必生即死、必死即生。

ダニエル書4章1-15節(旧1385頁) ヨハネによる福音書 12章20-26節(新192頁) 前置き 今日の説教の題は、日本ではあまり使っていない言葉だと思っています。「必生即死、生きようとする者は必ず死ぬものであり、必死即生、死のうとする者は必ず生きるものである。」という意味で、韓国では、頻繁に使われる漢字語です。世の中に死ぬために生まれる人はいないでしょう。寿命が尽きるまで、生きていく途中、神に召され、世を去ることは当たり前なことだと思いますが、世の誰も早く死のうと思う人はいないでしょう。しかし、時には人が死を覚悟する時もあると思います。戦時中に親が子供を守るために代わって死ぬこと、愛する友人や恋人を生かすために代わって命を投げ出すこと、あるいはイエス・キリストのように、罪人を愛し、救うために自ら十字架の道を選ぶことなどがそのような場合でしょう。 神の国で認められる高い価値の一つは、人が自分だけのために生きることではなく、他人も愛して生きることだと思います。自分だけのために生きていく人は、自分の利益のために他人を死に至らしめることもありますが、他人も愛して生きる人は、他人のために自分を犠牲にすることもあるからです。神様は自分だけのために他人を犠牲にする者を決して赦されない方であり、他人のために自分を犠牲にする人の犠牲を非常に大切にされる方であります。イエス・キリストの犠牲と愛によって建てられた神の国は、今日もキリストの体なる教会の、他者への愛と犠牲によって広げられていきます。自分だけのために生きようとする者は、神様に憎まれるでしょう。隣人のために犠牲を覚悟する者は、神に褒められるでしょう。なぜならば、主イエス・キリストが、そのような御教えと足跡を残されたからです。そのような犠牲と愛はヨハネによる福音書の12章以降に示されるイエス・キリストの十字架の死で、さらに明らかに現れるからです。 1.世に逆らうイエスの御教え。 ラザロを生き返らせたイエスの噂は、エルサレムとイスラエルを越えて遠い地域まで伝えられます。そのためか、今日の新約本文ではギリシア人たちがイエスに会うために来たと記されています。『ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。』(コリント1:22-24)哲学が発達し、知恵を追い求めていたギリシアの文化圏から、ギリシア人がイエスを訪ねてきたというのは、驚くべきことでした。イエス・キリストの福音、「主を信じる者は神様に赦される。主を信じる者は神様に永遠の命を与えられる。主を信じる者は死んでも生きる。」という話は、哲学的な思考を持っていたギリシア人には話にならない愚かな言葉だったからです。しかし、ラザロが生き返ったという噂を聞いた何人かのギリシア人は、哲学と知恵に対する自分らの常識を超えることが、イエス・キリストによって起きたことを悟り、イエス様を訪ねてきたのでしょう。 古代ギリシアの神々は、道徳的ではなく、人間のように罪を犯す存在として描かれました。つまり、完全性が期待できない存在でした。あの有名なゼウスは、他人の妻を寝取り、他の神々も互いに騙し合い、殺し合おうとしました。道徳的にも、能力的にも完璧ではないギリシアの神々には限りがありました。このような完全に失敗した神々への懐疑感により、ギリシアでは、神への探究が活発に起こり、そのような神への懐疑と反感によって、人間への研究が活発に起きたのです。そのため、ギリシアの文化では、神への盲目的な崇拝より、人間を研究する哲学が発達したというわけです。そんなギリシア人にとって、完全無欠なイスラエルの神認識は愚かなものでした。ところが、そのような愚かな神認識のイスラエルで誰かが人を蘇らせたという噂は、彼らに新鮮な衝撃として迫ってきたことでしょう。そういう理由で、ギリシア人は、イエスに会いに来たのかもしれません。 古代の神話で神々は、自分らだけのために、人間を使いました。人間の命は大事にしませんでした。神々は人間を愛さず、ただ用いただけです。しかし、イエス・キリストの父なる神様は、彼らと違いました。弱い者を愛しておられ、命を与えてくださる方でした。そのような神の御心は、イエス・キリストの一言を通して伝わりました。『自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。』(ヨハネ12:25)この言葉を実践でもするかのように、神は自らご自分の命を憎んでまで、人間を愛されました。そのため、神は、最愛の御子イエス・キリストを人間のために死なせたのです。古代の神々とは違い、人間を愛した神、その神の御子イエスはご自分の命を捧げて人間を愛されました。イエスの他者のための死は、自分だけを大切にする、この世の教えに逆らう革命でした。 2.神の力。 旧約聖書の時代は、戦争と帝国の歴史でした。エジプト、アッシリヤ、バビロン、ギリシア、ペルシア、ローマ等の帝国が軍事力で他の国を征服し、被害を負わせながら、自分らの領土を広げていった暴力と戦争の歴史でした。古代帝国は、自分たちが仕える神々が強ければ他の国との戦争に勝利し、その神々が弱ければ、他の国との戦争に敗北すると思いました。また、その神々の息子、あるいはその神々が人間になった者が皇帝だと思っていました。そのため、自分たちの神々と自国の強さを証明するために古代人は多くの戦争を起こし、領土を広げていこうとしたのです。今日、旧約聖書に登場するネブカドネツァルも、そのような皇帝の1人でした。ネブカドネツァルはバビロンの皇帝でした。彼は今のサウジアラビア、イラク一帯を支配していた強力な皇帝でした。 ところで、ある日、このネブカドネツァルが不思議な夢を見ることになります。彼の夢に、一本の大きな木が登場します。葉っぱは美しく茂り、実は豊かに実り、すべてを養うに足るほどの木でした。