ピラトとイエス。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 19章1-16節(新206頁) 前置き レント5週間目の主日を迎えました。過去5週間、私たちは、救い主、イエスが誰なのか、なぜ来られたのか、どんなことをされたのかについて分かち合いました。特に、先週は、神の子イエスが人の子、つまり罪人のために、イエス自らが罪人の立場に降って来られ、逆に罪人を神の子の位置まで引き上げてくださったことについて、お話しました。神の子であり、神そのものであるイエスは人の子、罪人の救いと贖いのために、自らを低めてくださったのです。このように低くなられたイエスは、罪人が受けるべき苦難を代わりに受けてくださいました。古今東西のキリスト者が、1000年以上の長い間に告白してきた使徒信条には、このような文章があります。『ピラトのもとで苦しみを受け、(十字架につけられ、)死んで葬られ。』主は人々の罪のために代わりに死んでくださいました。それにも拘わらず、主は生前、人々に否定されました。そして、使徒信条の告白のように、ピラトのもとで苦しみ受け、死ななければなりませんでした。キリストは、まるで苦難を受けるために来られたように、最後まで苦しみを受けられました。そして最後に、その苦しみがピラトという人を通じて死にまで繋がりました。今日はキリストが受けた苦難。特に、ピラトとの関わりを中心として、今日の本文のことについて話してみたいと思います。 1.ピラトに苦しみを受け。 キリスト者なら誰でも使徒信条を通して、ピラトという名前を聞くことになります。自分がキリスト者であると自負している人なら、ピラトによってイエス・キリストが殺されたという事実を知らざるを得ないと思います。しかし、ピラトについて詳細に説明してみようとすれば、言葉に詰まるのが現実だと思います。ローマ帝国のイスラエル総督、イエスを裁判した人、おそらく、ここまでが私たちが持っている一般的な知識でしょう。ピラトは西暦26年から約10年間、イスラエルを治めた総督でした。彼は、聖書での優柔不断なイメージとは違い、非常に残酷な人だったと言われます。『何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜたことをイエスに告げた』(ルカ13:1)当時、イスラエルは大敵パルティアとの最前線に近かっただけに、常に軍事的緊張が強い地域でしたので、治めるに容易な所ではありませんでした。特に、イスラエル地域は民衆の反乱が頻繁に起こる傾向があったので、宥和的な支配が難しい植民地でした。そのため皇帝はユダヤ人に対して強腰だったピラトを派遣したそうです。ピラトは、イスラエル民族に決して友好的な人物ではありませんでした。ユダヤ人の祭り、過越祭に偶像のように扱われてきたローマ皇帝の肖像画をエルサレム城内に入れたり、ユダヤ人の宗教的伝統を無視したり、無断で神殿の資金を使って水路を建設したりしました。そして、そのようなピラトへの糾弾集会を流血鎮圧したこともあったと言われます。 それでも、今日の本文でのピラトは、イエスを殺そうとはしていません。 『祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、十字架につけろ。十字架につけろと叫んだ。ピラトは言った。あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。』(19: 6)ヨハネによる福音書だけでなく、他の福音書でも、イエスを生かそうとした部分が出てきます。また、ピラトの妻は、イエスに友好的な人でもありました。『ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。』(マタイ27:19)確かに、ピラトはローマ人でしたので、ユダヤ人にも、イエスにも友好的ではありませんでした。また、ユダヤ人とイエスの関係についても、深く考えなかったのです。しかし、イスカリオテのユダのように悪意を持って、イエスを売り渡した裏切り者でもないし、ペテロのようにイエスを否定したキリスト者でもありませんでした。それにも拘わらず、なぜまだ私たちは、まるでピラトによってイエスが苦しみを受け、殺されたという風に、彼を決めつけているのでしょうか? これには、2つの見解があります。第一に、初期のキリスト者が、イエスの受難が、ピラトの支配下で起きた本当のことだったということを強調するためでした。主イエスの十字架での出来事が、誰かによって作られた仮想の話ではなく、実際のことであると強調するための初期キリスト者たちの証であるというわけです。使徒信条の形成から1800年も経った今では、ピラトが伝説の人物のように感じられるかも知れませんが、当時はそんなに遠くない時代の人物だったからです。