主こそ民を顧みられる神

創世記16章1-16節(旧20頁)エフェソの信徒への手紙1章17-19節(新353頁) 前置き 神に召され、カナンに来たアブラハム夫婦には10年が経っても子供がいませんでした。神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(15:4)と約束されましたが、その約束は、成し遂げられる気配が見えませんでした。結局、アブラハムの妻サラは、神の御心ではなく、自分の判断に従ってアブラハムに一つ提案をしました。それは自分の女奴隷のハガルを二番目の妻にして相続人を設けようとの話でした。しかし、話しはサラの考えとは違う方向に流れていきました。 ハガルは結婚して身ごもると、自分の女主人であるサラを軽んじたからです。これによってサラは心を傷つけられ、ハガルはサラに憎まれ、アブラハムはハガルを見捨ててしまいました。これにより私たちは、神の約束を待ち望まなかった、アブラハムとサラがもたらした悪い結果を目撃することになりました。その結果は思いもよらなかった人間関係と家庭の破綻でした。神はいつも聖書を通して私たちに約束をくださいます。そして、その約束が叶うまで待つことを望んでおられます。創世記16章は神の約束を待ち望むことがどれだけ重要か、神の約束を無視した人間の態度が、どんな結果をもたらすのかを示してくれます。今日はもう一度、創世記16章について話してみたいと思います。今回は、アブラハムとサラではなく ハガルの立場から探ってみましょう。アブラハムとサラを通して神の約束への待望の大事さを学びましたが、ハガルを通しては何を教えてもらえるでしょうか? 1.高慢になってしまったハガル。 創世記16章の出来事が起こった主な理由は、アブラハムとサラの不信仰によるものでした。神は明らかに相続人の約束をくださいましたが、アブラハムとサラは、それを待たず自分たちの判断通りに振舞い、神の約束を無視したわけです。しかし、ハガルにも16章の出来事への少なからぬ責任がありました。それはハガルの高慢でした。「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」(4)当時、ハガルはエジプトから連れてきたサラの女奴隷に過ぎない身分でした。なのに、どうして妊娠と同時に女主人であるサラを軽んじることが出来たのでしょうか。その理由は当時の社会相にありました。 現代にも女性の人権は男性に比べて劣悪な方ではないかと思いますが、アブラハム当時の社会では女性の人権は、はるかに劣悪でした。 女性は男性の財産の一部と見なされ、夫や息子のいない女性は家畜や品物のような扱いを受けるしかありませんでした。このような社会で女性が一人の人格として尊重されるためには、夫と相続人が必要でした。 ところで、ハガルにいきなり夫が出来、また、女主人にはいない相続人を身ごもったのですから、どれほど鼻高々となったことでしょうか。ハガルは、自分が女主人を蹴落としてアブラハムの正妻になったと思ったのでしょう。 急に身分が上昇したと思ったハガルは奴隷という自分の地位を忘れ去り、高ぶってしまったわけでした。 アブラハムとサラが神の約束を待ち望まず、間違った決定を下したとしても、もしハガルが自分の立場を弁えて謙遜に行なっていたら、16章の出来事は起こらなかったかもしれません。むしろ二番目の妻としてサラに認められ、アブラハムにも愛されたかもしれません。 ですが、鼻高々となってしまったハガルは、自分の高慢によってアブラハムとサラから追い出されてしまいました。 創世記16章はハガルに対して一度もサラと同等に扱っていません。 ヘブライ語原文では側女ではなく妻として一度言及していますが、当時の文化に照らしても、聖書の文脈に照らしても、ハガルは明らかにサラより低い地位にある存在でした。 7節から登場する主の御使いも、ハガルをはっきりサラの奴隷だと呼んでいます。「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。」(箴言16:18)、新旧約を問わず、聖書は常に謙遜であることを命じます。 人は人生を通していつも浮き沈みを繰り返します。 名誉、財物、権勢を得る時があれば、そのすべてを失う時もあります。人は神ではないからです。したがって、人はいつも移り変わる自分の立場を認め、力があろうが無かろうが、神の御前でへりくだってあるべきです。高慢な者は必ず倒れるからです。確かにアブラハムとサラの不信心が今日の物語の発端です。ですが、その出来事の本当の理由は、ハガルの高慢からだったと言っても過言ではないでしょう。 2.無関心と排除を経験するハガル。 アブラハムは、サラとハガルとの葛藤を見て、無責任な姿勢で一貫しました。「サライはアブラムに言った。私が不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたの懐に与えたのは私なのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、私を軽んじるようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように。アブラムはサライに答えた。あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(15:5-6)アブラハム当時の遊牧民文化における一夫多妻制は一般的なものでした。その理由は多くの子供を得るためでした。当時は今のように工場やスーパーマーケットは無い時代でしたので、すべてを自給自足しなければなりませんでした。そのため、将来の労働力となる子供が多いことは祝福とされました。「若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。」(詩篇127:3-5)そのため、一夫多妻制にも関わらず、円滑な出産と家庭の平和のため、本妻ほどではありませんでしたが、二番目の妻、三番目の妻たちも、ある程度尊重されていたそうです。