信仰によって、実現される約束。

創世記15章6節 (旧19頁) ローマ信徒への手紙 4章1‐25節(新278頁) 前置き 世界の多くの宗教は、人の行いに価値を与えようとします。神々の気に入るために供物を捧げ、極楽に行くために苦しい修練をし、功績を認められるために敵を殺したり、自分の命をかけたりすることもあります。人間は宗教という名の下で、そのような行いを通して自分の特別さを示そうとします。それはユダヤ人も同じでした。神に委ねられた律法、神に選ばれた唯一の民族という独り善がりのため、自分らを高め、異邦人を排除しました。世界の多くの宗教は、このような行いを通して自分らの正しさを神に示し、そんな自分の正しさによって、救いを得るという話を前面に押し出しています。神の恵みより、人間の行為を大事に思うということです。ローマ書は、このような行いによる人間の義に対して、最初から断固否定しています。人間はもともと罪人であり、宗教人でさえ、そのような罪人という軛から自由ではなく、神に選ばれたと言われる者らも、それから自由ではないということを語っています。ローマ書は、ひたすら神による義だけが、人間を自由にすることが出来、人間は自分の行いではなく、正しい神様を信じる信仰だけによって、義とされると語っています。今日はローマ書4章を通じて、なぜ信仰なのか?果たしてこの信仰というのは何か?について話してみたいと思います。 1.信仰の始まり、アブラハム アブラハムは75歳のある日、神に召されました。ある研究によると、江戸時代の平均年齢は30〜40歳だったそうです。長寿国として有名な日本も、中世から近代に移る時期には、非常に短い寿命だったことを示しています。ところで、アブラハムは、それより3000年も前の人です。つまり、何千年前に生きていたアブラハムが召されたというのは、当時、非常に高齢者として、ほぼ死に近い時に神様に出会ったということでしょう。恐らく自分の人生を整えるために、誰かに遺産を残そうとする時点だったでしょう。ところが、神様は、まるで人生を始める20歳の若者に話すかのように、『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。』(創世記12:1-2)という信じがたい言葉をくださいました。 75歳の高齢者、『すべてが終わった。』という挫折の中に出会った神様は彼にすべての始まりを知らせる命令をくださいました。彼は神のこのようなご命令に非常に驚いたことでしょう。 しかし、さらに驚くべきことは、『わたしはあなたを大いなる国民にする。』という言葉でした。なぜ驚くかというと、アブラハムには子供がいなかったからです。現代医学でも40歳を超えると容易ではない妊娠なのに、古代の高齢者にとっては、とんでもない約束でした。アブラハムが旅に出たとき、彼は甥のロトを連れて行きました。ある学者たちは、恐らくアブラハムがロトを後継ぎとするために共に行ったのだろうと考えました。しかし、ロトはアブラハムを離れて自分の道に行きます。後継ぎが無くなったアブラハムは大きく失望したことでしょう。彼は全てを諦めて、自分の子供でもない彼の僕、エリエゼルに財産を残そうとしました。しかし、人間の目に一寸先も見えない絶望の時に、神はアブラハムに現れ、再び驚くべき話をなさいます。『あなたから生まれる者が跡を継ぐ。天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。』(15:4-5)古代社会で後継ぎがいないというのは、すなわち、死を意味することです。彼の家は、もうすぐ、滅びるはずでした。しかし、神様は滅びる直前のアブラハムの家柄が、夜空の星のように復興するものであり、アブラハムは信仰の先祖になると言われました。それは、死んだアブラハムを生き返らせるという言葉に違いありませんでした。 アブラハムが人間の弱さのため、諦め、挫折したにも拘わらず、神は絶えずに彼を信仰に招いてくださいました。人間アブラハムに義がないということを御存じでいらっしゃいましたが、それでも、彼に信仰を与えくださったのです。結局、アブラハムは神を拠り所とし、主に与えられた信仰を通して、主の御招きに応じました。その瞬間、アブラハムは神に義と認められました。アブラハムは何もせず、ただ神の招きに信仰を持って応じただけなのに、神は彼の小さな信仰を見て義としてくださったのです。ですが、その小さな信仰は、神に基づく偉大な信仰でした。人間アブラハムは決して実現できない大きなことを、全能なる神様が叶えてくださるという小さな信仰を持ちました。このような小さな信仰が、信仰の主であるキリストを私たちにもたらす種になりました。今日ローマ書がアブラハムの話を例え話に挙げる理由は、彼が自分自身ではなく、神の約束を信じたからです。『人間には出来ないことも、神には出来る』(ルカ18:27)というイエス・キリストの御言葉のように、アブラハムは、神に希望を置いて信じ込みました。自分ではなく、神に希望を置いたこと、これが、すなわち、信仰であり、この信仰によって、アブラハムは義人として認められたのです。 2.律法の前に信仰によって結ばれた約束。 ここで、ある人達は信仰について『それでも、信じるということも、結局、人間の行為ではないか。』という疑問を抱くかもしれません。しかし、聖書が語る信仰とは、信者が主体となる、行為としての信仰ではありません。聖書が語る信仰は、まるで 農夫が蒔いた種のようなものです。種は小さくて弱いですが、農夫に養われ、土の重さにうち勝ち、芽を出します。そして少しずつ育っていきます。種を蒔いた農民は種が死なないように水と肥しをやり、栄養素を奪っていく雑草を取ってくれます。いつの間にか種は、小さな木になっています。ようやく木は農夫の養いの下で、自ら育っていくようになります。そして美味しい実を結ぶようになります。神様は農夫として、小さな種のような弱い信仰が、一抱えの木のような堅い信仰になるまで守られ、育ててくださいます。私たちが『神様を信じている。』と自覚する時は、農夫のような神様が、私たちの信仰という種を、既に木のように養ってくださった時です。信仰は、神が与えてくださるものです。人間の情熱や努力によって生じるものではありません。 人が義とされるというのは、このような神の養いと支えの下に生きていくということを意味します。義とされるのは私たち、信徒ですが、私たちを義としてくださる存在は神様です。神はこのような信仰を、律法が生じる数百年前に、すでにアブラハムに与えてくださったのです。アブラハムは行いによって義とはされませんでした。彼は神から与えられた信仰に応じて、ただ神を信じただけです。