歴史を超える神の恵み。

イザヤ55章6-9節 ヨハネによる福音書 13章31-35節 すべての人は、歴史の中に生きていきます。すべての生き物や物事には歴史が潜んでいます。庭の草一本にも、この志免教会にも、皆さんお一人お一人にも歴史があります。すべての個人の歴史が集まり、九州の歴史、日本の歴史、地球の歴史、最終的に1つの巨大な歴史が成り立ちます。先日、インターネットで『歴史とは、すべての科学の基である。』という言葉を見ました。誰の言葉かは分かりませんが、確かにそうだと思いました。私たちは、科学を考える際に、ロボット、宇宙船などを思い浮かべる傾向があります。しかし、科学という言葉は、より広い意味で『原因と結果が明らかな何か。』を意味します。数学、物理学、生物学のように一定の対象を客観的に研究するというのが科学なんです。なので科学は、主に人々の予測範囲の内で行われるものであります。だから、科学の基となる歴史というのも、原因と結果が明らかであると思います。つまり歴史というものも、結局ある程度、人間の予測の内にあるということです。 その反面、神様は歴史の外におられる方です。人々が同じ題名で一緒に祈っても、ある人は一日で祈りが叶う一方で、ある人は、10年間祈っても叶わない場合があります。また、人間が精一杯、神の御心を知ろうとしても全く知ることが出来ないこともあります。なぜなら神様は定められた予測の中に、つまり歴史の中におられる方ではないからです。いくら、全世界の70億の人口が頭を寄せ合って工夫をしても、主の深い御心を知ることは出来ません。なので、神様は、イザヤ書を通してこう言われます。『天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。』神様は歴史の外におられる方です。神のお考えを人間が知り抜くことは不可能です。ヨハネによる福音書の後半を飾る十字架の福音も同じです。歴史の外にありますので、人間が全く理解できない神秘的なものです。今日はこの歴史の外におられる神様が歴史の中に、イエスを遣わされ、何をなさったのかについて考えてみたいと思います。 1.人の手で触れることが出来ない全能の神様。 神様はこの世界を創造し、秩序をくださった方でいらっしゃいます。世界を創造された主は、この世界のすべてをご存知でいらっしゃる方です。彼はいつも世界の外から、全世界を一目で眺めておられる創り主であるからです。被造物は、歴史という領域の中で生きていますが、この歴史というのは、時間と空間によって構成されています。時間と空間を創造された神様は、歴史をも造られ、その中にすべての被造物を置かれました。ですので、被造物は、その時間と空間によって成り立つ歴史に逆らうことが出来ません。さらに、人間は歴史の外におられる全能の神様を知ることも出来ず、探すことも出来ません。偉大な神様は、時間と空間を超越する方、私達の畏れるべき方であります。 つまり、これは人間が先に神様を見つけることが決して出来ないということを意味します。人間の科学が発達して遠い宇宙に飛んで行っても、そこで神様を見出だすことは出来ません。人間が地球の中心部まで掘り下げて行っても、そこに神を見つけることは出来ません。人間の手の届くところは、時空の歴史の中だけに存在するからです。 『全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。』(ヨブ37:23)ですから、人は神様の御心を知ることが出来ません。個人的な話ですが、昨年の今頃、私は夜のお祈りをする際に神様に問い質したことがあります。私は当時、非常に怒っていました。 『神様!日本のキリスト教会は、欲張らず、政治との癒着もなく、誠実に神に信頼していると思います。なのに、なぜこのように牧師が足りないのですか?なぜ、このように未来が危うくならなければならないのですか?神様は、日本の教会のために何をしておられるんですか?あなたは本当に働いておられるんですか?』 私は、全く理解できませんでした。全能者と呼ばれる神様は、ご自分の民と共におられると聖書は常に証言しているのに、神様は、日本のキリスト教会のために、一体何をしておられるのか分かりませんでした。恥ずかしい話ですが、韓国ではカトリックとプロテスタントを含め、全人口の三割に近いかなりの人々が神を信じていますが、日本の教会と比べれば、政治、社会的な不条理が本当に多いと思います。それに比べて、日本の教会は、とても綺麗で真面目であると思います。それにも拘わらず、日本の教会を1%未満の小さな群れに放って置かれる理由が分かりませんでした。