ですが、アブラハムはハガルを尊重せず、あまりにも簡単に見捨ててしまいました。 当時、ハガルが感じた裏切られた気持ちと絶望は、どれほど大きかったでしょうか。 世の中の誰も自分の味方ではないと思ったはずでしょう。 結局、ハガルはエジプトに立ち帰ろうとしました。もちろん本文にはエジプトに帰ろうとしたという話はありません。 ただ、ハガルが「荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとり」(7)にいたと言うだけです。さて、ここでシュル街道という場所が登場しますが、これは出エジプト記にも登場しています。「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を3日の間進んだが、水を得なかった。」(出エジプト記15:22)シュルとはエジプトからカナンに向かう途中にある荒れ野地域なのです。 つまり、カナン地域に住んでいたハガルは、自分の故郷エジプトへ帰る途中、シュルという地域に留まっていたわけです。 旧約聖書におけるエジプトという表現は、地域としてのエジプト、国家としてのエジプトという意味と共に、象徴的に「偶像崇拝」「圧制」「罪」「不従順」などの否定的な概念として、よく使われる表現です。つまり、ハガルは象徴的に神の民の座を離れ、神に逆らう偶像の地に戻ろうとしていたとも解釈できるでしょう。ハガルは自分の高慢によってサラに過ちを犯しましたが、その結果は夫の無関心、共同体からの排除でした。高慢になったハガルの罪は明らかな間違いです。しかし、アブラハムとサラの無関心と排除は、ハガルという人をさらに大きな罪の道に追い立てる、もう一つの間違いだったのです。このように、高慢と無関心、そして排除は、罪に罪を加える、より大きな問題を生むだけです。無関心と排除では何事も解決できません。 3.人間の問題を解決してくださる神。 しかし、神は無責任なアブラハムとは違いました。10年間アブラハムに現われなかったかのように描かれた神が、むしろアブラハムとサラから排除されたハガルには現れられたからです。主人公にも現れない神が、脇役を助けてくださるために現れたわけです。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです。」「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」(8-9)神はハガルに、彼女がやるべきことを教えてくださいました。神は彼女の行方を知らずに「お前はどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねられたわけではありません。これは情報を得るための質問ではなく、ハガルが冷静に現実を認識し、覚醒することを促す婉曲な表現なのです。言い換えれば「ハガル、君は誰なのか?君はアブラハムの妻となったが、相変わらずサラに仕える者だ。それは私の意志である。だから、サラのもとに帰って服従しなさい。」すなわち、神はハガルに主の御心を教えてくださり、彼女の高慢さを取り除き、罪の道に陥らないように助けてくださるために、彼女を訪ねて来られたのです。 また、神は不安を抱えているハガルを慰められるために、希望の約束を与えてくださいました。「私は、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。」(10-11)、神はハガルを祝福し、彼女の赴くべき方向を正しく示してくださいました。神は高慢と罪によって完全に崩れるところだったハガルを憐れんでくださり、彼女が新たなる人生を送れるように配慮してくださったのです。「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)ですと言った。それは、彼女が、神が私を顧みられた後もなお、私はここで見続けていたではないかと言ったからである。 そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。」(13-14)ハガルは自分を虐げた女主人サラや自分を捨てたアブラハムとは違って、自分を認め、今後の人生と息子を守ると約束してくださった神の愛を感じるようになりました。ハガルはエジプトからの奴隷であり、共同体に見捨てられた存在でありましたが、むしろ、この出来事を通じて万軍の主に出会うことになりました。そして彼女は自分のことを大切にしてくださる神への信仰を持ってアブラハムのところに帰ることになりました。人間たちの罪による葛藤と問題の中で、神は赦しと愛と希望をもって問題を解決してくださいました。葛藤と暴力は、問題を解決することができません。ひとえに、神によるお赦しと愛と希望だけが世の中の問題を解決できるものです。 締め括り 神に出会い、自分の位置を悟ったハガルは、神が自分に出会ってくださった場所をベエル・ラハイ・ロイ、すなわち「私を顧みられる生ける神の泉」と名づけ、その方との出会いを記念しました。神は創世記16章の主人公であるアブラハムとサラだけを大事になさる方ではありません。神は異邦の女ハガルという脇役にも、喜んで出会い、導いてくださる神です。神は彼女も同様に愛し給うた方なのです。 神はいくら小さな者であっても神に出会うことを望んでおられる方なのです。16章の葛藤の中で傷ついて絶望したハガルは悟らせてくださる神に出会い、その方への真の信仰を持つことになりました。パウロはエフェソ書を通じて、こう語りました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エフェソ1:17-19)今日も、神はキリストを通じて、民が神の御心を悟ることを望んでおられます。神がハガルに出会って信仰をくださり、彼女を顧みられたように、私たちのことをも顧みてくださり、キリストによる深い信仰を願っておられます。その方への信頼と信仰を持っていつも神の中で生きる志免教会になることを祈ります。