福音の初め。
イザヤ書40章3-5節 (旧1123頁) マルコによる福音書1章1-8節(新61 頁) 前置き 今週からはマルコの福音書をもって新約の御言葉を学んでいこうと思います。新約聖書には、4つの福音書があります。その中でも、マルコの福音書は、最も簡潔な文体と主題で、イエス・キリストの福音を急進的に伝える書です。そのため、古代のキリスト教の指導者たちは、マルコの福音書を獅子(ライオン)の福音書と呼んだそうです。まるで勇ましい獅子のように、力強く福音とイエスについて証言する聖書だからです。 4つの福音書は、それぞれの特徴を持っており、各福音書は、イエスについて、いくつかの側面から説明しています。マタイは、アブラハムの子孫、ユダヤの王であるイエスを、ルカは人間イエスの生涯を順々に、ヨハネはイエスが、ただの人間ではなく、神そのものであるという観点から述べています。しかし、マルコは、そのすべての視点を省略して、最も重要な福音の真理である「イエスは救い主である。」を宣言することによって始まります。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」今から数ヶ月間、私たちは、この強力な福音の書について学んでいきます。マルコの福音書の説教を通して、神様の豊かな御恵みと御教えに触れることを切に望みます。 1.マルコの福音書はどのような書か? マルコ書は、福音書の中で一番最初に記されたものです。あの有名なローマ帝国の暴君、ネロが皇帝だった西暦64年に、帝国の首都ローマでは大きな火災がありました。火災はローマの3分の2を灰燼に帰し、甚大な被害をもたらしました。ローマ市民の心は怒りに沸き立って、物狂いネロがローマに火をつけたという噂が流れ始めました。政治的なリスクの中に置かれたネロは、市民の怒りを鎮めるために、当時の新興宗教であったキリスト教徒が放火したというデマを飛ばしました。キリスト教は神と隣人を愛し、イエスを伝える善良な共同体でしたが、そのようなデマにより、一瞬にして邪教の烙印を押されてしまいました。そのため、ローマ帝国の内部ではキリスト者への迫害が始まりました。そして、その邪教という汚名と迫害は200年以上の長い間、キリスト教についてまわりました。イエスを信じているという理由だけで信徒たちは闘技場で猛獣の餌にされ、信仰を保つためには、命をかけなければならない、恐ろしい時代を送らなければなりませんでした。キリスト者は生きるために身を隠したり、時には疲れて信仰を捨てたりしました。彼らはただ、キリストへの信仰を告白しただけだったのに、その報いはあまりにも残酷だったのです。 彼らは自然に、こんな問いをするようになりました。 「神様、どこにおられるのですか?」「イエスよ、あなたはどなたですか?」信徒たちの信仰が弱まり、神とキリストへの信仰が崩れていった時、主の民には希望が必要でした。神の子が一緒におられることを、もう一度悟らせなければなりませんでした。マルコ書は、そのような絶体絶命の時、絶望の中に陥れられている信者のために記録された書です。死の恐怖の前で神を探している者らに、すべてを投げ出したいと思う者らに希望と慰めを与えるために、マルコの福音書は記録されたのです。そのため、マルコ書は西暦65年から70年の間に記録されたそうです。マルコ書の頭部には、華麗な述語はありません。むしろ、信仰の源、イエスについて簡潔かつ率直に伝えているだけです。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」このマルコ書は今日を生きている我々にとって、どのような意味を持っているのでしょう?日本という特有の文化、キリスト教の伝道が、あまりにも難しい環境、あの有名な小説家、遠藤周作の小説「沈黙」に書かれているように、「まるでキリスト教という木を根から腐らせる沼」と言われる日本でも、マルコ書は諦めずにそして変わることなく、主イエスの福音を宣言しています。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」主は今日もマルコ書の言葉を通して、神が依然として日本の教会を愛しておられ、その御子はちっともに変わらずに私たちの間におられることを証言しているのです。 