彼に宗教的な行いがあって、神様が彼を認められたわけではありません。 『もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません』(2)ところで、このように神に義とされたアブラハムが大きな失敗をしてしまいます。神への信仰が弱まり、神に尋ねず、独断で後添いを迎え、イシュマエルを生んだことです。それにもかかわらず、神様は彼を捨てられず、彼が99歳になった時に再び現れ、割礼を命じられます。それによって、再びアブラハムとの約束を堅く保たれます。つまり、割礼とは信仰を守り抜けなかったアブラハムを赦し、彼の義を神様ご自身が守られるという約束の印なのです。『アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。』(11)律法に加え、最も重要なユダヤ人の印である割礼も、結局、先に与えられた信仰の印だったのです。 アブラハムは、律法によっても義とされませんでした。むしろ、律法は400年という時間が経った後に受けたものです。依然として神への信仰の出来事が、それより前に起こっています。前回の説教を通して、律法はユダヤ人の憲法のようなものであり、生活のガイドラインのようなものであると学びました。人は律法を通して神の言葉への従順を習い、自分の罪を自覚するだけです。つまり、律法は特別な力のある物、聖なる本ではなく、神の民が守るべき法則に過ぎないのです。ローマ書は、これら、すべての行為、割礼、律法が信仰を支えるためのものだと話すだけです。人が神に認められる唯一の道は、神への信仰だけです。神は、その他の何も与えてくださいませんでした。私たちは、今日のアブラハムの物語を通して、ひたすら信仰だけが、神の御前に私たちを立たせる一本道であることを心に留めて生きるべきでしょう。神を信じたアブラハムは100歳になり、自分の体から生まれた息子イサクを抱くことが出来ました。彼に子供を与えた原動力は、彼の行為ではなく、神から頂いた信仰でした。 3.約束を守られる神。 創世記15章17節には、神とアブラハムが約束を結ぶ場面が出てきます。神はアブラハムとの約束の証として自ら契約を図られます。古代近東では、双方束縛的契約という契約方式があったそうです。肉を真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置き、双方の契約者がその間に通過し、『約束を守らない者は、このように切り裂かれて死ぬことになる。』という恐しい契約です。『日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。』(創世記15:17)旧約で『燃える火』は神の御臨在を意味したりします。神ご自身が約束の現場に臨まれ、義と認めてくださったアブラハムと直接、約束を結んでくださるということです。ところで、創世記15章では、その真っ二つに切り裂かれた肉の間を神様御独りのみ通り過ぎておられます。どこにもアブラハムがその間を通って行ったという話はありません。 『アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。』(10)しかも、アブラハムは、鳥を切り裂かず、契約の準備も全うしませんでした。アブラハムの不完全さにも拘わらず、義と認めてくださった神様はアブラハムの足りなさすら抱かれ、切り裂かれた肉の間を通り過ぎました。神はご自分の責任に加えて、アブラハムの責任をも担われることを誓ってくださったのです。つまり、これからのアブラハムの罪責を神様がご自分の命をかけて担当されるということです。 なぜ、私たちは信仰によってのみ、神様に義とされるでしょうか?なぜ、私たちの行いによっては出来ないのでしょうか?これは、神とアブラハムの契約で結ばれた約束が行いではなく、信頼によるものだからです。これは単に、アブラハムだけが神を信じたからではなく、神もアブラハムを信頼してくださったからです。お互いに信頼関係を持って約束を結んだ神様とアブラハム、アブラハムが完全ではないにも拘わらず、彼を正しいと認めてくださった神の信頼。つまり、その神の信頼に応じる信仰だけが、神との約束を守る唯一の鍵だからです。この神との信頼による約束は信仰以外のいかなるものでも成就できないのです。したがって、人間に基づく行為、律法、割礼などの行いによる手柄としては、その約束を守ることが出来ません。『神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。』(13)私たちの信仰は、単に信じるという行為ではありません。私たちの信仰は、神との約束を守る唯一の鍵です。 イエス・キリストが私たちのために死んでくださった理由は、私たちを可哀相に思われたからではありません。アブラハムと結ばれた契約を神ご自身が手ずから守ってくださるために、アブラハムと、その子孫が守り抜けなかった約束の罪の償いのために、彼らの死の代わりに死んでくださったからです。アブラハムも、子孫も、絶え間なく罪を犯しました。彼らは決して罪から自由になることが出来ませんでした。しかし、それでも、神は神を信じる者たちを義と認めてくださいました。彼らが死に値する罪の中にいる時にも、彼らを赦してくださったのです。神様は最後までアブラハムとの約束を守ってくださったのです。天地万物を創造された全能の神が、ご自分の民に自らを束縛されてまで、何があっても、民を諦められませんでした。霊でいらっしゃるため、死ぬことが出来ない神様は、結局、死ぬために肉体を持って、この地上に臨まれました。そして自らが切り裂かれた契約の肉のようになられ、死んでくださいました。アブラハムの子孫の罪の報いと守れなかった律法の精神を完全に守るために、神が自ら死んくださったということです。イエス・キリストの十字架は、この神の約束の証なんです。イエス・キリストは罪人の代わりに罪の報いを解決し、ご自分の民への愛を成就され、律法の精神まで、完全に守ってくださった神様の約束の達成者なのです。 信仰によって、実現される約束。 なぜ、イエス・キリストだけを信じるべきなのか。なぜ、イエス・キリストの他には正解がないのか。なぜ、イエス・キリストだけが救い主であるのか?これは時には独断的に感じられるほどの質問です。しかし、主イエスだけが信仰の対象であり、正解であり、救い主である理由があります。まさにこのイエス・キリストだけが神とアブラハムの約束の実だからです。神様が主イエス・キリストを通して、この時代を生きていく信仰の民を探しておられます。神とアブラハムが結んだ約束が今、イエス・キリストと現代の信徒たちの間に再び現れています。イエス・キリストは、神がアブラハムを招いてくださったように、今日も人々を招いておられます。誰でもイエス・キリストを信じることによって、神の民として義とされ、天国の民として認められることが出来ます。信仰は双方の約束です。神は今日も、イエス・キリストを通して、私たちに限りのない信頼を示しておられます。今や、神の信頼に、私たちが答える番です。それがまさに私たちの信仰なのです。キリストを通って来る神の信頼に私たちが信仰を持って答える際に、私たちはキリストの中で神との契約の賜物としての義と永遠の命を得ることが出来ます。神は律法や他の何かを通しては約束を結ばれませんでした。神はただ信仰によって約束を結ばれたのです。私たちは、決してそれを忘れてはならないでしょう。

