んだ唯一の存在でした。今やイサクはそのアブラハムの後を継いで神と契約を結んだカナン唯一の存在になったわけです。事実、アブラハムは特別な人ではありませんでした。しかし、神は平凡な彼を一方的に選び、彼と結んだ契約を通して、彼をご自分の民としてくださいました。イサクは、このアブラハムと神が結んだ契約の相続人であることから、神に選ばれたのです。つまり、イサクは自分の能力ではなく、神の約束によって選ばれた存在なのです。神は人の能力や行為で救いを与えられる方ではありません。ひたすら、主のお選びと約束に基づいて、救いを成し遂げられる方です。今日の本文を通して、その点について話してみたいと思います。 1.選ばれた民の生活 「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」(21)イサクは、神の選ばれた民でしたが、彼の人生が、何事においても栄えたとは言えませんでした。25章にはイサクを除く、他のアブラハムの息子たちが息子を儲け、栄えたとの系譜が記されていますが、イサクはそうではありませんでした。聖書には、その始終が詳しくは記されていませんが、アブラハムが25年間、相続人を得られなかったように、イサクも20年間、子どもを儲けられなかったのでした。常識的に考えてみても、神に選ばれなかった兄弟たちより、神に選ばれたイサクのほうがもっと祝福されるべきでしたが、現実は違いました。しかし、考えてみるべきことがあります。キリスト者が抱きやすい誤解の一つは、神に選ばれた存在は、無条件、何事において、うまくいかなければならないということです。「他人より成功すべき、より栄えるべき、うまく行くべき」ということです。しかし、聖書において、そのように生きた人物は、ごくわずかです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、旧約の預言者たちも、イエス·キリストと、その弟子たちも、歴史上の数多くのキリスト者たちも、神を信じることで、幸福どころか苦難を受ける場合が多かったのです。 しかし、今日の本文を通して私たちは一つの事実を知ることが出来ます。それは神が「選ばれた民」の祈りを聞いておられるということです。アブラハムの他の息子たちとイサクの違いは、神との関係にあります。アブラハムの他の息子たちが、いくら多くの子どもを儲け、権力、財物を得たと言っても、彼らにはイサクに対するくらいの神からの愛と関心がなかったということです。旧約の他の書から見ると、アブラハムの他の息子たちの子孫の多数が、異邦の神々を信じる民族になったことが分かります。主が彼らと最後まで一緒に歩んでくださらなかったということでしょう。主はイサクの祈りを受け入れられ、息子を儲けさせてくださることで、彼の祈りに答えてくださいました。神に選ばれた人への主の祝福とは、目に見える財物、幸福、物事の有無で定まることではありません。ひとえに神が一緒に歩んでおられること、祈りを聞いておられること、主なる神になってくださること、そこに神に選ばれた者の、真の幸いがあるのです。私たちキリスト者にとって、最高の祝福とは、キリストが我らの救い主になってくださり、神の子どもとして認めてくださることです。豊かな財産、かっこいい車、社会的な名誉も良いですが、それらが無くても、神がキリストを通して私たちと共にいてくださり、私たちの祈りを聞いてくださること、それこそが我々キリスト者の掛け替えのない祝福なのです。そして、その神の祝福は永遠に続くことでしょう。 2. 神の自由なお選び。 それでは、神の御選びとは何でしょうか? 今日の本文には、そのお選びに関する物語が出てきています。「ところが、胎内で子供たちが押し合うので…主は彼女に言われた。… 一つの民が、他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」(22-23)イサクの祈りどおりに、妻リベカは妊娠しました。20年間、子供が無かったイサク夫婦に、めでたいことでした。ところで、胎児は双子でした。神はまるで、もう全てが定まっているかのように言われました。「兄が弟に仕えるようになる。」古代カナンでは、長子がすべての主導権を握り、弟たちは兄に従うべきでした。それなのに兄が弟に仕えるなんて、有り得ない事でした。しかし、神は「兄が弟に仕えるようになる。」とはっきり言われました。すでに2人の息子の将来についてお話になったのです。新約のローマの信徒への手紙には、次のような言葉があります。「その子供たちが、まだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、兄は弟に仕えるであろうとリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだと書いてあるとおりです。」(ローマ9:11-13)神がイサクの息子の中で弟ヤコブを予め選んで定められ、彼をイサクの相続人にすると宣言されたのでした。 ここで「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という表現は、文字どおりに神が誰かを愛し、誰かを憎まれたという意味ではないでしょう。言い換えれば、「神はヤコブを選び、エサウは選ばれなかった。」ということでしょう。神がアブラハムを選ばれたことも、彼が最初から正しい者だったからではありません。神は一方的にアブラハムを導き出されました。イサクが選ばれたことも、彼が偉い人物だったからではありません。