否定されるイエス。
聖書朗読 イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 18章12-27節(新204頁) 前置き イエス・キリストはご自分を信じる者に神との和解の道を開いてくださいました。神の子であり、神ご自身である主が自分の特権を棄て、この地上に来られ、多くの人々にご自分の特権を分けてくださいました。 『自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。』(ヨハネ1:12)その特権は、まさに神に捨てられた罪人が主への信仰によって、神の子となる特権です。主を信じる者は、キリストのお蔭で、神の子となる資格を得ることになります。そして、その資格によって、罪人が神に禁じられた神の国の民になることが出来ます。 『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』(ヨハネ1:4)主を信じる者は、罪と死のために道に迷っている真っ暗な人生から抜け出し、暗闇を照らす真の光を得ることができます。主イエスは、このように苦しんでいる民を救ってくださるために喜んで、皆の救い主として来られました。しかし、今日の本文では、ご自分の民も、この世も、イエス・キリストを打ち消し、拒みました。なぜ、イエス・キリストは御愛と御救いとを持って来られたにも拘わらず、打ち消されたのでしょう?そして、そのように否定されたイエス・キリストを、私たちはどう思うべきでしょうか?今日は否定されるイエスという題で皆さんと一緒に御言葉を分かち合いたいと思います。 1.ご自分の民に否定されるイエス 先週イエスは、自分を捕まえるためにやって来たローマの兵士とユダヤ人たちにわざわざ捕らわれてくださり、代わりに弟子たちを生かしてくださいました。主は力なく逮捕されたのではなく、弟子たちを救うためにわざわざ逮捕されたのです。これは、主の民のために、ご自分が代わりに死んでくださることを予め示す出来事でもありました。 『わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』(18:8)しかし、主のこのような姿とは違って、弟子たちは皆、主を捨てて逃げてしまいました。これと繋がる有名な場面が、ペトロがイエスを三度も打ち消した話です。『門番の女中はペトロに言った。あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ペトロは、違うと言った。』(18:17)15節の言葉を読むと、主に従った、ある弟子の一人が大祭司の知り合いであったと記されています。おそらく、この人はヨハネによる福音書の著者である使徒ヨハネだと思います。どんなわけで、一介のガリラヤの漁師であった使徒ヨハネが大祭司の知り合いだったのでしょうか?ある聖書学者たちによれば、案外にヨハネの家は裕福だったそうです。つまり、ヨハネ、本人ではなく、彼の父ゼベダイの方が大祭司とも会ったことのあるほどの金持ちだったということです。だから、門番の女中は、このヨハネに無礼に振舞うことができない立場だったということでしょう。従って、彼の知り合いであるペトロにも失礼な態度を取ることができないはずでした。 ギリシャ語のニュアンスどおりに翻訳すると、彼女は、かなり丁寧にペトロに尋ねたことが分かります。 17節をもっと詳しく翻訳してみましょう。 「あなたがイエスの弟子である、あのヨハネさんと一緒にいるのを見れば、あなたもイエスの弟子ですよね?そうではありませんか?」この言葉には、どんな脅かそうとする意図も、追い詰めようとする姿勢もありませんでした。しかし、ペトロはきっぱりと否定しました。 「違う。」時間が経ち、今度は周りの人たちから『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』(25)と聞いてもらいました。今度は、前の女中とは違って、少し強圧的な質問でした。ペトロは再び否定しました。するとそばにいた大祭司の僕の一人が『園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。』(26)と明らかに目撃した人として追い詰め、ペトロに問い質しました。しかし、最後まで、ペトロは口を極めて否定しました。その時、主の言葉どおり、鶏が鳴きました。ペテロは、柔らかな質問から、鋭い問い質しまで、全面的に主を否定したのです。ペテロは、いつも主の一番弟子という自負を持っていました。なので、自分は、いつも主と共におり、共に死ぬだろうと言い放ちました。しかし、その一番弟子という自負は、果たして純粋なものだったのでしょうか?彼は神の子と呼ばれるイエスが、この世の価値に相応しい偉大な存在、つまり、王のような権力者になると思っていました。 もちろん、その心にかすかな信仰もあったと思います。しかし、マルコの福音書10章でヤコブとヨハネの兄弟が『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』と願った時、ペテロも、その言葉を聞いて、他の弟子たちと一緒に腹を立てました。