主の約束を待ちなさい。

創世記16章1~16節(旧20頁)ヘブライ人への手紙10章36節(新414頁) 前置き 先々週の創世記の説教では、人間の信仰と神の約束についてお話しました。私たちは、その説教を通して、人間の真の信仰とは「神から与えられた約束」という前提から、初めて始まると学びました。私たちは、キリスト者として生きていきつつ、信仰の重要性について、絶えず、聞き学びます。信仰がなければ神を喜ばせることが出来ず、信仰がなければ、キリスト者ではないと学んできました。しかし、私たちは、この信仰という言葉だけに集中したあまり、もっと大切なことを忘れてしまう時もあります。まさに、この信仰の主体が誰なのかということです。聖書は新旧約を問わず、人間の行いではなく、信仰によって救われると語っています。しかし、それは単に「信じる」という人間が中心となった、また別の行為を意味するものではありません。真の信仰とは、「私の心の欲望が叶うだろう。」ということを信じるのではなく、「神様が私たちに与えられた約束通りになるだろう。」ということを信じることです。 「私の願いを信じるのではなく、神の御言葉の約束を信じること」これが、先々週の創世記説教で分かち合った内容でした。今日は、その神の約束を信じるということについて創世記16章を通して、再び話してみたいと思います。 1.繰り返されるアブラハムの失敗。 創世記で、アブラハムの生涯を取り扱う箇所は、創世記11章29節から25章7節まで、非常に長い紙面を割いています。このようなアブラハムの長い物語を説教しつつ、一つ、悩みが生じてきました。それは、アブラハムの信仰にある頻繁な浮き沈みのことでした。アブラハムは信仰の失敗と回復を創世記の読み手に繰り返し見せてきました。おそらく読み手は、彼の生涯を眺めながら、繰り返される失敗と回復に疲れを感じるかもしれません。そして、それらを説教する人も、アブラハムの不安定な信仰の故に、ある時はアブラハムの信仰の回復を、またある時はアブラハムの信仰の失敗を説教して、特に違いの無い説教を、一週間おきに繰り返すことになるでしょう。これは説教者の立場では、本当に困ることだと思います。ところが、この失敗と回復が繰り返されるアブラハムの生涯は、全く無意味なばかりなのでしょうか。私は、このようなアブラハムの信仰の浮き沈みが、ただアブラハムだけの問題ではないと思いました。現在を生きていく私たちの生活は、果たして、いかがでしょうか?私たちは、アブラハムに勝る存在でしょうか?我々はアブラハムの浮き沈みを介して、自分の信仰の現状を鑑みなければなりません。私たちは、時には信仰が強くなったり、また時には信仰の弱さを経験したりします。つまり、私たち自身にも信仰の浮き沈みがあるということでしょう。ひょっとしたら、聖書は浮き沈みが繰り返されるアブラハムの生涯を通して、むしろ、それを眺めている私たちに、自分の信仰を顧みることを訴えているのかもしれません。 今日の物語(16章)は、アブラハムが神に出会ってから、10年後の出来事です。つまり、創世記15章の主とアブラハムとの契約から、かなり時間が経っている状況だったのです。しかし、神の約束とは違って、アブラハムには、未だに子供がいませんでした。 「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(創世記15:4)10年前、神は、アブラハムに何よりも感激的な相続人の約束をくださいました。しかし、その約束は10年が経った今でも、全く成就されておらず、アブラハムを焦(じ)らしているだけでした。アブラハムが住んでいた古代中東の社会で、相続人がいないというのは「彼は神々に呪われた。あるいは、彼には権威がない。」などと、人々に嘲笑を受けるべき、大きな欠陥だったからです。現代では子供がいなくても、そんなに大きな問題とされないと思いますが、当時に相続人がいないというのは、社会的な欠格事由となるほどの深刻な事柄だったのです。そして、それは、アブラハムの妻サラにも、同じく心配事になりました。息子がいないサラは、アブラハムよりも、さらに大きな嘲笑を受ける立場だったからです。つまり、相続人が生まれてはじめて、アブラハムとサラは、自分たちの社会的な地位と権威を認められるのでした。なので、彼らは自分なりのやり方で相続人を設けるために工夫し、計画を立てました。それは二人目の妻(原文ではサラと同等、側女ではない。)