迫 害
エレミヤ書 15章15節 (旧1206頁) ヨハネによる福音書 15章18-27節(新199頁) 日本の自然はとても美しいと思います。私が世界のあちこちに旅行した結果、アジアでは日本が最も美しい自然を持っていました。私はその中でも、糟屋郡の景色が一番好きです。ボタ山から佐谷に至る志免と須恵の風景、教会の庭で楽しむ星空、若杉山の森と青空、米の山の天辺で眺める玄界灘(げんかいなだ)の夕焼け、何一つも美しくないものはありませんでした。私たちは、このようにあまりにも美しい日本で生きています。しかし、この美しい日本は、実際には戦場であります。目に見えない霊的な戦いが絶えない戦場なのです。神様を知る少数の人々が、神様を知らない空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊と激しく戦っている、恐ろしい戦場であります。しかし、普通の人々は、それを知りません。ひたすらイエス・キリストを信じ、彼を通して神様を知っている私たち、キリスト者だけが、この美しい日本という戦場で苦闘して生きているのです。 神様は千年を一日のように、一日を千年のように、生きておられる方です。千年が一日のような方ですので、百年も生きない人間は、神様の御業を見ることが出来ません。だから、神という存在は全くないと言い、神の存在自体を否定したりします。そのような人間は、自分の力では神を知ることも、見ることも出来ません。そういうわけで、人間は自分らの思想、民族、理念だけが正しいと思いつつ、生きていきます。空中に勢力を持つ者、悪魔はそのような人間の思想、民族、理念を用い、分裂させ、苦しみをもたらします。そのような悪魔に支配されている、この世で、神様を知ることも、見ることも出来ない人たちと一緒に生きていくキリスト者は、必然的に迫害を受けることになっています。彼らとは違う価値観を持って生きていくからです。今日は、イエスを信じる私たちが絶対に避けることが出来ない生き方、迫害を受ける生について皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。 1.主の御言葉に従う人は迫害を受ける。 旧約聖書に登場する人物の中で、迫害を受けた者として一番有名な人は多分、エレミヤでしょう。神は生まれる前から彼を選ばれ、彼に預言者としての人生を命じられました。しかし、エレミヤはマイナーな祭司の家柄出身でしたので、彼の社会的な影響力は非常に微々たるものでした。そして当時のイスラエルの民は非常に堕落していましたので、主の御言葉に背く一方でした。彼が宣べ伝えたメッセージは、常に人々に退けられました。エレミヤは自分の故郷でさえ、憎まれた人であり、神の御言葉を宣言する際すら、酷い迫害を受けなければなりませんでした。エレミヤは神様に正式に召され、神のご命令に聞き従い、『イスラエルの民が悔い改めなければ、神の罰によって滅ぼされる。』と絶えず伝えました。しかし、皆、彼の警告を無視する一方でした。結局、エレミヤは、自分の国と民族が滅ぼされることを悲しみと涙で目撃しなければなりませんでした。そのためか、ある人はエレミヤを涙の預言者と呼んだりします。 『主の名を口にすまい、もう、その名によって語るまいと思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。』(エレミヤ20:9)神様がエレミヤに与えられた使命は、むしろ、彼にとって呪いのような苦しみとなりました。いくら伝えても変わらないイスラエルの民を見て、エレミヤは数多くの虚しさと悲しみを感じたでしょう。しかし、その後も、イスラエルは全く変わらなかったのです。しかし、神の命令は厳重で、エレミヤの使命の炎は消えませんでした。『エレミヤが、民のすべての者に語るように主に命じられたことを語り終えると、祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕らえて言った。あなたは死刑に処せられねばならない。』(エレミヤ26:8)彼はその使命に従い、神の言葉を加減なしに伝えたのに、むしろ民は彼を殺そうとしました。 神はエレミヤに、常に正しい御言葉を伝えさせました。民が悔い改めて神に戻ってくるように絶えず伝えさせたのです。しかし、民は自分勝手に振舞い、自分たちの耳に聞きやすい言葉だけを聞こうとしました。そのため、偽預言者たちが偽りの予言を伝え、民を誘惑し、人々は彼らの言葉を好んで聞きました。神様の言葉をそのまま伝えたエレミヤは、むしろ、そのような人々によって甚だしい迫害を受けなければなりませんでした。彼は毎日泣き、苦しみ、悲しみました。正しい道を告げ知らせたエレミヤでしたが、彼に戻ってきたのは、批判と憎しみだけでした。なぜ善良で誠実なエレミヤは迫害を受けたのでしょうか?その理由は、まさに神の御言葉を、ありのままに宣べ伝えたからです。 イスラエルの民が神の言葉より、自分たちの耳に楽しい言葉だけを聞こうとしたため、神の言葉に従おうとしたエレミヤは、激しい迫害と苦しみに生きなければならなかったということです。 2.真剣に主に従おうとするなら迫害は避けられない。 『歴史は繰り返される。』という言葉があります。聖書でも、そのような例を見つけることができます。エレミヤが伝えた警告の言葉に背く一方だったイスラエルは、最終的に滅びました。ユダ王国のゼデキヤ王はバビロンに捕えられ、拷問されて両眼を失いました。王子たちも残酷に殺されました。彼は死ぬまで捕囚として生きなければなりませんでした。神様に聞き従わなかったイスラエルは、そのように滅ぼされたのです。約70年後、バビロンの捕囚から解き放され、再び故郷に帰ってきたイスラエルの民は、祭司エズラを中心とし、過去の罪を悔い改めて真面目に神様に仕えようと誓いました。ところが、数百年の時間が経ち、イエスの時代になると、過去、切に悔い改めたイスラエルの子孫が、しかもエレミヤを尊敬すると言う人々が、神から直接遣わされた者を、もう一度、激しく迫害します。まさにイエス・キリストのことです。 