その翌日、聖書を読んでいる時、神様は御言葉を通して私にお答えくださいました。 『どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩』(イザヤ26:4)その日、私はやっと気づきました。 『私が考えている現実は、おそらく神様が考えておられる現実とは異なるかも知れないな。神のお考えは、私たちの考えとは全く違うだろうな』と。その御言葉をいただき、悔い改めた記憶があります 。 2.歴史の外で栄光を収められる神様。 今日の新約本文はエルサレムに入城されたイエス・キリストが亡くなる前に、弟子たちの足を洗ってくださり、一緒に聖晩餐を施される箇所の最後の場面であります。 3年間、一緒に生活した弟子の1人イスカリオテのユダがイエスを売り渡すために席を蹴っていく場面です。私達は、すでにイエスがご自分の民を救われるために、死ぬために来られた方であることを学んで知っています。イエス様が必ず十字架につけられるということ、そのためにユダが必ずイエスを裏切らなければならないということをも、よく知っています。しかし、私たちと違ってそれを知らなかった、当時の弟子たちにとって、イエスの死とユダの裏切りは、想像も出来ないほどの心苦しいことだったでしょう。たとえば、今、一緒に礼拝している志免教会員の一人が突然、立ち上がって外に出て、信仰を捨てれば、私たちの心はどうなるでしょうか?しかし、主は、すでにユダの裏切り、ご自分の犠牲をすべて知っておられました。 主はまるで、すべてをご存知であったように不思議なお話をなさいました。『ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。』(ヨハネ13:31)3年間、一緒にいた人が突然、走って出て行ったのに、しかもイエスを売り渡すために出て行ったのに、歴史の外の神様、全てを知っておられるイエス様は、なぜご自分が栄光を受けたと仰るのでしょうか?そして、なぜ、このイエス様によって、神様が栄光を受けられたと仰るのでしょうか?まず、栄光という言葉を取り上げてみましょう。私たちは、栄光という言葉を聞くとき、輝かしくて素敵な何かを思い浮かべたりします。もちろん栄光という言葉は、その意味をも持っています。しかし、別の意味も持っています。栄光とはギリシャ語で「ドクサ」と言いますが、この言葉は「ドケオー」に基づいた言葉です。 「ドケオー」は、『 – に見える。』 『- と思われる』という意味です。つまり、栄光というのは、その栄光の持ち主が – に見えるとき、 – と思われるとき、完全に輝けるという意味です。 神様が神様のお働きをされ、神らしく見えるとき、なので、神様が神様として思われる時、神の栄光は一番明るく輝くのです。すべてのことを計画される父なる神様の、そのご計画が成し遂げられた時、父なる神様の栄光は、光るのです。世の罪と罪責を解決するために、御父のご計画通り来られた御子が、罪と罪責を完全に解決するために十字架につけられ、ご自分の役割を果たされる時、御子の栄光は、明るく輝くでしょう。つまり、イエス様がイスカリオテのユダによって売られてしまったのは、人間の目には、惨めな最後のように見えましたが、神様とイエス様の目には、ご計画の達成として見えたということです。その計画によって行われたイエスの十字架の死は、人間には終わりでしたが、神様には終わりではなく、栄光の新しい歴史の始まりだったというわけです。そのすべては、人間が理解できない、神様の偉大なご計画でした。人間のための神様のご計画、イエスの死が、結局イエスの栄光となる逆説性、イエスの死によって御父の御心が成し遂げられ、神様の栄光が輝くようになったという逆説性、それは時空間の歴史の中に生きていく人間には絶対に理解できない、神の意義深い計画でした。 3.愛を通してご自分の民と会ってくださる愛の神。 『子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。わたしが行く所にあなたたちは来ることができないとユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 』(ヨハネ13:33)ユダの裏切り、イエスの死はややもすれば、すべてが終わるように見えたかも知れませんが、歴史の外から歴史を眺めておられる神様には、より大きな栄光と成功のための一歩前進でした。その一歩、十字架の死によって人間を救われたイエス様は、もはや貧しくて弱く見えた最初のイエスではなく、再臨される王の中の王として栄光を受けられることでしょう。