その木の陰に野の獣が宿り、枝には鳥が巣を作り、生き物はみな、この木によって食べ物を得ていました。しかし、空から聖なる見張りの天使が降って来て、『この木を切り倒し、枝を払い葉を散らし、実を落とせ。その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え。』(ダニエル4: 11)と叫んだのです。つまり、その大きな木が滅ぼされるという意味でした。ダニエルは、その木がネブカドネツァル、本人だと解釈し、高慢なネブカドネツァルが神様に裁かれると予告しました。一年後、ダニエルの解釈のように高慢な言動を発したネブカドネツァルは、神に裁かれ、彼の権威は瞬く間に潰れてしまいました。そして、数年後には、バビロン帝国自体がペルシアによって滅ぼされてしまいました。ダニエル書は、その強大な帝国バビロンと皇帝ネブカドネツァルに罰を与えられた神様の力について、こう語っています。『その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて何をするのかと言いうる者はだれもいない。』(ダニエル4:31-32) 預言者イザヤは、人間について『草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。』(イザヤ40:7)と話しました。人間の力がいくら強くても、その力は永遠ではありません。そして、その権威は神様のご判断とご処分に従って、たやすく壊れてしまいます。だから、この世のすべては神の御前で謙虚であるべきです。しかし、まだ、世の国は、自分の栄光のために、弱い国を踏みにじり、弱い国の血を用いて、自国を大きくしようとしています。世の人々の中にも、そんな動きがあると思います。自分の利益のために、弱者の物を奪い、自分の権力、名誉、富を大きくしようとする人が多いと思います。しかし、このような高慢な国と人間に、神様は威圧するように言われます。『他国、他人を軽蔑し、困らせる高ぶる者よ、私にとってお前は無に等しい。天の軍勢をも、地に住む者をも、私は私の旨のままに裁く。私の手を押さえて何をするのかと言いうる者は誰もいない。』神様は誰よりも大いなる方、強力な方であります。世の誰も神様の御心を妨げることは、決して出来ないでしょう。 3.ご自分を犠牲にして他人を生かす神の恵み。 このように、神様は人間が想像も出来ないほどの力を持って、今日も全世界を支配しておられる方です。主はすべてを成し遂げることが出来る力を持っておられます。しかし、この神様は、ご自分の強大な力で弱い者を抑圧される方ではありません。高慢で自分のことしか知らない強い者には、はるかに強い方であられますが、弱くて苦しんでいる者には愛を持って訪れる方です。神様は人が強い力によって屈服することではなく、神の言葉と恵みによって、変わることをより喜ばれる方です。だから、神様は財物と権力を持って身勝手に振舞う大きな教会より、小さくても謙虚に主を信じ、善を行う教会を、さらに愛されます。この神様の代表として来られた主イエス・キリストは、あまりにも弱い姿でこの地に来られました。そして他人のために犠牲になられました。強大な力があるにも拘わらず、弱い者のため、病んでいる者を生かすため、自ら一番小さな者の姿をして来られました。主は自ら一粒の麦になって来られました。『はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』(ヨハネ12:24)主イエスは死ぬまで、ご自分の利益ではなく、神と隣人の利益のために、自ら一粒の麦になってご自分の命を捨てられたのです。 イエス・キリストは神のご計画の前に、自分の主張を強調しませんでした。イエス・キリストは生きようと足掻きませんでした。イエス・キリストは死を控えて、父なる神のご計画に聞き従いました。他人を生き返らせ、ご自分のように従順に従う民を生まれさせるために一粒の麦になり、ご自分の命を捧げました。すなわち、主イエスは死ぬために来られたということです。自ら自己を否むために来られたのです。命を捧げたイエス・キリストの犠牲によって、多くの人々が赦されました。『彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』(イザヤ53:5)神様は、強い民を必要としておられない方です。神様、ご自身が一番強い方であるからです。ただし、神様は自ら一粒の麦のようになり、犠牲になって多くの実を結ぶ民、神に自分を捧げる民を望んでおられます。だから、神の民、教会は力ではなく、従順に生きる共同体です。教会の頭なるイエス・キリストがなさったように、主イエスの教会は自らを犠牲にし、神と隣人に仕える共同体です。 自分だけのために生きようとする者は、神様に裁かれるでしょう。他人のために死のうとする者は、神の恵みによって生きるでしょう。自分が一粒の麦となり、自分の利益だけでなく、近所の人々のことも一緒に考え、仕えて生きる時、神様は喜んで祝福してくださるでしょう。今日、私たちが落ちて、主に私達を捧げるべき所はどこでしょうか?私たちが自分を犠牲にし、他人を生かそうとする時に、神様は多くの実りを持って、私たちを祝福してくださるでしょう。『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。』(ヨハネ12:26)イエス・キリストが行かれた道、自ら一粒の麦になり、ご自分を犠牲にされた道、その道の上にイエス・キリストを信じ、仕える者も立っているでしょう。その道で、イエスに従って生きていく時、イエス・キリストの父なる神様は、私たちを大切にしてくださるでしょう。今日、私たちは、果たしてどこに立っているでしょうか?めいめい自分を顧みる時間になることを願います。 締め括り キリスト者の生活は、イエス・キリストが行かれた道に従って生きることです。イエスの道には数多くの苦難が伴います。その道は、幸せばかりの道ではありません。その道は安らぎばかりの道でもありません。しかし、その道には必ず神様の祝福があり、その道には必ず神様の慰めがあるでしょう。イエス・キリストは、直接、ご自分の命を捧げられましたが、いまのところ、私たちは命を捧げることまでは難しいでしょう。しかし、少なくとも、心だけは、命を捧げる覚悟を持って、自分の被害と苦痛に耐え、他人のために生きる人生、キリストを伝える人生にすべく取り組むべきでしょう。必生即死、自分のために生きようとする者は必ず死に、必死即生、主と他人のために死のうとする者は必ず生きるでしょう。自分自身を神様に捧げる人生、私の命を捧げ、他人に仕える人生、私たちの人生を通して、イエス・キリストの香りが、その十字架の愛が、私たちの志免町に広まることを願います。