を迎えることでした。しかし、これは、むしろ家庭内の争いと、神のご計画に反する騒動をもたらす種になってしまいました。これにより、アブラハムは再び信仰の失敗を経験してしまいます。 2.アブラハムの失敗がもたらした種子。 「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。 サライはアブラムに言った。主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷の所に入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。アブラムは、サライの願いを聞き入れた。」(16:1-2)当時、アブラハムとサラの出身地であるウル地域では、妻が不妊だったら、二人目の妻を迎えて、相続人を出産する場合が珍しくなかったと言われます。そして、二人目の妻は代理母ではなく、一夫多妻制による正式な妻でした。なので、新共同訳の側女という表現は、原文のイメージと多少ずれる点があります。(日本と文化が違う)1番目の妻は2番目の妻より、大きい権威を持っており、2番目の妻が子供を産めば、共同の子供として育てました。なので、サラは自分の文化の仕来りに従って、二人目の妻をアブラハムに提案し、アブラハムはそれを受け入れたわけです。しかし、ここには一つの問題点がありました。 「主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷の所に入ってください。」サラは、神が自分を通して、子供をくださらないだろうという、全く根拠のない自分の独断的な判断に従って、神のご意志を勝手に解釈してしまったことでした。実際に、神はアブラハムの体を通して子供を授けると約束してくださいましたが、その子がサラの子なのか、他人の子なのかについては、明らかにしておられませんでした。しかし、神は「サラではなく、他人を通して生ませる。」とも教えておられませんでした。まだ何も決まっておらず、神の約束は依然として有効だったのです。なのに、アブラハムとサラは、自分なりの熱心さで、身勝手に振舞ってしまったわけです。彼らの思いでは、その熱心が正当だったのかも知れませんが、神への信仰においては、神のご意志を限定しようとした、もう一つの信仰の失敗となってしまったということでした。 「神はアブラハムを通して相続人を授けると仰ったが、その子が、必ずしも、サラを通して生まれるだろうとは言われなかった。とにかくアブラハムの子供が生まれれば良いじゃないか?」という考えが、彼らにあったわけでしょう。結局、アブラハムはサラの女奴隷ハガルを妻に迎え、しばらくして、身ごもりました。サラは自分の女奴隷が身ごもったので、ウル式にその子を通して、子無しの汚名返上を図っていたかも知れません。しかし、その結果は別の方向に進みました。 「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」(4)予想とは違って、ハガルはサラを軽んじたからです。ここで私たちが知っておくべきことは、ハガルはウルではなく、エジプト出身者だったということです。学者たちは、このエジプト人ハガルが、アブラハムが飢饉を避けるために行ったエジプトから出てくる時、連れてきた奴隷であると見なしています。なので、結婚への文化的な概念自体が異なっていたということです。おそらくサラはハガルの子であるが、その子を通して自分の権威が保たれるだろうとの、ウル的な思いを持っていたはずでしょう。しかし、エジプト人ハガルの思いは、それとは、また違う点があったようです。結局、アブラハムとサラは、神の約束の実現のためという口実で独断的な判断を下したあげく、また、新しい問題を作ってしまいました。神はサラの子イサクを通して、アブラハムの子孫を受け継がせる計画を持っておられましたが、彼らの独断的な判断は、神の御業を妨げ、家庭の争いと共に、イシュマエルという計画されていない息子まで生ませてしまったのです。 3.信仰において待ち望みが大事な理由。 このような状況で、サラは自分がハガルをアブラハムに与えたにもかかわらず、奴隷ハガルを虐め、夫アブラハムを責めました。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」(5)すると、アブラハムは無責任に、ハガルを放り投げてしまいます。