そうすれば、彼は歴史の外に、神の玉座にある元の場所に戻って行かれ、世界を治められるでしょう。時空間を超越する全能の神になられるでしょう。その歴史の外に弟子たちは、出て行くことが出来ません。そこは神の場所だからです。その代わりに、イエス・キリストは歴史の外におられるご自身と歴史の中にいる弟子たちが交わることが出来る方法を教えてくださいました。それは正にお互いに愛しあうことなんです。 『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)イエス・キリストは、十字架での死と復活の後、弟子たちが来ることが出来ない場所に行かれるでしょう。そこは時空間と歴史を超越した神様の場所であるからです。しかし、主はそこで弟子たちと新しい掟、愛を持って弟子たちとお交わりなさるでしょう。ここで、新しい掟とは何でしょうか?ギリシャ語には、二つの新しいという言葉があります。 「ネオス」と「カイノス」です。 「ネオス」は『ニュース』の語源ですが、順序的な新しさ、日本語では言葉通り『新しい』を意味するものです。「カイノス」は、過去から存在していたが、まだ実現できなかったものが、最終的に実現されて質的に更新するという、日本語では『新たな』に近い意味を持っている言葉です。そのため、Ⅱコリントでは『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』(Ⅱコリント5:17)とあります。過去からあったものが、何かによって新たになったという意味で使われます。もともと存在していたものが、イエス・キリストを通して、新たに更新されるという意味です。これが「カイノス」、新しいという意味です。 このように完全に新しくなった掟、主が与えられた新しい掟が、正に『イエス・キリストの中でお互いに愛すること』であります。新しい掟というのは過去からずっと続いてきた神様の掟、律法が更新されたということです。それが正に「互いに愛しあいなさい。」ということです。イエス・キリストを信じる主の弟子たちが、このような愛を持ってお互いに仕え、愛する時、主は主の弟子、教会とお交わりくださるのです。それによって世界はイエスの弟子たちを通して、歴史の外から世界を見ておられるイエスを、歴史の中でも見出すことが出来るようになります。『あのキリスト者、素晴らしくない?あの人を見てたら、イエス・キリストは本当に存在すると思うわ。』というように。イエス・キリストは神のご計画に聞き従って、十字架で自分を捧げました。そして、そのイエスを通して彼を信じる者は、神の赦しを受けました。歴史の外におられる神様は、そのようなイエスの死と罪の赦しを通して、歴史の中の神の子らを再び呼んでくださったのです。これが神様の栄光になりました。人間は歴史の中で、歴史の外におられる神を見ることが出来ません。しかしイエス・キリストから得た、互いに愛しあうという新しい掟を通して、人間は歴史の外におられる全能の神に会うことが出来るようになったのです。 歴史を超える神の恵み。 今日の旧約本文では『主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。』(イザヤ55:6)という言葉が出てきます。私たちが、主を尋ね求めるべき時はいつでしょうか?彼が私たちの近くにおられるうちはいつでしょうか?イエス・キリストが歴史の外から歴史を引き裂かれ、私たちにこられ、主の言葉を通して、私たちを召される時です。主の御言葉を通して福音が宣べ伝えられている、今です。私たちは、決して歴史の外におられる神様に行くことが出来ませんが、イエス・キリストが歴史を引き裂かれ、歴史に入って、私たちを召されるとき、私たちはそのイエスを通して神に会うことが出来ます。神のお考えは、私たちの考えとは異なります。ですから、私たちは、神の御心を到底理解できない時もあるでしょう。 しかし、神様は、イエス・キリストを通して、私たちが神様を知り、彼の御心を悟ることが出来る道を与えてくださいました。歴史を引き裂かれて、私たちに来られたイエス・キリストは、神様と人間をつなぐ唯一の架け橋になってくださいます。この日本で、地球でイエスを信じるということは、掛け替えのない祝福であります。誰が歴史の外におられる全能の神と繋がることが出来るでしょうか?私たちを神様につないでくださったイエス様を信頼し、最後まで神様を信頼してまいりましょう。そして、このイエスを志免と須恵に住んでいる近所の人々に伝えて生きて行きましょう。来たる一週間、神様を信頼して生きる志免教会になりますように祈り、願います。