永遠の命の水が湧き出る。

ゼカリヤ書14章6-9節, ヨハネによる福音書 4章3‐14節 三浦綾子の改心。 戦後、結婚を控えていた三浦綾子は思いも寄らなかった肺結核の診断を受けることになりました。そして、それから十数年の長い長い闘病生活を始めることになります。長い間の病魔の痛みと虚無主義により、生きる理由を見失った彼女は、死にたいと思うほど精神的に衰えていきました。そのような時、一緒に闘病生活を見守った幼なじみの前川は献身的に彼女に仕えてくれました。彼はキリスト者でした。三浦綾子は、彼の支えにより、ただの恋ではなく、本当の愛を発見しました。しかし、前川は長い闘病生活のあげく、結局、先に神様に召されることになりました。三浦綾子はこのように彼を追憶しました。『わたしはその時、彼のわたしへの愛が、全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の愛ではないのを感じた。私はかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと思った。私を女としてではなく、人間として、人格として愛してくれた、この人の信ずるキリストを私は私なりに尋ね求めたいと思った。』三浦綾子は前川の信仰と生涯を記念し、受け継ぐために病床で文章を書きました。そして、困難な状況にある人に希望とキリストの愛を伝えようと誓いました。後日、病気が全快した彼女は、一生の間に多くの小説を通して日本だけでなく、全世界に福音を伝える偉大な作家として生きるようになりました。 1.疎外された者を探しておられるイエス。 私は話を聞いただけですが、皆さんは私より遥かに戦後日本の状況について詳しく知っておられると思います。何年か前、「力道山」という映画を見たことがあります。その映画では終戦当時の日本が、戦争により、肉体的にも精神的にも疲弊した状態で描かれていました。このような時期に病気にかかっていた三浦綾子は、まるで戦争によって弱くなっていた戦後の日本のように、病気の痛みを経験していたのです。ところで、日本のキリスト教の歴史書では、この時期、日本に爆発的な教会の成長があったと記されています。慰めと癒しが必要だった時に、ちょうど良くアメリカから多くの宣教師が入って来て、また日本の教会によって、多くの人々がキリスト教の信仰を持つようになったと記されていました。三浦綾子もその時、1人のキリスト者の献身を通して、キリストに出会い、偉大なキリスト者の小説家になったのです。そのためか、三浦綾子の人生と戦後の日本がオーバーラップされて見えました。虚しさと悲しみに苦しめられた三浦綾子は自分の友人が与えた愛により、イエスに出会い、イエスは疎外された彼女に光を照らしてくださいました。戦後の痛みと虚しさに陥った日本でも、福音を通して多くの人々がイエスを信じるようになりました。 このように、イエスの関心はいつも最も疎外されたところ、低いところにあります。イエスはそのような関心を持って三浦綾子を訪ね、彼女に信仰を与えられたのです。戦争という悲劇の後に、日本に信仰者が多くなったのもそのような主の愛のためではないでしょうか?今日ヨハネによる福音書には、そのような疎外されて苦しんでいる女が登場します。彼女は当時のユダヤ人に不浄な場所として受けとめられていたサマリア出身で、5人の夫とつぎつぎ 離婚し、今では夫ではない人と暮らしていました。彼女は不浄な村に住んでいる不浄な女だったのです。サマリアは北イスラエルが滅ぼされた時、アッシリヤ人の政策によって有力なイスラエル人は捕囚として捕らわれ、他の地域の異邦人が入ってきて、残されたイスラエルの貧困層と結婚し、産んだ混血民族が住んでいるところでした。異邦人を極度に嫌っていたユダヤ人の立場から見ると、サマリアは正統性も純粋性もない不浄な場所だったのです。ところで、その中でも5回も離婚を経験し、最終的には婚姻関係ではなく同棲をしていた彼女だったため、どれほど不浄な女だと批判されたことでしょうか? ところが、ダビデの子孫、ユダヤ人の中のユダヤ人だったイエス・キリストは、わざわざ彼女を訪れてくださいました。イエス様が不浄なサマリアに行かれたというのは一般のユダヤ人としては想像も出来ないことであり、その中でも不浄な女だと知られている彼女に手を差し伸べられたということは、常識を破ることでした。『そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。』(ヨハネ4:6)近東の正午ごろと言えば40度を上回る暑さで、誰も外に出ない時です。不浄な女だと近所の人に嫌われたその女は他人の目を避け、その暑い時、密かに水がめを持って出てきたのです。水を汲むために出てきたその女は、井戸のそばに座っておられるイエスを発見しました。そのイエスは、最も暑い時に、誰も訪れない、その疎外された女性に出会い、不浄を清めてくださり、神の御言葉を伝えるために来られた神の子でした​​。 2.不浄な者を探しておられるイエス。 