人間をとる漁師。

エレミヤ書16章14-18節 (旧1207頁) マルコによる福音書1章14-20節(新61頁) 前置き 先々週、マルコ書の説教では、悔い改めについて話しました。悔い改めとは、神の国の民らしく生きようと決意するキリスト者が、必ず追求しなければならい、キリスト者の生き方であると話しました。単に一度、口先で自分の罪を悔み、それで神に赦されたと満足して済ませることではなく、イエス・キリストの御救いに感謝し、主の御言葉に、常に聞き従って生きていく生き方。罪人から正しい人に身分が変わった人としての、新たな生き方が、まさに悔い改めの生なのです。従って、聖書で語られる悔い改めの単語的な意味は、「立ち返る、Uターン」と解釈できると話しました。私たちは、キリストの救いによって、神を知らない罪人の身分から、神を知っている正しい人の身分に、新たにされた存在です。なので、我々は毎日、自分の生活の中での罪を告白し、神とキリストの御心にふさわしい存在として生きていくべく努める必要があります。そのような生活の中で再び躓き、罪を犯してしまうたびに、キリストの御名によって罪を告白して、絶えず省みて、神の御心にふさわしく生きていこうとするのが、まさに悔い改める者の生き方なのです。今日は、この悔い改めて生きる民として、私たちが弁える(わきまえる)べき心構えについて本文を通して、分かち合いたいと思います。 1.主の弟子になるということ。 今日の本文には、先々週の説教の本文であった3章14-15節をも加えました。なぜかというと、16-20節に登場する「イエスの弟子になる。」ということと、14-15節での「悔い改めて福音を信じる。」ということの間には密接な関係があるからです。 「イエスは、私について来なさい。人間をとる漁師にしようと言われた。 二人は、すぐに網を捨てて従った。」(17-18)ここで人間をとる漁師という言葉は、後で説明することにして、まずはイエスの召しと、それに応じた弟子たちについて話してみたいと思います。洗礼と試練を受け、福音を宣べ伝え始められたイエスは、すぐにガリラヤで弟子たちをお集めになりました。最初に召された弟子たちはペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの4人の漁師でした。当時の漁師は、貧困層から中産層まで、幅広い階層がいたそうです。聖書によると、ペトロとアンデレは、そんなに豊かではなかったようです。しかし、ヨハネとヤコブの家は雇い人たちを使うほど、経済的な余裕があったと思われます。イエス様は、家柄の貧富の隔たりを問わず、公平に弟子たちを、お召しになりました。主は今日も人の貧富や容姿で人を差別なさる方ではありません。主は誰でも、主に聞き従おうとする者らを弟子にしてくださいます。 ところで、4人の弟子たちには、共通点がありました。それは「諦めて従った。」ということです。 「すぐに網を捨てて従った。」(18)「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(20)新共同訳聖書には、ペトロとアンデレは「網を捨てて」、ヨハネとヤコブは「父を残して」と翻訳されていますが、ギリシャ語原文では「捨てる。残す。諦める。」等の意味を持つ単語「アピエミ」と記されています。主の弟子たちは、それぞれ自分の財産と家族を諦めて、主に付き従ったわけです。ところで、少し気になる部分があります。主に従うためには、すぐに自分の財産、仕事、家族、日常を諦めなければならないという意味なのかということです。私たちは僧侶でもなく、社会と完全に断ち切られて生きていく身でもないのに、どうやって財産、仕事、家族、日常を諦めて、主に従わなければならないというのでしょうか。主に従うために、すべてを諦めれば、今後の生活費は誰が稼ぎ、家族は誰が面倒を見、仕事をやめたとき、その損害はどのように補償されるというのでしょうか? 従って、ここでは文字どおり、「すべてのことを諦めなければならない。」と解釈するより、先にお話しました悔い改めの概念と繋げて理解する方が正しいことではないかと思います。今までの罪人としての生き方を諦めて、主の民に相応しい生き方を選ぶこと、主の召しに応じて、主が望んでおられる、正しい生き方を目指して生きていくこと、先ほど、悔い改めとは何かについて分かち合ったように、罪人としての生き方から立ち返るということが、この本文を通して、私たちが教えられる教訓ではないかと思います。もちろん、特定の状況下では、自分のことを諦め、無条件に主に従わなければならない場合もあるでしょう。(牧師への召しなど)しかし、日常を生きていく私たちの立場では「諦めて従う。」という意味について、過去の罪に満ちた生き方を悔い改めて、立ち返って主が望んでおられる生き方、悔い改めて主に聞き従う生き方をしていくという解釈の方が、より合っているでしょう。現代を生きる私たちが、主の弟子になるということは、そのような意味なのです。日常を、家族を、仕事を諦める必要はありません。それは主が願っておられるところではありません。ただし、私たちが罪に対して抵抗し、キリストに従って正しく生きようとすることが、私たちに求められる生き方なのです。 2.人間をとる漁師とは? 主は弟子たちを召されるとき、特異な表現を使用されました。