華やかさと真面目さの間で。
サムエル記下 6章1-15節 (旧488頁) / 使徒言行録 5章29節(新222頁) 11月の初め、韓国の釜山で、年ごとに催される花火大会があります。釜山告白教会のある広安里という海水浴場で行ないますが、その周辺は路上に人が多すぎて通り抜けられないほど、大混雑になってしまいます。どれだけ盛大なのかというと、天気が良い日は対馬北部の海岸からでも花火が見えるほどです。この大会に参加するために、日本からも多くの方々が見に行くそうです。人々は大会当日に良い席を占めるために午前から急いで動きだします。広安里の見晴らしの良いカフェは一年前から予約が決まっており、借りる費用も1万-3万円を上回るとか聞いています。広安里花火大会は一晩で一時間くらいの短い行事ですが、5億円以上の大金を火薬の準備に払うと言われます。一時間に5億円、想像も出来ない程の大金でしょう。 場所を移して、米国カリフォルニア州に行ってみましょう。リバモアという都市の消防署には110年以上も使われている電球があるそうです。それは、少なくとも明治40年以前に作られたものです。この電球は、これまで3回の停電を除き、ずっと使われていることになります。この素朴な電球は、わざわざ訪ねるほどの大したものではありませんが、まだ、その寿命を保ち、その消防署の片隅で相変わらず、光を照らしているようです。そのためいつからか地域の名物になったといいます。皆さんは1時間の華やかな5億円の花火と110年の小さな電球のうちで、どっちの方がお好きでしょうか?派手な火薬の寿命は僅か5分も超えないでしょう?リバモアの電球は非常に古くて、安い物でしたが、それでも110年以上、変わらず一堂を照らしてきました。本当に人のために大切に用いられた火はどちらでしょうか?しばらく楽しんで消えてしまう空の花火と長い間、消防署を明るく照らし、消防士たちと一緒に働いてきた小さな電球。皆さんはどっちの方が、より大切に感じられますか?私たちは、このような華やかさと真面目さの中での、選択の岐路に立つことがあります。 1.この世のやり方を憎まれる神様。 今日、私たちは本文を通して華やかさに憧れる人々と派手ではありませんでしたが変わらない一人の人を見ることが出来ます。イスラエルの王となり、周辺国との戦争で連戦連勝していたダビデ王。彼の統治により、イスラエルの民は自信満々となりました。イスラエルを強い国に成長させたダビデ王は、数十年前にペリシテとの戦争で奪われて、やっと取り戻した神の箱、すなわち契約の箱が聖なる幕屋ではなく、他の場所に保管されていることを悲しく思い、自分の王宮に移そうとしました。ダビデは精鋭兵士3万と一緒に神の箱が保管されていたアビナダブという人の家に行きました。ダビデは神の箱を受け取って派手な新しい車に載せました。ダビデは凱旋将軍のように神の箱とともにエルサレムに向かいました。その行列は非常に華やかでした。様々な楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルが奏でられました。民は歓声を上げました。武器を持っている兵士たちと、数え切れないほどの人々が、神の箱を迎えました。これを見て、ダビデは調子に乗っていたことでしょう。長い間、幕屋ではなく、別の場所にあった神の箱を華やかな行列で、さらに素晴らしい自分の宮殿に運んで行くのですから、どれほど胸がいっぱいになったことでしょうか?神様もきっと、このパレードを喜ばれると考えたことでしょう。ところが、その時、思いも寄らない出来事が起こりました。 エルサレムに行く途中、牛のよろめきにより、神の箱が倒れないようにと、神の箱の方に手を伸ばし、押さえたウザが神に罰せられ、即死した出来事でした。瞬く間にパレードは、水を打ったように静まり返りました。その時、ダビデは何か間違っていると気づきました。彼は思いがけない状況に怒りました。ダビデは一体なぜ、腹が立ったのでしょうか?その怒りは神様への怒りでしょうか?それとも、ウザあるいは自分への怒りでしょうか?ここで使われているヘブライ語の動詞は『腹が立つ。怒る。』という意味の他に『気が揉める。気が焦る。』という意味としても使える表現です。怒ったというよりは、気が揉めるに近い意味だと思っても構わないでしょう。