主と共に歩む1年。

詩編119 編105-112節 (旧964頁) ヨハネによる福音書 17章3節(新202頁) 新しい一年が明けました。私達は、去る2019年、色々なことを経験してきました。時には楽しく、時には悲しく生きてきました。しかし、神様が我々の1年を守ってくださり、共に歩んでくださって、私たちは再び、ここで神様に礼拝と感謝をささげることが出来ます。このすべてが、神の恵みであり、愛であることを信じます。主なる神様は2020年度も志免教会と教会員の生活を守られ、責任を負ってくださり、主の御心に従って導いてくださるでしょう。これらの神の御心に沿って、神様に喜ばれる皆さんになりますように、心から望みます。 1.永遠の命を得る最も大事なカギ – 御言葉。 今年の志免教会の主題聖句は、ヨハネによる福音書17章3節『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』を選定しようとしております。キリスト教の主人公は、信徒ではなく、キリスト・イエスです。ちょっと変だと思いますが、韓国の教会で働いた時、子供会で、よく使った分かりやすい例え話を挙げてみたいと思います。『肉まんに肉がなければ、肉まんではないように、アンパンに餡が無ければ、アンパンではないように、キリストの無いキリスト教はキリスト教ではありません。』だから、キリスト教の教えには、必ずキリストが中心とならなければなりません。ところで、神様はこのキリストという役割を主イエスに与えてくださいました。したがって、このキリスト・イエスを知ることは、最も大事なキリスト者の条件であり、このキリストを知ることから永遠の命は始まります。私はこのキリスト・イエスを徹底的に主人公にしつつ、今年を生きていく志免教会になることを願います。 今日の新約本文は永遠の命について話しています。皆さん、永遠の命とは、単に死なず、永遠に生きることを意味しません。聖書が語る永遠の命とは、「永遠におられる方と共に生きること」です。私たちの目標は、永遠に生きることではなく、永遠におられる神と一緒に歩んでいくことです。そして、その贈り物として得るのが、まさに永遠の命です。つまり、私たちが永遠の神と一緒に生きはじめる、その時から、私たちは既に永遠の命の道に入ったということを意味します。今日の聖書は、この永遠の命を得るためには「唯一のまことの神と、その神が遣わされたイエス・キリストを知るべきだ。」と言います。私たちは、いったいどうすれば、まことの神とイエス・キリストを知ることが出来るでしょうか? 『実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。』(ローマ10:17)我々の信仰の対象は神様です。この神様は、父と子と聖霊である三位一体なる神様です。この三位一体の神は、罪によって、神から遠ざかった人を再び、お呼びくださり、一緒に歩むために、神と人の仲保者を遣わしてくださいました。その方がまさにイエス・キリストです。しかし、イエス・キリストが、この地に来られたからと言って、すべての人がイエス・キリストに従うわけではありません。日本の1億3千万の人口の中、イエス・キリストと一緒に歩む信徒は、50万人にも至らないでしょう。イエス・キリストを通して神と一緒に歩む者は、イエスの御言葉を聞き、信じる者です。このイエスを信じるようになる信仰は、ひたすらキリストの御言葉を通してのみ得ることが出来ます。だからこそ、我々は、説教を聞いたり、聖書を読んだりするのです。永遠の命を得るための第一歩は、主の御言葉を聞くことから始まります。だから、主の御言葉は、私たちに永遠の命をもたらす最も大事なカギです。 2.神が私たちに御言葉をくださった理由。 今日の旧約聖書、詩篇119篇を読みつつ、読み手は民への神様の御心を悟ることが出来ます。それは主の御言葉にあずかる人が、ただ、言葉を読んで何もしないことではなく、主の御言葉が教える善を実践して生きなければならないということです。この詩編119は、神と民の契約、あるいは約束としての御言葉を、いくつかの単語で表現します。特に1-6節に出て来る律法、定め、命令、掟、戒め等、この全ては神の御言葉を指すものであり、これらの多くの表現を用いて、神は御自分の御心を示してくださいます。また、それを通して、民に神の性質を示してくださいます。民の倫理的、道徳的な生活のための律法、神の力ある御業を示す定め、神の秩序を教えてくれる命令、罪への民の在り方を教えてくれる掟、神の民の正しい生き方のための戒め、このすべてが一つになり、主の御言葉と呼ばれます。私たちは、この御言葉を通して民が正しい方向に進めるように祝福の道を教えてくださり、祝福してくださる神の愛と恵みを見つけることが出来ます。 ですから、民が神の御言葉に聞き従って生きるということは、神様の必要のためではなく、民のためのものであり、民が神のこの御言葉に従って生きていくときに、神は豊かな祝福と愛を注いでくださるのです。