信仰による従順。

ローマ 1 章 1 節-7 節  小倉教会  金泰仁 伝道師 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と記されていま す。 パウロは、キリスト・イエスの僕として、身も心も全てキリストのものとされている、そしてそのことのゆえ に、召されて使徒となったと言っています。 「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。パウロは、身も心も徹底的にキリストに所有される僕となり、 キリストから全権を委任されて派遣される使徒となったのです。 パウロが召されて使徒となったのは、「神の福音のために」です。福音とは、良い知らせ、救いの知らせとい う言葉です。しかし人間の感覚における良い知らせではありません。神により神からの「神の」福音です。 2 節に「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので」と記されています。 神は既に聖書の中で、預言者を通して救いを約束しておられます。その神の救いの約束が実現したという良い 知らせをパウロは告げ知らせているのです。良い知らせ Good News それが福音です。 その福音は「御子に関するものです」と 3 節に記されています。「御子」とは神の子である、イエス・キリスト のことです。 神が預言者を通して約束していた福音は、神の子であるイエス・キリストにおいて実現しました。ですから「神 の福音」とは、「御子イエス・キリストによる救いの知らせ」なのです。 3-4 節に、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力 ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と記されています。 ここには、神の御子である主イエスの誕生と復活とが示されています。「肉によればダビデの子孫から生まれ」 とは、主イエスが私たちと同じ人間として、肉体をもってこの世に生まれて下さったことを現します。 そしてその御子は、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められ」ました。十字 架の死を経た主イエスの復活のことをパウロはここに示します。 「力ある神の子と定められ」と記されています。定められたとは、定めた方がおられることを意味します。 定めた方とは、主イエスを死の力から解放して復活させ、新しい命、永遠の命を与えてくださったのは神さま です。 救い主として私たちを救う神の力が主イエスの復活によって示されたのです。それは死に勝利する力、死の力 に捕えられ支配されている私たちを解放して、新しい命を与えて下さる力です。 私たちの人生を脅かしている最大の敵である死を、神の恵みの力が打ち破り、私たちに新しい命を与えて下さ る、その救いが、御子イエスの復活において実現したのです。これが福音です。 パウロはこの「神の福音」のために選ばれ、召されて使徒としての務めが与えられました。 5 節に「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵 みを受けて使徒とされました」と記されています。 原文の前半を語順通り直訳する、「わたしたちはこの方により、恵みを受けて使徒とされました」となります。 「この方」とは主イエス・キリストです。パウロはイエス・キリストにより、恵みを受けて使徒とされました。 「恵みを受けて」と記されています。ここも原文により忠実に訳すと「この方によって、恵みと使徒の務めと 2 を受けた」となります。「恵み」と「使徒の務め」とが、キリストによって与えられたものとして並べられていま す。パウロにとって、使徒とされたことは神の恵みを受けたことであり、恵みによってこそ使徒とされたのです。 パウロがそのように断言できたのは、彼がキリストを信じる者となり、使徒となった時の体験に基づいていま…

主の裁き。