なぜなら次の節では、ダビデが神様への『畏れ』を感じたからです。一体何が間違ってたんでしょうか?ウザはただ、その箱を守ろうとしていただけなのに、なぜ、神はそのように厳しく罰を与えられたんでしょうか? 『ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。』(ヨシュア3:14)神と民の契約の言葉、掟の板が入っていた神の箱は、車で運べるものではありません。必ず、聖なる祭具は祭司たちが肩に担いで運ばなければならないと旧約聖書は証言しています。民数記によると、ケハトの子孫の祭司だけが運ぶことが出来ると定まっています。神様が、その移動方法をそのようにお定めになったからです。正直、人間がしたければ、神の箱は、車でも運ぶことが出来るでしょう。しかし、可能なことと絶対的なことは異なります。神様は御言葉を通して、ご自分の契約の箱を絶対にケハトの子孫の祭司が担って運ぶように指定されました。ケハトの子孫でも、祭司でもなかったウザが死んだことには、そういう理由があったのです。ダビデは、派手な車とパレードは準備しましたが、基本的な神の御言葉への理解が足りませんでした。神様が望まれたことは、華やかな行事ではなく、神の御言葉に忠実に聞き従うことでした。初めは良い意志で神の箱を移そうとしたダビデでしたが、彼の無知のゆえに、結局、ウザは不幸にも死んでしまいました。神様は主の御言葉に心を向けず、見えを張ったやり方を好んでいたイスラエルにお怒りになったのです。 2.世の方式とは違う神の方式。 自分のやり方に問題があると気づくことになったダビデは、その足でオベド・エドムの家に神の箱をしばらく置いておこうとしました。歴代誌上を読んでみると、オベド・エドムが幕屋の門衛であることが分かります。 『祭司たちシェバンヤ、ヨシャファト、ネタンエル、アマサイ、ゼカルヤ、ベナヤ、エリエゼルは、神の箱の前でラッパを鳴らした。オベド・エドムとエヒヤも門衛として神の箱を守った。』(歴代誌上15:24)門衛とは、そんなに派手な役割ではありません。聖なる幕屋の門を守ったり、開けたり閉めたりする人だったでしょう。一生をその幕屋のために奉仕する者だったでしょう。王、大祭司、預言者のような者に比べれば、その影響力が大きい人ではなかったでしょう。しかし、門衛は一生変わらず神の幕屋の門を守る務めでした。認めてくれる人がいなくても、神から与えられた務めを黙々と行う者でした。誰かに認められなくても、オベド・エドムは、ダビデとは違って、神様が定めた通り契約の箱を守ったんでしょう。『あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは私の神の家の門口に立っているのを選びます。』(詩編84:11) 神の箱がオベド・エドムの家に行った後、三ヶ月が経ったある日、誰かがダビデに『神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる。』と告げました。ダビデはその時やっと、神様が前の過ちを赦してくださったと考え、律法に記されているようにケハトの子孫の祭司たちに契約の箱を移させました。『アロンとその子らが、宿営の移動に当たって、聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後、ケハトの子らが来て運搬に取りかかる。』(民数記4:15)いくら名望のあるアーロン家の祭司であっても、聖なる箱を移すことは不可能でした。ただケハト家の祭司だけが、それを遂行することが出来ました。神の御命令だからです。ようやくダビデは華やかな姿を捨てて、律法に記された方式で、純粋な礼拝者の姿で契約の箱を迎えることが出来ました。神様はそのように改めたダビデの方式を認めてくださいました。神様は、御言葉を無視したダビデと3万人の華やかな兵士たちより、黙々と静かに自分の任務を果たしたオベド・エドムを喜んで祝福されました。神様はダビデがオベド・エドムを通して学び、神の言葉に聞き従うことを望まれたのです。 世の多くの人々は、基本を忠実に守らず、自分に相応しくない欲を張ったりします。他人の前で体面を保つために、他人に強がりを言うために、大切なことを忘れ、派手なものに心を奪われたりします。みすぼらしいものは強く拒み、華々しいものに憧れたりします。