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(6)最終的に、ハガルは、アブラハムの無関心とサラの虐めで、苦しさのあまり逃げてしまいました。しかし、神は彼女を見捨てられず、御使いを送ってくださり、荒れ野の泉のほとりまで逃げた彼女に出会って、ハガルと彼女の息子のための約束をくださいました。 「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」(9-10)、結局、ハガルは、神の御言葉に服従し、アブラハムとサラのもとに戻っていき、彼らに従順に仕え、一緒に暮らしました。そして、息子のイシュマエルを産んだのです。神はアブラハムとサラに与えられた約束のように、ハガルにも、その子孫を祝福し、栄えさせるとの約束をくださって、この出来事を一段落させられました。 今日の出来事は、神の約束への待ち望み、つまり忍耐の不在から起こりました。その始まりは、創世記12章のアブラハムが飢饉を避けてエジプトに行ったことから始まります。神がアブラハムに「祝福の源にする。」という、同道の約束をくださったにも関わらず、アブラハムは自分の判断でエジプトに下り、その時、連れてきたハガルによって、今日の出来事が起こったわけです。(全てがハガルのせいではないが、要らない出来事が生じてしまった。)15章で、神は必ずアブラハムを通して相続人をくださると仰いましたが、その約束には、基本的に妻サラを通して生まれる子供への約束だったはずでしょう。(文脈上)しかし、アブラハムとサラは、自分たちの判断により、その約束を歪曲し、最終的には、ハガルとの結婚により、家庭の争いと約束されていない子供が生まれるという悲劇につながりました。ヘブライ人への手紙には、このような言葉があります。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)神の約束を信じるということは、人の目に、その見通しが立たなくても、その約束をくださった神の御心を根拠にし、成就されるだろうと信じることです。自分の考えとは違っても、すぐに道が開けてこなくても、その約束を与えられた方の完全さに頼って、その約束を信じ込むことです。約束の達成という甘い結果ではなく、その結果を成し遂げられる神の御業という過程を信じることです。そういうわけで、神を信じると自負する者に、必ず求められるのは待ち望みと忍耐なのです。神の御考えと人間の予想は、全く違うからです。忍耐のない信仰は、人間の欲望に過ぎず、その欲望の終わりは、今日の物語のように破綻になるだけです。 締め括り 「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ10:36)私たちは、信仰生活をしつつ、どんなに祈っても叶わない経験をしたりします。子供のために切に祈ったのに子供が不良学生になったとか、ビジネスの上で切に祈ったのに不渡りになったとか、人間関係のために切に祈ったのに、むしろ人間関係がさらに悪くなったとかなどの場合もあります。それらの場合、応えてくださらない神に失望し、信仰が揺らいでしまう時もあるでしょう。そして祈りを止めてしまうこともあります。まだ、神の時ではないのに、自分の忍耐不足のため、諦めてしまうのです。もちろん、最後まで叶わない願いもありますが、その願いへの答えは、神様に属する事柄なのです。我々は自分自身ではなく、祈りを聞かれる神の立場から考えてみる必要があります。自分の祈りが叶うのが、自分の欲求を満たすことなのか、神の御心を待ち望むことなのか、振り返る必要があるでしょう。聞いてくださる方は神様です。聞いてくださるという意味は叶えてくださる方も神様であるという意味でしょう。神が望まれる時、神が望まれること、神が望まれる計画などを、聖書の言葉を通して黙想しつつ、それに応じて待ち望み、忍耐する必要があります。そして、「そうではなくとも」というダニエル書の御言葉のように決定の主導権を神様にささげる信仰を持って神様のお働きを待ち望むべきです。信仰は忍耐との戦いです。そして、その忍耐を持って神の御心を待ち望むのが、真の信仰なのです。忍耐ある信仰者になっていきましょう。そして、私が願う時ではなく、神が成し遂げてくださる時を待ち望みつつ、主を信頼していきましょう。