イエス・キリストを信じる。

創世記15章6節 (旧19頁) ローマ信徒への手紙 3章19‐32節(新277頁) 前置き 前の数回の説教を通して、すべての人間は罪のゆえに不義な存在として生きており、そのような罪の影響は信者、未信者を問わず、すべての人類に同じく有効であるということが分かりました。これらの罪の終わりには、神様の恐ろしい裁きがあるということも分かるようになりました。人は如何なる行為や思想を通しても、神の御前で義と認められることが出来ない存在だというのがローマ書の教えでした。そのため、人は自らが正しい者であるという考えを捨て、神の御前で自分の罪を認めなければならないということも分かるようになりました。それでは、人類はどうすれば、正しい存在、義とされることが出来るでしょうか?そして、その義というのは何を意味するのでしょうか?今日はキリスト教の最も重要な教義、キリストへの信仰による義と、律法行為によって義とされるということの無意味さについて話してみたいと思います。 1.律法とは何か? 私たちは、前の説教を通して、神に選ばれたと言われるユダヤ人について取り上げました。彼らは神に律法を委ねられた、神様が手ずから立てられたイスラエルの民でした。しかし、神は彼らを、律法、民というタイトルだけで、義と認められませんでした。むしろ、『わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(19-20)という言葉のように、ユダヤ人の律法は、ユダヤ人が完全な義人ではないことを証明するブレーキのようなものでした。また、『わたしたちが知っているように』という言葉を推し量ってみたら、当時、イエスを信じていた信者たちの間には、ユダヤ人が持っている律法の機能に対する理解と教えがあったようです。それでは、この律法とは果たして何でしょうか? 律法は神様がご自分の民を、世の中で聖別されて生きさせるために、神ご自身が与えてくださった法則を意味します。基本的に10戒を意味しますが、より広くは、モーセ五書を、新約では、今の旧約聖書のほとんどを意味するとします。 『ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。』今日の21節の言葉に出てくる律法と預言者について、律法とはモーセ五書を、預言者とは、その他の全ての預言書や知恵文学を意味します。古代イスラエルは祭政一致社会であったため、律法には宗教法をはじめ、民法、司法、刑法が統合されていました。つまり、律法は古代イスラエル社会のすべてをまとめる憲法のような機能を持っていたのです。宗教法にせよ、憲法にせよ、法律というのはそれを守る時に、有効なものです。法律を持っているといっても、守らなければ、その法律は何の意味も持つことが出来ないようになるでしょう。特にユダヤ人たちは、モーセ五書を更に重要としましたが、神から与えられた最初の成文法だと思うからです。ところで、彼らはこのモーセ五書から『守るべき戒め248個』、『してはならない戒め365個』を集めて合計613個の命令を作成、『ミツボト』という律法書を作って、使いました。 律法はヘブライ語で『トーラー』と言いますが、『指示、法令、戒め、法律、仕来り』という意味を持っています。この『トーラー』の語源は、『ヤーラー』です。この言葉は幾つかの意味を持っていますが、特に有意義な意味では、『矢を的に当てる。』と解析できます。これは、おそらく、ヘブライで『罪』が持っている語源的な意味と関係あると思います。ヘブライ語で罪の語源は『矢が的に外れる。』ですが、その反対に、「矢を的に当てる。」という意味を使い、すなわち、律法とは、神様の御前で罪を犯さないためのガイドラインという意味として『ヤーラー』を語源とする『トーラー』になったと思います。 また、ギリシャ語では、律法をノモスと言いますが、これは『分ける、分離させる。』という意味を持っています。ここでの『分ける、分離させる。』という意味は、神の民と、民でない者を差別するという意味ではなく、神の「民」が「民でない者」から区別された生き方を持たせるという意味で、「聖別」と理解するのが正しいと思います。つまり律法とは、罪を拒む民、神様に聖別された民が追い求めるべき、ユダヤ人の行動の指針なのです。 2.律法を通しては、義を成し遂げることが出来ない。 世界の各国は各々の憲法を持っています。憲法とは一国の国民が必ず守るべき、行動指針です。日本には日本の憲法が、アメリカには米国の憲法が、韓国には韓国の憲法があります。私たちは自国の国民として、憲法を遵守する義務があります。日本人が日本国の憲法をよく守るといって、義人と呼ばれることは有り得ないでしょう。皆さんも日本の憲法をよく守っておられるでしょう?しかし、誰にも『憲法をこんなに堅く守るなんて、あなたは義人ですね。』とは言われないでしょう?それは国民の当たり前な義務だからです。法律をよく守ったからといって、特に賞を受けたりすることはありません。律法も同様です。なのに、ユダヤ人の問題は何であったのでしょうか?自分らが神から与えられた聖なる律法を所有し、堅く守っているからという、自分らの行為に基づいて、自ら義人であると考えていたということです。彼らは当然に守るべきことを守っただけなのに、自分たちが特別だと思ったのです。しかし、実は、そのような勘違いに陥り、ちゃんと守ることも出来なかったのが真実でしょう。つまり、ユダヤ人の自己認識は、神の前で、何の根拠のないものでした。 また、19-20節の言葉に戻っていきましょう。『わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』私たちは、この言葉から律法の機能である『すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。』