ある人達は抜きん出た学力により、他人とは違う特別な利益を享受したいという欲望があるでしょう。ある人達には既得権者になって、他人を抑えたいという野望もあるでしょう。教会にも、そのような例はあります。日本の教会の信者たちの中で、米国や韓国の大きな教会を経験した一部の人々は、メガチャーチを望んだあげく、日本の教会を小さいと無視する場合もあるそうです。このように目に見える華やかさだけを追い求める思いが人を可笑しくして行きます。しかし、神様は常に表に見える派手なものより、人と教会の心をご覧になる方です。神様は派手で大きなことよりは、小さくても、正しいことを、もっと愛される方です。 『主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」』(サムエル記上16:7) 3.イエスを通して見られる神のご関心。 聖書は、神がどのような人を愛しておられるのか、主イエスの生涯を通して詳しく示しています。再臨の日、イエスは王の王として、被造物があえて触れることが出来ない権威と力を持って再び来られる方です。しかし、イエスが初めて来られた際は、わざわざ大工の息子として、しかも、飼い葉桶に来られました。彼は公生涯の始めに神ご自身として、華やかに悪魔の3度の試練に勝つことが出来ましたが、神の御心に従い、真面目に御言葉に頼って退けられました。 『イエスは言われた。狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』(マタイ8:20)彼は神殿や王宮ではなく、むしろ決まったお住まいもなく、民を助けてくださりながら、生活されました。高慢な皇帝と総督など数多くの権力者ではなく、救いを切に望んでいる徴税人や娼婦などの罪人の友達となってくださいました。イエスのご関心は権力者、義人ではなく、弱い者や罪人を招くことにありました。力を持っておられるにも拘わらず、その権力を使わず、おとなしく従って十字架につけられたのです。 『神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。』(ローマ14:17)飲み食いというのは物理的な満足、肉的なやり方を意味します。使徒パウロは神様の方式によって治められている神の国が、どのように成されているのかを説明しました。神様の方式は、物理的、肉的な満足にとどまりません。イエス・キリストはこの言葉のように、神の方式を自ら実践されたのです。イエスは肉的な華やかさより、神が望んでおられるご自分の役割に真面目さをもって取り組まれました。そして、神の御心に聞き従い、十字架でみすぼらしく死んでくださいました。『だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。』(使徒言行録2:36)華やかさを捨てて、真面目に神の御言葉に従ったイエス・キリストは、神の御手によって主キリストとなり、この世界のすべてのものを治める王の王になりました。神のご関心は大きくて派手なところにありません。神のご関心は小さくても真面目で正しいところにあります。非常に小さな神のご命令でも、神の言葉に従おうとする人に神の愛と関心があります。 締め括り 意気揚々として神の命令も正しく守らず、鼻が高くなった帝王ダビデになるより、誰にも認められなくても黙々と命令に従った幕屋の門衛オベド・エドムになりたいと思います。今日のこの言葉を通して、私たちも自分についてもう一度、省みましょう。私たちは、ダビデに近いでしょうか?それとも、オベド・エドムに近いでしょうか?私達はどちらを追い求めて、この世を生きていますか?ただ派手な人生ですか?派手ではないけれど、神のご命令に聞き従う真面目な人生ですか?今日、神様が私たちに望んでおられるのは、果たして、どれでしょうか?安らかさと華やかさを追求している、この時代、この世に生きていく私たちは、世の華やかさにより、神様の小さなお声を聞き逃して生きているのではないでしょうか?華やかで良い物に覆われ、神の御心とは何かについて忘れて生きるよりは、不便であるにも関わらず、神の言葉に真面目に耳を傾ける志免教会になってまいりましょう。この言葉を通して神様の御心をもう一度、顧みることができますように祈り願います。