このように、彼の主な関心は、イエスによる世の権力にあったのではないでしょうか?また、ペテロは主が御自分の死を予告されたとき、主の死を否み、主が逮捕されたとき、剣を振るって、主を守ろうとしました。果たして、これは本当に主を守ろうとする振舞いだったのでしょうか?自分の野望を守ろうとしたことではないでしょうか?主はペテロの裏切りを既に知っておられました。『ペトロが、たとえ、皆が躓いても、わたしは躓きませんと言った。 イエスは言われた。はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度、わたしのことを知らないと言うだろう。』(マルコ14:29-30)ここで、私たちは『自分だけは、決して主を離れない。』と誓ったペテロから、私たちの姿を見つけなければなりません。私たちが、イエスを信じる理由は何でしょうか?イエスが私たちを楽園に導いてくださるからでしょうか?この地上で私たちと家族を幸せにするために守ってくださるからでしょうか?あるいは、教会に来ると心安らかになるためなのでしょうか?それとも、毎週、祝福の祈りを受けることができるからでしょうか?米国や欧州、韓国のように、キリスト教の規模が大きな国では、政治家たちが自分の評判や選挙のために信仰なく、教会に通う場合があると言われます。私たちは、いかがでしょうか?もし、主が自分に役に立たなくても、私たちは主を主だと認められるでしょうか? イエスの弟子たちは、使徒と呼ばれ、教会を創り上げる大事な役割を務めました。ペテロはその中でも、イエスの弟子たちを代表する大切な人物です。カトリック教会では、ペテロを一代の法王であると考えています。イエス様もペテロを特別に扱われました。ところが、このようなペテロがイエスを否定しました。力のないイエス、弱いイエスに失望したのかも知れません。イエスのせいで被害を受けることを恐れたのかも知れません。重要なのは、教会を代表する人物がイエスを否定したということです。教会はイエスの体と呼ばれる共同体です。しかし、教会も、イエスを捨てることがありえます。自分の欲望を満たしてくれないイエス、自分の助けにならないイエス、自分の願いを叶えてくれないイエスに気づいたとき、ひょっとすると、私たちも今日のペテロのように、主を断固否定するかもしれません。私たちの信仰はいかがでしょうか?私たちは、どんなことがあろうとも、イエスを否定しないで、主と一緒に苦しみを受けることが出来るでしょうか?私たちのイエス・キリストへの信仰が、どのような躓きの石も乗り越える純粋な信仰であることを望みます。鶏が鳴き、後悔したペテロのようになる前に、どのようなことがあっても、主を認めて従う私たちになることを願います。 2.世に否定されるイエス 逮捕されたイエスは、イスラエルの権力者たちに連行されました。当時、イスラエルの大祭司は、カイアファでした。しかし、イエスは、まずカイアファのしゅうとであるアンナスのところに連行されます。『まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファの舅だったからである。』(13)アンナスは当時の大祭司ではなく、大祭司の舅というだけなのに、なぜ、イエスは彼のところに、 まず、連れられたのでしょうか?その時、イスラエルはローマの支配を受ける植民地でした。ローマは、出来るだけユダヤ人の信仰と伝統を認めて支配しましたが、それでも、植民地であったため、民族主義的な権力が生じることを懸念しました。そのため、もともと、終生職であるべき大祭司がローマ総督の指示の下で、数年ごとに変わりました。アンナスも、そのような過去の大祭司の一人でした。しかし、このアンナスの権力は強大でした。今日の本文の時の大祭司が彼の義理の息子であり、アンナスの5人の息子は、皆、歴代の大祭司として権力者になりました。つまり、アンナスは大祭司を左右することが出来るほどの目に見えない本当の権力者でした。主はこのような権力の頂点に立っている者のところに、まず連行されたのです。 続いて、イエスはアンナスの娘婿であり、当時の大祭司であるカイアファのところに連行されました。イスラエルの大祭司は、イスラエルで最高の権力者の一人でした。この時、イスラエルには、サンヘドリン公会という機関がありました。それはイスラエルがバビロンの捕囚から解き放された後、イスラエルの自治のために生まれた組織です。サンヘドリンは大祭司、ファリサイ派、サドカイ派、総計71人が集まり、まるで、今の国会、裁判所のように、イスラエルを治めました。後、ローマ総督は、この組織を操るために、直接、大祭司を任命しました。つまり、大祭司はそのサンヘドリン公会の代表であり、親ローマ派の者でした。したがって、大祭司は、単に宗教指導者を超えて、政治的にも多くの影響を持つ者でした。宗教権力も、世俗権力も、両方握っているものだったという意味でしょう。しかし、アンナスもカイアファも最終的にはローマ帝国の操り人形に近かったのです。彼らは神の御心によって選ばれた大祭司ではなく、世の権力によって立てられた大祭司でした。