実際、ローマの有名な歴史家タキトゥスは自分の文章に『ティベリウス皇帝時代、イエスという人が総督ピラトに処刑を受け、殺された。』という記録を残したと言われます。第二に、公的で法律的な死であることを明らかにするためでした。ピラトによるキリストの死は、人間による世の権力が下した法律的な死でした。彼はユダヤ人によって神聖冒涜罪として告発されましたが、最終的にはピラトによってローマ帝国への反逆罪と判決を受けました。全能なる神はそのような世の権力の判決を用いて、神の律法に合致する死にまで、拡張されました。『キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われていると書いてあるからです。』(3:13)当時のユダヤ人たちは、イエスを木にかけて殺すことが出来ませんでした。ユダヤ人には死刑執行権がなかったからです。しかし、主が律法どおりの死に至るためには、木に掛けられて死ぬ必要がありました。そんな時に、神様はローマの権力を用いて、イエス・キリストを木にかけられる死、つまり、十字架へ導かれたのです。 この世でも、神の国でも、イエスの死は、知る人ぞ知る、私的で密かな死ではありませんでした。これは、この世でも、すべての人々に明らかに証明された公の死であり、霊的にも、神様に認められた死でした。大祭司カイアファの言葉のように『皆を生かすための一人の死』であり、ヘブライ人への手紙の言葉のように『完全な贖いの生け贄のための霊的な大祭司の死』でした。これによって、イエス・キリストの死は、世界のすべての存在に適用できる公の死になったのです。このような公の死によって、イエス・キリストを信じる人の救いも公的な救いになりました。私たちの救いは、この世界でも、神の国でも、しっかり認められた救いなんです。ピラトは、当時のイスラエル地域の最高権力者でした。また、彼はローマ帝国を象徴する人物、すなわち彼はこの世を代表する人物でした。そんな彼に判決を受けたイエス・キリストは、それにより、歴史的にも、法律的にも認められる死を経験なさいました。また、そのピラトの判決を用いられた神は、神の霊的な法律。律法を満足させる死をキリストに下してくださいました。ある意味で、ピラトは、キリストを実際に嫌がっていた人殺しではないかもしれません。しかし、彼には法律的な責任がありました。そのような公の権限は、イエスの死を単なる説話や一方的な主張ではなく、法的効力のある公の死として認められるようにするための手段となりました。 2.ピラトとイエス。 だからといって、ピラトに責任がないとは言えません。彼はイエス・キリストにどんな罪もないことを知っていたからです。彼には、イエスの処刑を求めるユダヤ人に対して拒否出来る力がありました。しかし、彼はユダヤ人のこの言葉に揺らいでしまいました。『ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。』(19:12)イエスには罪がありませんでしたが、ピラトは、自分の権力のために、自分の地位を保つために、罪のない人に有罪の判決を告げてしまいました。本文の友という言葉は、ギリシャ語で二つの意味を持っています。一般的に、「友」という意味とローマ帝国の「信頼すべき臣下」という意味です。当時、『神の子』という名称は、ローマ帝国では、ローマ皇帝にのみ、使える言葉でした。そして、ユダヤの王という言葉は、ローマ帝国の支配を否定する反逆の言葉でした。自ら神の子、ユダヤの王と認めるイエス・キリストを釈放することは、ローマ帝国皇帝の存在を否定することに当たる意味でした。ユダヤ人たちは、これを狙ったのです。ピラトがイエスを釈放すれば、それはローマ皇帝の友、すなわち信頼すべき臣下として不適切な行為だったという意味です。ピラトは『自分の権力を保つか?罪のない者を釈放するか?』という絶体絶命の分かれ目の前に立ちました。結局、ピラトはイエス・キリストに十字架型を許し、不当な判決を下しました。そして、これは自分の前におられる真の神の子を否定する大きな罪になりました。 ピラトは自分なりに努めました。たとえ茨の冠、みすぼらしい紫の服であっても、イエスに着けさせた冠と紫の服は王を象徴するものでした。彼はこれをイエスに与えることによって『君たちが、自称王であり、反逆者であると告発する、その人は、何の力もない存在に過ぎない。彼には罪がない。』ということを示すために、わざわざイエスにそのような装いを身に着けさせたのです。それでも、ユダヤ人は満足していませんでした。イエスが自ら『神の子である。』という言葉を言うことにより、ユダヤ人の律法を破り、自分たちが崇める神の神聖を冒涜したという理由のためでした。