神を冒涜する罪
レビ記24章10-16節(旧201頁) マルコによる福音書3章20-30節(新66頁) 前置き 14世紀から15世紀にかけて、ヨーロッパには100年戦争という、イギリスとフランスとの大きい戦争がありました。その戦争でフランスを救った有名な英雄の中には、私たちがよく知っているジャンヌ・ダルクという女性もいました。しかし彼女は、自分の祖国を救ったにもかかわらず、神聖冒涜という濡れ衣を着せられ、火あぶり刑に処せられました。彼女の罪名は「邪悪な魔女であり、悪魔の声を聞き、王権と教会権を乱す神聖冒涜者」でした。しかし実は、当時フランスの政界と宗教界は彼女を利用して、必要がなくなると自分たちの利益のための生け贄として殺したというわけでした。無実の罪で殺された彼女は1920年に初めて、カトリック教会の聖人と認められ、晴れて無罪の身となりました。残念なのは、歴史上、ジャンヌ・ダルクのように、政治家や宗教家の利益のために、無実にもかかわらず神聖冒涜の罪で処刑されたケースが多かったということです。このように神聖冒涜は特定の集団の利益のために間違って用いられることが非常に多かったのです。人間の罪の性質は、神の神聖ささえも神の栄光ではなく、自分たちの必要のための道具として用いたのです。それでは聖書は、この神聖冒涜について、どのように語っているのでしょうか。果たして真の神聖冒涜とは何でしょうか。今日の新約の本文を通して、聖書が語る真の神聖冒涜について、考えてみましょう。 1.旧約に現われる神聖冒涜の事件。 400年間、エジプトの奴隷であったイスラエルは、神によって救われ、ついにエジプトの奴隷生活から逃れることができました。神は彼らを解放され、シナイ山に導いてくださいました。また、彼らに神の律法である「十戒」を与えられ、神と世を執り成す聖なる国民として打ち立ててくださいました。そういうわけで、イスラエルは自分たちの欲望と利益のために生きる存在ではなく、神の栄光のために生きる聖別された存在としての特権と義務を持つ、神の所有として生まれ変わりました。ここで特別なことは、神様がアブラハムの血統ではなく、神様への信仰を通してイスラエルを選び出してくださったということでした。「イスラエルの人々の間に、イスラエル人を母とし、エジプト人を父に持つ男がいた。」(10)神のお導きにつき従ってエジプトを立ち去った人々の中には、純血のアブラハムの子孫でない人たちもいましたが、その中にエジプト人の父を持つハーフもいたのです。 つまり、神はイスラエルという共同体を民族ではなく、神への信仰の有無で、ご規定なさったということです。 この点を通して、私たちは神が血統ではなく信仰をお測りになり、ご自分の民をお呼びになる方であることが分かります。相手が誰でも神を信じる存在なら、神の御目にはイスラエルであるということでしょう。ところで、ある日、エジプト人の父を持つある男が大きな過ちを犯してしまいました。それは神の御名を冒涜したことでした。「イスラエル人を母に持つこの男が主の御名を口にして冒瀆した。人々は彼をモーセのところに連行した。」(11)父がエジプト人であるにもかかわらず、イスラエルの一員として認められ、神の律法まで受けた彼でしたが、彼は十戒の第三の戒を破って神の御名を口にして冒涜したわけです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト20:7)もちろん、第3の戒に記してある「主の御名をみだりに唱える。」という言葉と、今日の本文の「主の御名を口にして冒涜する。」という言葉の原文は異なる単語でしょうが、広い意味としては第3の戒めに含まれることで、神の存在を否定し、その御心に逆らうことを意味します。結局、彼は神様に呪われ、石で打ち殺されました。このように、旧約時代には、すでに神の民に選ばれた存在さえも、神を冒涜すれば、赦されることが出来ない厳重な時代だったのです。 2.神聖を冒涜した律法学者たち。 ところで、今日の新約本文にも、このように神聖を冒涜する場面が見られます。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、あの男はベルゼブルに取りつかれていると言い、また、悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると言っていた。」(22)まさにイスラエルの宗教指導者である律法学者たちが、貧しい民の面倒を見ておられるイエスを悪霊の手下と貶める出来事でした。律法学者たちは旧約聖書を研究し、民に聖書の御言葉を教える先生たちでしたが、聖書の知識とは別に、神様から遣わされたイエスの正体を全く見抜くことができず、イエスを中傷し、むしろ主の御業を否定して、呪いをかけていたのです。律法で常に大事にされている隣人への愛と神への愛を行っておられるイエスの御業を見ても、彼らは自分たちの既得権だけに目が眩み、律法を守りつつ働いておられたイエスを、ベルゼブルという悪魔の手下と貶めたわけです。イエス・キリストは、罪によって神から遠ざかっている罪人たちに悔い改めを促し、その悔い改めを通して神様と和解させてくださるために来られた救い主です。イエスが貧しい民を癒し、御言葉を教え、福音の宣教をしてくださった理由は、罪人を救おうとする神の御意志を成し遂げるためでした。つまり、イエスの御業が、すなわち神の御業だったということです。なのに、イスラエルの律法学者たちは、むしろイエスの御業を悪魔の仕業と扱き下ろすことで、律法で禁じられている神への神聖冒涜を犯してしまったのです。 ここでちょっと、今日の新約本文に登場するベルゼブルとは、どんな存在なのでしょうか? ベルゼブルとは、古代のカナンで崇拝されていた男神であるバアルに由来します。