彼らは人間が立てた偽りの大祭司であり、律法に認められない偽者でした。彼らは神の律法より、ローマ帝国の権力に近い世の権力に属していたのです。彼らの興味は神の意志よりも、世の権力にあったからです。 大祭司たちの仕業の例を取り上げてみましょう。イスラエルの成人男性は過越祭、七週祭、仮庵祭の3大祭りにエルサレムの神殿に上り、神様に献げ物を捧げる義務を持っていました。『男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。 あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。』(申命記16:16-17)そのため、民は自分が心を込めて育てた生け贄の動物を、エルサレムまで連れて行って捧げました。しかし、傷のある物は捧げてはならないという律法の命令ため、行く途中、傷が生じたりすれば、その動物は使えないようになりました。大祭司は、それらのことを悪用し、神殿で商売をしました。傷のある動物を安く買い取って、その動物を綺麗だと騙し、高く売却した。ローマの銅貨には、皇帝の顔が描かれていて、偶像のものだという口実を設けて、イスラエルのお金に両替させました。このような正しくない方法によって、大祭司は莫大なお金を稼ぎました。イエス・キリストが神殿の商人たちを追い払われた出来事は、このような背景から理解する必要があると思います。神殿でのイエスの行為は、大祭司が聖であると認めた神殿商売の腐敗した面を暴き立てることでした。そのため、大祭司はイエスを目の敵にしたはずでしょう。 イエスは神の御心に逆らう、大祭司たちの悪行を指摘し、治そうとなさいました。その反面、大祭司は人を生き返らせ、イスラエルの悪い習わしを治し、人々を癒すことによって、人気を得たイエスを憎みました。自分らの立場が揺らぐと思ったわけです。『大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。』(19)大祭司はイエスを排除しなければ、自分の権力が危ないと思いました。そのため、イエスの教えを尋ねたわけです。彼は、すでにイスラエルの大祭司という名目から外れ、神の外にいる存在でした。彼はこの世の空中に勢力を持つ者の手下のような存在でした。 『イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるかと言って、イエスを平手で打った。』(22)正しいことを教え、正しい道を示されたイエスは、大祭司の悪により、苦しみを受けることになりました。この世の偽りの大祭司が、神から遣わされた真の大祭司を否み、裁いたのです。世の権力者たちは、自分たちの利益のために、不正や悪行を犯したりします。そのような人々に正義を貫くキリストの福音は迫害を受けます。教会が主の言葉に徹底的に聞き従い、正しく変えようとするなら、迫害を受けることは決まっているでしょう。それでも、教会は、主に従って正しいことを行いつつ、生きるべきでしょう。この世の方式に妥協する瞬間、私たち教会は、偽りの大祭司のようになり、主さえも認めることが出来ないようになるでしょう。 締め括り 孤独なイエス イエス・キリストは弟子たち、すなわち教会に否定されました。そして、イスラエルの権力、すなわち世にも否定されました。皆が自分の野望と欲望のために、真の神の声を否みました。この世に救いと命を与えるために来られた主は、ご自分に従っている者、ご自分を憎んでいる者、両方から拒まれ、否定され、十字架につけられました。主イエスは、この世のすべてのものに徹底的に否定されたのです。キリストは、なぜ、そのように皆に否定されて、孤独に死んでいかれたのでしょう? 『わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。』(イザヤ53:6)教会も、世も、自分の罪を自ら赦すことができません。旧約の生け贄にも、傷のある羊は生け贄に使えませんでした。ただ罪がなく、傷のない生け贄だけが、人の罪を代わりに背負うことが出来ました。罪のないキリストだけが、人の罪を代わりに背負うことが出来るという意味でしょう。罪を背負うことにおいては、他の誰の哀れみも助けも要りません。ただ、私たちの罪を背負ったイエス・キリストと罪を裁かれる神様との問題なのです。主が徹底的に苦しんで捨てられたのは、もともと私たちのものでした。主が感じられた孤独は、私たちが感じるべき孤独でした。苦しみを受けるイエス・キリストは、皆に否定され、一人でご自分の道を歩んで行かれました。しかし、主は、最終的に復活され、世の罪を赦してくださるでしょう。そして、ご自分が受けてくださった、私たちが経験すべき否定と孤独の代わりに煌びやかな喜びを私たちに与えてくださるでしょう。否定されたキリストによって、私たちは神様に認められました。私たちは、主を否定しましたが、主は私たちを認めてくださったのです。否定されるキリストを覚えつつ、主の愛を覚え、私たちが受けるべき苦難を代わりに受けてくださったイエス・キリストに賛美と感謝をささげる一週間なるように祈り願います。