今日の旧約本文は偶像崇拝と不従順のため裁かれ、バビロンの捕囚として捕らわれたイスラエルの民が主の赦しと恵みにより帰還した後、主から頂いた御言葉です。罪によって神様に裁かれたイスラエルですが、神様は彼らに裁きを免れる道をくださり、御恵みを与えてくださるという言葉であり、『その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。』(ゼカリヤ14:8-9)という祝福と約束により、ご自分の民を慰めてくださる言葉であります。イスラエルが罪を犯したけれど、神様は決して彼らを見捨てられず、彼らが神様に真の悔い改めと愛をもって来れば、神様も彼らを赦し助けてくださるという約束の言葉です。 神様は、旧約聖書の多くの箇所で、常にご自分の民に悔い改めを促されました。『もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。』(歴代誌下7:14)神様は、ご自分の民の不正を決して赦されない方ですが、その不正を謙虚に悔い改め、神に聞き従い、帰ってくれば、必ず癒し赦してくださる方です。そして彼らに裁きを免れる道と命の水とをくださり、彼らを守り、慰めてくださる方です。主はユダヤ人に軽蔑されたサマリア人に、特にそのサマリア人にも軽蔑された井戸の女を訪れてくださいました。神は王宮ではなく、神殿ではなく、権力者ではなく、不浄な地の最も不浄な女に来られたのです。そして彼女に『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。』という言葉を通して、その女を礼拝者として神様に招かれました。 神は不浄な者を拒まれる方ではありません。自分の罪を認め、悔い改める者、神に希望を求める者、神様の権威を認める者に、いつでも喜んで新しい機会を与えてくださる方です。すべての人に嫌われたサマリアの女は、不浄な出身という人種的差別、不浄な女という社会的差別、自ら自分を批判する罪悪感に苦しめられましたが、だからこそイエス様は彼女を訪れられたのです。エルサレムからガリラヤに行く時、通常ユダヤ人たちは地中海側の道、或いは東側のヨルダン川端に沿って北に上がっていきました。つまり、わざわざサマリアを避けて行ったということです。しかし、主イエスはわざわざサマリアに行かれました。なぜでしょうか?まさにこの女に出会うためでした。イエス様はわざわざ最も疎外されたところ、最も不浄な場所を探し訪れる方です。不浄を清める神様の力を通して、自らどうしようもない罪人を赦され、彼らが疎外から切り抜け、神様を礼拝することが出来るよう新たに生まれさせてくださるためです。主イエスは不浄を清め、新たに生きさせてくださる命の水そのものでした。 3.神と和解させてくださる主イエス。 父なる神様がイエス・キリストを私たちに遣わされた理由は、主イエスにより人間の中から湧き出る命の水を通して、神から遠ざかった存在が霊的な渇きを癒し、罪を洗い、イエス・キリストを通して御父のところに出て来ることが出来るよう、道をくださり力をくださるためです。そのイエス・キリストを通して、人間を招かれる理由は、我々が神様に礼拝出来るようにするためです。礼拝という言葉はπροσκυνέω(プロスクィネオ)というギリシャ語を翻訳した言葉です。プロスは「 – に向かって」という意味であり、クィネオは「口付ける」という意味だそうです。 「誰かに口付ける、誰かにひれ伏す」という意味を持っているそうです。ところで、面白いのは、クィネオの語源である「クィオン」の意味です。このクィオンは犬という意味ですが、クィネオという言葉は主人の手を舐める犬の姿から来たそうです。 この原語の意味を研究しながら考えたことですが、イエス様が来られ命の水をもって私たちを清めてくださったのは、神様の手に口付けることが出来る清い存在として生まれ変わらせてくださったことではないかということです。お宅で犬や猫を育てておられる方もいらっしゃると思います。もし、主人のない野良犬が皆さんの手を嘗めたとしたらいかがでしょうか?噛まれるんじゃないかと心配されるでしょう?しかし、ご自宅で育てておられる愛犬が手を嘗めればいかがでしょうか?頭を撫でて可愛がられるでしょう?イエス・キリストを信じるということ、命の水である彼に清められたというのは、いつ神に近づいても神様に拒まれない者、そのような存在になるということではないしょうか?私たちが礼拝することが出来るというのは、正にこの神との関係に壁がなくなるということではないでしょうか?イエス・キリストは、疎外される者、不浄な者を召され、新たにされ、御父と和解させてくださる命の主でいらっしゃいます。私たちが過去どんな人生を生きてきたにせよ、どんな罪を犯したにせよ、どんな疎外を受けたにせよ、主は私たちと一緒におられ、私たちを清めてくださる方です。今日の本文が私たちに教えてくれる、明らかな事実は、過去私たちがどんな人生を生きてきたとしても、今は主イエスを通して父なる神様に堂々と礼拝することが出来るということです。  締め括り 今日も主イエスは疎外された者、不浄な者、罪人を探しておられます。そして、キリストの中にある命の水を惜しげもなく注いでくださる方です。主の命の水を通して霊的な渇きが癒され、主の命の水を通して霊的な清めが可能です。そのような新たになることにより、罪人は天の御父の御前に堂々と進むことが出来ます。イエス・キリストがいつも私たちの罪を洗い流し、新たにしてくださるからです。サマリアの女は今日、自分に訪れて来て、最も疎外され、不浄な自分に礼拝の機会を与えられた人が、まさにメシアであることを悟りました。その時、彼女は自分がなぜ井戸に来たのかも忘れてしまったように、水がめを置いといて、人々にイエスを伝えるために行きました。自分が、いつも求めてきた水を汲む水がめさえ捨てたのは、ひたすら真の命の水であるイエス様を伝えるためでした。主が彼女に永遠の命の水を与えてくださったからです。皆さん、サマリアの女を助けてくださったイエス・キリストは、今日も私たちと一緒におられます。疎外感を感じるとき、自分が汚れていると思われるとき、誰も自分の味方ではないと考えるとき、私たちと喜んで一緒におられる主イエスを覚え、主の慰めと愛に寄り掛かり、主と共に歩む私達、志免教会になりますように、祈ります。