詩編119編137-144節 (旧966頁) ローマの信徒への手紙 2章1節-16節(新274頁) 前置き 先週、私たちは、人間の罪がもたらす惨めさについてお話しました。人間を代表するアダムが神の御言葉に聞き従わない、最初の罪を犯した後、すべての人は、神の要求を満たすことが出来ない不義の存在となりました。ここでの不義とは、神様の要求に応えることが出来ないということ、すなわち、神を信じないということです。人間のこの不義は神に完全に聞き従うことが出来ない不完全さをもたらしました。また、人は、そのような不義により、引き続き神に逆らう罪を犯して生きて行くことになりました。ローマの信徒への手紙は、神がこのような人間の不義に対して怒りを現わされると証言しています。そこで神は、不義のため神に仕えず、むしろ逆らう罪人をその心の情欲のまま、放っておかれ、更に罪の中にとどまるようになさいました。捨てられた人間は、続けて罪を犯し、神の怒りを積み重ねて行くことになりました。 残念なことは、神が創造される時、被造物に神を知る知識を明らかに示されましたが、被造物である人間は、不義により、そのような神に対する微かな認識さえ歪めて、被造物を神として拝む偶像崇拝という更に大きな罪を作ってしまいました。結局、人は自力では罪を犯すだけで、その罪を解決することが出来ないことを、偶像崇拝を通して示したのです。自分の罪を清めることが出来ない人間は、神の怒りの中で、ただ恐ろしい裁きに向かって行くしかない惨めな存在です。したがって、神はこのように、神の怒りの中で、自らの罪を解決できない人間を救われるために、彼らの代わりに、神の要求を満足させるイエス・キリストを遣わしてくださったのです。罪と不義は恐ろしいものです。初めの罪が不義を呼び出し、不義によって新しい罪が生じるのです。これらの不義と罪の連鎖作用のため、人は神の裁きから決して切り抜けることが出来ない悲惨な人生を生きるしかありません。 1.神はすべての被造物を裁かれる。 それでは、神の裁きとは、果たして何でしょうか?私たちは、神の裁きについて漠然と地獄での甚だしい悲しみや苦しみを思い浮かべたりします。もちろん聖書にも、そのように記されています。『彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。』(黙示録20:13-15)しかし、聖書が語る裁きの、ただ文字的な意味を超えて、調べてみる必要があると思います。新約聖書が語る裁きという言葉は、ギリシャ語「クリノー」です。この『クリノー』は『定める、裁く、裁判する、判断する、批判する、告発する、治める。』等の様々な意味を持っています。ところで、このクリノーの最も基本的な意味は「定める。」です。つまり、裁きとは裁く人が裁かれる人の処分を定めるということです。裁判官が法律を持って被告人の処分を定めるように、神様は御言葉を持って被造物の処分を定められます。神の言葉によって造られた、すべての被造物は、終わりの日に厳重な神の御言葉によって処分が定められるでしょう。これは善と悪とを問わず、神によって造られた、すべての被造物に摘用される神の裁きです。 だから、この裁きというのは、単に罪人向きのものではありません。すべての被造物が神の定めとしての裁きを待たなければならないからです。これはキリスト者さえも、神の裁きについて『既に神の赦しを得、救われた。』という名目で、自分は神の裁きとは関係ないと思ってはいけないという意味です。世のすべてのものは終わりの日、キリストを通して神の裁きを受けるからです。もちろん、キリスト者は、キリストによって、神の御前で弁護されるでしょう。しかし、だからと言って、神が私たちの過去の行いと業について沈黙されるだろうとは言えません。その日、私たちは、必ず神に私たちの生涯について自供をしなければなりません。ウェストミンスター信仰告白33章では、これを明らかにしています。 『地上に生きたことのある全ての人が、彼らの思いと言葉と行いについて申し述べ、善であれ悪であれ、彼らが体をもってなしたことに応じて、報いを受けるためにキリストの法廷に立つことになる。』神は裁かれるお方です。神はすべてのものを造られた創り主でいらっしゃいますので、終わりの日、全ての被造物に対する権威を持って裁かれるでしょう。 2.ローマ教会へのパウロの警告。 東洋文化圏に生きる私たちは、基本的に仏教の世界観の影響を受けます。なので、裁きを考えるとき、地獄について漠然と考えたりします。ところが、仏教で語られる極楽と地獄のイメージは、仏教が生じる、ずっと前に古代近東で栄えたゾロアスター教という宗教の教義から渡って来たものです。ギリシャの王アレキサンダーがペルシャを征服した後、東西が融合したヘレニズム文化が生まれ、地中海全域には、これら善悪と天国、地獄の概念が広がり始めました。これらの思想は、インドにも伝えられ、仏教に影響を与えました。しかし、旧約聖書は、天国と地獄を語っていません。死後、すべての人は陰府に降り、すなわち死後の世界に入るということです。その後は神の領域ですので、人間としてははっきり知ることはできないというのが、旧約の来世観です。新約聖書が天国の喜びと地獄の裁きを話す理由は、その時代の人々がそのような善悪、天国地獄の概念の中に住んでいたからです。神の裁きは地獄のように恐ろしいということを教えるためでした。ここで確実に知れることが二つあります。