キリストによる幸いな人生。
詩編1編1‐6節 (旧835頁)マタイによる福音書5章3‐12節 (新6頁) 前置き 先日、竹内結子さんという俳優が自ら命を絶ったとのニュースがありました。彼女は2004年から4年間、連続して日本アカデミー賞で最優秀主演女優賞を受けており、米国の企業との合作ドラマ「ミスシャーロック」で熱演、西欧圏でも認知度を高めたそうです。今年1月には息子も出産し、一見、何の不自由もなく裕福に見える人でした。しかし、彼女は他人の知らない理由で、極端な選択をしてしまいました。彼女の悲報を聞きながら、人生とは、幸せとは何だろうと考えざるを得ませんでした。遺族に深い慰めの気持ちを伝えたいと思います。果たして幸せとは何でしょうか?人間は皆、幸いな人生を夢見ます。ひょっとしたら人々は幸せになるために、勉強し、働いて一生懸命生きていくものなのかも知れません。しかし、そのすべてを達成しても、依然として満足できずに渇望してやまないのが、人間の姿ではないでしょうか?このように財力と名誉を持っている人々の残念な選択を見るたびに、私たちは真の幸いな人生とは何か、もう一度考えてみるべきだと思います。クリスチャンである私たちは、本当に、幸せを感じつつ生活しているでしょうか?今日はキリスト者が追求すべき、幸せとは何かについて分かち合いたいと思います。 1.アジア人にとって、福とは? 冗談半分ですが、私たちは祝福の中に住んでいると思います。私たちが住んでいる地域が福岡県だからです。福の岡、本当に良い地名だと思います。来福して2年間、福岡県について調べて見る機会が何度もありました。玄界灘の綺麗な海、背振山地の緑色、筑紫平野の原野、清い空気、美味しい食べ物、美しい夕焼けなどなど魅力的なものが数えきれないほどありました。このような自然に恵まれた昔の人たちが、祝福されていると感じて、その中心部に福岡という町を建てたのかもしれないと思いました。「福」は日本でよく使われる漢字ですね。ところで、この「福」という文字は日本だけでなく、アジアの国々でも多く使われているようです。 中国には「福」の字が逆さまになった看板がたくさんあります。 「逆さ」という意味の「タオ」が、「来る」という意味の「タオ」と同じ発音で、逆さまになった福は、「福が来る」という意味になるからだそうです。韓国でも「福」という字をしばしば使います。元旦になると、「あけましておめでとうございます」というかわりに、「新しい年に、福がたくさんありますように。」という挨拶をします。このようにアジアの日本、中国、韓国はすべて「福」への特別な願いを持っているようです。 それでは、アジア人にとって、福とはどんな意味を持っているのでしょうか? 2014年、韓国の「改革主義説教学会」というキリスト教系の学術集会で「アジアの宗教においての福」というテーマでセミナーが持たれました。その時、ある発題者が、このような発表をしました。 「アジアの宗教が追求する最高の福は三つあります。第一は、自力で究極の実在と合一すること、第二は、人間のうちにある本質を回復して社会に役立つ存在になること、第三は、自分の限界を乗り越え、大我に至る宇宙的な歴史観を持つこと。」 これを簡単に表現すると、「自力で自らを救うこと、自らを発展させて社会を導くこと、超越した宇宙的な存在になること。」だと言えるでしょう。つまり、福とは「自ら努力して願いをかなえること」という意味に理解することが出来ると思います。このような思想は、仏教や道教などでも、たやすく見つかる概念です。これらの福の精神をもとにして、自ら努力して得る誉れ、権力、富などの立身出世も、結局、福の一部として位置付けられたことでしょう。アジア人にとって福とは、この「自ら努力して願いをかなえること」を意味するのではないでしょうか? それでは、世俗的な福に関する話は、ここまでして、私たちが神の御言葉だと信じている聖書では、この福について、どのように説明しているか、今日の本文を通して話してみたいと思います。 2.旧約が示している「幸いな人生」とは? 詩篇の第1篇はヘブライ語の「アシュレイ」という言葉で始まります。 「アシュレイ」は「幸いだ、幸せだ、福を得る、幸福だ。」との意味を持っています。詩篇1篇は150編の詩編を始める、前置きに当たる詩です。前置きとは、ある本の全体的な内容を述べる文章で、その本の序文だと言えるでしょう。つまり、「幸いだ、幸せだ、 福を得る、幸福だ。」を意味する「アシュレイ」で始まった詩編は、その後、150編という数多くの詩を通して、「真に祝福された幸いな人は、どのように生きるべきか」について教える書なのです。 「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(1-2 )先にアジアの宗教においての「福、つまり幸いな人生」が、自ら努力して願いをかなえることを意味するものであったならば、旧約が示している幸いな人生とは、主の教え、すなわち、神の御言葉を愛し、その御言葉に従う人生であることが分かります。 旧約のイザヤ書には、このような言葉があります。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。」(イザヤ44:6) 神は創造の初めであり、世の終末を成し遂げられる全能なる方です。本当に幸いな人は、神から離れ、自分の志のままに生きる者ではなく、初めと終わりである神の御旨を受けとめ、その御心に従って生きる者であるということです。初めの人は、なぜ神に呪われ、楽園から追い払われたのでしょうか?まさに自分が神のようになり、神を排除して身勝手に生きようとしていたからです。しかし、神はご自分が創造なさった人間が、神に従って生きることを望んでおられる方です。 「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉も萎れることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(3)神様と共に歩み、御言葉に聞き従う人は神に祝福されます。まるで、流れのほとりに植えられた木が、萎れることのないように、主と同行する者は、神の御助けのもとで生きていくのです。