人間の悲惨さ。

創世記12章10〜20節 (旧 16 頁) ローマの信徒への手紙7章21〜25節 (新 283 頁) 前置き 神は如何なる正しさも無かったアブラハムを、神の主権的なお選びを通して、ご自分の民としてお召しくださいました。そして、それからアブラハムを大きな国民になさり、彼らを通して、この世を祝福してくださるとお告げになりました。以後、神の約束は成し遂げられ、イスラエルという民族が打ち立てられ、最終的には、そのイスラエルを通して、世界を救うイエス・キリストが来られるようになりました。しかし、その道筋には、数多くの試行錯誤と紆余曲折もあったのです。もちろん神様に力が足りなくて、試行錯誤や紆余曲折があったわけではありません」。神に召された人々の失敗により、そのようなことが起こってしまったわけです。神に召されても、人間は依然として力不足の存在であり、罪のゆえに苦しむ存在です。人間から完全に罪の影響が消える日は、キリストが再臨なさる終わりの日であるため、その日が来るまで、私たちはやむを得ず、罪の影響下に生きなければならなりません。これが人間が持つ最高の悲惨さです。今日はアブラハムの物語を通して、人間の悲惨さについて分かち合い、神がその惨めさの中で、どのように人間を導かれるかを話してみたいと思います。 1.アブラハムという人が持つ意義。 私の知り合いの牧師が旧約学の博士号取得のために、エルサレムで何年間か滞在したことがあります。彼から聞いた逸話ですが、その人の現地の知人の中に警察官がいたそうです。ある日、その警察官が儀礼的な検問のために車を止めさせたようですが、車の中には、友達4人が乗っていたそうです。ところで、その4人の名前がす​​べてイブライム、すなわちアブラハムだったという話でした。日本の名前で例えてみると、運転席の男は佐藤アブラハム、助手席は田中アブラハム、運転席の後部座席には、鈴木アブラハム、助手席の後部座席には高橋アブラハムが座っていたわけです。皆がアブラハムという同じ名前の友達だったのです。そればかりか、全世界的にもアブラハムという名前は多いです。それだけにアブラハムという人の存在は重んじられていると思います。このようにアブラハムは、ただの聖書のエキストラに過ぎない存在ではありません。アブラハムは、神にも、人間にも非常に重要に扱われる存在です。なぜアブラハムはこのように重要な位置を占める存在となったのでしょうか? 創世記1章から11章までは、アダム以後、人間の罪と罪人たち、そして、その間に弱くても生き長らえてきた正しい人の系図について取り上げています。しかし、本格的な救いの歴史は、まだ現れていない状況でした。ところが、このアブラハムを中心として、今まで薄ぼんやりとだけ見えていた、救いの歴史が一層顕著に展開しはじめました。神は、アダムが堕落した後、彼の子孫が生き残ることが出来るように、彼らを見捨てられず、常に彼らと共にいてくださいました。特に、彼らの中でアブラハムの祖先であった、アダムの三男、セトの子孫は神の特別なお守りの中に生きてきました。これは彼らを介して、メシアを遣わそうとなさった、神のご計画によるものでした。そして、神は、その計画をアブラハムを通して、初めて明確に成し遂げていかれました。これは、このアブラハムという人の息子と孫によって、確立される国民、すなわち、イスラエルを通して人間を救う救い主が来ることになっていたからです。それほどアブラハムは、罪人の歴史の中で、本格的に正しい人の歴史を立てていく記念碑的な人です。そういうわけで、聖書は、このアブラハムを信仰の父と呼ぶのです。 2.アブラハムという罪人。 しかし、このように偉大なアブラハムも、創世記では、たまに残念な姿を見せます。今日の本文は、そのようなアブラハムのがっかりな姿の一つです。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」(創12:10)まず、彼は神に伺わずに、エジプトに下って行きました。古代にあって、飢饉というのは、現代の私たちが感じる旱魃や、大雨などとは比較できないほどの、危険なものでした。飢饉に遭ったら、すぐに死んでしまうとの認識でした。アブラハムがウルを離れた理由も、この飢饉によることだったと推定されるほど、飢饉は人間の生命を脅かすものだったのです。このように飢饉を恐れる古代人たちの姿については、十分に理解できる部分だと思います。しかし、アブラハムが見落としたことがありました。それは神の存在でした。アブラハムがウルで、神を知らないうちに飢饉を経験したとすれば、今回の飢饉との違いは、アブラハムの傍らに神がおられたということです。かつて神は彼を祝福の源にすると祝福なさいました。これはすなわち、神がアブラハムと共におられるという約束でもあったのです。しかし、聖書を読めば、アブラハムは、神に何の要求も質問もしなかったということが分かります。結局、彼は、ただ自分の判断に従って、神を無視し、カナンを去ってしまったということでしょう。 ここで、もう一つの問題は、アブラハムがエジプトに下ったということです。旧約聖書で、エジプトといえば、比喩的に人間の罪と堕落を象徴したりします。つまり、アブラハムは、自分の判断に基づいて、神が定めてくださった場所を離れて、罪と堕落の人間の場所に行ってしまったということです。このように神に伺わず、自分の判断に従ってエジプトに行ってしまったアブラハムの罪は、以来、まるでドミノのように連鎖反応を引き起こし始めます。 「エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。」(創12:12-13)恣意的な判断でエジプトに行ったアブラハムを待っていたのは、現地人の警戒だったのであり、アブラハムは生き残るために、いざとなったら自分の妻を捨てようとする非倫理的な罪の心を持っていたのです。 