イエスの十字架。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 19章14-30節(新207頁) 前置き 本来、十字架はローマ帝国の残酷な処刑道具でした。しかし、今や十字架は救いと命、平和の象徴として、さらに知られています。呪いと冒涜、苦しみの象徴であった十字架は、いかにして、こんなに別のイメージを持つようになったんでしょうか?それは、その十字架の上で、主イエス・キリストが、特別なことを成し遂げられたからです。神は呪いを祝福に変えることが出来る方です。もともと、罪によって死ぬしかなかった私たちは、神様であるキリストが十字架で成し遂げられた救いの恵みにより、正しい民として新たに生まれ変わりました。キリストが十字架で私たちのすべての罪を受け持って、代わりに死んでくださったからです。十字架も同様です。もともと、呪いの象徴だったものですが、イエスが十字架で全人類の罪を負って死に、救いを成就させましたので、もうこれ以上、呪いの象徴ではなく、救いの象徴になったということです。今日は苦しみを受けるイエスの出来事を通して、主の十字架について、さらに詳しく話してみたいと思います。 1.呪いを祝福に変える王の十字架。 『見よ、あなたたちの王だ』(14)ユダヤ人は、イエスを殺すために、主を掴まえて総督に引き渡しました。そして、主が自称ユダヤ人の王だという名目で皇帝に反逆を図ったという濡れ衣を着せました。父なる神は、イエスをユダヤ人の王として、ご自分の民に遣わされました。 『聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。』(詩篇2:6)旧約聖書はこのように神に認められる王が遣わされると証言しています。その結果が、まさにイエス・キリストのご降臨だと、私たちは告白しています。しかし、ユダヤ人たちは、むしろ、イエスを否定し、神聖冒涜を犯した罪人として取り扱いました。そして、何の関わりのない反逆罪を主張し、イエスを殺そうとしました。しかし、神様は、むしろローマ総督ピラトの口を用いて、もう一度、イエス・キリストがユダヤ人の王であることを、ユダヤ人の目の前で明らかにご宣言なさいました。 「見よ、あなたがたの王だ。」 『ピラトが、あなたたちの王をわたしが十字架につけるのかと言うと、祭司長たちは、わたしたちには、皇帝のほかに王はありませんと答えた。』(15)しかし、ユダヤ人たちは、結局、イエスも、神様も、捨て、偶像のように扱っていたローマの皇帝が自分たちの王だと告白してしまいました。ユダヤ人の王は果たして誰だったのでしょうか?神だったのでしょうか?イエス・キリストだったのでしょうか?それとも、ローマの皇帝だったのでしょうか?『地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか』(詩篇2:2)神を拒む地上の王や支配者たちがやるべき逆らいを、神の民と呼ばれるユダヤ人たちがやってしまいました。彼ら、自らが主の油注がれた方に敵対することにより、地上の王のように振舞ってしまいました。つまり、彼らの王は彼ら自身だったということです。自分たちの欲望が彼らの神だったのです。 『天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り。』(詩篇2:4)それに対して、神は彼らをまるで、嘲られるかのように、ローマの総督ピラトの口を借りて、『イエスが王だ。』とされたのです。 旧約の油注がれた方は、メシアを意味します。そして、メシアは通常、イスラエルの王を意味しました。神はメシア、すなわち、イスラエルの王が、この世に否定されることを、旧約聖書のあちこちで既に教えてくださいました。しかし、神はまた、詩編を通して、苦しみと逆らいの中でも、神ご自身が、王を守り、立ててくださることを宣言されました。王であるイエスの苦しみと死は確かに悲しいことだと思います。しかし、彼の苦しみは無駄な苦難ではありませんでした。彼の苦難は、神が保証してくださる王の苦難だったからです。皮肉なことに、苦しみと逆らいの十字架は、イエス・キリストが、神に認められた王であることを証明するシンボルです。苦難の十字架がキリストの王であられることを証明する逆説的な道具になったということです。したがって、十字架は、もはや呪いの象徴ではありません。神の救いの象徴です。この世が十字架を否定しても、神はこの十字架を通して、祝福を受ける者を探しておられます。神がキリストを通して、十字架の呪いを祝福にお変えになったからです。この十字架のイエスを信じる者には、呪いが祝福に変わる神様の逆説的な恵みが臨みます。それはまさに神の御救いなのです。 2.教会を守る和合の十字架。 イエスは生前、各界各層の弟子を養われました。貧しい者、豊かな者、独立運動家、帝国協力者、穏健派、急進派など、様々な性格の人々を集め、神の国について教えられました。彼らは、皆、違う思想を持っていましたが、イエス・キリストを中心として、一つの共同体を成したのです。このように神の国は、様々な人々が、イエス・キリストを中心とし、互いに愛し合い、大事に守り合う愛と和合の国です。イエスがこれらの各界各層の人々を集め、弟子として、教えられたのは、神の国が、ただ理想の国ではなく、既にこの地上で成されたことを示すためでした。主の共同体は、このような神の国の一部でした。しかし、イエスが亡くなる前、これらの愛と和合の共同体にヒビが入る出来事が生じました。ユダがイエスを裏切ったこと、ペテロがイエスを否認したこと、弟子たちが主を放って置いて逃げたことなど、色んな出来事がありました。これは主の共同体の崩壊のように見えたでしょう。すべての人の目に、イエス・キリストの王国は終わったと見えたでしょう。 しかし、主は命が尽きるまで、決してそのような愛と和合の共同体を諦められませんでした。『イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、婦人よ、御覧なさい。あなたの子ですと言われた。 』(26)私たちは、この言葉に接するとき、ふと、主が母親のために、最後の親孝行をなさるだろうと考えがちだと思います。しかし、これは単に母親への親孝行だけの意味ではないと思います。イエスには兄弟がいたからです。私はこれを、母親の親孝行や愛を超える信徒と信徒の和合の象徴であると解釈したいと思います。『それから弟子に言われた。見なさい。あなたの母です。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。』イエスのこのような御命令に応じて、主の愛する弟子はイエスの母親を自分の母親のように仕えました。主は最後の命令として、和合を命じられて、息を引き取られました。 ですが、もし、このように信徒と信徒が、新たに和合したことだけで、イエスが完全に亡くなられたら、これは、ただ美しい悲劇に過ぎなかったと思います。しかし、主がこのように母親を愛する弟子に任せられた理由は、少し後で、復活され、聖霊を通して母親とも、弟子とも、共におられると約束されたからです。主は亡くなられました。しかし、主の復活は決まっています。主は弟子に母を任せることによって、家族のような共同体、和合する共同体、愛の共同体を夢見ておられたのです。そして、その夢は、主が復活されることによって、必ず成し遂げられることでしょう。十字架は和合の象徴です。イエス・キリストを頭と信じ、聞き従う教会は、主の愛の中で永遠に一つになるでしょう。私は今日、この主の和合の御命令が、志免教会でも守られることを望みます。私たちは、皆住む所も、出身も、事情も異なりますが、イエス・キリストの十字架を通して一つになりました。これからも、愛し合い、助け合う和合の共同体になることを願います。 3.神の御心と信徒の救いを成し遂げる成就の十字架。 『この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、渇くと言われた。』(28)ここでの『成し遂げられる。』という言葉は、「借金を完全に返済する。」という意味をも持っています。罪人のために十字架につけられたイエスは、その十字架での死を通して罪人の罪を完全に償われました。罪を犯した人間に罪の報いとして、死の判決を下される方は神様です。だから、この罪の報いは必ず返さなければなりません。しかし、すでに罪を持っている人間は、その罪を完全に解決する力も、資格もありません。そのため、イエスは、罪のない神として、その判決を満足させるために、自ら人間になられました。そして、十字架での苦しみを通して人間が返さなければならない罪の報いを、ご自分を犠牲にして、償われました。つまり、裁判官が罪人の立場に代わりに行き、罪を完全に解決したということでしょう。これは死と、完全に反対側におられる神様が、自ら死を選ばれたという、絶対に有り得ない大きな出来事でした。 しかし、この『成し遂げられる。』という言葉には、さらに深い意味があります。イエスは十字架の苦難を通して何を成し遂げられたのでしょう?人間は苦難というイメージを考えるとき、『肉体と精神の痛み』を思い起こす傾向があると思います。しかし、神様が感じておられる苦難は、人間のそれとは異なります。三位一体なる神は父、子、聖霊という三つの位格でいらっしゃいます。この位格というのは人間からすれば、人格であると言えるでしょう。理論的には、三位一体なる神は、死を経験しない方です。しかし、御子イエス様は罪人を救うために、特別に死を選ばれました。これは三位一体なる神に大きな苦しみになりました。神は、罪とは全く関係のない方なのに、御子なる神様が直接、罪を担当されたからです。罪を担当した御子は、三位一体から切れる痛みを味わわなければなりませんでした。父なる神も、その罪の担当のために御子を捨てなければなりませんでした。これは人間が想像もできないほどの大きな神の苦難でした。 私たちは、聖書を通して、主が受けた肉体と精神の苦しみを覗き見ることが出来ます。しかし、我々が必ず知っておくべきことがあります。主の真の苦難は、神様が『イエスを罪人の代わりに死なせる。』とご計画なさった時から、始まったということです。すでに非常に長い間、主の死は決まっていました。大昔からあった御子の苦難の計画は三位一体においては、その存在自体が苦難でありました。主は十字架で、このような永遠に近い、神の苦難を完全に終わらせました。人間の罪によって、生じた神の永遠に近い苦しみが、十字架の上で完全に解決されたということです。主の十字架での死は、神のご計画を完全に成就した出来事です。そして、その計画に基づいて、人間に完全な救いを与える偉大な苦難でした。主は十字架の苦難と死を通して、神の御心を成し遂げ、人間の救いも完全に成就なさいました。このように主の十字架での苦難は、神においても人間においても、完全な成就を与えた、大きな恵みとなりました。 締め括り 十字架は、特別なものではありません。十字架は、お守りのようなものでもありません。十字架が私たちを救うとは言えません。救いはただイエス・キリストだけの事柄だからです。しかし、十字架には、私たちを救ってくださった神様の恵みが潜んでいます。私たちは、十字架を眺めるときに、イエス・キリストの苦難と愛が自然に思い起こされます。重要なことは、今でもこの十字架の恵みが、私たちの間に、まだ存在しているということです。この十字架の恵みは、主が再び来られる日まで、変わることなく永遠に続くでしょう。呪いの十字架をこのように祝福の十字架に変えてくださったイエス・キリストの愛と恵みを覚えていく一週間になりますように。主の苦難が私たちの喜びとなり、主の死が私たちの命になりました。主の恵みに溢れる一週間になることを祈ります。