契約と割礼
創世記17章1-10節(旧21頁)ローマの信徒への手紙2章28-29節(新276頁) 前置き 前回は2度にわたる創世記16章の説教を通して、アブラハム、サラ、ハガルの不信仰を考えてみることが出来ました。「相続人を与える。」という神の約束を完全に信頼することが出来なかったアブラハムとサラの不信仰、アブラハムの子を身ごもって、鼻高々になったハガルの傲慢など。アブラハム、サラ、ハガルが罪のゆえ、どれだけ不完全な存在だったのかを通して、人間の限界について改めて顧みることが出来ました。しかし、重要なことは、そのような人間の限界があるにも関わらず、神は決して彼らを見捨てられず、堪忍して待ってくださり、憐れんでくださり、導いてくださったということでした。今日の創世記17章は、その愛の神がアブラハムとサラに、いっそう具体的な相続人の誕生の約束をくださり、かつてアブラハムと結ばれた契約を堅く守っていかれることを強調する箇所です。このように神は罪人に罰だけを下される無慈悲な存在ではなく、罪人のことを顧みられ、回復を望んでおられる愛の神なのです。私たちは、初めの人間の堕落以来、一貫性を持って変わらず人間を見捨てず、愛し、導いてこられた神の愛を深く覚えるべきです。今日は創世記17章を通じて愛の神が罪を犯す不完全な人間と結ばれた契約、またその証拠であった割礼について分かち合いましょう。 1.民と契約を結んでくださる神様。 創世記15章で、神はアブラハムと契約を結んでくださいました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創15:5)現代の我々は、「契約とはビジネス的なものであり、いざという時は破棄も在り得るだろう。」と考えるかもしれません。しかし、アブラハムの時代の契約は違いました。 契約を破った者は、相手によって、どんな悲惨な目に遭っても抗議できない、まるで命がけのような行為でした。15章で、神は真っ二つに切り裂かれた動物の間を通り過ぎ、アブラハムに相続人を与え、彼を通して大いなる国民を打ち立ててくださるという約束をくださいました。真っ二つに切り裂かれた動物の間を通り過ぎる当時の契約のやり方は、契約を破った者が、そのように惨めに死ぬという意味でした。 ところで、神はアブラハムではなくご自分だけが、そこを通り過ぎてくださいました。それは「完全なる神様が、不完全なアブラハムではなく、移り変わりのない御自身を保証にして、永遠にアブラハムとその子孫を守ってくださる。」という契約への堅い御意志と愛とを示すものでした。そして今日の本文は15章のその契約をもう一度確かめる場面から始まります。「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(創世記17:1-2) 神様はアブラハムが75歳の時、彼と契約を結ばれて以来、それを忘れず24年ぶりに現れ、過去のその契約をもう一度確証されました。人間は神様との約束を忘れても、神様は人間との約束を決して忘れられません。神は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と言われました。ところで、この言葉のヘブライ語の文章は、古代中東の国々の条約の前置きのような形で書いてあるそうです。歴史家たちによると、古代世界では国家間に主従関係があったそうです。強い国が弱い国を屈服させ、強制的に保護者としての役割を自任し、変わらぬ忠誠と貢物を求めたということです。そして、本文で神様はこのような方式でアブラハムとの契約を再確認なさいました。もちろん、神が当時の強大国のように武力で強制的にアブラハムを征服され、苦しめられたという意味ではありません。ただし、人間であるアブラハムが神様の御心を理解できるように、人間のやり方を借りて、武力による忠誠ではなく、愛による信仰を求められたということです。アブラハムは、過去24年間、少なからず不信仰な生き方をしてきました。そういうわけで神様は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」という言葉をもって、アブラハムに「神様と契約を結んだ民なら、それにふさわしい人生を生きなさい。」と婉曲的に戒められたわけです。その時はじめて、アブラハムは神様と結んだ契約の中で栄えていくからでしょう。 今日本文に登場する契約という言葉はヘブライ語で「ベリット」と言います。この「ベリット」は「断ち切る」を意味する動詞「バサール」に由来する名詞だそうです。それでは、何を断ち切るという意味でしょうか? おそらく、神様と何の係わりも無かった過去の罪に満ちた人生を断ち切り、今後、神様の民として新たな人生を生き始めるという意味ではないでしょうか? 基本的に神様はその民と契約を結び、お交わりになる方です。これは罪によって神様を離れてしまった人間が、過去の生き方を断ち切り、改めて神様の民になるという意味だからです。 つまり、神様は罪人をご自分の子としてお呼びくださり、新しい人生を生きさせてくださるために、罪人と契約を結ばれるのです。 これは神様のためではなく、罪人のための契約なのです。我々は、このような神の契約を、またキリストを通しても、改めて見ることができます。アブラハムの子孫と呼ばれるイエスはなぜ十字架につけられ、真っ二つに切り裂かれた動物のように悲惨に死なれたのでしょうか。それはイエスが贖罪のために民の代わりに死に、罪の呪いを断ち切るためでした。契約を守れない存在が死ななければならなかった古代社会において、イエスの犠牲は神様が罪人の代わりに死んでくださったという意味を持っています。(15章参照)そして、イエスは復活なさり、罪人との契約を全うしてくださいました。