イエスは命と復活の主。

詩編16編8-11節 ヨハネによる福音書 11章17‐27節 前置き イエス・キリストが罪人を救い、彼らに新しい命を与えるためには、必ずエルサレムに上られ、ご自分の命を捧げる十字架での死が必要でした。『私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。』(ローマ6:4)ローマ書の言葉のように、イエスの死と共に罪人が死に、イエスの復活と共に罪人も新しい命を得て復活するからです。そのため、イエスの死は、すでに定められた死であり、この死は逆説的にも、死に勝利するための第一歩でした。 人間にとって、死というのは、すべての終わりに等しいです。人間は死を克服する何の力もないからです。人間が死に至れば、肉体は土になって消え、魂は神に呼び出され裁かれます。しかし、イエスの死は、それとは異なります。その死は必ず復活を前提としている死であり、その復活が前提された死は命が終わる死ではなく、死を終えるための死であります。そういうわけで、イエス・キリストに於いて、死というのは終わりではなく、新たな始まりを意味します。ここに私たち、信者の希望があります。今日のラザロの死も、このような視点から見なければならないでしょう。死により、悲しみに満ちたところから、むしろ、その死を通して、復活の希望を見せてくださるキリストの恵み。私たちが、死に接する姿勢も漠然とした恐怖ではなく、死に打ち勝つキリストへの希望であるべきではないでしょうか? 1.復活は知識ではありません。 ラザロを蘇らせたしるしは、イエス様のエルサレム入城前の最後の奇跡でした。イエスは、ヨハネによる福音書の10章までの御教えとしるしを通して、民と共におられる神、民を赦してくださる神、民を愛しておられる神を示されました。しかし、このラザロを蘇らせたしるしからは、単なる教えとしるしではなく、イエス様ご自身が、ご自分の命を捧げ、神と民との間の壊された関係を治し、ご自分の死を通して民の罪を赦し、ご自分の復活と民の復活を成し遂げる真の救いの始まりを示してくださいます。イエス・キリストは思想家ではありません。革命家でもありません。単に知識を伝える理論家でもありません。イエスは、これまでの教えを網羅する完全な実践のためにエルサレムにいらっしゃって、自ら十字架にかかり、『救いを教える神』を超え『救いを行動する神』としての姿を見せてくださったのです。 大勢の人々が御救いについて知識としてだけ知り、復活を信仰の問題として考えています。しかし、イエスは、より実践的で、現実的な復活を示すことを望んでおられたのです。イエス様がラザロが病気にかかったという便りに接せられた時、彼の死についてこう語られました。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』(ヨハネ11:4)そして、しばらくして『私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。』(ヨハネ11:11)と言われます。弟子たちはこれまで、イエスの多くのしるしを見てきたにも関わらず、イエスの言葉に懐疑的な態度をとります。『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう。』(ヨハネ11:12)この言葉を通して、類推してみると、弟子たちは、いくらイエス様だといっても、死者についてはどうしようもないという考えを持っていたようです。イエスは、他の福音書を通して何度も、ご自分の死と復活を教えられました。イエス様こそが死に打ち勝つ方であるという事実を教えられました。しかし、ラザロの死の前で人々は、イエス様が命の持ち主であることを信じていませんでした。死ねば終わりだと思っていたのです。ただ知識としての教義については、主の言葉として喜んで頂きましたが、実際に死に勝利する主イエスの権威は信じていなかったということです。 そのような教義的な知識は、ラザロの妹であるマルタからも、そのまま示されます。『イエス様がここにいてくださいましたら、兄は死ななかったでしょう。私は今でも、イエス様が神に願ってくだされば、何でも神はかなえてくださると、知っています。しかし、私は終わりの日、復活の時に兄が復活することを知っています。』イエスは今や彼を蘇らせようとされたのに、むしろ彼の妹マルタは、イエスの力を信じているように言いながらも、現実を否むような姿をとっています。『将来、私たちがまだ知らない、いつか兄が復活するでしょう?私はそれを信じています。』 一見、マルタの信仰はとても成熟して合理的に見えます。イエス様を苦しめることもなく、自分の信仰も守ります。しかし、彼女は間違っていました。自分の前に、実際に人を蘇らせる方がおられることを見落としたのです。彼女はイエスを固く信じていました。しかし、彼女は自分の宗教的な知識に限って、イエスを信じていたのです。 2.復活とは何でしょう? そのような彼女の知識を破る出来事が起こります。イエス様が実際にラザロを蘇らせたことです。『イエスはラザロ、出て来なさいと大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。』(ヨハネ11:43-44)そのラザロの復活を見て、多くのユダヤ人がイエスを信じるようになりました。