2.神の使者、洗礼者ヨハネ。 1節で、御子イエス・キリストの御健在を宣言したマルコ書は、すぐに旧約聖書の啓示を紹介します。 「預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(2-3)マルコ書は、これが旧約聖書の有名な預言者であるイザヤの書での記録だと証言していますが、実際に、この部分はイザヤ書だけでなく、 旧約聖書の最後の預言者であるマラキの言葉が合わせられた部分です。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(イザヤ40:3)「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」(マラキ3:1)マルコはこの二つの文章を引用し、神の子イエスが、すでに古くから準備され、旧約を通して預言された神のメシアであり、彼が臨む前に、ある使者を遣わして、その道筋を準備させると証言しているのです。マルコ書はその使者が洗礼者ヨハネであり、彼の登場の後、真のメシアであるイエスが来られることを告白しています。使者の登場は、即ちメシアの登場を意味するものだからです。だから、マルコは神の子イエスの福音の宣言の後、すぐに洗礼者ヨハネを登場させます。つまり、救い主の到来が迫ってきたということです。 ところで、イエス当時、「神の使者」というものには、どのような意味があったのでしょうか?これを探ってみるためには、過去の歴史を振り返ってみる必要があります。洗礼者ヨハネが来る約600年前、不従順と偶像崇拝で綴られていたイスラエル民族は、結局、神の厳重な裁きを受けて、バビロン帝国に滅ぼされました。神殿は崩れ、民は捕囚となって異邦の地に連行されました。時が流れ、神はイスラエルを哀れんでくださり、捕囚の身から解き放たせ、再び故郷に帰還させてくださいました。イスラエルは指導者ネヘミヤとエズラを通じ、過去の罪を悔い改め、新たに生まれ変わることを約束しました。しかし、その情熱は長続きしませんでした。彼らは依然として神を信頼しておらず、また、神に従わない愚かな過ちを犯してしまったのです。その時、神様は預言者マラキを遣わされ、旧約聖書の最後の言葉をくださいました。 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。」そして、400年以上の間に、神は啓示をお止めになりました。神の時をお待ちになり、沈黙なさったのです。神の啓示が消えた時代に、イスラエル民は、ペルシャ、ギリシャ、いくつかの戦争、ローマ帝国の支配を経験し、イスラエルの神ではなく、邪悪な権力に支配されなければなりませんでした。 神の言葉が消えた世界で、イスラエル民族は苦しみを体験しなければなりませんでした。彼らは再び神が共におられることを待ち望みました。民が苦しみの下にいる時、異民族の悪人が彼らの王になって暴政を敷き、祭司たちは祭礼ではなく、権力と富に興味を持ちました。民を教える学者たちは、自分の知識をもって民を蔑みました。徴税人のような売国奴はローマ帝国の側に立って、同胞の血を絞りました。あちこちで強盗が暴れ、イスラエルの過激団体は、ローマ軍との衝突し、社会の雰囲気は荒れに荒れていたのです。イスラエルは、まるで牧者を失った羊の群れように飢え、彷徨いました。そんな彼らにとって、唯一の希望は400年前、神が残された御言葉でした。 「神は預言者マラキの啓示のように、主の使者をお遣わしになるだろう。彼が来ると、やがてメシアがお臨みになり、必ず我らを解放してくださるだろう。」イスラエルの民が、洗礼者ヨハネを歓迎した理由は、このためです。神の使者、洗礼者ヨハネが来れば、もうすぐメシアが来られるはずだったからです。マルコはそんな理由で、洗礼者ヨハネを他の福音書に比べ、いきなり登場させます。洗礼者ヨハネの登場は、即ち神のメシアの登場を意味するものだったからです。 3.イエス・キリストの福音の初め。 イエス・キリストの到来は、希望のない所に希望が、神の支配のない所に神の支配が、御言葉のない所に御言葉が、慰めのない所に慰めが戻ってくるのを意味します。