『世はわたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。』(ヨハネ7:7)迫害の理由はエレミヤと同じです。神の言葉に従い、間違ったことを間違っていると話されたのに、人々はその言葉のため、イエスを憎んだのです。主イエスが神の御言葉を加減無く、ありのままに伝えられたからです。 エレミヤとイエスの出来事を通して、私たちは、変わらない真理が分かります。『世の人々にありのままの神の言葉を伝えると憎しみ、すなわち迫害を受ける。』ということです。先ほど、申し上げましたが、この世界は空中に勢力を持つ者に支配されています。空中に勢力を持つ者とは、神様を憎んで反抗する悪魔と呼ばれる悪い霊を意味します。この邪悪な霊は、人間の思想、民族、理念を用い、分裂を起こし、苦しみをもたらします。ところで、そのような悪魔の支配による人間の悪行を、神の言葉を持って、間違っていると指摘すれば、この世は全力で神の言葉に跳ね返ります。その際、神様に属している人は、彼らに迫害を受けます。彼らが神様を憎んでいるから、イエス・キリストを憎んでいるからです。『あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。』(ヨハネ15:19) ヨハネは、イエス・キリストが肉となって来られた神の言葉であると語りました。いつか、私は説教を通して神の言葉、ロゴスの意味は、神の御心、意志、精神だと申し上げました。私は聖書が示している神の御心とは、『すべての人がイエスを信じて救われ、神に戻ってきて、神の下で皆がお互いに愛し合い、イエス・キリストの再臨の時まで、この世界から悪を取り除き、善を成し遂げること。』だと理解しております。神様が御言葉であるイエスを遣わされた理由は、そのイエス・キリストが、その神の御心を成し遂げるための親石となるからです。しかし、先にお話しましたように、神の言葉が、ありのままに伝わって世が変わると、空中の権力を持つ悪い霊が居場所を失ってしまいます。つまり、悪魔は自分たちが生き残るために、神様に正面から反発し、絶えず悪を行うということです。そして、その悪の中、イエスを通して神様に属している者たちを苦しめるのです。そこから来るのが、まさに迫害であります。空中の権力を持つ者と彼らに支配される世が、神様とイエスを憎んでいるので、そのイエスの体である教会と、その教会員も憎まれます。そういうわけで、キリスト者は迫害を避けることが出来ないのです。 3.迫害を恐れてはいけない! もし、私達が本当にイエス・キリストを正しく信じているなら、完全に神に属しているならば、私たちは必然的に迫害を受けつつ、生きていくしかありません。もし、周りの人々に、キリスト者としてのアイデンティティをも見せず、彼らに『キリスト者のあの人は、私たちとは何か違うところがある。』というような評価を全く受けられないほど、キリスト者としての在り方とは関わりのない生活をしているならば、私たちは、自分自身を一度、反省してみる必要があるでしょう。もし、迫害を恐れ、人々の目を恐れ、キリスト者であることを隠すなら、自分自身の評判のために教会を否定するなら、隣人の魂への憐みのために、キリストの福音を伝道しないならば、我々は、自分が本当にイエス・キリストに属しているのかどうか、真剣に省みるべきでしょう。キリスト者に対する迫害は、すでに定まっている事実であり、避けられない道であります。なぜならば、私たちは、この世が憎むイエスに属しているキリスト者だからです。 17世紀、徳川幕府の下で、多くのカトリック信者は迫害を受け、殺されました。キリストへの信仰を守るために、多くの信者が命を掛けました。イエスの顔が描かれている銅板を足で踏むことにより、自分の信仰を諦める踏み絵を拒否し、消えて行った大勢の信者の血が、今も九州のあちこちで叫んでいます。しかし、それとは違って、軍国主義の迫害を恐れ、教会を守るという口実で帝国に屈した日本のプロテスタント教会ではたった一人の殉教者も出さなかったそうです。むしろ、日本の教会は、朝鮮を始め、アジアの植民地の諸教会に神社参拝を強要し、その中で、朝鮮の教会も、その強要に屈して、一緒に神社参拝を行いました。日本キリスト教会は、後日、それを徹底的に反省し、謝罪しましたが、まだ日本にはそんな過去の罪を悔い改めていない教会が、たくさん残っています。また、韓国でも、その偶像崇拝の罪を悔い改めていない教会がたくさんあります。迫害を恐れていた旧日本のプロテスタント教会は日本カトリック教会の殉教の歴史に泥を塗ってしまいました。戦後、韓国の教会は神社参拝の歴史により、四分五裂してしまいました。私たちは、このような迫害に負ける歴史を二度と繰り返してはならないでしょう。 締め括り 『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。』(マタイ7:13-14)『人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。』(マタイ10:33)私たちが住んでいる美しい日本は霊的な戦場です。そのため、私たちはいつも迫害に晒されています。イエス・キリストは今日も御言葉を通して、キリスト者が受ける迫害について語っておられます。迫害の道は狭いです。しかし、命に至る道です。迫害を避ける道は広いです。しかし、その道は滅びの道です。今日の自分の安らぎために、イエス様が予告された迫害を避けようとする人は、それより恐ろしい神の裁きが待っていることを心に留める必要があります。ヨハネ10章には、『羊は飼い主の声を知っている。』と記されています。私たちが、イエスの守りの下で生きていく喜ばれる民になるためには、イエス様から得る安らぎの道だけではなく、イエスのために得る迫害の道をも進むべきでしょう。主の御言葉を知っているからです。なにとぞ、主の聖霊が私達と一緒におられ、イエスを主と信じている我々、志免教会に迫害に屈しない勇気と信仰をくださるように心から願い、祈ります。