すべての人は、死んで、神の御前に行かなければならないということと、天国と地獄よりも重要なことは、私たちが必ず神に裁きを受けるということです。 しかし、多くの人々が、特にすでに神を信じると考えているユダヤ人やキリスト者は、勘違いしやすいです。『私は神の民だから・私はキリストに既に救われたから、彼らとは違う。』しかし、今日の聖書は言います。『すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 』(ローマ2:1)この言葉は、ローマの信徒への手紙を受けたローマ教会の人々だけでなく、現代を生きる私たちにも訴えています。ひょっとしたら「私は神を信じているので、私はキリストの中にいるので、罪のために惨めになった彼らとは違う。」という思いが私たちの心の中に少しはあるんじゃないでしょうか?このような思いの根本には、罪人を判断する姿が隠れています。彼らと自分を分けて、自分は違うと思うからです。 パウロがローマの信徒への手紙を書いた当時、ローマ教会は、ユダヤ人とギリシャ人が一緒に仕える教会でした。自らが神の選ばれた民族だという自負心を持っているユダヤ人と、ユダヤ人ではないけれど、キリストによって救いを受け、信仰を持っていたローマのギリシャ人のキリスト者は、ローマ人の堕落を眺め、彼らは簡単に判断したりしたかも知れません。しかし、彼らに使徒パウロは、神の裁きの本質を教えてくれます。 『全ての人は、神の裁きの下にある。罪人を見て判断するならば、それは結局あなたがたの中にも同じ罪が潜んでいるという証拠である。あなたがたは、神の裁きから自由ではない。キリスト者であるあなたがたも安心せず、更に主の御心を察して、謙遜しなさい。』これがパウロが今日の言葉を通して、ローマのキリスト者、そして今日、この言葉にあずかる私たちに訴える教えであります。 3.神は正しくお裁きになる。 ローマ2章2節でパウロはこう語ります。『神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 』(ローマ2:2-3)パウロは信徒たちに『罪人を裁きながら、同じことをしている者よ』と話しています。ローマ教会の信徒たちが堕落して不義の生活をしていたから、このように責めたのでしょうか?そうではないと思います。ローマ1章8節は、ローマ教会の信仰が全世界に言い伝えられていると証言しているからです。それでは、一体なぜパウロは『君らも同じものだ。』という風に話したのでしょうか?これは、2節の『正しく。』という言葉から意味を見つけることが出来ます。 まず、2節の『正しく』という表現は直訳すれば、『真理通り』という意味です。古代ローマで真理という言葉は、東洋人が理解する真理とは、かなり異なる意味深い表現です。私たちは、真理を話す際に、主に偽りの反対語だと思う傾向があります。日本語の辞書にも『本当の事。間違いでない道理。正当な知識内容。』と書かれていました。ところが、ギリシャの思想では、この真理の反対語を「現象」と言いました。現象とは表に現れるものであり、真理は表に出なく隠れている実在を示すものだというです。難しい言葉だと思いますので、聖書から例え話を引いて見ましょう。 『わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』(マタイ5:28)人々は女性を見て淫らな思いを持っても、実際に犯していなければ、罪ではないと思います。この世の法律のことです。しかし、イエスは淫らな思いを持つ時、既に淫らな罪を犯していると語られました。表に現れる『女を犯す。』というのが現像であれば、心の中にある『淫らな思い』は真理だという意味です。人間は現象だけをみることが出来ます。しかし、神は真理までご覧になります。そして真理について裁かれ、それに応じて現像をも裁かれるでしょう。そのため、ローマ書は、神の裁きが真理通り、厳正になされると話しているわけです。 1節に「裁き」という言葉が3度も出てきます。ここでの裁きは、先に申し上げましたギリシャ語「クリノー」と同じ言葉です。ところで、私はその「クリノー」が神の裁きの原語だとお話しました。裁きは神だけの権限です。人が敢えて侵すことが出来ないものです。つまり人が人を裁くということは、神の領域を奪おうとする仕業と同じです。それは1章で、パウロが話した数々の不義を産んだ罪に基づくものです。人が裁いてはならないのは、人は真理と現像の間で何が真理であり、何が現象なのか分からないからです。人は表だけ見て中身を見ることが出来ないからです。真理と現像への完全な理解は、神だけがなさることです。ですから、私たちは人を裁いてはいけません。私たちが、イエスを信じているから、既に赦されたからといって誰かを裁けば、我々は最終的に神の御前で他の罪人と同じような罪を犯すことになると、パウロは語っています。