神を知る知識。
イザヤ書1章11- 17節 (旧1061頁)マルコによる福音書1章21-28節(新62頁) 前置き 今日の新約の本文は、一ヶ月前に分かち合ったイエスがカファルナウムの会堂で悪霊を追い出された本文と同じ箇所です。しかし、前の説教で取り上げなかった話しがあり、今日は異なる視点から本文をもう一度探ってみたいと思います。私は一ヶ月前の説教で悪魔の性質について話しました。神の御心に逆らって、自分自身が神のようになろうとするのが、悪魔の代表的な性質であるとお話しました。アダムとエヴァが神を裏切った理由も、自分が神のようになるためであり、バベルの人々が罪を犯してバベルの塔を建てた理由も、自分たちが神の御座に上って行こうとする理由からでした。そして、私たちが生きていくこの世界も、自分が神のようになり、他者を踏みつけ、さらに高いところに上がろうとする、悪魔の性質に似ている所であると説教しました。このような世の中で、キリストの体なる教会、すなわち、キリスト者は、神の御座を奪おうとする悪魔の性質に対抗して、唯一の神のみに仕え、主の御心にふさわしい生活をしなければならないというのが、この前の説教の主題でした。今日は本文が持っているもう一つの部分について考え、私たちが貫くべき在り方について、分かち合いたいと思います。 1.天使と悪魔。 古代ヘブライの、ある文献の中に、このような文章があるそうです。 「神の御心に従う人がすなわち天使であり、神に逆らう人がすなわち悪魔である。」これは善いことをすれば天使となり、悪いことをすれば悪魔となるという、単純な話ではないでしょう。また、霊的存在としての天使と悪魔への知識だけにとどまる意味でもないと思います。おそらく、この文章の本当の意味は、神の御言葉に対する人間の心構えに従って、人間が善良な存在になることも、邪悪な存在になることも出来るという意味でしょう。イランとインドの地域にはゾロアスター教という宗教があります。有名な哲学者ニーチェの著書である「ツァラトゥストラはこう語った。」のツァラトゥストラが、まさにこのゾロアスターです。ゾロアスター教は、そのゾロアスターという人が打ち立てた宗教なのです。この宗教は天国と地獄、天使と悪魔などを認める教義を持っていました。ところで、この宗教はヘレニズム時代に西洋に渡っていき、ギリシャやローマの文化に影響を与え、インドの方にも渡っていき、ヒンドゥー教や仏教に影響を及ぼしたそうです。そんな影響で、旧約聖書では、あまり示されなかった天国と地獄、天使と悪魔に関する概念が、ヘレニズム文化の影響を受けた新約聖書には、より顕著に現れていると言われます。 東アジア地域に住んでいる私たちは、大なり小なり、このゾロアスター教の影響を受けた仏教文化圏で生きてきました。また、キリスト教の教義でも、そのような影響を少なからず見つけることができます。もちろん、天国と地獄、天使と悪魔は存在すると信じています。彼らの存在を認める新約は、神に与えられた御言葉であり、旧約でもそのような概念が全く無いわけではないからです。しかし、我々は天国と地獄、天使と悪魔を、漠然と私たちが住んでいる現実と懸け離れたものとして受け入れてはならないでしょう。むしろ、旧約を記録した、古代ヘブライ人の視点から、天使と悪魔について考えて見るべきだと思います。もし、神の御言葉を聞くだけで、実践の無い、ただ頭の中の知識としてのみ、受け入れるだけならば、我々は結局、神に従わない悪魔のような人と評価されてしまうかも知れません。反対に私たちが神の言葉を情熱を尽くして信じ、実践するなら、私たちは神に天使のような存在として褒められるでしょう。私たちに「信仰によってキリストに救われた。」という信仰があるなら、私たちはそのキリストに救われた者が持つべき在り方にふさわしい存在として、神に聞き従う人、善を行う人、天使のような人として生きていくべきでしょう。 2.悪魔も持っている神への知識、しかし。 イエスがシモン・ペトロとアンドレ、ヤコブとヨハネを召された後、ある安息日に、主は彼らの町であったカファルナウムの会堂に入って行かれました。むかしバビロンによってエルサレムの神殿が崩れた後、ユダヤ人たちは、神殿の不在による民族の信仰の堕落を挽回するために、町々に会堂を設置し、それを中心に信仰と社会を導いていこうとしました。以後、新しい神殿が再び建てられましたが、会堂を中心とする彼らの生き方は変わりませんでした。つまり、会堂はまるで今の教会堂と役場の両面性を持つ場所だったということです。当時、ラビなら誰でも会堂で聖書の説き明かしを行うことが出来ました。ラビの一人と見なされていたイエス様も、会堂で解き明かしされるためにお入りになったのです。ところで、そこに汚れた霊に取りつかれた男がいたのです。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(23-24)大勢の人々が主の御言葉を聞いて、「権威ある者のようなお教え」に驚いていた時、イエスが神の聖者であることを最初に見抜いたのは、普通の人ではなく、この悪霊に取り付かれた者でした。 一部の人々は、この言葉を読んで、こう考えることもあるでしょう。 「さすが、主は偉大なお方だ。悪魔たちも、イエスがどなたなのか、きちんと知っているのだ。ならば、私たちも、彼らに負けるわけにはいかない。よりいっそう主を熱心に信じ、聞き従おう!」ですが、当時の文化の背景であったヘレニズムの観点から見れば、その悪霊に取り付かれた人が叫んだ「あなたは神の聖なる者だ。」という言葉は、単に造り主、唯一の神への畏敬の念を持つ服従の意味としての叫びではありませんでした。