おそらく、マルタもイエス・キリストが、単に教義的な救い主、知識的な先生ではなく、実際に死に勝ち、生命を与えてくださる復活であり、命の主であることを信じるようになったのでしょう。神様がラザロを蘇らせるために主イエスをお遣わしになった理由は周りにいる群衆のためであり、彼らに信じさせるためでした。単に知識としてイエスを信じるのではなく、本当にそのイエスがご自分の言葉を成し遂げる力を持っておられることを教えてくださるためでした。そして、その御言葉のように、イエス様が十字架につけられて死に、実際に復活されることによって、主を信じる全ての人に永遠の命を与えてくださるということを予告されるためにラザロを蘇らせたのです。イエス・キリストがラザロを蘇らせたしるしは、教義的な知識に、実質的な体験を与えてくださる、知識と経験が一つになる本当の信仰を与えてくださる出来事になりました。 私たちは、人が復活するということについて、どういう考えを持っているでしょうか?もちろん、 キリスト者なら誰でも最後の日、イエスが再臨されると、自分も復活するという信仰を持っているのでしょう。しかし、今まさに、誰かが復活するということには簡単に頷けないでしょう。死んだ人が蘇ることは有り得ないことだからです。頭では信じるとしても、実際に起こるとは信じられないからです。しかし、主イエスは言われました。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』(ヨハネ11:25-26)イエスは、復活について、実際に存在しているものであり、私たちの中でも起こると言われました。しかし、イエス様が語られた復活はラザロのしるしとは別の概念です。それは永遠に再び死ぬことのない、復活を意味します。ラザロは永遠に生きることになったでしょうか?もし、そうだったら、今でもイスラエルには2000何歳のラザロが生きているはずでしょう。おそらくラザロは再び死んだでしょう。彼が再び蘇ったのは、永遠の命を与えてくださるイエス・キリストの復活の予告でした。彼を通して人間に復活と命をくださる方が、正に主イエスであるという教えを示すためだったのです。ですので、ラザロの復活は不完全でした。本当の復活は永遠に生きることであるからです。おそらく最後の日には、ラザロも完全に復活し、永遠に神と生き、二度と死を経験しないでしょう。 それでは、我々は、果たして復活について、どう考えるべきでしょうか?しばらく、原文を参照して言葉について勉強してみましょう。 25節に出てくる『私を信じる者』の「信じる」は、継続的に信じることを意味します。一度だけ信じて、やがて信仰を止めることではなく、主イエスへの絶え間ない信仰、どうなっても信じ込む信仰、ただ主イエスだけが唯一の拠り所であり、神様であるという信仰、そのような信仰を意味します。そんな者こそが『死んでも生きる。』者です。そして、その『死んでも生きる。』という文章での死はたった一度だけ死ぬことを意味します。物理的に一度死んでも、神は彼を永遠に覚えられ、死に置かず蘇らせてくださることを意味します。これは、イエスが再臨される時に起こる、体の復活だと考えてもいいでしょう。ところで、26節の言葉がちょっと気になります。 26節では、 26節では、生きている時イエスを信じた者が、継続的にその信仰を守れば、永遠に死ぬことはないという意味として記されています。 人は一度死ぬことが決まっている存在であり、最後の日に復活するというのは信じているのに、永遠に死なないというのは一体何の意味でしょうか?イエスを信じれば、1000年も生きるという意味でしょうか?それについて、ある神学者は、25節の言葉は、伝統的な復活を示す終末論的な復活を意味すると語りました。そして、26節の言葉は、イエスを信じる人は、その魂が神様から切られてしまう霊的な死から自由になり、永遠に神から見捨てられず、永遠な魂の命を得るという意味です。死んでも神様に守っていただくという意味です。そして、25節と26節の内容が一つになり、最後の日には体も、魂も新しく生きるようになるという意味です。 3.復活とは、神と連れあって歩むこと。 今日の旧約本文を詳しく見てみたいと思います。『私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。』(詩篇16:8)『あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。』(詩篇16:10)ダビデは、生前、何度も死に瀕する経験をしました。しかし、そのたびに主がダビデを助けてくださり、結局、彼を王にしてくださいました。ダビデは、死ぬほどの恐れと苦しみの中でも、彼を助け、愛してくださる神様を信じました。神はそのような彼を陰府に捨てられず、最後まで守ってくださり、ダビデはその神を信頼し、自分に「命の道」を教えてくださると喜び、褒め称えました。私たちが主イエスを信じ、彼からいただく永遠の命は、このようなものじゃないかと思います。常に死が私たちを脅かし、いつ私たちが消えてしまうかも知れない状況で、唯一の主イエスだけは、私たちの魂をご存知で、私たちと共に歩んでくださり、私たちを守ってくださる方だと信頼すること。もし、主イエスがいらっしゃらなければ、私たちの死後に何の希望もないはずだったけれど、イエス・キリストを通して神が私の命を召され、最後の日の復活の時まで、私たちの魂を大切に守ってくださるということ。復活は、このように神から離れないように、主イエスによる神の御守りが私達と共にあるということではないでしょうか? いくら蘇るといっても、再び死ぬなら、それは完全な復活ではないでしょう。また、死に決まっている復活ならば、真の復活ではないからです。