先ほど申し上げましたように、イサクは神とアブラハムの契約によって選ばれた者です。エサウは選ばれず、ヤコブが選ばれたことも、ヤコブがエサウより倫理道徳的に優れたわけではありませんでした。そのすべての選びは、ひたすら神のご意思による自由なお選びの結果だったのです。私たちはここで、神は、ご自身がお定めになったことを、成し遂げられる選択権を持っておられる方であることが分かります。改革派教会では、これを「神の予定」と言います。「神が予め定められた。」という意味です。 神は、世のすべての物事を前もって知り、定めて、御心のままに成就なさる方です。神はすべてを計画し、成し遂げられる方ですので、世の始まりから終わりまで、万事を知っておられる方です。神は、私たちが生まれるも前から、私たちをすでに知っておられ、私たちの救いを定めておられる方です。そして神はキリストを通して、予め決まっていた私たちの救いを遂に完成してくださった方なのです。 3.予定説について。 こうした神の自由なお選びについての神学理論を「予定説」と言います。ところで、この理論を聞いていると、なんだか心が窮屈になります。「ということは、救われる者と捨てられる者が定められているということか?」あるいは「どんなに熱心に神を信じても、もし救われる予定がなければ、最終的には見捨てられるということなのか?」という質問が自動的に心の底から浮かんでくるでしょう。これに対して改革派神学の代表的な神学者であるジャン・カルヴァンは、こう語っています。「誰でも知覚のない確信を持って、神の御選びを探ってみようとすれば、自分の好奇心も満足させず、むしろ迷宮に陥り、到底抜け出せないようになってしまうだろう。」(キリスト教綱要 3篇21章) 私たちは全てのことを予め定めておられるという神の予定について、私たちが持っている貧弱な知識や漠然とした認識で、身勝手に想像してはいけません。「神が全てのことを予め定めて行われる。」という言葉は、「神の我がままな判断によって誰かは救われ、誰かは見捨てられる。」というふうの1次元的な意味ではありません。それよりもっと大事な「すべてのことを知り、ご計画なさる。」という神の全知全能についての意味として受け止めるべきです。もしかして、神が全てのことを知り、予めご計画なさる方ではないなら、私たちは神を絶対者、全能なる方だと呼べるでしょうか。人間の救いという一部の事柄ではなく、神の全能さという全体的な脈絡を理解すべきでしょう。 「正しい者はいない。一人もいない。… 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12)そもそも罪を持って生まれる、すべての人類は不浄な存在です。もしかしたら、すべての人類が滅びることが、神の秩序にふさわしいかもしれません。しかし、神は滅ぼされるべき人類から救われる者をわざわざお選びになります。皆が見捨てられるのが原則なのに、神はその中から、わざわざ救いを与えてくださるのです。「救う義務のない神が、救われる権利のない人間をわざわざ選び、救われる。」ということです。 従って、神の予定は差別ではなく恩寵です。そして神は、誰かに「君は救われる。君は滅びる。」と強いて言われません。主は、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んで」おられます。(テモテ一2:4)救い主イエスを遣わされ、福音を宣べ伝えさせた理由も、その福音を聞き、救われる者を呼ばれるためです。今日の本文で、エサウは自ら長子の特権を軽んじ、簡単にヤコブに譲ってしまいました。神は前もって機会を与えてくださったのに、エサウは自らそれを捨てたのです。神は全能であり、すべてのことを知っておられる方です。しかし、神は残酷な暴君のように人間の運命を勝手に定めることはなさいません。神は常に機会をくださり、人の自由な意志を尊重してくださいます。しかし、機会をくださるにも拘らず、その機会を無視する人がいることを、神はすでに知っておられるのです。神はそのように救われる者と、救われない者を予め知り、定められるのです。 締め括り 今日も聖書ははっきりと語っています。世のすべての人が救いを得ることは出来ないと。ただ主の福音に反応し、悔い改め、信仰を持って生きる人だけが、キリストの義によって赦され、救いを得ることでしょう。いくら牧師だと言っても、キリストによる神の救いと福音を軽んじ、従わなければ決して救いは得られないでしょう。神はエサウに長子の権利(相続権ー神のお選びと約束)得る機会をくださいましたが、彼が自ら捨てることを知っておられました。そして今現在ヤコブに貪欲な本性があるものの、結局、長子の権利を大切にし、神の御前に立派な信仰者として立つことをすでに知っておられたのです。神はいつも人間に機会をくださる方です。福音を与え、信仰にお招きになります。ですが、それに応じるか否かは、その福音を聞く人次第です。従って、私たちはすべてを予め知り、選んで定められる神の予定を、神の暴政ではなく、神の全能さを説明する概念として受け入れるべきでしょう。もし、皆さんが、神から遣わされたキリストを、唯一の救い主として信じ、その方を通じてのみ、義を得、神の子となることを信じておられるならば、皆さんはすでに神に選ばれた存在だと私は確信します。そして神はご自分が確実にお選びくださった皆さんを世の終わりまで守り導かれるでしょう。神の確実なお選びによって、この世を生きる志免教会の上に神の豊かな恵みと愛があることを祈り願います。