これらのことを通して、ピラトはイエスについて、様々な知識を持つようになりました。神の子、ユダヤの王。そして彼の言動などを通じ、イエスが普通の人ではないということを悟るようになったのです。明らかに、ピラトも彼に尋常ではない力があることも感じたことでしょう。しかし、ピラトは、そのような悟りとは反対側に向かいました。イエス・キリストから漂ってくる真理を無視し、この地上での誉れ、権力、地位を、さらに追い求めてしまいました。それなりに努力した彼ですが、最終的に彼は、イエス・キリストを棄ててしまいました。神様から与えられる最後のチャンスさえも逃してしまったのです。そのため、彼は永遠にキリストを殺した罪人として世に記憶されることになりました。 2000年も経った今でも、福岡県の片隅でさえ、彼の仕業が記憶されています。『ピラトのもとで苦しみを受け。』 『ピラトは、お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。 そこで、ピラトは言った。わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』(19:9-10)それでもピラトは、自分がイエス・キリストより上にある者だと思いました。イエス・キリストが神の子であるという話を聞いて、恐怖を感じた彼ですが、彼は目に見えない権威ではなく、目に見える権力を選んだのです。そのため、ピラトは権限について話したわけです。ここでの権限という表現は「エクスシア」というギリシャ語ですが、これは「皇帝の権威による権限」を意味します。ピラトはローマ皇帝に権限を委任された、イスラエルにあるローマ皇帝の分身のような存在でした。彼は自分がその地域で最も地位の高い者であること知っていました。彼はそれが自分の拠り所だと思ったわけです。しかし、主は言われました。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。』(19:11)しかし、主は、それより上にある方、目に見える世界と目に見えない世界を支配される『真の皇帝』神様をご覧になりました。神はすべての権威の上におられる権威です。ピラトは一介の人間に過ぎないローマ皇帝の権威に頼って権限を話しました。しかし、イエスは、そのより上にある真の権限を持っておられる神様を見上げられました。 結局、ピラトはローマ皇帝の権限を自分の砦にし、イエスを裁判の席に連れ出しました。『ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。』(19:13)一見、力のないイエスが、権力者ピラトの前に来て裁判を受けるように見えます。人間の目には、イエスは既に終わったことも同然でした。ところで、私たちはここで一つの表現に焦点を当てる必要があります。これはギリシャ語の『エカディセン・エフィ・べマトス』という言葉です。不思議なことに、この言葉には二つの意味があります。解釈の仕方次第で『ピラトは裁判の席に座った』。という意味にもなり、『イエスが裁判の席に座った。』という意味にもなるからです。もちろん、自然な解釈は、『イエスを裁判の席に着かせた。』ですが、ヨハネによる福音書の著者はわざわざこのような二重のイメージを含ませることを図ったのです。 『正しくないピラトは罪人として、裁判官であるイエスの前に立った。』ということでしょう。世の権力を自分の拠り所としたピラトは表面上では、イエスを裁きましたが、実に彼は神の正義の前でイエス・キリストに裁かれる存在になってしまいました。そのためか、キリスト教の伝説には、このような話が伝わってきます。 『ピラトは晩年にカリグラ皇帝によって、平民に降格され、流刑になった。結局、自ら命を絶った。』主の真理ではなく、この世のものだけを求めた彼は、今でも、イエス・キリストを殺した罪人として、多くのキリスト者たちに記憶されています。 締め括り レントの最後の主日です。私たちは、ピラトという不幸な罪人を通して、真の権力と偽の権力が区別できなかった彼の愚かさを学びました。キリスト者は、世界の視点とは異なる方向に進む者です。神の子キリストは、人の子である私たちの罪のために来られました。そして、私たちを神の子にしてくださいました。このように、キリストに出会った私たちは、どのような人生を生きて行くべきでしょうか?世の中の目に見えるものは、あまりにも派手で見事です。しかし、主の真理は私たちの目に簡単に見えません。キリストに従うべきか?ピラトに従っていくべきか?今日の聖書は、私たちに真剣に問うています。来週は受難週です。ここ数週間の説教を振り返って、私たちが進むべき道はどっちなのか、どのように生きていくべきなのか、考える一日一日になることを願います。一週間の生活の中で、主の恵みが豊かにありますように祈り願います。