むしろ主は、イエス・キリストを信じる信仰を通して得る希望、つまり神様がくださる永遠の命の希望を持って、誰でも経験しなければならない一度の肉体の死から、しばらく蘇らせられることにより、神から完全に見捨てられる魂の死、完全な死から自由になることこそが、真の復活であり、命であると言われているのではないでしょうか? 聖書は語ります。主イエスを信じて、主と共にいる私たちは、すでに復活を得た存在で​​あると。今日、イエスは言われました。 『私は復活であり、命である。』イエス・キリストは、私たちの復活のために死なれた方です。彼の死は、死に勝つための死でした。彼はすでに死に勝利され、彼と一緒にいる人は、その死の影響圏の外で生きていきます。私たちは、日増しに老いていくでしょう。死に近づいていくでしょう。しかし、私たちの魂は、日増しに右にも左にも揺るがず、神様に向かって進んでいくでしょう。そして死に会う日、死を乗り越え、神様に一歩近付く喜びと感動をもって神様と対面するでしょう。その日まで、私たちと絶えずおられる神の恵み、私たちを守ってくださるイエス・キリストの恵みが私たちと共に歩むでしょう。これが私たちの真の復活であり、命ではないでしょうか?  締め括り 母親の胎内にいる、胎児は何を考えているでしょうか?『ここを離れるとどうなるか?』という漠然とした不安を感じていることではないでしょうか?しかし、生まれてみると青空があり、広々とした海があり、暖かい日差しがあり、何よりも愛する人たちがいます。多分、私たちも、そんな胎児のように、死後に対する漠然とした不安を持って生きていくかも知れません。しかし、私達の長い生が終わり、神様に召される日、それ以来、むしろ今よりも遥かに美しく、幸せな主との歩みが繰り広げられると聖書は証言しています。ラザロが生き返った事件は、イエス・キリストの真の復活の予告でした。そしてラザロの復活を通して、私たちは、ただ知識的な信仰を経験的な信仰に変えてくださるイエス・キリストに会うことが出来ます。そして、ラザロを蘇らせた後、ご自分の民の復活のために自ら死に向かって行かれるイエス様に会うことも出来ます。明らかなことは、このイエス様がすでに復活され、死を征服されたということです。だから、イエスを信じる私たちは、死への永遠の恐怖から自由になることが出来ます。イエスが再び来られるその日、私たちは最も美しく、完全な姿で復活するでしょう。それからは、死は無くなり、神様は御自分の民とご一緒に永遠におられるでしょう。今日のラザロのしるしを通して、イエス様が私たちに示してくださった、この復活について深く考えてみる時間になることを願います。

良い羊飼い、悪い羊飼い。

エゼキエル34章7-10節 ヨハネによる福音書 10章1‐21節 キリスト教は三位一体なる神のみ、創り主、救い主、助け主として認められ、その中で、ひたすらイエス・キリストが中心となって、神と世界を理解するキリスト中心的な宗教であります。この世界の誰も、神様から遣わされたキリストに取って代わることが出来ず、そのキリストだけが神様に認められた世界の支配者であることを認め、信じる宗教です。父なる神様が旧約とは違って、イエス・キリストだけを三位一体の代表にしてくださり、玉座を譲ってくださった宗教であります。イエス・キリストは勝利者です。終わりの日には新約聖書の弱くて穏やかなイメージではなく、戦争に勝利した凱旋将軍の姿で再び、この世に来られるでしょう。イエス様が再臨される終わりの日、主イエスは、この世界のすべての善と悪を裁かれ、その栄光の玉座を父なる神様に返されるでしょう。これがキリスト教の伝統的な終末論なんです。 それにもかかわらず、このような勝利者イエス・キリストは、相変わらず羊を愛し、守る穏やかな良い羊飼いのイメージを持って、常に私たちに慰めと愛を与えてくださいます。そして、自らご自分を良い牧者だと称され、ご自分を信じる者をご自分の羊として招かれます。そして、お赦しくださり、お助けくださいます。イエス・キリストは、良い羊飼いです。彼に従って生きる者たちに『主は羊飼い、私には何も欠けることがない。』という詩篇の言葉のように希望と喜びを与えてくださる方です。ところで、私たちは、このイエス・キリストに選ばれ、彼の体なる教会の一員として生きています。それは私達がただの羊であるだけでなく、主の務めを分け与えられた存在だという意味です。この世で大牧者である主イエスの小さな羊飼いとして良い羊飼いの任務を持って生きているという意味です。主の羊として主の体なる教会になったら、主の小さな羊飼いとしての人生をも生きなければならないからです。そういう意味で、キリスト者なら、自分が羊であるということと共に羊飼いでもあるというアイデンティティを持って、この世界を生きて行くべきです。世の中には良い羊飼いと悪い羊飼いがいます。私たちは、果たして、どちらでしょうか?今日は、私たちが、果たして、どのような羊飼いなのか、また、どのような羊なのか考えてみたいと思います。 1.良い大牧者イエスと小さな羊飼いキリスト者。 イエス・キリストは、良い大牧者です。神を知らず、信じてもいないこの世で、神に選ばれた者たちを導かれ、神の牧場に連れて行かれる愛に満ちた大牧者です。また、イエス様は、羊の門です。誰でも自由に入ることが出来ない、ただ、選ばれた羊だけが入ることが出来る、たった1つの羊の門です。愛のない、他者のためではなく、もっぱら自分のために生きていく、自分のためなら他者が死んでも構わない邪悪な世界で、自らの命を捧げながらも、羊を愛してくださる真の羊の保護者になってくださる方です。『私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:11)ところで、このイエス様は自らが大牧者になってくださることと、同時に主の共同体の指導者にも、主の御心に聞き従う小さな牧者としての務めを与えてくださいました。今日の旧約本文に羊飼いという言葉が出てきます。これは、イスラエルを治める王と貴族を示す意味です。