という言葉に注目する必要があると思います。『神の裁きに服する。』という言葉の原文は、ギリシャ語の『ウポディコス』です。これは新約聖書で、たった一度だけ、使われた表現ですが、古代ギリシャでは、頻繫に使用された非宗教的な法廷用語で『解明する責任がある。』という意味です。律法は、その下にある、すべての者に『解明』を要求します。なぜ、『律法をきちんと守れなかったのか』ということに対し、責任を問うという意味の言葉です。ローマ書は、神様が、この律法を通して、ユダヤ人だけでなく、その律法に記された、すべての戒めを守らなかった者に解き明かすことを求められると語っています。これは、もともと、律法がユダヤ人だけへの命令ではなく、全人類に与えられた戒めであることが分かる部分です。ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、解明できない者らに下される報いは、神様の厳重な裁きなのです。 従って、ユダヤ人も、キリスト者も、また、未信者も律法の所有、そのものに特別な価値を置いてはいけません。創世記は、神様がモーセに律法を与えてくださる数百年前に、すでに、イスラエルの先祖アブラハムを義とされたと証言しています。義というのは律法の遵守という行為に閉じ込められていることではありません。義とは、律法と別に働くのです。そして、その判断は、神様だけがなさる事柄です。ユダヤ人が、いくら律法を堅く守っても、キリスト者が聖書の御言葉にきちんと従うといっても、未信者が、いくら善良に生きるといっても、神様は人の行為から義を求められません。神様は、ひたすら神が定められた、主のご計画に従って、義人と罪人を分けられます。だから、現代を生きていく私たちキリスト者も、自分の努力や行いから神様のお褒めの言葉、自分の正しさを求めてはならないでしょう。パウロは、今までの言葉を通して、この点を確実にしているのです。律法では決して義を達成することが出来ません。律法は人間の罪責の解明を要求し、罪の存在を悟らせるだけです。 3.神から来る唯一の義 – イエス・キリスト。 このような律法の機能のため、すべての人間は、最終的に罪人というくびきから脱することが出来ません。先に私は613個の命令をまとめた『ミツボト』というユダヤ人の律法書についてお話しました。ラビたちは義人の条件について、非常に厳しく教えました。それは613個の戒めをすべて守り、維持することでした。面白いのは、この『ミツボト』の613個の戒めから612個を守っても、1つを守らなければ、律法は完成出来ないということです。もし613個を全部守るといっても、それを最後まで維持しなければならないということです。あるユダヤ人たちは、そのような律法を完全に守り抜いたラビがいたが、彼がメシアだったかも知れないと言いました。しかし、その『守り抜く』という意味が、単純な行為だけの意味ではなく、その行為に含まれている律法の最も重要な精神『神と隣人を愛すること』を叶えるという意味であれば、それはまた、不可能となったでしょう。そのラビもユダヤ人の習わしや宗教に従って、異邦人を侮ったはずだからです。つまり、律法が求める行為と共に律法の精神まで、守り抜くということは限りのある人間としては、まったく不可能な話ではないでしょうか。 だからこそ、神は人間の行いや手柄から義を探し求められないのです。ただ、主は人間の行いとは別に、ある基準を立てられ、そこから神の義を満足させ、求めようとなさいました。その基準についての話が、まさに主イエス・キリストのことなのです。正しい神様はモーセに律法を与えてくださる何百年前から、神ご自身から生じる真の義を人間に与えようとする御計画を持っておられました。この義は人の行い、手柄、律法などとは一切関係ありません。それはただ、造り主、神様の完全さに、その拠り所を置いているのです。『神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。』(29)したがって、神の義は、ユダヤ人と異邦人とを選り分けません。誰でも自分の行いではなく、神様からの義を受けることによって、ひたすら神の御業によって義とされるのです。神はこのような真の義を成し遂げる役割を真の神であり、真の人であるイエス・キリストに任せられたのです。 『ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。』(21-22)ローマ書は明らかに『イエス・キリストを信じることによって、すべて信じる者に与えられる神の義』のことを話しています。これは人種、貧富、名誉、行為の有無に基づいたものではなく、ひたすらイエスという存在を信頼し、彼に頼る際に得ることが出来るものです。 『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。』(23-24)世のすべての人々は、罪から自由になることが出来ません。しかし、神様は、ただイエス・キリストという存在を通じて、そのような罪人も赦されることが出来るということを示されたのです。これは、私たちに大きな慰めと希望となります。私たちはこれを福音と呼びます。人類が自分の弱さのため、罪から自由になることが出来ない時、神様から遣わされたイエス・キリストは罪に勝利し、勝ち取られた、その力をもってご自分を信じる全ての人に、主の義を分けてくださいます。それによって、主イエスは信じる者が神に義人であると認められるように導いてくださるのです。キリストを信じる者は、自分の力に関係なく、神が立てられた義の基準を、神から遣わされたイエス・キリストに任せて、主から来る義によって、神の前に義人として立つことが出来ます。 締め括り レビ記には、和解の献げ物という祭祀法が登場します。これは、神と人、人と人が、 この祭祀を通して仲直りし、一つになる喜びの献げ物です。『神はこのキリストを立て、その血 によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。』(25)、新共同訳では、『罪を償う供え物』と書かれていますが、その言葉の語源は『和解する。』です。神はキリストを『和解の献げ物』として、人類に遣わしてくださったと思います。人間がいくら努力しても得られない神との和解を、イエス・キリストという義に満ちた存在が、代わりに叶えてくださったからです。もちろん、今後ローマ書の説教を通して、キリストがその和解のために、いかに多くの苦難と悲しみを受けたのかをお話しする予定ですが、主はご自分を信じる者らを赦し、神と和解させるために喜んで和解の献げ物になってくださったのです。このイエスの功績は今日も有効なのです。私の行いではなく、キリストの義に頼り、神様の御前に進む時、私たちは神と本当に和解し、正しい者と認められるでしょう。このすべてが、キリスト・イエスから来る真の義によるものであることを感謝しましょう。私たちに義を与えてくださるキリストに感謝して生きていく一週間になることを願います。

