神のご計画による選び。

出エジプト記33章18 -23節 (旧150頁)・ローマの信徒への手紙9章6-16節(新286頁) 前置き パウロはローマ書8章で、イエス・キリストによる、命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則から私たちを解放したと語りました。この命をもたらす霊の法則とは、イエス・キリストの救いによる「神に服従させ、その神の御心に従わせる聖霊の導きと恵み」のことです。そのような聖霊の御導きのもとで生きていく人は、神の子、相続人となり、罪から離れ、神の御心のように生きようとする存在です。そしてキリストに救いを得て、命をもたらす霊の法則の下で生きていく人々は、神の愛の中に生きており、そのような神の愛から、誰も私達を引き離すことは出来ないとも話しました。このように引き離されることのない神の愛の中で生きていく者こそが、まさに神の選ばれた民なのです。キリストを通して救われた者、神に選ばれた子供たちは、罪に満ちた、この世から救い出され、永遠に神の恵みに頼って生きていきます。 『だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 35だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。』(ローマ8:33-34)今日は神の選ばれた相続人について、すなわち、真のイスラエルとは、誰かについて話してみたいと思います。 1.真のイスラエルの民とは? パウロはローマ書8章で、あまりにも感激的な神の愛について話しました。パウロは「その神の愛から、私たちを引き離せる存在は誰もいない。」と強調しました。しかし、9章からは、その感激的な雰囲気が、パウロの嘆きによって瞬時に落ち込んでしまいます。 『わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。』(1-2)その理由は、自分の同胞イスラエルの民のためです。『わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。』(3)ローマ書の説教を始めた時にお話しましたが、当時のローマ教会には、ローマ人の信者だけでなく、ユダヤ人の信者もいました。今までパウロは、ご自分の約束を通して、キリストを遣わしてくださり、民の罪を赦して救ってくださり、決して、お見捨てにならない神について説教してきました。しかし、ローマ教会のユダヤ人の立場からは、神が約束に従って、人を救われたというが、なぜ、旧約の選ばれた民であるイスラエルは捨てられることになったのか、納得できないところがあったのでしょう。神は本当に約束を守られる方なのかと疑問を抱いていたのかも知れません。なぜなら、旧約聖書には、ご自分の民を救われる神の話が、数え切れないほど、頻繁に出てくるからです。 これに対して、パウロは『神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならない。』(6)と語って、イスラエルの民のための神のご計画が変わっていないことを弁明します。ただし、パウロは、イスラエルの民という概念について、再び確かめて、その存在が持つ真の意味を説明します。 『肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。』(8)神は、旧約聖書でイスラエルの民を子供にしてくださり、助けてくださると仰いました。しかし、イスラエルは常に神を裏切って、偶像を拝みつつ生きてきました。その結末は、神に捨てられ、巨大な異邦の帝国に滅ぼされることでした。神はご自分の民を決して見捨てないと約束なさいましたが、民族としてのイスラエルは捨てられました。なぜかと言うと神の民イスラエルとは血縁、民族、国家によるものではなく、神の信仰の約束による者らを呼ぶものだったからです。だから、神の約束を捨てて、自分の道に身勝手に行ってしまった民族としてのイスラエルの民は、神に捨てられてしまいました。しかし、神は霊的なイスラエル、つまり真に神との約束を待ち望み、堅く信じる者を決して諦めない方でいらっしゃいます。 2.神の約束。 – 霊的なイスラエル それでは、神の約束とは、果たして何を意味するのでしょうか?それは、神がイスラエルを立てられる、遥かな前から、イスラエルの先祖アブラハムと結ばれたものでした。アブラハムは75歳で神に召された時に子供がいませんでした。しかし、神は彼に『あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。』(創世記13:16)と言われ、必ず子供を与えると約束してくださいました。しかし、長い歳月が経っても子供は生まれませんでした。アブラハムは、子供が生まれるという神の約束が直ぐには叶わなくて、自分の僕を相続人にするつもりでした。その時、神は再び現れ、以前の約束をもう一度確証してくださいました。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』(創世記15:5-6)神の約束が、なかなか成し遂げられなくて神の約束への人間的な希望は弱くなっていましたが、それでも、その約束された神を信じたアブラハム。彼は子供を儲けるという条件的な約束を信じたのではなく、その約束をくださる神を信じたのです。 彼は約束の神を信じることによって、神に正しいと認められました。その約束は土地を受け継ぐ相続人をくださるという約束でした。旧約聖書で、土地が持つ神学的な意味は、地そのものだけでなく、神の祝福、神の御導き、神の国の到来などを意味するものです。アブラハムは必ず彼の子孫を通して祝福、導き、神の国をくださる、その神を信じていたのでした。そして、長い時間が経ち、神はイエス・キリストというアブラハムとダビデの子を通して、真に神に従う信じる者らを集め、神の相続人にさせてくださいました。むしろ、アブラハムの肉的な子孫イスラエル民族は、神を裏切り、そのような恵みを受けることが許されませんでした。キリストによって神の相続人とされた、私たちキリスト者は、神の祝福、導き、支配のもとで生きていきます。アブラハムの真の子孫、イエス・キリストの救いにより、その約束が成されたからです。