コロナ騒ぎは神の呪いか?終末の徴(しるし)か?
歴代誌下7章11-16節 (旧679頁) ルカによる福音書 21章7-19節(新151頁) 前置き 去年12月、中国武漢で初めて発生した以降、世界の各地にウイルスによる被害が広がっています。全世界的に感染者の人数が200万人を突破し、日本でも、すでに1万人以上の感染者が出たそうです。徳田安春という学者は23日の毎日新聞とのインタビューで、日本で今まで発表されたものより、12倍を超える感染者がいるだろうという見解を明らかにしました。このような状況を見るたびに、人々は恐怖を感じ、まさか、こんなことが実際に起きるとは想像も出来なかったと思ったりすると思います。特にキリスト者は、なぜ、神様がこんなに、人々がひどい目に遭うことを許されたのかと疑問を抱くかも知れません。ひょっとしたら、聖書に記されているように、こんな状況は神様の呪いによることなのでしょうか?もしかしたら、人類に終末が近づいてきたのではないでしょうか?神様はもうこれ以上、人間を愛しておられないのではないでしょうか?こんな状況に生きていく私たちキリスト者は、どのような考え方を持って生きるべきでしょうか?今日は聖書の御言葉を通して、コロナ19のような感染症に対する私たちの在り方について、話してみたいと思います。そして、一日も早く、今の状況が落ち着いて、前のような自由な交わり、安らかな礼拝の生活になることを、心から切に祈ります。 1.コロナ感染症は神の呪いなのか?‐考えの転換 『主はそこでイスラエルに疫病をもたらされ、イスラエル人のうち七万人が倒れた。 』(歴代誌上21章14節)、イスラエルのダビデが神の御言葉に聞き従わず、イスラエルの人口調査を実施したとき、神はダビデに呪いをかけられました。ダビデが人口調査をしようとした理由は、イスラエルの力を調べてみるためでした。かつて、神はダビデとイスラエルを守り、諸国より優れた国としてくださいました。しかし、神がイスラエルを優れた国としてくださった理由は、イスラエルを他の国より栄えさせ、周辺国を征服させる意図ではありませんでした。 『今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』(出エジプト19:5-6)むしろ、主はイスラエルが祝福された祭司の王国として、神を世の中に伝えるように導こうとなさるためでした。しかし、ダビデは、そのようなイスラエルのアイデンティティを忘れ去り、自分の力を誇るために人口を数えたのです。 これは神の御前に大きな罪とされました。これによってイスラエルは神に伝染病の呪いを受けることになりました。そのために、イスラエルで何の罪もない7万人の民が死ぬことになりました。以後、神は伝染病をおさめられ、ダビデの高慢を悟らせてくださいました。ダビデは自分の高慢を悟り、悔い改めましたが、その代償はあまりにも、大きくて、その被害は甚だしかったです。この出来事は、歴代誌上21章に登場する話です。このような話は、旧約聖書で少なからず現れます。なので、私たちは伝染病が神の呪いだという思いを持ちやすいと思います。しかし、私たちは、旧約の話を何の解釈もせず、文字通りに受け入れてはいけません。なぜなら、旧約の出来事と現在の私たちの間には、イエス・キリストという強力な仲保者がおられるからです。イエスは助け主、聖霊を遣わされ、今日もご自分の民のために御手を差し伸べられ、導いていらっしゃいます。『同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』(ローマ8:26)神は、ご自分の民を助けてくださり、愛してくださる方です。人類への神の呪いは、キリストによって、すでに解決されました。それでは、なぜ、神は私たちにこのような感染症を許されるのでしょうか?この伝染病が神の呪いではなければ、果たして、何なのでしょうか? 私たちは、人間中心的な考え方を変える必要があります。私たち人間は、神が創造された被造物の一つに過ぎません。もちろん、主は人間に被造物の代表という大事な役割を与えてくださいました。だからといって、人間がすべての被造物の中で最も優れた存在だという考えは高慢ではないかと思います。人間も結局、被造物の一つであり、すべてのものは神のものだからです。