洗礼と試練とをお受けになったイエス。(1)
詩編2編7-9節 (旧835頁)マルコによる福音書1章9-13節(新61頁) 前置き ローマ帝国の激しい迫害により、甚だしい試練に苦しんでいた初期キリスト者たちには絶対的な慰めが必要でした。迫害のために苦しんでいる神の民に、彼らを罪からお救いになり、永遠の命を約束なさったキリストが、迫害の中でも、相変わらず彼らと一緒におられることを思い出させる必要があったのです。そういうわけで記された本が、まさにマルコ書なのです。そのため、マルコ書は、4つの福音書の中でも最も簡潔かつ力強くイエス・キリストと彼の御業について述べています。私たちは苦難に遭った時、神はあの高い天の上で楽にしておられ、地上の私たちは苦難の中に瀕していると考えがちだと思います。世の中には、依然として不条理があふれ、善人より悪人が頭を擡げているかのような印象を受けやすいからです。しかし、マルコ書は絶えず私たちと一緒におられるイエス・キリストを証しし、主が苦難の中で私たちと共におられるということを訴えています。今日はマルコ書の、その二つ目の話を通して、罪人のために謙虚さと愛とをもって犠牲になってくださるイエス・キリストと、彼が受けられた洗礼について話してみたいと思います。 1.荒野の意味。 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)神は旧約の預言者イザヤを通して、神のメシアが臨むという啓示を与えてくださいました。神はイザヤの預言を通して、そのメシアが来る前に、神の民が荒れ野で、あのメシアの道を整え、彼の到来に備えることを命じられたのです。そのため、イスラエルの民は、荒れ野に特別な印象を持っていました。ローマ帝国の弾圧とイスラエル社会の不条理に苦しんでいた、貧しいイスラエルの民衆は、荒れ野の主の道を通して臨まれる神のメシアと、その支配を待ち望んでいました。荒れ野はイスラエルの民にとって希望の所でした。荒れ野からメシアが来られれば、苦しんでいるイスラエルを救ってくださり、神の国をうち立ててくださるはずだったからです。なので、荒れ野はイスラエルの民衆にとって、神の御裁きの象徴であり、解放の象徴でもありました。そんな荒れ野に洗礼者ヨハネと呼ばれる預言者が登場したという噂は、まるで「荒れ野で叫ぶ者の声」が現れたことと同様な一大事でした。洗礼者ヨハネの登場は、間もなくメシアが臨まれるという希望の前触れだったからです。 そういうわけで、メシアの到来を待ち望んでいたイスラエルの民衆は、洗礼者ヨハネのいる荒野に来て、洗礼を進んで受けました。洗礼者ヨハネの後から来られるメシアに大きな希望をかけて、待ち望んでいたからです。彼らはメシアが来られると不条理に満ちたイスラエルは新たになり、自分たちの苦痛も終わるだろうと信じていました。彼らはメシアが来られれば、暴政を事とする邪悪な王が追い出され、財力と権力しか知らない大祭司たちは罰せられ、見せ掛けばかりの知識人たちも誤りを問い詰められると思いました。とりわけ、神の強い力によって、ローマ帝国が没落、イスラエルの地に神の国が到来し、自分たちが、あんなにも待っていた解放が成し遂げられると信じていたのです。 「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」(詩篇2:9)まるで有名なメシア詩である詩篇2篇のように、世の悪い権力が、恐ろしい裁きを受けるだろうと信じていたのです。それだけに荒れ野は、イスラエルの民衆にあって特別な所であり、そこで悔い改めの洗礼を授けるヨハネは解放の象徴的な人物でした。そして、その荒れ野から来られるメシアは、この世を揺るがす存在でした。 2.洗礼を受けられたイエス。 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」(9)そんなある日、一人の青年が洗礼者ヨハネのところに来ました。彼はナザレの若い大工でした。彼はあまりにも素朴な姿でした。しかし、彼はあの荒れ野からのメシアでした。そのためか、メシアを待ち望んでいた人々は、彼がメシアであることを見分けられませんでした。