正しい者はいない。一人もいない。

詩編14:1-3 ローマの信徒への手紙 3:1-20 前置き パウロは、ローマ書1章を通して、人類が持っている罪と不義に対する神の裁きを語りました。その後2章では、『神の民』が、その罪人を判断することについて、彼らも同じく大きな違いのない罪人であることを力説しました。パウロは『神の民』のモデルとして、ユダヤ人を例として挙げ、彼らが『特権であり誇りである』と思っていた律法についての誤解を批判しました。律法を持っているので、自らを義人だと思っていたユダヤ人たちが、結局は神の前で同じ罪人であることを話したものです。パウロは『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(2:13)という言葉で、真の義とは律法の所有によるのではない、律法の精神を守ることによって生じると話しました。そして、これは単にユダヤ人だけでなく、『神の民であるため、罪人とは異なるという特権意識』を持っている、すべてのキリスト者も同様であることを示しています。結局、ローマ書2章のユダヤ人への批判は、一次的にユダヤ人に、二次的には今日を生きていく私たちにも、同じく適用されるパウロの警告なのです。 1.律法の所有が救いを保証することではない。 2章で、想定モデルとしてのユダヤ人に訓戒するような姿勢を取りながら、信じる者の特権意識を指摘したパウロは、3章では、本格的に論争をしつつ、話を続けていきます。3章8節に『わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、』という言葉を通して、3章の会話がパウロの教えに反対する人たちとの論争であることが分かります。つまり、3章で、パウロは、ユダヤ人批判者と論争しながら、もう一度、ユダヤ人が誤解している律法について言い及ぶのです。2章がユダヤ人という仮想の象徴的人物を通して、ユダヤ人はもとより、すべての信じる者にした訓戒であれば、3章では、本格的にユダヤ人との論争を用いて、ユダヤ人が持つ特権意識に反論するという意味です。 1節『では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。』これは『神がユダヤ人の祖先であるアブラハムを選び、ご自分の民にしてくださり、割礼という意識を通して、他の民族と区別してくださったのに、これが何の意味もないという意味か?』という質問です。ユダヤ人の特権意識が、どこから来たのかが分かる部分です。『それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉を委ねられたのです。』パウロはこのような答えを通して、ユダヤ人が律法を所有したこと、そのものが大事なことではなく、ユダヤ人に与えられた言葉、すなわち、律法の精神の重要性を強調しています。新約で神の御言葉を意味するロゴスが持つ意味は、ただ言語という意味のほかに精神あるいは関係という意味を持っています。ユダヤ人に言葉が委ねられたという意味は、神が要求しておられるところ、神の御心を把握し、それをこの世で実践して生きることを意味します。これは言葉を所有するというのは特権になることではなく、神の御心を実践するための義務となるということです。ここで、私達は律法を所有していることだけで、ユダヤ人は特別であるという特権意識の無意味さが分かります。 3節『それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでも言うのですか。』新共同訳では、不誠実な者だと書かれていますが、これを直訳すると「信頼しない者」となります。ここで突然、信頼という言葉が出てくる理由は、ギリシャ語原語との関係があるためです。 2節で『言葉をゆだねられた。』という言葉が出て来ますが、原語の直訳では『誰かに信頼された。』という言葉となります。つまり、2節での『神の言葉をゆだねられた。』 という言葉は、『彼らは神に信頼された。』と解釈することが出来ます。先に私は神のロゴスには関係という意味も含まれているとお話ししました。神は民との信頼関係の中で、律法を任せられました。神の言葉を委ねられたということは、神との信頼関係の中にあるという意味です。しかし、ユダヤ人は、何度も信頼関係の律法の精神を破り、異邦の神々を拝んだのです。私たちは、旧約聖書を通して、旧約の民がどのように神との関係を破っていったのか明確に知ることが出来ます。そういうわけで、3節の質問は、このように解釈することが出来ると思います。 『ユダヤ人が神を信頼しないからと言って、誠実な神がイスラエル民族との契約を破られ、自分の民を異邦の罪人のように見捨てられるということか?』この質問にも、まだユダヤ人の特権意識が感じられます。パウロは4節を通して人は不誠実つまり、不義でありますが、神様は決してそのような方ではないという答えで、神の完全無欠さを守りつつ、3節の論争を一段落させます。 2.自らを正しいと思ったユダヤ人の罪。 ローマ書は、パウロの殉教の約10年前に記された文書だそうです。つまり、ローマ書はパウロがイエスを信じてから、数々の経験をした後、ローマ教会に送った手紙なんです。そういうわけで、ユダヤ人との仮想対話にはパウロ個人の経験が多く含まれています。パウロは、ユダヤ人の会堂でイエス・キリストの福音を紹介しながら、ユダヤ人と多くの論争をしたでしょう。神が自分らだけに律法を与えられたと信じていたユダヤ人たちは、律法の所有が神の特権ではなく、ユダヤ人も、神に見捨てられ得るというパウロの言葉に大きな衝撃を受け、多くの反論を申し立てたでしょう。そのうちの一つが今日の本文の5節-8節の話です。ユダヤ人たちは、『ユダヤ人が神様を信頼しなかったからといって、誠実な神様がユダヤ人を捨てられるのか? 律法を通してユダヤ人の救いを契約した神様が契約を守らないというのは、神様が”不誠実な方”ということではないか。』と反問したものです。これに対し、パウロは『ユダヤ人が、いかに不誠実で罪を犯しても、 神様が誠実な方だということは決して変わらない。』と答えたのです。