この言葉は、ウイルスも、最終的には神の被造物だという意味です。創世記によると、初めに神は人間に『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』と命じられました。ここでの『従わせる。支配する。』という意味は、『導く。世話をする。』に近い意味なのです。近代の欧米の人間はこの聖書の原文と翻訳文の違いのため、聖書の教えを間違って受け入れたのです。あれから、東西を問わず、人間は、自分の欲望のために、自然を傷つけたり、地球を汚染させたりしました。しかし、ウイルスは動植物や人間に寄生して、自分の生を生き抜いただけです。そうしたウイルスが人間の無分別な開発、あるいは、不自然な食生活を通して、私たちと出会うようになったのです。私たちは、ウイルスから被害を受けることによって、ウイルスを悪と規定する傾向があります。しかし、過去長い間、人間が神の前に行った悪が、ウイルスのそれより、はるかに大きいと思います。ウイルスを悪と規定するということは、私たち人間は、善良な存在であるという無言の前提を持っているので可能な考えなのです。これは果たして神様の御前で正しい考え方なのでしょうか?私たちも、結局、被造物に過ぎない存在です。私たちは、より謙虚にウイルスを扱う必要があると思います。 ウイルスは神の呪いではありません。私たちは、自分の知らないうちにウイルスから、多くの助けを受けてきました。例えば、ウイルスは細菌(バクテリア)に寄生する場合もあると言われます。かつて、人類を滅亡に追い込むほどの致命的な細菌がウイルスの寄生によって絶滅されたという科学界の話もありますし、ウイルスを用いて、多くのワクチンが開発されたり、自然の多くの部分が保たれたという話しもあります。現在はいかがでしょうか?コロナ19の影響でインドと中国の産業地帯の灰色の空に、再び青さが戻ってきたり、南米のウミガメが海岸に戻って来たというニュースもあります。ウイルスは、相変わらず、神から命じられた自分の生を生きていくだけです。むしろ、自然を害し、地球を痛めたのは人間なのです。神の被造物である、この世界に、より大きな害を及ぼしている存在は私たち人間なのでしょうか?それとも、ウイルスでしょうか?私たちは、このウイルスを通して謙虚さを持って、神の前に進まなければならないと思います。私たちは、神が造られた自然の前で、小さな存在に過ぎません。私たちはこの自然の世話をする神のしもべなのです。ウイルス騒ぎを眺めて、自分自身を謙虚に省みる私たちになって、人間中心的な考えを棄て、さらに神様中心的な考え方を持って生きていきたいと思います。 2.伝染病は終末の試練の徴なのか? – 恐怖を捨て去ること。 今日の新約本文では、ある人々がイエス様にエルサレム神殿の見事な石と飾りについて話しました。彼らはエルサレム神殿がまるで永遠にあるかのように、その規模と姿に惚れて、主の前で感心したのです。実際にイエスの時代の神殿は、ソロモンが建てた神殿より、はるかに大きく、綺麗な見掛けだったと言われます。その際、主はそのような神殿が石の上に石一つも残らず、崩れると言われました。すると、その人たちは主にそのことが起こるときには、どんな徴があるのかと尋ねてきました。これに主は『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』(ルカ21:10-11)と言われました。主は彼らに神殿が崩れる日は、全世界が滅びるかのように恐ろしいことが起こると仰ったのです。 神殿は、実際に西暦70年にローマ帝国によって崩壊しました。そのとき、エルサレムでは、数多くの虐殺があって、イスラエル全域で人々の悲鳴と遺体が絶えませんでした。イスラエル民族にとって神殿が崩れたということは、戦争、地震、飢饉、疫病のように神に捨てられること同然の恐ろしいことでした。また、イスラエルのアイデンティティが壊れるようなことでした。しかし、その時代のユダヤ人たちの感覚のない私たちは、このような恐ろしい徴に関する聖書の言葉を読むたびに、当時のユダヤ人たちの考えとは異なり、漠然と終末の兆しとして受け入れる傾向があると思います。