私たちは、このようなキリストを信じることによって、アブラハムが神様と結んだ契約を再確認することが出来ます。そして、そのイエスを通して、私たちは神様の子供として、神様との契約者として、御国の民として永遠に生きるです。 2.人間側の契約の象徴-割礼。 「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。」(倉17:10)神様は今日の言葉を通じてアブラハムとの契約を再確認され、アブラハムに割礼を命じられました。この割礼には一体どんな意味があったのでしょうか。「あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。 包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(創世記17:13-14)割礼は神の民が神様と契約を結んだという象徴であり、男性の重要な部分に痕跡を残す行為でありました。つまり、包皮を切る行為(バサール)を通して、神様との契約(ベリット)の痕跡を民の体に残すことでした。神様はこの割礼を非常に重要に思われ、割礼を受けなかった者は神様との契約を拒否し、破った者と見なされ、民の中から断たれるほど厳重な刑罰に処されました。 なぜなら、この割礼とは神様の契約に応える人間の応答だったからです。神様が切り裂かれ動物の間を通り過ぎて契約を結ばれたならば、民は男性の包皮を切り取ることで神様と結んだ契約の証拠にしたわけです。神様は契約を結んだ人間が必ず割礼を受けることで、神様との契約を確証し、記憶することを望まれたのです。 また、割礼には二つの別の意味が含まれていたと主張する学者たちもいます。一つは子孫の繁栄のためでした。古代中東ではアブラハムの子孫であるイスラエルが打ち立てられる前にも、エジプトでは種族にしたがって割礼を行う場合があったと言われます。なぜなら、男性の包皮のゆえに生じやすい性病を予防し、また割礼を受ける前より、受けた後のほうが、妊娠の確率が高くなったからだと言われます。面白いことに、現代医学でも、この主張がある程度、認められており、世界保健機関でも男性の包皮を切る手術を勧める発表があったそうです。二つ目は、割礼を通して子孫の出産を神にお委ねするという意味があったからという主張です。古代の社会では男の性に子孫を残す重要な機能があるため、大事にされました。しかし、その一部を刃物で切り取るということは男の性の死を意味することだったのです。つまり割礼は男性、すなわち人間の力で子孫を栄えさせるのではなく、神だけが子孫を栄えさせてくださるという象徴だったのでしょう。したがって、割礼には神様に種族の繁栄をお任せし、その方が子孫を守り、導いてくださるという信仰が込められていたということです。神様は生命をくださる方だからです。このように割礼には科学的にも信仰的にも少なからず意味があるという主張も存在します。 それでは、私たちが生きる現代において、割礼はどのような意味を持っているのでしょうか。明らかなことは、イエスの復活以来、この旧約の割礼という儀式の機能は無くなったということです。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」(ローマ4:11)使徒パウロはローマ書を通して、割礼が持つ本来の意味について解き明かしました。当時ユダヤ人たちは、割礼を受けなければ、神の民ではないと主張し、初代教会の中にも、そのような思想を持った者が少なからず存在しました。しかし、パウロは割礼そのものに力があるわけではなく、割礼は神への信仰の象徴にすぎないと力説しました。イエス様が十字架で罪人たちを救ってくださった後、主はイエスへの信仰を持って生きる罪人たちをお赦しくださり、永遠の契約を結んで神様の民と認めてくださいました。旧約時代には割礼の痕跡を通して神様との契約を表したとすれば、キリストの復活後からはキリストへの信仰を通して神様との契約を表すということです。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、律法の条文ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28-29)したがって、イエスを信じる私たちは体や行いで神様との契約を証明することが出来ません。 ひとえにイエス·キリストを信じる信仰だけで、神との契約を証明することが出来るのです。 前置き 今日は創世記17章を通して、契約と割礼について話してみました。私たちは神様との契約の中に生きています。神様は御自分の民と契約を結ばれ、彼らが過去のように罪人としてではなく、契約の中にいる神様の子供として生きることをお望みになります。旧約では、その契約の証拠として体に割礼を受けたとすれば、現代を生きる我々キリスト者は、イエスへの信仰を証として、神との契約を結んだ存在です。もうこれ以上肉体の割礼で神の民になるのではなく、ひたすらキリストへの信仰と関係を通して神様と契約を結ぶのです。ですから、キリストを通して神様と契約を結んだ者らしく、私たちの心を神様に捧げ、神様の御心に聞き従う者として生きていきましょう。今日の新約本文のように「霊によって心に施された割礼こそ割礼」なのです。神様を信じない罪、他人を憎む罪を心から断ち切るために神様のお導きを求めて生きましょう。ご自分の血潮を流して私たちを神との契約へと導いてくださったイエス様が、私たちの心の中に聖霊による割礼をくださり、毎日私たちを新しく導いてくださるでしょう。キリストによって神様と契約を結んだ存在、主の聖霊によって心の中に割礼を受けた存在という我々のアイデンティティを覚え、主と共に一週間を生きていく志免教会になることを祈り願います。