神の裁きは、私たちの心の中の思いから表の行いまで一つ一つつまびらかにするからです。 締め括り 『あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。』(ローマ2:4)神は御哀れみをもって、私たちを赦しておられます。神様が私たちに対して何もなさらないからといって、私たちに罪がないわけではありません。神のお赦しを知っているにも拘わらず、引き続き、他人を裁き、自分自身は違うという考えを持っていれば、神はそれを、私たちの頑なな思い、悔い改めようとしない思いだと判断され、怒りの正しい裁きを下されるでしょう。『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(ローマ2:13)ですから、私たちは他人への裁きを止めて、ただ神の御言葉に聞き従うことによって、御言葉通り実践する人生を生きるべきでしょう。 19世紀のアメリカ、身なりが非常にみすぼらしい老人がハーバード大学長を訪れました。人々は彼がお金を乞うために来たと思いました。学長は彼を門前払いし、職員たちも、彼に冷たい態度を取りました。結局、老人は追い出されてしまいました。彼は帰っていくとき、職員にこのような質問をしました。『こんな大学を立てるには、どのくらいのお金が必要ですか?』 その後アメリカ大陸の反対側に良い大学が出来たという便りが伝わってきました。追い出された、みすぼらしい老人の名前はリーランドスタンフォードでした。ハーバードに肩を並べる有名なスタンフォード大学の創設者です。ハーバードは奨学金寄贈のために来た彼を、見かけだけを見て、追い出してしまったのです。人は真理を知ることが出来ません。神だけが真理を御存じです。したがって、我々は表だけ見て判断する前に、自分自身を顧み、神にその判断を委ねるべきです。誰かを裁くことなく、私たち自身の罪や悪いところを反省し、へりくだって主の道に従って生きましょう。

罪がもたらす惨めさ。

イザヤ書59章1-2節 (旧1158頁) ローマ信徒への手紙 1章18節‐32節(新274頁) 前置き 中世後期のヨーロッパに、現在、チェコ共和国と呼ばれるボヘミアで生まれたモラビアン教会という宗派がありました。彼らは非常に情熱的な宣教で有名な団体でした。彼らは主にアフリカ、中国、極地などに入って、その国の文化、言語などを熱心に学び、服装もその文化に合わせて着るなどして、宣教を行う人々でした。そのモラビアン教会の、ある宣教師が北極に近いグリーンランドに派遣されました。彼はそこに入って地元の人々と積極的に交わり、高いレベルの言語を話し、深い文化理解を持って、伝道に力を尽くしました。後日、彼の評判は非常によくなり、多くの先住民が、彼と親しい交わりを持つことになりました。ところで、その宣教師には一つ悩みがありました。 17年も宣教に尽力しましたが、誰一人もイエス・キリストを信じないということでした。その宣教師と友達になり、隣人になりましたが、彼らは依然として神を信じていませんでした。 そんなある日、近所の先住民が宣教師を訪れたことがありました。親しかった二人は、お茶を楽しみ、色んな話を分かち合いました。そうするうちに、ふとイエスの生涯に話題が変わりました。彼らは人の罪と、イエス・キリストの死と罪の赦しと栄光の復活について話をするようになりました。その日、宣教師を訪れた先住民は、自分の罪を悟り、衝撃を受け、真にイエスを信じ、悔い改めることになりました。それにより、その地域の本当の宣教が始まり、多くの先住民が、神を信じ、イエス・キリストを救い主として認めることになったと言われます。罪への警告と罪の赦しの恵みを教えることは、福音の最も大事なメッセージであります。それを教える説教が宣べ伝えられる時こそ、福音は本当にその力を現わすことが出来るのでしょう。今の例え話は、そんな事実を明らかに示していると思います。 1.罪の影響 キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。この世での富と名誉のための宗教でもありません。瞑想や自己省察のための宗教でもありません。キリスト教は、キリスト・イエスを通して天地を創造された造り主と再会、和解し、彼と一緒に生きていくための宗教であります。例えば、父に逸れた孤児が父と再会して、父と一緒に父の家に少しずつ歩いて行く様子。そのように神と同行する宗教であります。そのような創り主である神と歩んで行く途中、神によって時には幸せを経験したり、時には不幸を乗り越えたりしながら、最後まで神様と共に進む宗教であります。その同行の結果の一つが、正に、死後天の国に行くということです。それは目標ではなく、ただ、神の贈り物の中の一つに過ぎないのです。