主は、戦争、地震、飢饉、感染症というイメージを通して、神殿が崩れるということが、いかに衝撃的なことなのかを教えてくださいましたが、聖書を読む私たちは文字通りの意味を受け入れ、まるで、これが終末の時にある試練だと考えてしまうかも知れないということです。そのため、一部の人々は、コロナ19のような伝染病が神からくだされた終末の徴だと受け入れたりします。ひょっとしたら、この感染症によって、人々が死に、苦しむとき、キリストが再臨なさるのではないかと、世界が終わるのではないかと恐怖を感じるからです。 しかし、私たちは終末と試練について、漠然と考えてはいけないと思います。私たちは、まず、終末について、正しい概念を明らかにする必要があります。終末とは、『世の終わりに起きる出来事に関する教義』と解釈できます。この終わりというのは漠然と『主が再臨する時、人類が滅びるとき』を意味するものではありません。新約聖書から示される終末論の特徴は、『神の終末へのご計画は、まだ、最終的には完成されていないが、すでにイエス・キリストの中で成し遂げられている。』ということです。したがって、新約の終末論は、一方では、現在的な側面、すなわち『すでに実現されたもの』という側面と、他方では、未来的な側面『まだ、実現されていないもの』という側面を持っています。言葉が複雑になったと思いますが、一体これは何を意味するのでしょうか?まさにイエス様がこの地上に生まれた時、すでに終末は始まったということです。そして、イエスが再び来られる再臨の日に、この終末が完全に終結するという意味でもあります。したがって、イエス以降に生まれた私たちは、すでに終末の世界を生きているのです。この終末は、イエスが再臨される終わりの日に、完全に成し遂げられるでしょう。 20世紀にはすでに世界的に大きな戦争がありました。当時、米軍の空襲によって東京、名古屋などの大きい都市が火の海のようになりました。原爆によって犠牲になった人、戦争による孤児と寡婦がたくさん生まれました。飢えて死んだ人も多かったのです。今はいかがでしょうか?日本のあちこちで、相変わらず、大小の地震が起きます。世の中に依然として、戦争、地震、飢饉、疫病は存在します。にも拘わらず、主の再臨はありませんでした。したがって、私たちは、今のような恐ろしい感染症が流行しているからといって、人類が滅びるのではないかと恐れる必要はありません。これらの試練があるからといって、すぐに終わりが来ると恐怖に怯える必要もありません。私たちは、すでに終末の中に生きているからです。しかし、まだ、終わりではありません。したがって、恐れを捨て去りましょう。いつか、今の状況が終わり、我々は再び集まって礼拝を守り、お交わり出来ると信じます。ただし、私達の出来ることは頑張って行ってまいりましょう。聖書を読み、祈りをし、近所の人を助け、神を愛してまいりましょう。密集、密閉、密接を避け、手をよく洗って、免疫力のために食事もちゃんとして、運動も熱心にしましょう。神が世界を治してくださる、その日を楽しみにしており、健やかな生活を続けていきましょう。そのような生活の中で、主は新しい明日を開いてくださるでしょう。 結論 コロナ19に対する教会の在り方。 ソロモンは神の神殿を完成したときに、神の御前で民を憐れんでくださり、助けてくださることを求めて祈りました。その夜、主はソロモンの夢に現れ、その祈りにお答えになりました。『わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、 もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。』(歴代誌下7:13-14) 主は罰を与えられても、癒してくださる神様であり、見捨てられても、お探しになる方なのです。ましてや、キリストによって、永遠に主の子供とされた私たちを死の中で惨めに放って置かれる方ではないでしょう。主は必ず今の状況を治してくださいます。そのような主の慰めと癒しを期待し、謙虚さと祈りをもって神様を見上げましょう。私たちがキリストの御名を通して、神に切に求めるとき、主は必ず私たちを顧み、守ってくださるのです。根拠のない恐怖を捨て、約束の神を見上げ、試練の中でも、喜びを持って一日一日を過ごす私たち志免教会になりましょう。