バアルは「支配者、主、王」という意味ですが、長い間カナンの最高の神とされていました。その後、バアルという名称は「高い所の主」という意味の「ベルゼブル」に変わっていたのです。おそらく古代のカナンの人々が雨と雷の神であったバアルを高い所に住む神と信じ、「高い所の主」と呼ぶようになったでしょう。ところで、ユダヤ人は、このベルゼブルをベエルゼブブと変えて呼んだそうです。「ベエルゼブブ」は、ベルゼブルに似た発音ですが、その意味は全く違うものでした。ハエの王をという意味を持っているからです。おそらく、イスラエルの神を真の神だと信じていたユダヤ人が、異教徒の神であったベルゼブルをからかい、「つまらないハエの王」と呼んだことに由来したと思います。しかし、ハエの王という滑稽なあだ名とは別に、ユダヤ人にとってベルゼブルは、あらゆる悪霊を支配する強力な悪魔であり、神の正反対にある邪悪な存在とされていました。このようにイスラエルの神から遣わされたイエスをベルゼブルの手下と考えたというのは、神様の御業を悪魔の仕業と見なしていたことに等しい深刻な問題でした。それだけに、当時のイスラエルの宗教指導者たちは、神の御業と悪魔の仕業も、見分けがつかないほど、霊的に堕落していたのでした。その堕落は、知らないいちに神聖冒涜の罪をもたらしました。 3.神聖冒涜にもかかわらず。 しかし、今日の旧約本文とは異なり、律法学者たちは何の呪いも受けていませんでした。「イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。どうして、サタンがサタンを追い出せよう。サタンが内輪揉めして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」(23、26)むしろ、イエスは律法学者たちに、悪魔が悪魔を追い出すことはなく、そうすれば、むしろ悪魔の力が弱まるだけだと教えてくださいました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(27)また、イエスは、ご自身がそのベルゼブルのような悪魔たちを縛り上げられる強い方であることを比喩を用いて、教えてくださいました。つまり、イエスは悪魔ではなく、むしろ悪魔を裁く全能者であることを教えてくださったのです。 そして、イエスはご自分のことを貶めるのが、いかに深刻な神聖冒涜なのか、教えてくださいました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)聖霊は人々に、イエスの救いと愛を信じさせてくださる存在です。しかし、律法学者たちは自分たちの罪によって、イエスを信じることができず、むしろ呪いをかけてしまいました。それは聖霊の御業を妨げる神聖冒涜にあたる罪でした。しかし、主は彼らを呪われ、罰されるより、彼らを赦してくださることを望んでおられました。 律法学者たちが神聖を冒涜する罪を犯しましたが、新約本文と旧約本文の間には大きな違いがありました。旧約本文にも新約本文にも神聖冒涜が見つかりますが、旧約のエジプト人の息子は殺され、新約の律法学者たちは生き残りました。それは、なぜでしょうか? それはイエスの存在によってでした。イエスは呪い、殺すために来られた方ではありません。むしろ救い、生かすために来られた方なのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)今日のこの言葉は、主が律法学者たちに呪いをかけられるように見えますが、この言葉には、もっと深い意味があります。すでに28節で、どんな罪や冒涜の言葉が赦されると言われた主が、29節では、赦せない罪もあると仰るのにはぶつかり合いがあるからです。したがって、29節の言葉は、罪の根本的な原因を赦さないという意味として受け止めるべきだと思います。なので、私は28、29節の言葉を、このようにも読めると思います。「律法学者たちよ、お前たちの罪と冒涜は赦される。しかし、君らを罪に導き、イエスを信じられないようにする悪霊、すなわち聖霊を冒涜する存在たちは必ず裁きを受ける。」 つまり、イエスはご自分を呪い、冒涜した律法学者たちの罪までも赦してくださったということです。そして、その裏面にある、より根本的な悪への裁きをお告げになったのです。これがイエスの存在理由です。罪人を赦され、罪の源をお裁きになることです。 締め括り 新約聖書が語る神聖冒涜とは、「イエスを信じず、拒否すること」です。そういう意味として、我々が生きているこの世は、神聖を冒涜する世界です。日増しにイエスを信じるのが難しい世の中になりつつあります。会社では日曜日に仕事をさせ、学校では日曜日に部活などをさせます。世の中の文化はキリスト教の信仰をつまらないものだと言い募ります。世の風潮は霊的な関心より、肉的な関心により集中させています。結局、イエスを信じにくくしているのです。このような神聖冒涜の世の中で、神はそれでも変わることなくイエスを信じる者を探しておられます。終わりの日、イエス・キリストは、必ずこの神聖を冒涜する世を裁かれるでしょう。そして、この堕落した世界の支配者である悪魔たちをお裁きになるでしょう。また、イエスのもとへ進み、信じ、聞き従う者たちを救われ、報いてくださるでしょう。このような世の中で、我々はどのように生きていくべきでしょうか? ご自分のことを呪い、冒涜した律法学者たちさえ、お赦しくださったイエスを仰ぎ見、より一層、キリストへの堅い信仰を持って生きることを願います。また、本文の律法学者たちのような、世の人々を悔い改めへと導く私たちになることを願います。神聖冒涜の世の中で神聖を尊重し、イエスへの信仰を貫いていく志免教会になることを願います。