それにも関わらず、洗礼者ヨハネは彼がメシアであることを一目で気付きました。その青年はイエスでした。今日のマルコ書の本文には出て来ませんが、マタイ書では洗礼者ヨハネの反応が出てきます。 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタイ3:14)神のメシアが自分の目の前に来て、受洗を請うた(こうた)のです。 400年以上を待ち望んでいたメシア、何よりも輝いて強力でなければならない神のメシアが、突然素朴な姿で現れたものです。洗礼者ヨハネは、罪人に聖霊と火の洗礼をお授けになるはずのメシアに、むしろ洗礼を授けることになり、少なからず戸惑いを感じました。しかも、罪人である自分に洗礼を請うているメシアです。迷っている彼にメシアはこう話しました。 「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです。」(マタイ3:15) イエスは全能なる神であり、荒れ野からのメシアであり、全世界の主である方でいらっしゃるのに、なぜ一介の人間である洗礼者ヨハネに洗礼を受けることを望んでおられたのでしょうか?そして、なぜイエスは、神の権能を持っておられたにも拘わらず、荒れ野の主の道で凱旋将軍の姿ではなく、素朴なナザレの大工の姿で来られたのでしょうか?メシアに関する有名な記録であるイザヤ53章には、メシアについて、このように記されています。 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」(53:2)私たちは、この箇所を通して、当初からメシアという存在が、軍事力による征服者や武力を伴う解放者ではないことが分かります。ひょっとしたら、荒れ野での主の道は、メシアの凱旋道路ではなかったかも知れません。イエスは強力な支配者ではなく、素朴な大工の姿で来られ、ヨハネの洗礼を受け、罪人を救うための公生涯をお始めになりました。しかし、人間の考えとは異なり、それでも、父なる神様は、その姿にとても満足なさったかのように言われました。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(11) 洗礼とは、罪への死と清さを意味する儀式です。今日もバプテスト教派では、水の中に沈む洗礼を行なっていますが、イエス様当時の洗礼も水の中に完全に沈んで出る形でした。罪人が水の中に入る行為は、罪に対して完全に死ぬことを意味することであり、水から出る行為は義に対して蘇ることを意味します。これは出エジプト記に出てくる紅海を渡る出来事に由来したもので、パウロは洗礼についてこのように話しています。 「わたしたちの先祖は皆…海を通り抜け、 皆…海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた。」(コリント第一10:1-2から)パウロはイスラエルが紅海を渡る出来事が、罪のエジプトから抜け出し、救いのカナンに入る清めの礼であると理解しました。つまり、洗礼は罪を洗う清めの礼の意味を持っているという意味です。だから、洗礼はひとえに罪人だけが受ける儀式なのです。ところが素朴な姿のメシアが、突然現れ、洗礼者ヨハネに洗礼を求めたのです。イスラエルの民衆も、洗礼者ヨハネも、白馬に乗った強力な王のようなメシアを待っていたのかもしれません。しかし、荒れ野のメシアは全く別の姿で現れ、しかも罪人が受けるべき洗礼を受けたのです。これは、人々が期待していたメシアの姿とは、あまりにも異なる失望すべき様子ではなかったのでしょうか。そのような理由なのか、時間が流れ、洗礼者ヨハネは、イエスにこのような質問をします。 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタイ11:2-3) 3.仕えるために来られたメシア。 イスラエルの民衆が念願していた荒れ野からのメシア、イエスは、征服者の姿ではなく、素朴な大工の姿で来られました。そして、この地上での御働きをお始めになる前に、罪人と共に洗礼を受けられました。これは、すべての人々が予想していたメシアの姿とは、全く違うものでした。