それは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(17)でした。これを、あえて文字どおりに解釈すれば、「自分らの豊かさだけを考えてお金を稼ぐために、魚をとっていた、あなたがた漁師たちを、今後、人を救う伝道の働き人として使おう。」と解釈することが出来るでしょう。しかし、もっと深く、漁師という表現について考えてみたいと思います。旧約聖書で漁師や釣りなどの表現は、そんなに肯定的な表現ではありませんでした。今日の旧約本文を読んでみましょう。 「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。」(エレミヤ16:16)この言葉は神様が、過去、旧約時代に神様に絶えず不従順で通したあげく、バビロンに連行されてしまったイスラエルの民を救ってくださると約束なさった後、イスラエルの民に警告なさる場面です。わかりやすく言い換えると、「私は君らの救いを約束する。しかし、イスラエルに帰って過去のように罪を犯す場合、私は漁師に釣られる魚のように、狩人に狩られる獣のように、君たちを裁く。」という意味です。ここで、漁師は、裁きの表現として用いられました。 エゼキエル書には、このような表現もあります。「わたしはお前の顎に鉤をかけ、鱗にナイル川の魚をつけさせ、ナイル川の真ん中から引き上げる。お前のうろこについた川のすべての魚と共に。わたしはお前を荒れ野に捨てる。ナイル川のすべての魚と共に。お前は地面に倒れたままで、引き取る者も、葬る者もない。わたしは野の獣、空の鳥にお前を食物として与える。」(エゼキエル29:4-5)ここでは、漁師という表現はありませんが、邪悪なエジプト帝国を裁く媒介として漁師を思わせる表現が登場します。つまり、旧約聖書で漁師という言葉が持っていた意味は、神様の恐ろしい裁きと刑罰を意味する場合が多いのです。そういうわけで イエスの当時のイスラエル人たちにも、漁師という表現が持っているニュアンスは救いや伝道のイメージとは、異なって入ってきたかも知れません。ならば、主は弟子たちを用いて世を御裁きになるという意味で、これらの言葉をくださったのでしょうか?そうではないと思います。主イエスは、裁くためではなく、救うために、この地に来られたメシヤでいらっしゃるからです。主は、単純に御裁きの働き手とするために、弟子たちをお召しになったわけではないでしょう。 チャールズ・スミスという学者は、今日の本文をこう解釈しました。 「主が人間をとる漁師として弟子たちを召された理由は、単純に伝道だけのためではなく、差し迫った終末と裁きを宣言するためである。」今日の本文に対しては、いくつかの解釈がありますが、私はこれが割と適切な解釈ではないかと思います。私たちは、時には「人間をとる漁師」という語句を、漠然と伝道と関連付けて考えることがあります。私たちが伝道をしようとする理由は何でしょうか? 「人々がイエス様を信じて救われるように導かなければならないから。志免教会の将来のためにも、人々が増えるべきであるから。」など、いくつかの理由があるでしょう。もちろん、これらの理由も本当に大事だと思います。しかし、それと同じように重要なことは、主の弟子となり、人間をとる漁師に召されたならば、過去の旧約聖書が警告していた漁師のイメージのように、いつか主によってもたらされる終末と裁きをも人々に教える義務があるということではないでしょうか?クリスマスにイエスが来られた理由は、世の罪人を救うためでした。しかし、再び来られる再臨のイエスは、救いのイエスではなく、裁きのイエスです。私たちは、このような恐ろしい裁きがあることを知っている群れです。したがって、主の弟子、人間をとる漁師に召された私たちは、主の裁きを警告する見張り番としての役割をも持っていることを忘れてはならないでしょう。私たちは愛の主を伝えることと共に、裁きの主も伝えるべき使命を持っています。 締め括り 悔い改める者=主の弟子=人間をとる漁師。 私たちは、今日の言葉を通して、主の弟子になるというのは、悔い改めのある生を生きることと共に、神の裁きを警告する見張り番としての役割を果す者となることでもあると学びました。イエスを信じるということは、「イエスを信じて、祝福を受けて幸せに生きる。」ということだけの意味ではありません。もちろん救われた者たちは、そのような祝福の中に生きるようになるでしょう。しかし、使徒パウロは次のように語りました。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:10)真に救われた者なら、公に主を言い表すべきであるということでしょう。それには主の救いと裁きの御言葉も含まれていると思います。弟子としての人生とは、一生の間、罪の道から立ち返る悔い改めの生であり、罪の道に残っている人々に、救いと裁きの福音を宣べ伝える生なのです。私たちは、悔い改めの生を生きているでしょうか?私たちは、主の弟子として救いの福音を宣べ伝えて生きているでしょうか?私たちは、人間をとる漁師として、差し迫った神の恐ろしい裁きを人々に伝えているでしょうか?今日の言葉を通して、私たち自身の生活を振り返ることが出来ると思います。主の弟子、悔い改める者、人間をとる漁師としての人生になっているか、もう一度省みて、主に喜ばれる私達になりますように願います。