むしろ、誠実な神様だからこそ、ユダヤ人の不誠実を赦し、キリストを通して救ってくださると語ったのでしょう。パウロはユダヤ人の不義のため、むしろ、主の義が現れると語ったのでしょう。これらのパウロの教えにユダヤ人たちは、自分たちにではなく、キリストに義があるという話に皮肉を言い、『善が生じるために悪をしよう。』と言ったのです。 このような背景をもって5-8節を読めば、割と容易に内容が分かるようになると思います。『しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。』この言葉を、より理解しやすく翻訳してみましょう。『ユダヤ人が契約を破ったからと言って、神様も契約を破る不義な神になるわけではない。これは、人間の視点でしかない。あなたの不義に対して怒りを発する神は正しくないのか』これは、ユダヤ人が過去、神との信頼関係を壊す罪を犯しましたが、神は依然として、その信頼関係を保っておられることを意味します。ただ、神様は律法ではなくイエス・キリストを通して、ユダヤ人との関係を保たれ、彼らの罪を赦し、救ってくださることを望んでおられるのです。しかし、ユダヤ人は、自分らが不義であるという言葉を納得できず、自分らが不義であれば、不義に放って置かれた神様も同じように不義の神になるだろうと頑なに意地を張っているのです。彼らは決して自分が正しいという考えを諦めないということです。これは、神を下げ、自分を高める大きな不敬になります。 『わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。』ユダヤ人たちは、続けて不敬な話を吐き出します。『パウロよ、あなたの言葉のように私たちの不義によって神の義が明らかになり、栄光を得られるとしたら、むしろ私たちは神様の裁きを受けてはならないだろう。 ならば、神様の善が生じるために悪をしなければならない。』キリストを露わに否定し、むしろ、自分たちに正当性を与えようとしたユダヤ人は、頑固にパウロの教えに真っ向から反論しました。ここで、人間が持っている致命的な罪が明らかに現れます。自らを正しく思い、自らの考えを最後まで正しいと主張する彼らを見て、私たちは、創世記で自分の判断に従って、神の言葉に聞き従わなかったアダムのような姿を見ることが出来ます。結局、ユダヤ人たちは、自分は選ばれたという勘違いの中で、アダムが犯した罪を、同じく犯しているのです。パウロは、これによって、ユダヤ人が持っている罪の性質を告発し、最終的にユダヤ人も、神の御前で罪人であることを現わしてくれます。この話は、すでに2章5節にも現れていました。『あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。』 3.人は罪から自由になれない。 これらの1-8節の物語を通して、パウロは、結局『ユダヤ人はそこまでだ。』という限界を示しています。そして自分自身を弁護するために、パウロが伝えた福音を歪め、拒んだ彼らに『こういう者たちが罰を受けるのは当然です。』と評価しています。だからといって、パウロが、キリスト者がユダヤ人にまさると話しているとは言えません。むしろ、同じように扱っています。 『では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。』(9)パウロは、すべての人が罪人であるだけだと話しているのです。ここで、パウロがした、これまでのユダヤ人への教えと対話が、最終的にはキリスト者にも適用されるものであることが分かります。私たちは、これにより、ユダヤ人、キリスト者、未信者を問わず、すべての人が罪の下におり、神の裁きの下にあるということが分かります。 『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』(10-12)パウロは、詩編14編を引用して、ユダヤ人たちが大切にした律法も、人間の本質についてこう評価したということを示し、確証します。 ここまで聞いたら、ローマ書の読み手は一つ悩むようになると思います。 『それなら、人間には全く希望がないということか?人間はただ生きていきながら、罪を犯すことしかないのか?』 残念なことに、聖書はそうであると話しています。『彼らの喉は開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。』パウロは13-18節を通して、旧約聖書に記された多数の罪を数え立てながら、人間は正しくないと話しています。実に人間には惨めさしかないということです。『さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ書3章19-10)さらに悲惨なことは、その罪の中にいる人間は、神に与えられた律法さえも、到底、守ることが出来ないということです。 パウロは今までの教えを通して『律法は聞くものではなく、実行するものである』と話しましたが、実は人間というものは、そのような法律の精神を守ることさえ出来ない無力な存在であり、罪だらけの存在であると再び話しています。神を知らない未信者も、旧約の民も、新約のキリスト者も、皆が自力では、神に認められない罪人であり、弱い存在であり、悪の存在だということです。実にパウロは、人間という存在へのポジティブな眼差しを諦めています。ただ人間には絶望だけがあるというのがパウロの教えの中身です。しかし、今日、聖書がここまで人間を必死に否んだ理由は、逆に、その人間という存在を救う希望の存在があるということを強調するためでした。私たちは、すでに御子イエス・キリストがユダヤ人、キリスト者、未信者を問わず、すべての人類のために、代わりに神の律法を満足させ、罪の力を打ち破り、救い主になってくださったことを知っています。人間という存在の中に絶望だけで、希望はないという事実で終わるのではなく、神様はそのような人間を見捨てられず、イエス・キリストという希望の存在を備えてくださったということ、それが今日の説教の一番大事な内容なんです。 締め括り、私たちの外から来る神の義。 今日ローマ書の言葉は、あまりにも人間の無力さを強調したあまり、聞き手が疲れを感じるほどの絶望的な話しだったと思います。しかし、パウロはすこし後の箇所で、そのような絶望的な人間に神様の愛と希望が来ると教えてくれます。今日の御言葉を通して、私たちは、私たち自身が、どれほど罪のため、弱い存在になっているのか悟らなければなりません。悟る時に、私たちの救いと力になってくださるイエス・キリストへの大きな信頼と希望を持つことが出来ます。『わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました。主にわたしの背きを告白しようと。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。』(詩篇32:5)人が自分の罪を告白するということは難しいことです。神を知らない、この世の人々は、自ら罪人であることを認める人を不思議に思います。しかし、神はそうではありません。神様は自分の罪を告白し、神様に助けを求める者に赦しと愛とを与えてくださいます。神はイエス・キリストの贖いを通して、罪人をお赦しくださるとお定めになりました。キリストに完全な神の義があるからです。結局、完全な義は私たち人間の心や行いからではなく、神に認められたイエス・キリストから来るのです。私たちは、そのイエス・キリストへの信仰によって義とされるでしょう。ユダヤ人の失敗を他山の石とし、私たちは、ひたすら主イエスに希望を置いて、生きていきましょう。来たる一週間、神様の平和を祈ります。

ユダヤ人と律法

詩編119編174-176節 (旧968頁) ローマの信徒への手紙 2章12‐29節(新273頁) 前置き 前々週、私達は裁きは神様だけがなさる事がらであり、『人は他人を裁いてはならない』というローマ書の教えについて分かち合いました。新約聖書で神の裁きと人間の判断は『クリノー』という同じ言葉を使っていました。これは裁く人が裁かれる人の処分を定めるときに使用する言葉でした。なので、人が他の誰かを判断するのは、まるで、神のように誰かを裁こうとする行為になり、神の権限を奪う罪になると学びました。ローマ書は、この人間の『判断しやすい傾向』が、罪に基づいていることなので、神を知らない罪人と同じく罪を犯すことになると語っています。また、神様は表に現れる姿だけをご覧になって裁かれる方ではなく、人の心中に隠れている意図まで把握し、裁かれる方であることを教えています。そのため表を見るだけで、隠れているものについては、全く分からない人間は、正しい判断が出来ないことが分かりました。結局、罪人も罪人を判断する人も皆、神の御前では同じく罪人であり、両方、神の裁きの下にあるということが、ローマ書2章1-11節の教えでした。そのような事実の前でキリスト者は、ただ謙虚に神に判断を任せ、『神の御心に聞き従うべきである。』というのが先々週の説教の主な内容でした。 1.パウロが突然ユダヤ人に声をかける理由。 ローマ書は2章に入ってから、その雰囲気が全く変わります。 1章で、人間の不義と罪、神の裁きについて、複数の聞き手に説明文のように語っていたパウロは、なぜ突然、話し方を変えて2章からは、一人に向かって叱責するような姿を示すのでしょうか?これは新約聖書で、しばしば用いられるディアトリベーという文学形式で記されているからです。このディアトリベーを日本語に翻訳すると(辞書的意味は『論文』になりますが、)『論理的な仮想対話』と言えるでしょう。このディアトリベーは仮想の人物と語り合いつつ、自分の主張を繰り広げるものですが、教師が生徒に論理的な叙述を通して、叱責するような方法で、相手が持っている誤った情報や偏見を矯正し、教訓を与えようとするときに使う教え方です。 パウロはそのディアトリベーの対象を神を知らない異邦人ではなく、自らが神に選ばれたと信じているユダヤ人に定めています。 最初はユダヤ人という名称は出ず、人を裁く者という言葉だけが出てきますが、17節に行けば、その裁く人がユダヤ人であるということが明らかになります。ローマ教会はユダヤ人と異邦人のキリスト者が一緒に仕えていたのに、なぜ、ユダヤ人だけを特定して語るのでしょうか?先々週、私はパウロが、自分は『ユダヤ人だから、またはキリスト者だから』と思い、世の罪人とは違うと信じている全ての『神を信じる者』に『君らも同じく罪人である』ということを強調しているとお話しました。つまり、これは単にユダヤ人だけへの教えではなく、自分が神の民であるため、他の罪人とは違うという勘違いに陥りやすい、すべての信者の偽善をユダヤ人という代表的な例を挙げて指摘しているのです。 『すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。』(ローマ2:9-10)という言葉のように使徒パウロは、ユダヤ人という仮想の存在を立てましたが、その教えは、ただユダヤ人だけでなく、 異邦のキリスト者を含む、すべての信者たちにも、適用されるという意味です。 ユダヤ人たちは、自分らが神の特別な民であり、子供だと思っていました。アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは、自分らが神に選ばれた者であり、神が自分らだけに律法を与えてくださったので、自分らだけが特別な存在だと思っていたのです。当時のローマの異邦人キリスト者たちも罪が蔓延っていたローマ帝国で、キリストに救われた自分らが普通の罪人とは異なると考え、自分らを特別な存在だと思っていたでしょう。パウロは、このような全ての信者たちを仮想のユダヤ人と想定し、これらの信じる者が持ちやすい偏見や頑なな心を咎め、論理的に告発しているのです。このような理由から、ローマ書の読み手は、たとえ神を信じる信者であっても、誰でもユダヤ人のように偏見と片意地に惑わされ、罪を犯しやすいと悟るのです。このように、今日ローマ書が取り上げているユダヤ人は、一次的には本当のユダヤ人であり、二次的には神を信じるすべての信者であるということが分かります。従って、これは、ある名の無いユダヤ人へのメッセージではなく、志免教会で信仰生活をしている私たちにも適用できる内容でしょう。 2.パウロが突然、律法を登場させる理由。 ところで、2章12節から急に律法が登場します。今まで罪と不義について話し、罪人を裁く者の罪をも話していたパウロは、なぜ、いきなり飛躍的に、話題を律法に変えるでしょうか?実は当時のユダヤ人と律法は密接な関係でしたし、ユダヤ人が自分を義人とし、平気で罪人を裁いた根拠が、彼らは神に律法を委ねられたからという当時のユダヤ人社会の背景を考えると、突然な律法の登場は、別に不自然ではないかも知れません。当時のユダヤ人といえば、律法を思い浮かべるのが当たり前なことだったからです。ここでの律法とは、モーセが残したモーセ五書を指すことです。ユダヤ人たちは、このモーセ五書を受けた唯一な存在が、自分の民族であることを誇りに考えていました。自分たちが、このモーセ五書を持っているだけでも、異邦人たちとは違う大きな恵みを得、この律法があるため、自分らにとって神の救いは当然のことだと思っていました。