神でいらっしゃるイエスは、自らみすぼらしい人間の立場に降りられました。罪のない神様でしたが、罪人の立場に進んで行かれたのです。そして、その全てのことは「正しいこと」を成し遂げるためでした。ローマ書を説教したとき、このような言葉がありました。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ10:4)イエス様が自ら罪人の立場に御降りになり、水で洗礼を御受けになった理由は、御自分を信じる者たちに神の義を与えてくださるために、イエス様が律法の目標になるためでした。ただの人間としては決して達成できない、律法の目標をイエス様が人間の立場にこられ、代わりに成し遂げてくださいました。イエスは罪のない神様でいらっしゃるので、罪を贖う権限があり、同時に人間でいらっしゃるので、その罪を代わりに背負うことも御出来になる方です。したがって、今日の本文に出てくるイエスが受けられた洗礼は、イエスが世のすべての罪人の代表者になると共に、すべての人間の弱さを代わりに背負う崇高な自己否定を意味するものです。 このような自己否定が、メシア、イエス・キリストの最大の特徴です。人々は強力なメシアを願っていたかも知れません。洗礼者ヨハネも自分に洗礼を授けてくださる強力なメシアを望んでいたかも知れません。ひょっとしたら、私たちもメシア・イエスが、強い力を持って、この世を御裁きになることを願っているかも知れません。しかし、初めて来られたイエスは、罪人への裁きではなく、罪人への赦しを持って来られました。主は自ら十字架での死に進み、罪人であるこの世の誰も達成することが出来なかった贖いと恵みをくださるために、強力な征服者ではなく、苦難のしもべとして来られたのです。イエスが受けられた洗礼は、ご自分が無慈悲な審判者になるためではなく、むしろ、無慈悲な裁きを受ける者になるための象徴的な出来事です。ここに今日のマルコ書の説教の主題が含まれています。いくら、強力な者が来て、世界を裁くと言っても、人々に罪の影響が残っている限り、世界は再び堕落してしまいます。罪の影響がはっきり解決されなければ、世界は、しばらくは清くなっても、間もなく罪によって汚されるはずだからです。したがって、真の救いは、罪の解決から始まります。罪が、その力を失うときに初めて、世界は本当に変わることが出来るからです。イエス・キリストは、素朴で低い姿で来られました。そして、自ら罪人に代わって、苦しみを受けるメシアとして来られました。イエスが洗礼を御受けになった理由は、独りで強力な審判者になるためではなく、一緒に罪から逃れるための、民と共におられる救い主であることを証しするためでした。 締め括り。 日本でキリスト教会は全人口の0.5%にも至らない微々たる規模の共同体です。どこから見ても、日本社会に大きな影響は及ぼせない存在です。そのため、為政者が靖国神社などを参拝したり、信教の自由に反する政策を広げたりするたびに、どんなにキリスト教系から声明を出しても、目立つ反応はありませんでした。そのたびに、教会の誰かはイエスが再臨なさって、この国を支配なさり、イエス・キリストの父なる神のみに仕える国になることを夢見るかもしれません。私たちは、そのように強力なキリストを願っているかも知れません。しかし、神はいつも人間の考えとは異なる方法で働かれる方です。神はむしろ微々たる力でも、日本の教会が一つになって、神の愛と福音を伝え、少しずつ、この国を変えて行くことを、より望んでおられるのではないでしょうか。まだ、神を信じていない99.5%以上の日本の人々を愛しておられる神様は、0.5%の教会を通して、日本社会に神の愛を伝え、残酷な裁きではなく、暖かい救いを伝えるのを願っておられると思います。罪人が受ける洗礼を、共に受けられたメシア、イエス・キリストは、今日も日本の人々のための代表者になられ、裁きではなく、救いを与えることを願っておられる方です。ご自分は無垢な方にも拘わらず、喜んで洗礼を受けられ、罪人の立場に降りられたイエスを覚え、この日本社会のために私たちの教会が何をしていくべきか考えてみる1週間になること望みます。