造り主、神と共に行くこと、そのものが既に私達の天国が始まったということであり、私たちの救いが成し遂げられはじめたという意味です。 ところが、この神に出会うことを妨げる深刻なものがあります。それはまさに人の罪であります。今日の旧約聖書の言葉を見てみましょう。『主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。』(イザヤ59:1-2)罪により、造り主から離れた人間が本当に救いを得るためには、必ず造り主、神様の御前に居なければなりません。御前に居るということは、神と共に歩むという意味です。しかし、罪というものがある限り、我々は神の御前に居ることが出来ません。いや、許されません。罪が神と我々の間を隔てているからです。 実に神様は、どんな状況にあっても、私たちを救える充分な力を持っておられます。しかし、人が罪を持っている限り、主は人をお救いになることが出来ません。主の手が短いわけでもなく、主の耳が鈍いわけでもありません。にも拘らず、神は人に罪がある限り、その人をお救いになりません。お出来になれないわけではなく、救ってくださいません。なぜなら、罪は神の性質に正反対のものだからです。罪は神と人間の間の巨大な隔てをもたらします。罪は人間に向けて恵みと哀れみをくださる神の御顔を隠すものです。罪は神の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人間が神に救われることが出来ないようにする結果、人間が神に見捨てられるしかない悲惨な結果をもたらします。人が自分の罪を解決していない以上、その人は絶対に救いを得ることも、神と共に歩んで行くことも許されません。 2.罪の悲惨さについて。 ギリシャの哲学者、ソクラテスは「無知は罪なり。」と言いました。ソクラテスはキリスト者ではないですが、彼のこの言葉には真理が隠れているように思えます。罪から生じる惨めさの一つは無知です。罪を持っている人は、自分にどのような罪があるのか、何が問題なのかを絶対分からないということです。分からないので解決が不可能であり、解決が不可能であるため、救いに至ることが出来ません。今日新約本文であるローマの信徒への手紙は罪人がどれだけ悲惨さの中にいるのかを詳しく説明しています。『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 』(ローマ1:20)世界を創造される時、神様はすべての被造物が神について悟ることが出来るように、神の神性を被造物の間に示してくださいました。だから、罪のない状態の被造物は、何であっても神の存在を感じ、知ることが出来ます。しかし、罪によって神のその神性を見つけられないようにされた人間は、自らの力では、神様の存在を悟ることが出来なくなってしまいました。 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23)人は本能的に、神の神性が感じられます。人間の本能がそれを証明します。『誰なのか詳しくは分からないけど、きっと全能者はいるかも。』という人々の漠然とした予想は、よくあるものでしょう。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、歪んだ人間の罪のため、人間は、自分が願うものを神だと思います。木を、石を、獣を、人を神にしたりします。日本は国の名前からも分かるように、古くから太陽を神と崇めて来たそうです。それによって生まれた存在が天照大神、太陽の女神です。太陽をお天道様と呼ぶことにも、そのような文化が溶け込んでいるからではないかと思っています。しかし、創世記1章は、きっぱりと太陽を含むすべてのものが、ただ神の創造物にすぎないと話しています。人間の罪は罪を悟れないようにするだけでなく、とんでもないものを神として仕える心を与え、真の神様を冒瀆する偶像崇拝の罪までもたらします。 『彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。』(ローマ1:28)罪の中に生きている人間への最も致命的で、悲惨な神の裁きは、神が彼らを自分らの罪の中に放って置き、救いの道を許されないということです。本文の『渡す。』という表現はギリシャ語『パラディドーミ』の翻訳ですが、『見捨てる。』という意味です。『してはならないことをするように。』すなわち、神様がどのような形の憐みも下さらず、引き続き罪を犯すように放っておかれ、赦されずに、裁きを下されるということです。これを神学的な用語で、神の遺棄と言います。『捨てるために残す。』という意味です。そのような人たちからは29-31節までの数多くの罪が現れます。