「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。 アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。」(創12:14-16)生き残るために妻を他人に渡したアブラハムは、その対価として、ファラオと同盟を結び、また、多くの財産を得ました。それでも聖書にはアブラハムが悔い改めたという言葉が、たった一言もありません。妻を諦めて、安全と富を得たというのは、まさに彼が神に頼らず、自分の意志で生きようとする人だったという意味ではないでしょうか? 結局、神はサライのことで、エジプトに恐ろしい病気を下されました。ファラオは、この災いにより、サライがアブラハムの妹ではなく、妻であることを知るようになりました。エジプトが罪と堕落の象徴として言われるところだったとしても、そこに住む人たちも、結局は、私たちのような普通の人でした。日韓感情によって、両国のイメージが、互いに良くなくても、日韓のすべての人が、そのような悪人ではないように、エジプトの人たちも、家族や職場と生活がある普通の人だったわけです。アブラハムは、自分の命を守るために、エジプトの人々にも恐ろしい病気という大変な迷惑をかけてしまったのです。まとめてみましょう。アブラハムは神に伺わないことで神を無視し、自分の判断に従い、エジプトに行ってしまいました。エジプトでは、生き残るために、自分の一人だけの妻を妹だと騙し、他人に渡して安全と富を保障されました。自分の嘘のゆえに、エジプトの多くの人々をひどい目に遭わせました。また、今日の言葉には出て来ませんが、不正で増やしたエジプトからの財産のゆえに、甥のロトとの関係が悪化し、彼を滅ぼされるべき、罪の町であったソドムとゴモラに行かせてしまいました。そのため、最終的にロトの家庭が破壊される結果をもたらしました。 3.人間の悲惨さ。 人が神に召されたからといって、自動的に正しい人になるわけではありません。 2020年の統計で、全世界で21億人のクリスチャンがいると言われます。これは現存人類の33%に達する数字です。しかし、すべてのクリスチャンが本当に神の御前で正しく生きているのでしょうか?毎週、説教する牧師だと言って、皆、正しく生きていると断言することはできません。毎週、教会堂に出席していると言っても、神様に認められていると勝手には言えないでしょう。アブラハムのような偉大な信仰の人物でも、結局、罪のために、今日の本文のような出来事を起こしてしまいました。こういうのが人間の悲惨さです。人がいくら自分の思いで、これは正しいと考えても、その結果が人間の考えとは正反対に出たりすることがしばしばあります。 「罪に落ちたというのは、どういうことですか?-それは人間が神の律法を破り、神から与えられた自由を乱用して、かえって、真の自由を失ってしまい、欲望と不従順との奴隷となってしまったことです。」日本キリスト教会の大信仰問答、人間編45問では、人間が堕落の罪によって、神に与えられた真の自由を守れず、かえって、その自由の乱用により、罪の奴隷となってしまったと教えています。 ひょっとしたら、アブラハムは飢饉のため、神に伺ってみようとの思いも持てずに、取り急ぎ、今まで通りに自分の決定に従い、エジプトに行ったのかもしれません。しかし、神のいない自由を乱用した結果、神を無視することになり、妻を裏切り、正しくない富を得、他人に災いを起こす、悪い結果をもたらしました。これがまさにアブラハムを通して表現された信者に潜んでいる悲惨な罪なのです。これはただ、アブラハムのみの事柄ではないでしょう。私たちも人生の中で神の御心とは関係ない、自分の思いに捉われて、勝手に行なってしまった後、悔い改めた経験があるでしょう。今日の新約本文で使徒パウロはこう言いました。 「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。内なる人としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」(ローマ7:21-23)私たちがキリストを信じ、聖書を読み、切に祈り、信仰生活をしても、罪は相変わらず、私たちの中に残っています。そして、その罪は連鎖反応を起こし、私たちの人生を惨めに作ります。私たちは、自分の中に、このような悲惨さが、依然として残っていることを謙虚に受け止め、自分の弱さを認めなければなりません。そして、そこからキリストに依り頼み、悔い改めるべきです。自分の罪と弱さと惨めさを認め、神に求める人に神は避ける道をくださるからです。 締め括り 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)神は、後にアブラハムを再びカナンに導かれ、彼に生きる道を与えてくださいました。アブラハムは罪を犯しましたが、神はお赦しをもって、彼のすべてを回復させてくださり、再び神の御前に生きさせてくださいました。私たちキリスト者も、もともと罪と悲惨さから自由ではありませんが、神はキリストを通して、そのような私たちが、その罪と悲惨さに勝ち抜く力を与えてくださいます。あの偉大なアブラハムも罪のゆえに躓きました。自分の妻を売り、他人を苦しめる罪を犯したのです。ましてや、我々は罪から自由なのでしょうか?そうではないでしょう。しかし、神は私たちが、そのような生活の中で勝ち抜くことができるよう、キリストを通して一緒に歩んでくださいます。人間は悲惨な存在です。しかし、その悲惨さをキリストは知っておられ、そのために聖霊を通して、一緒にいてくださるのです。今日の言葉を通して、私たちを罪と悲惨さに見捨てられず、導いてくださる神を仰ぎ見ることを願います。