神の御言葉には、神の御心が隠れています。ヨハネ1章では、イエス・キリスト、そのものが神の御言葉であると証言しています。神様がイエス・キリストをお遣わしになり、貧しい者、病んでいる者、悪霊に取り付かれた者、死んだ者を哀れんで、癒して、生かしてくださった理由は、神様の貧しい民を愛する御心が、イエス・キリストという人の姿で現れ、神様が今も変わらず人々を愛しておられることを目に見える形で示してくださったということです。神の御言葉は、決して神のためのものではありません。神の御言葉は、それを通して主が人々に幸せと祝福を与えてくださるための神様のお贈り物であります。 今日の旧約の本文は、『あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。』(詩篇119:105)と告白しています。これは詩人が自分の人生の物差しを神の御言葉に置くという強い意志を表す告白です。それに続いて、その言葉に対する詩人の誓いも見ることが出来ます。詩人は御言葉を守るため、甚だしい苦難を経験しました。また、詩人は、切な祈りの中で、主の裁きを教えていただきました。詩人は自分の命の危険な時も、主の律法を決して忘れませんでした。また、敵による死の危機と苦難の中でも、主の御命令を守りました。神の定めを自分の永久の嗣業としました。主の掟を行うことに心を傾け、永遠に神様に聞き従うことを誓いました。主の御言葉に従おうとした詩人は色々な危険と苦難の道を通らなければなりませんでしたが、神様は喜びと希望をくださり、詩人の歩むべき道を教えてくださいました。 3.主と共に歩む1年。 今年はちょうどお正月に水曜祈祷会を守ることが出来ました。おかげで今年の初日から主の御言葉を分かち合う喜びを味わうことが許され、感謝でした。現代を生きていく私たちが、主と共に歩むということは、神の御言葉を心に留め、実践して生きることを意味します。父なる神は目に見えず、イエス・キリストも父の右におられます。とはいえ、神様が私たちから遠いところにおられるわけではありません。御父と御子は、私たちに聖霊をお遣わしになり、その聖霊の御働きを通して、いつも私たちと一緒におられます。ところで、この聖霊は、他のものではなく、御言葉の中で、私たちと一緒におられます。神は聖霊を通して、聖霊はいつも、神の御言葉を通して私たちの行くべき道を示してくださり、私たちの生きるべき在り方を教えてくださいます。 個人的な話ですので、大変申し訳ございませんが、私の証を話してみたいと思います。2010年、私は子供の時から、再婚した両親に誘われ教会に通いましたが、まだ真剣な信仰がありませんでした。そんなある日、私に神様が臨まれました。生まれてから初めて、神という存在に目覚めました。神は、以前は聞いたこともない、大きな声で私の心にお声をかけてくださいました。その時、私は私が罪人であることを認識し、神の御言葉への畏敬の念を感じることが出来るようになりました。当時、神様との出会いがあったにも拘わらず、私は父との仲があまり良くなかったです。再婚家庭の母側の息子だったため、名字も違いますし、血縁も感じられなかったからです。父は私にとって何者でもないくせに口出しをすると思ったわけです。父の小言(今では訓戒だったと思う。)一言だけでも、私は非常に腹が立って父と論争をしたりしました。そんなある日、再び父との論争が始まりそうな時、聖霊が私の心に強力なお声を聴かせてくださいました。『あなたの父母を敬え。』(出エジプト20章12節)聖霊は、御言葉を通して私に正しい道を示してくださいました。常に父にたくさんの不満を持っていた私は、その日、聖霊によって、父に言い返しもできず、聞くだけでしたので、悔しくて堪らず、涙が出るほど辛かったですが、聖霊に聞き従って父との論争をあきらめました。 10年が経った今、私と父の関係は、父の実の息子である兄よりも良いと思います。父がじかに私に話してくれました。『お前のほうが彼より、霊的に通じる』(もちろん、父と兄は仲良いです。) 父と私はお互い信頼し合い、尊重し、愛する関係になっています。今は父が何を言っても、全てを良い意味として受け入れます。神の御言葉に聞き従った結果は、仲直りと愛と平和と喜びでした。 締め括り 『主と共に歩む1年』とは、すなわち、『主の御言葉と一緒に行く1年』という意味です。私たちが、『唯一のまことの神と、イエス・キリストを知ること』も神の御言葉に従い、服従する時、可能です。今年、志免教会が主の御言葉で豊かになることを望みます。御言葉から喜びを得、御言葉によって悔い改め、お言葉を通して愛し合い、御言葉に従って私たちの道を歩んで行きましょう。神様が御言葉を通して悟らせ、御言葉の中で、私たちの将来を備えてくださるでしょう。主の御言葉と一緒に歩む1年こそが主と共に歩む1年であることを信じます。皆さんの2020年に、神の御言葉による大きな恵みと愛が、豊かにあることを祈り願います。