罪が罪を産み、罪が罪を増やし、罪によって人間が神から永遠に捨てられるという意味です。これが罪の持っている恐ろしさであり、私たちが神に赦しを請うべき最も悲惨な呪いであります。 3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。 未信者がキリスト教信仰を持とうとするとき、最も難しいことの一つは、自分自身に罪があることを認めなければならないということです。もちろん犯罪者は、比較的、容易に納得するかもしれませんが、盗んだことも、人を殴ったことも、嘘をついたこともない善良な人々は、自分が罪人であることを納得することが、あまりにも難しいでしょう。しかし、聖書はこのように語っています。『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。』(ローマ3:23)旧約聖書の創世記で人類を代表するアダムとエバが神を裏切って離れた後、人々は罪の中に生きることになりました。アダムとエバの話は時空間の超え、私たちに教えを垂れています。神を裏切って離れ、罪の中に生きるようになるという最も基本的な罪を私達も犯すかも知れないということを示しています。 罪とは矢と的との関係と似ています。矢が的に当たらない場合、スコアが出ないように、罪は罪人が神が定められた基準を満たせない場合に生じます。したがって、神が定められた法則、律法に従って『神の御心に聞き従うこと、神と一緒に歩むこと』を満足させないとき、私たちの人生で、引き続き新しい罪が生じるようになります。しかし、人は皆、すでに罪を持っているので、自分の力では、神の御心に適うことが出来ません。そして、赦してくださる神を知ることも出来ません。つまり、人間は自ら罪を解決することが出来ないということです。だから、人は自然に罪の中に生きるしかありません。そして、その罪は続けて別の罪をもたらします。最終的に罪人は罪によって神に見捨てられ、永遠の死を迎えるしかありません。 イエス・キリストが私たちのところに来られた理由は、まさにこの罪の問題を解決するためです。私たちが福音を福音と言う理由はこのためです。自力で解決できない罪を、解決する御方がいらっしゃるという良いニュースだからです。神から来られたイエス・キリストは、罪を赦してくださる方です。そして人が満たせない神の要求に代わって、満足させる方です。私たちは、このイエス・キリストの罪を赦す力、神の要求を満たす力を、私たちを救ってくださるキリストの贈り物として信じるとき、神に赦しを得ることができます。私たちの果たせないことを、キリストが代わりにお果たしくださり、自分の赦しのため、何も出来なかった私たちが、キリストによって赦されたということを信じるとき、私たちは神様に赦されることが出来ます。イエス・キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決するために、私たちに代わって十字架につけられ、死なれ、死から私たちを救い、私たちのために神から新しい命を受けてくださいました。イエス・キリストだけが私たちの罪を赦してくださる、神から遣わされた唯一の救い主でいらっしゃいます。罪の結果は甚だしい惨めさですが、その悲惨さの中、私たちを救ってくださるキリストの存在のため、私たちは希望を持つことが出来ます。 締め括り パウロは今日の本文を通して私たちにも罪があることを教えています。私たちは、すでに救われ、主の中にとどまっていると思いますが、罪ある人間ですので、誰かを憎み、悪いことを行い、神の御心に適わない時が、時々あるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じているからです。私たちは、キリストの罪の許しによって日々新たにされる者でしょう。そして、主を信じる我らは、主のお導きにより、その罪から立ち戻り、神に喜ばれる善を行う生活の方向に進むことが出来ます。私たちの罪は私たちを惨めにし、神に見捨てられるように働きますが、イエス・キリストは私たちが悔い改めるとき、その罪をいつも赦してくださり、私たちが神と一緒に同行することが出来るよう導いてくださいます。志免教会の皆さんが、このようなキリストの恵みに感謝し、毎日の罪を告白し、悔い改め、罪を遠くして、罪の惨めさから自由な民、キリストに聞き従う良い民として生きて行くことを願っています。

主と共に歩む1年。