そして彼の人生は、神のもとで繁栄するようになるのです。私たちは自ら努力して願いをかなえるというアジアの宗教的な「福あるいは幸い」を追求して生きるわけにはいきません。なぜなら、私たちはキリスト者だからです。自ら努力して願いをかなえるということは、自分が神のようになる人生です。本当に幸いな人生は全能なる神を覚え、彼と共に歩み、その御言葉に聞き従うこと、つまり、神と同行する生き方であることを忘れてはならないと思います。 3.新約が示している「幸いな人生」とは? 今日の新約の本文にも「幸いな人生」についての言葉があります。先に詩篇1編では、神の言葉に聞き従い、彼と同行すれば、すべてのことに繁栄がもたらされるとの言葉がありました。私たちは、その言葉を読む時、知らず知らずに「神に聞き従い、同行すれば、栄え、成功し、出世し、楽に生きられるようになるだろう」と思うかもしれません。実際に、成功し、出世し、気楽に生きることも、ある意味で幸いな人生の一つだと言えるでしょう。そのような幸せも確かに必要です。しかし、神への従順から始め、自分の成功で終わる幸いなら、結局、最初、お話しましたアジアの宗教で語られる「幸いな人生」のために神を用いる冒涜になるのではないでしょうか?つまり、自分の幸いのために、神と共におり、従うことではなく、神と共に歩むこと、そのものが幸いな人生であるということを明らかにする必要があるということです。今日の新約の本文の最初の3節と最後の10節に共通に登場する語句があります。「〜人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」という言葉です。今日の新約の言葉が示しているのは、「幸いな人は、天の国を所有する人である。」ということです。「心の貧しい、悲しむ、柔和な、義に飢え渇く、憐れみ深い、心の清い、平和を実現する、義のために迫害される人々」これらの人たちは皆、神に天の国を与えられる幸いな人たちであるということです。 ここでの天の国とは何でしょうか?死後に入る楽園なのでしょうか?もちろん、そのような意味でもあるでしょうが、マタイ書が語る天の国とは、もっと深い意味を持っています。イエスの当時のユダヤ人たちには、神の御名をみだりに呼んだり書きしるしたりすることが許されていませんでした。そのため、ユダヤ人たちを対象にして、記されたマタイ書は「神」という呼称を「天」という言葉に振り替えて使ったのです。東アジア平和センターの黄南徳牧師は天の国についてこう説教しました。 「マタイ書に出て来る天の国とは、人間に基づいた、如何なる政治制度、経済体制、イデオロギーなどを示すものではありません。天の国とは、神様の御旨によって治められる全ての領域を意味するものです。政治、経済、社会、文化など、神の正義と平和が働かれる場所なら、どこでも、天の国となるのです。」つまり、今日の新約の本文は、天の国すなわち神の支配を積極的に受け入れ、待ち望む人々に関する話なのです。自分ではなく、神を中心とする人、主の言葉を自分の思考よりも大事にする人こそが、本当に「幸せな人」だということです。しかし、これは地上での「成功、出世、幸いな人生」とは、異なります。 「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(11)天の国、すなわち神が支配しておられる神の国を求め、その御旨に従うためには、この世が語る幸いと立ち向かわなければならないからです。 この世で成功するためには、他者を引きずりおろしたり、他者に損害を強要したりしなければならない場合もあります。しかし、天の国を追い求めるキリスト者なら、それを拒むべきです。また、キリストの福音を伝えるために、この世が大切に扱っている社会、経済、宗教的な価値を否定しなければならない場合もあります。もしかしたら、そんなときに社会的なイジメに直面するかもしれません。もし、そうなれば、私たちは本当に幸いになったと認めることが出来るでしょうか?聖書はキリストと神の御心のために、そのような辛い目に遭う時があり、むしろ、キリスト者なら、そのような生活を「幸いな人生」として受け入れなければならない時もあることを明らかにしています。その難しくて大変な人生が幸いな人生であるなんて、如何に皮肉なことなのでしょうか? 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(12)しかし、聖書はそのような生活の中でも、神は私たちをお忘れにならず、共におられ、天に私たちのための大きな報いを備えてくださると語っています。私たちの幸いは、どんな状況でも、私たちを見捨てられず、助けてくださる神様そのものです。キリスト教の幸いは、世のそれとは、全く違うものです。世のすべてに棄てられても、神のみには棄てられず、永遠に一緒に歩んでいただくこと、それこそがキリスト教の真の幸いなのではないでしょうか。 締め括り 私たちが信じているイエス・キリストは神様に棄てられた、この世の人類を神様に帰らせるために、苦しみと悲しみの十字架に、喜んで付けられました。この世の代わりにご自分が、神様に棄てられたのです。その全ては、この世の人々を神様と和解させるための主の自己犠牲だったのです。だから、このイエスを信じる私たちにとって、最大の幸せは、キリストによって我らをお召し出しくださった神様ご自身ではないでしょうか。聖書が語る「幸いな人」は、如何なる苦難と逆境の中でも、神様が共におられる人なのです。神が共にいらっしゃらなければ、どんなに豊かになったとしても、名誉を得たとしても、お金持ちになったとしても「幸いな者」になったとは言えません。苦難と逆境の中にいながらも、神を愛する人こそが、聖書が示している、真の「幸いな者」なのです。でも、神は単に苦しみだけをお与えになる方ではありません。神様も私たちがこの世で栄えて安らかに生きることを望んでおられる方なのです。したがって、一日一日を守ってくださり、共にいてくださる神様に感謝し、今の生活で喜びを持って生きていきましょう。私たちの幸せは、ひとえに神様にだけあります。その神と常に同行する「幸せなキリスト者」になることを願います。