これは、古代ギリシャの神殿で行われていた「神を呼び出す行為」と似ているものだったのです。彼らはイエス・キリストを自分の救い主、この世界の支配者として受け入れて告白したわけではなく、「偉大なゼウスよ、神聖なる神々よ。」のように異邦の祭礼的な表現として、イエスを呼んだのです。彼らはイエスを聖なる者と言いましたが、彼らの行為は、そのイエスに仕える者の姿ではありませんでした。人に取り付いて、彼らを苦しめ、傷付ける邪悪な仕業をしていただけです。彼らはイエスに滅ぼされないことだけを願って恐れていたのです。私たちが、いくら教会で「主を信じます。神を愛しています。主は聖なる方です。」と告白しても、それが実践のない、ただの口先だけの叫びにすぎなければ、結局、私たちも本文の悪魔が持っていた神への間違った知識と、そんなに違いが無いのかも知れません。神を知る知識は、言葉だけで示されるものではありません。キリストの民にふさわしい生き方がなければ、それはただ、神に認められない、無意味な知識で終わってしまうでしょう。 3.神を知る知識 – 関係と実践。 旧約聖書には、「ヤダ」というヘブライ語の表現があります。これは日本語で「知る」、「理解する」と翻訳できます。ところで、この「ヤダ」が意味する「知る」という意味は、頭だけで知るという意味ではありません。旧約聖書で「ヤダ」を用いて表現した非常に印象深い箇所があります。創世記18章の話です。三人の神の使いがソドムとゴモラを滅ぼそうと行く途中、アブラハムがその使いたちに会って食事を持て成しました。その時、神様が彼らを手厚くもてなしたアブラハムにこう言われました。 「わたしがアブラハムを選んだのは、彼をとおして息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創世記18:19)この言葉に「わたしがアブラハムを選んだ。」という表現が出てきますが、ここで「選んだ。」という言葉が「ヤダ」を翻訳した表現です。神はアブラハムを非常に信頼なさり、その人を通して素晴らしい御業を成し遂げようという意味で彼を「ヤダ」つまり、お知りになったという意味です。私たちが神を知ることは、まず神様が私たちを知ってくださり、私たちに神への知識を与えてくださったことを意味します。そして、その知識は、単に「知っている」という意味を超える「神との密接な関係」を意味するのです。つまり、神を知るということは、神とキリスト者の間に主従関係を結び、主のご意志に服従し、信頼するという意味です。 今日の新約本文の悪霊も、イエスを知ってはいました。主が神の独り子であることも、偉大な審判者であることも知っていたのです。しかし、イエスへの彼の知識は、関係という意味での知識ではありませんでした。ただ頭で知るだけのものでした。イエスの御言葉に聞き従う意志も、心もなく、イエスが命じられた「自分の体のように隣人を愛しなさい。」という言葉のような、他人への配慮と愛もありませんでした。神への彼の知識は、ただ知っていることだけにとどまるものだったのです。異邦の偶像崇拝者が生きてもいない神々に自分の欲望のために意味のない祈りをすることと同じように、悪魔が理解していたイエスは、主としてのイエスではなく、ただ自分と関係のない存在への認識であるだけだったのです。私たちは、神をどのように理解しているでしょうか?また、神をどのように知っているでしょうか?ただ、祈りと礼拝とを捧げれば、祝福してくださる神という意味だけで信じているのではないでしょう?人が神への正しい知識を持っているならば、それは神との関係、つまり、生活での実践を通して示されるべきです。会堂で悪霊に取り付かれた者と周りの人々を苦しめていた悪魔のような行為をしながら、ただ、頭の知識だけで、神を知っていると思うなら、神はその知識を否定なさるかも知れません。そして「私はあなたを決して知らない。」と言われるかも知れません。私たちは、今日の本文を通して、どのように神を知り、理解しているのかを顧みるべきでしょう。私たちは、神を知っていますか?そうであれば、私たちの生き方は、どのような方向に進むべきでしょうか? 締め括り 「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、わたしの庭を踏み荒らす者よ。洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」旧約のイスラエルの民は、神への誤った理解を持っていました。異邦の偶像のように、ただ多くの供物と祭礼を捧げれば、神が祝福してくださるだろうと思ったのです。しかし、神は、ご自分の民が生け贄を捧げるより、神の民らしく生きることをお望みになりました。頭の知識だけで、従順に聞き従う行為なしに生きることは、神の御前に大きな罪になります。私たちの生活の中で必ず、神への知識に相応する実践が必要です。確かに私達の救いはイエスの御救いにかかっています。ひとえにイエスへの信仰だけが我々を救いに導きます。しかし、善い行いを無視して、救いだけを追い求めて生きているのなら、私たちは自分の信仰が正しいかどうか省みるべきだと思います。イエスをまともに知っている者は、神を愛され、隣人を愛されたイエスに倣って生きようとする意志を持って生きるからです。人は誰でも天使のようにも、悪魔のようにもなることができます。神を知る正しい知識を持って、キリストの民として神と隣人を愛し、キリスト者らしい人生を生きていきましょう。神の祝福は、このような知識の実践のある生活にあるからです。