詩編119 編105-112節 (旧964頁) ヨハネによる福音書 17章3節(新202頁) 新しい一年が明けました。私達は、去る2019年、色々なことを経験してきました。時には楽しく、時には悲しく生きてきました。しかし、神様が我々の1年を守ってくださり、共に歩んでくださって、私たちは再び、ここで神様に礼拝と感謝をささげることが出来ます。このすべてが、神の恵みであり、愛であることを信じます。主なる神様は2020年度も志免教会と教会員の生活を守られ、責任を負ってくださり、主の御心に従って導いてくださるでしょう。これらの神の御心に沿って、神様に喜ばれる皆さんになりますように、心から望みます。 1.永遠の命を得る最も大事なカギ – 御言葉。 今年の志免教会の主題聖句は、ヨハネによる福音書17章3節『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』を選定しようとしております。キリスト教の主人公は、信徒ではなく、キリスト・イエスです。ちょっと変だと思いますが、韓国の教会で働いた時、子供会で、よく使った分かりやすい例え話を挙げてみたいと思います。『肉まんに肉がなければ、肉まんではないように、アンパンに餡が無ければ、アンパンではないように、キリストの無いキリスト教はキリスト教ではありません。』だから、キリスト教の教えには、必ずキリストが中心とならなければなりません。ところで、神様はこのキリストという役割を主イエスに与えてくださいました。したがって、このキリスト・イエスを知ることは、最も大事なキリスト者の条件であり、このキリストを知ることから永遠の命は始まります。私はこのキリスト・イエスを徹底的に主人公にしつつ、今年を生きていく志免教会になることを願います。 今日の新約本文は永遠の命について話しています。皆さん、永遠の命とは、単に死なず、永遠に生きることを意味しません。聖書が語る永遠の命とは、「永遠におられる方と共に生きること」です。私たちの目標は、永遠に生きることではなく、永遠におられる神と一緒に歩んでいくことです。そして、その贈り物として得るのが、まさに永遠の命です。つまり、私たちが永遠の神と一緒に生きはじめる、その時から、私たちは既に永遠の命の道に入ったということを意味します。今日の聖書は、この永遠の命を得るためには「唯一のまことの神と、その神が遣わされたイエス・キリストを知るべきだ。」と言います。私たちは、いったいどうすれば、まことの神とイエス・キリストを知ることが出来るでしょうか? 『実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。』(ローマ10:17)我々の信仰の対象は神様です。この神様は、父と子と聖霊である三位一体なる神様です。この三位一体の神は、罪によって、神から遠ざかった人を再び、お呼びくださり、一緒に歩むために、神と人の仲保者を遣わしてくださいました。その方がまさにイエス・キリストです。しかし、イエス・キリストが、この地に来られたからと言って、すべての人がイエス・キリストに従うわけではありません。日本の1億3千万の人口の中、イエス・キリストと一緒に歩む信徒は、50万人にも至らないでしょう。イエス・キリストを通して神と一緒に歩む者は、イエスの御言葉を聞き、信じる者です。このイエスを信じるようになる信仰は、ひたすらキリストの御言葉を通してのみ得ることが出来ます。だからこそ、我々は、説教を聞いたり、聖書を読んだりするのです。永遠の命を得るための第一歩は、主の御言葉を聞くことから始まります。だから、主の御言葉は、私たちに永遠の命をもたらす最も大事なカギです。 2.神が私たちに御言葉をくださった理由。 今日の旧約聖書、詩篇119篇を読みつつ、読み手は民への神様の御心を悟ることが出来ます。それは主の御言葉にあずかる人が、ただ、言葉を読んで何もしないことではなく、主の御言葉が教える善を実践して生きなければならないということです。この詩編119は、神と民の契約、あるいは約束としての御言葉を、いくつかの単語で表現します。特に1-6節に出て来る律法、定め、命令、掟、戒め等、この全ては神の御言葉を指すものであり、これらの多くの表現を用いて、神は御自分の御心を示してくださいます。また、それを通して、民に神の性質を示してくださいます。民の倫理的、道徳的な生活のための律法、神の力ある御業を示す定め、神の秩序を教えてくれる命令、罪への民の在り方を教えてくれる掟、神の民の正しい生き方のための戒め、このすべてが一つになり、主の御言葉と呼ばれます。私たちは、この御言葉を通して民が正しい方向に進めるように祝福の道を教えてくださり、祝福してくださる神の愛と恵みを見つけることが出来ます。 ですから、民が神の御言葉に聞き従って生きるということは、神様の必要のためではなく、民のためのものであり、民が神のこの御言葉に従って生きていくときに、神は豊かな祝福と愛を注いでくださるのです。神の御言葉には、神の御心が隠れています。ヨハネ1章では、イエス・キリスト、そのものが神の御言葉であると証言しています。