彼らは律法のない全ての異邦人は滅びるだろうと思っていました。ユダヤ人に於いて、律法は誇りであり、全部でした。 しかし、パウロは彼らに律法を持っていることだけでは、何の役にも立たないと強調しています。 『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(ローマ2:13)律法は、ただ持っているだけでは、何の効果ももたらしません。律法に記された言葉を心に留め、それに聞き従う際に、律法の価値は輝きます。しかし、ユダヤ人たちは律法を持っているだけで満足したのです。自分たちは、律法を持っているため、神の裁きから自由だと信じていました。しかし、パウロは、むしろユダヤ人が律法によって裁かれると警告しました。新共同訳では省略されていますが、元々原文では11節と12節の間に「なぜなら」という単語があります。これを通して2章の1-11節の言葉を、このように解釈することが出来ると思います。『神に律法を委ねられたと高ぶり、他の罪人を裁き、自分を正しく思うユダヤ人たちよ。君らは異邦の罪人と全く違わない。ただ神様は君に対して忍耐しておられる。ユダヤ人にしろ、ギリシャ人にしろ、悪を行うと苦しみと悩みが、善を行うと栄光と誉れと平和がある。』その後、省略された『なぜなら』が入り、次の第12-13章に繋がります。『律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』 では、これを私たちキリスト者は、どのように自分に適用することが出来るでしょうか?ユダヤ人に律法があれば、キリスト者には、主の福音があります。ユダヤ人たちは、神の言葉である律法を通して、神の救いが、既に臨んでいたと思いました。キリスト者も、イエス・キリストの十字架の御救いを通して、既に救われ、天国を許されたと信じながら生きていきます。しかし、キリスト者が、既に救われたから善行は要らないという考え、もう天国が自分のものになったかのような安易な思い、隣人の魂への哀れみもなく、自分だけは地獄に行かないだろうと満足し、主の御言葉への不従順、神と隣人への愛も、キリストが福音を通して教えてくださった奉仕も無く、ただ福音を天国行きのチケットくらいに思っているなら、キリスト者は自分の救いについて、真剣に考えてみるべきだと思います。『ただ福音を持つ者が救われた者ではなく、福音の精神を生活の中で現わしている者が、本当に救われた者』であるからです。 3.律法は、形ではなく精神である。 ローマ書は2章17節以降、具体的にユダヤ人の勘違いと律法について話しを繋いでいきます。当時のユダヤ人たちは、自らが律法に頼り、神を誇りとし、神の御心を知り、律法の教えによる在り方を弁えていると思いました。 また、律法に具体的な知識と真理があると考え、自らが盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師だと自負していました。彼らは見掛けだけでは実際にそのような人々だったのかも知れません。しかし、彼らは律法をしる知識にふさわしくない悪い意図や振る舞いも持っていました。神と隣人を愛せよという律法の精神は破り、偽善的に行い、貧しい人々を無視し、異邦人を憎んだりしました。律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮ってしまいました。この手紙を書いたパウロさえも、神のためにという名目で、使徒言行録でステパノの迫害に加わった人殺しでした。ユダヤ人たちは、律法への知識と行為が一致しませんでした。表だけは立派に見えましたが、中身は腐った墓のように裏と表が違ったのです。ところで、突然ですが、恐ろしい事実があります。それはこのユダヤ人への叱責がユダヤ人だけでなく、私達にも同じく適用されるということです。私たちはこの言葉を通して、ユダヤ人ではなく、自分自身を顧みなければならないと思います。 ユダヤ人が残したタルムードのような文書には、ユダヤ人に3つの誇りがあったと記されています。律法、神殿、割礼です。このすべてのものは、ただ表だけに見える表示です。律法とは、神と隣人を愛せよという具体的な命令であり、神殿とは、その神殿を通して神様がユダヤ人だけでなく、すべての人類と共におられることを示す象徴でした。割礼とは、生命の根元になる男性性器の一部をきり、人間ではなく神だけが命の源であるということを認める謙虚と従順の象徴でした。しかし、ユダヤ人たちは、この3つのものが持っている真の精神は抜かして、ただ律法、神殿、割礼という目に見える形だけを取り、自分たちだけが神に救われ、選ばれた民族だと信じていたのです。 パウロはこのようなユダヤ人という象徴を通して、本当に選ばれた存在は、律法やその他の何かを通して証明できるものではなく、神の律法が持つ精神を生活の中で実践する時こそ証明出来ると、絶えず力説しています。『だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。』(フィリピ 2:12)パウロは、フィリピ書の言葉のように、常に恐れおののきながら、自分の救いについて反省し、自分が救われた者であるか、証明する生活を生きて行くように勧めています。 これは、行いによる救いという意味ではありません、救われた人の証としての行いを求めているのです。『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。』(ローマ2:28-29)このように今日の本文は目に見えるものではなく、目に見えない律法の精神を強調しました。 締め括り 今日パウロは、神を信じる者の象徴としてユダヤ人を選びました。また、そのユダヤ人の必ず守るべき精神としての律法を取り上げました。そしてユダヤ人と律法について、ディアトリベーという方式をもって話しました。この言葉は、単にユダヤ人だけへの話しではありません。パウロがユダヤ人にした話は、実は自分が神を信じていると思っている者なら、誰でも注意しなければならない内容です。律法のことも同じです。これは旧約の律法だけを意味することではなく、神を信じる者なら、当たり前に守るべき、神の言葉としての意味を持っています。私たちは、新約と旧約の律法と福音の言葉を、ただ知識として受け入れ、それだけで喜んでいるのではないでしょうか?私たちは本当に律法と福音が絶えず語りかけてくる、神と隣人への愛を誠実に守っているのでしょうか? 今日のユダヤ人と律法の話を通して、神を信じている自分自身と自分が理解している神の律法と福音について、もう一度、顧みる時間になることを願います。