過去に罪のために神から見捨てられ、忘れられた者らが、神の御前に召し出され、神は父になり、見捨てられた者らは子供となる、新しい時代の始まりを意味するのです。イエス・キリストの到来は、神と人間の関係を根本的に新たに確立する空前絶後の新しい歴史の始まりです。イエスはこのようなグッドニュース、即ち福音の初めになる御方です。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(イザヤ40:3,5)神の使者が先立って来、主の道を備える際に、神はメシアを通してご自分の民に来られ、主の栄光をお現わしくださり、すべての肉なる者が、共にその栄光を見るように導いてくださるでしょう。イエスを通して、人間は一緒に共におられる神の栄光を悟ることになるのでしょう。それは古代帝国に支配されていたイスラエルが、ネロの迫害にうめき声を吐いていた初代キリスト教会が、切実に求めていた主の恵みなのです。今、その恵みはキリストの福音を通して、主を追い求めている、すべての者に許されています。マルコは、そのような神の恵みが、ただイエス・キリストを通してのみ、行われることを強く証言することにより、既に来ておられるイエス・キリストに私達の希望を置くことを促しています。 神の使者として、先立って遣わされた洗礼者ヨハネは、すぐに到来するメシアについて証言し始めました。 「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:7-8)イエス・キリストは、権能の主です。彼は私たちと一緒におられ、私たちを神のもとへ導かれる方です。彼は私たちの希望なのです。しかし、主につき従うためには、主の福音と力を認めるべきです。過去、イスラエルが犯した不従順の罪を捨てなければなりません。主への堅い信仰が必要です。そのために私達は自分の中にある罪を主イエスの御前に置き、常に御赦しの恵みを求めるべきです。 今日の最後の節では、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授け、主イエスは聖霊で洗礼をお授けになると記されています。聖書で水は死あるいは清さを意味します。その二つは全く違う異質のイメージを持っていますが、罪に対しては共通点を持ちます。死者は罪を犯しません。死者は罪に対して清いです。水の洗礼は罪に対して死ぬことを意味します。洗礼者ヨハネは主の到来の前に,まるで罪に対して死んだ者のように罪を捨て、来たる主を待ち望もうという意味で水の洗礼を授けたのです。しかし、主が来られると、単なる罪への死を越えて、義とされた者として蘇り、主と共に歩むことが出来る聖霊の洗礼をお授けくださいます。主イエスを通して、私たちに来られる聖霊は、私たちの中に清い心を造り、私たちを義の道にお導きくださいます。今日の洗礼者ヨハネの物語は、私たちを、そのような悔い改めの場に招きます。そして、福音の初めであり、福音の源である主に私たちを進ませます。私たちの間におられる主イエスを期待し、自分の罪を悔い改め、主の聖霊のお導きを求めていきましょう。私たちを神に導かれる主に、私たちの罪を悔い改めることによって、主の福音に答えて行きましょう。 締め括り 私は時々自分自身にがっかりしたりします。幼い頃から聞かせてもらったイエスの話、神学を勉強しながら、常に接してきたイエスの話、あまりにもたびたび取り上げてきたイエスの話ですので、感謝をもって反応することが出来ない時が少なからずあるからです。しかし、このイエスの福音は絶対に軽んじられてはならない大事なものです。神様は、はるかな昔から、計り知れない長い時間を通して、このイエスを準備され、時をお待ちになり、私たちに与えてくださいました。旧約聖書の民と預言者たちが、命をかけてまで、切に待ち望んだ神のメシアが、このイエス・キリストなのです。この大事な方が、我らのために来られるという予告が、福音が持っている掛け替えのない価値なのです。マルコの福音書を説教しながら、そのイエスの福音を再び心に留める私たちになることを願います。主の共同体である志免教会がマルコ書を通して、その福音に敏感に反応する共同体になることを祈ります。福音の主が我らと共にお歩みになることを願います。