神様がイエス・キリストをお遣わしになり、貧しい者、病んでいる者、悪霊に取り付かれた者、死んだ者を哀れんで、癒して、生かしてくださった理由は、神様の貧しい民を愛する御心が、イエス・キリストという人の姿で現れ、神様が今も変わらず人々を愛しておられることを目に見える形で示してくださったということです。神の御言葉は、決して神のためのものではありません。神の御言葉は、それを通して主が人々に幸せと祝福を与えてくださるための神様のお贈り物であります。 今日の旧約の本文は、『あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。』(詩篇119:105)と告白しています。これは詩人が自分の人生の物差しを神の御言葉に置くという強い意志を表す告白です。それに続いて、その言葉に対する詩人の誓いも見ることが出来ます。詩人は御言葉を守るため、甚だしい苦難を経験しました。また、詩人は、切な祈りの中で、主の裁きを教えていただきました。詩人は自分の命の危険な時も、主の律法を決して忘れませんでした。また、敵による死の危機と苦難の中でも、主の御命令を守りました。神の定めを自分の永久の嗣業としました。主の掟を行うことに心を傾け、永遠に神様に聞き従うことを誓いました。主の御言葉に従おうとした詩人は色々な危険と苦難の道を通らなければなりませんでしたが、神様は喜びと希望をくださり、詩人の歩むべき道を教えてくださいました。 3.主と共に歩む1年。 今年はちょうどお正月に水曜祈祷会を守ることが出来ました。おかげで今年の初日から主の御言葉を分かち合う喜びを味わうことが許され、感謝でした。現代を生きていく私たちが、主と共に歩むということは、神の御言葉を心に留め、実践して生きることを意味します。父なる神は目に見えず、イエス・キリストも父の右におられます。とはいえ、神様が私たちから遠いところにおられるわけではありません。御父と御子は、私たちに聖霊をお遣わしになり、その聖霊の御働きを通して、いつも私たちと一緒におられます。ところで、この聖霊は、他のものではなく、御言葉の中で、私たちと一緒におられます。神は聖霊を通して、聖霊はいつも、神の御言葉を通して私たちの行くべき道を示してくださり、私たちの生きるべき在り方を教えてくださいます。 個人的な話ですので、大変申し訳ございませんが、私の証を話してみたいと思います。2010年、私は子供の時から、再婚した両親に誘われ教会に通いましたが、まだ真剣な信仰がありませんでした。そんなある日、私に神様が臨まれました。生まれてから初めて、神という存在に目覚めました。神は、以前は聞いたこともない、大きな声で私の心にお声をかけてくださいました。その時、私は私が罪人であることを認識し、神の御言葉への畏敬の念を感じることが出来るようになりました。当時、神様との出会いがあったにも拘わらず、私は父との仲があまり良くなかったです。再婚家庭の母側の息子だったため、名字も違いますし、血縁も感じられなかったからです。父は私にとって何者でもないくせに口出しをすると思ったわけです。父の小言(今では訓戒だったと思う。)一言だけでも、私は非常に腹が立って父と論争をしたりしました。そんなある日、再び父との論争が始まりそうな時、聖霊が私の心に強力なお声を聴かせてくださいました。『あなたの父母を敬え。』(出エジプト20章12節)聖霊は、御言葉を通して私に正しい道を示してくださいました。常に父にたくさんの不満を持っていた私は、その日、聖霊によって、父に言い返しもできず、聞くだけでしたので、悔しくて堪らず、涙が出るほど辛かったですが、聖霊に聞き従って父との論争をあきらめました。 10年が経った今、私と父の関係は、父の実の息子である兄よりも良いと思います。父がじかに私に話してくれました。『お前のほうが彼より、霊的に通じる』(もちろん、父と兄は仲良いです。) 父と私はお互い信頼し合い、尊重し、愛する関係になっています。今は父が何を言っても、全てを良い意味として受け入れます。神の御言葉に聞き従った結果は、仲直りと愛と平和と喜びでした。 締め括り 『主と共に歩む1年』とは、すなわち、『主の御言葉と一緒に行く1年』という意味です。私たちが、『唯一のまことの神と、イエス・キリストを知ること』も神の御言葉に従い、服従する時、可能です。今年、志免教会が主の御言葉で豊かになることを望みます。御言葉から喜びを得、御言葉によって悔い改め、お言葉を通して愛し合い、御言葉に従って私たちの道を歩んで行きましょう。神様が御言葉を通して悟らせ、御言葉の中で、私たちの将来を備えてくださるでしょう。主の御言葉と一緒に歩む1年こそが主と共に歩む1年であることを信じます。皆さんの2020年に、神の御言葉による大きな恵みと愛が、豊かにあることを祈り願います。