そして、その約束は、イエス・キリストの体なる教会の中でも、依然として働いています。真のイスラエルの民は、この約束された神を信じる者です。アブラハムの子孫を通して祝福してくださり、導いてくださり、神の国を建ててくださる約束の神を信じる者です。アブラハムが信じた約束は、単に息子が生まれること、イスラエルという民族の成立のようなものではありませんでした。約束された神を信じる、その神への信仰の約束でした。それこそが、まさに神とイスラエルの約束であり、真に神を信じる者に与えられる変わらない約束です。そして、私たちが信じて守るべき約束でもあります。 3.霊的なイスラエルを選ばれる神様。 このような約束の神への信頼の有無から来るのが、まさに神の救いの選びと、滅びの選びです。約束の神を信じる者には、神の救いの選びがあり、その神を捨てる者には神の滅びの選びがあるのです。『その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。』(11-12)、アブラハムの孫、ヤコブとエサウは生まれる前に救いの選びと滅びの選びに定められていました。私たちは、この箇所だけを見れば、『神様がある人は選ばれ、ある人は捨てられる。』と思いがちです。『いくら、まともに信じようとしても、滅びる者は最終的には、捨てられる。』と思うかもしれません。ヤコブとエサウが何もしていなかったのに、すでにその祖先アブラハムと約束された神のご意志によって、ヤコブは選ばれて、エサウは捨てられたと書かれているからです。しかし、これは単に独善的に誰かは選び、誰かは滅ぼすという意味ではありません。神は、そんなに残酷な方ではありません。これは神の選びと滅びという神学的な話をヤコブとエサウという例え話を取り上げて対比しているのです。実際に、歴史上、ヤコブ(将来、改名してイスラエル)の子孫の中でも多くの人が滅ぼされました。国自体が滅び、2,000年間イスラエルという国が存在しませんでした。神の約束を信じる信仰がなければ、たとえ、イスラエルだと言っても滅びることは決まっているのです。却って、異邦人でも神を信じて救われた人物も多数いたことを思い起こしていただきたいと思います。 つまり、ヤコブだと選び、エサウだと捨てたという概念ではなく、神の約束の中にとどまる者は神の御選びの下にある者であり、神の約束を捨て、とどまらない者は滅びるままに放って置かれる者だということです。神のお選びは、相互作用的であるからです。もちろん、これは人間の努力に応じて選ばれるという意味ではありません。神の国を建てられ、罪人を救ってくださる神の御業と力による約束を信じて、神から離れないように身もだえる信仰の相互作用があるべきだということです。残念ながら、罪のある、私たちの側においては、自力でこれらの信仰の相互作用を行う力がありません。そのため、イエス様が十字架で私たちを救ってくださるのであり、聖霊を送って、私たちの信仰を守ってくださるのです。神の恵みが私たちから離れた場合、私たちは、すぐに捨てられて滅びてしまうでしょう。そのような場合は、ひょっとしたら神に捨てられたというよりは、当初から選ばれなかった者だったのかもしれません。神は、ご自分の民に信仰を与えてくださる方です。そして約束を守らせる方です。イエス・キリストを信じるように聖霊を注いでくださる方です。そのような神を最後まで拠り所とし、信じて、従っていく者こそが、真の選ばれた者であり、真の意味のイスラエル人となるのです。ひとえに私たちの出来ることは、神がその信仰を引き取られないように、切に祈り、一日一日を御言葉に頼り、従順で謙虚に生きていくことでしょう。 締め括り 神の救いの選びと滅びの選びというテーマは、神学では予定説として知られています。その予定という言葉を聞くときに、多くの人々は、救いと滅びの選びが、最初から定められていると考えたりします。そのため、『私は選ばれた者なのか、滅びる者なのか?』、あるいは、『すでに決まっているのであれば、一生懸命信じても、地獄に落ちてしまうのではないか?』などと悩んだりします。ジュネーブの宗教改革者カルヴァンは、自分の著書、キリスト教綱要を通じて『神がご自分の中に隠しておかれるものを人間が無節制に探求し、その極めて高き知恵を永遠から明らかにしようとする振舞いは大間違いである。 神は我々がご自分の知恵について理解することを望まれず、ただ、それを称えて受け入れることを望んでおられる。』と言いました。神の御選びは、神の事柄です。神の救いと滅びの選びは、この全世界を治める神の全能さを示す手段です。私たちの救いや滅びのための選びではなく、すべてのものを治める神の絶対権能を強調するためのお選びだということです。したがって、『私は選ばれたのか?滅ぼされるのか?』という問いは、初めから成り立たないものなのです。ただ、私達は私達に信仰を与えてくださった神様を堅く信じるべきです。 『わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。また、言われた。あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』(出エジプト33:19-20)出エジプトの後、シナイ山で神の栄光を望んだモーセに、神は御顔、すなわち、神の栄光を見ると死んでしまうので、後ろだけを見せてくださると言われました。特別に選ばれたイスラエルの指導者モーセさえも、神の御顔は見ることが出来ませんでした。しかし、『闇から光が輝き出よ、と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。』(Ⅱコリント4:6)という言葉のように私たち新約の民は救い主イエス・キリストを通して、神の栄光を悟る光を直接、いただくことが出来るようになりました。神であるキリストの御顔に対面して、栄光の中に生きるようになっています。神様が私たちに与えられた恵みは、すでに十分です。したがって、我々は、私たちに与えられた信仰を大切にし、救いの有無に集中するより、私たちに信仰を与えてくださる神に感謝し、真のイスラエルとして生きていくべきでしょう。そのような生活の中で、さらに大きな恵みと愛とを持って、神に召される、その日まで守ってくださる主を信じてまいりましょう。真のイスラエルとして生きようと誓う志免教会の上に神の恵みが豊かにありますように願います。