彼らは民を愛さず、自分らの欲望だけを満たそうとした人々でした。主はそんな彼らに滅亡という恐ろしい裁きを下しました。 良い大牧者イエス様は、ご自分の命すら捨ててまで、民を生かされた愛の主でしたが、滅ぼされたイスラエルの牧者たち、つまり指導者たちは、自分らの名誉、権威、富だけを考え、貧しくて可哀相な民の事情には何の興味も持っていませんでした。もちろん、神様に褒められた王と貴族もいましたが、ほとんどの王族や貴族は民の幸せより、自分の欲望を満たすのに忙しかったのです。神はこの世の一挙一動を全部知っておられる方です。私たちの髪の毛さえも数えられる方です。そのため、苦しんでいる民の呻き声と涙にさらに深い共感と関心を持っておられる方です。そのような神の御心を理解ぜず、むしろ民を放っておいた牧者たちのせいで、イスラエルは神に呪われ、他国に滅ぼされてしまいました。羊を愛さず、打ち捨てた羊飼いたちは、心深く羊を愛される大牧者に裁かれ、滅ぼされたのです。 皆さん、私達、教会はイエス・キリストの体です。教会は、イエスの手と足、唇になって、イエス様が愛する人々に仕え、主の福音を宣べ伝える使命を持っています。私たち志免教会の一人一人が皆、主の手と足、唇としての人生を生きています。隣人に仕え、愛することは、イエスの体であるキリスト者において、当たり前なことであり、近所の人々に主の福音を伝えることは、私たちが召される日まで止まってはならない非常に重要な価値であります。牧師、宣教師、伝道師、教職者だけが羊飼いではありません。大牧者であるキリストの教会を成す全ての信徒は、イエス・キリストに羊飼いとしての任務を与えられた主の小さな羊飼いです。ですので、私たちは教会員どうし、お互いに自分の羊のように愛しなければなりません。また、まだ信じていない周りの隣人にも、失われた羊だと思い、福音を伝え、愛をもって仕える義務があります。ただイエスを信じ、祝福され、天の国に入り、自分だけのために信仰生活をするなら、それは神に呪われた、昔のイスラエルの王族と貴族の形と、別に違いがないでしょう。大牧者イエス・キリストによって遣わされた私たちは、主の小さな羊飼いです。今、私達の心に小さな羊飼いとしての自覚があるかどうか、考えて見るべきだと思います。 2.羊は羊飼いの声を聞き分ける。 教会の真の良い羊飼いはイエス・キリストです。韓国の教会では、たまにあることですが、教会に仕えるために召された牧師が、『自分は特別に選ばれた羊飼いである。』という考えを持っている場合が少なくないと思います。言葉では牧師ですが、まるで、自分が教会の所有者のように振舞うケースがあるということです。しかし、厳密に言えば牧師も、結局、羊の群れの中で、教える務めを与えられた、羊を教える羊に過ぎないです。つまり、牧師も、信徒も、皆が主の羊であり、皆、お互い助け合う主の小さな羊飼いとして選ばれた者であると考えるのが正しいではないかと思います。ただ、教職者は神学、聖書について専門的に勉強したので、講壇では権威を認められるべきだと思いますが、牧師も基本的には主の羊ですので、教職者も、主の羊として、神の声を謙虚に受け入れなければなりません。時々。神学博士の知識を超える本質的な神の言葉が幼稚園の子供の口から出るときもあるからです。主の羊といえば、謙虚に主の御言葉に与かるものです。それでは、果たして主の言葉とは何でしょうか? それはイエス・キリストを通して聞こえて来る聖書の御言葉を意味します。イエスを通さずに、聞こえてくる全ての愛の言葉、聖書の言葉、救いの言葉、宗教的な言葉は注意する必要があります。韓国から渡ってきた統一教会、アメリカから渡ってきエホバの証人など、イエスを認めない、全ての聖書の教えは、残念ながら、全部嘘ばかりです。彼らは盗人であり、強盗であります。これは私たちだけが真理だという独断ではありません。これは彼らが正しい救いの道ではなく、イエス・キリストを示さない間違った教えを伝えるからです。今日の本文はこう語っています。『はっきり言っておく。私は羊の門である。 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。』(ヨハネ10:7-8)本当にイエス・キリストの民となった者は、ただイエス・キリストの言葉だけを聞くものです。 『盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。』(ヨハネ10:10)私達は主の羊として主の言葉を聞き分け、主イエスだけを通して神様に行かなければなりません。イエスのない言葉は、虚しさに過ぎないのです。  今の私たちは、大牧者である主イエス・キリストをちゃんと伝えている良い羊飼いとして生きているでしょうか?そして、主イエス・キリストの御言葉をきちんと聞き分ける本当の羊として生きているでしょうか?私たちは、主の言葉を、どのように受け入れ、生きていっていますか?聖書は良い大牧者イエスと悪い羊飼いについて明確に比較しています。この聖書の言葉を通して主の御言葉に与かった私たちは、その違いを通して自分自身を省みるべきだと思います。このような反省を通して、悔い改めが始まり、その悔い改めを通して神の恵みが臨むからです。今日の話を締め括る前に、二人の日本のキリスト者の話しを分かち合いたいと思います。この話を聞きながら、真の羊飼い、真の羊は果たして、どちらか?考えてみる時間にしたいと思います。 3.良い羊飼い、悪い羊飼い。 1941年、昭和16年6月、日本の34個のプロテスタント教派は強制的に統合されます。これは軍国主義による教会統制の一環でした。このような統合により、生まれたのが、まさに日本キリスト教団です。その日本キリスト教団の初代議長は富田満という神学者でした。愛知県春日井市出身の富田満は、旧日本キリスト教会の大会議長であり、東京神学校の理事長などを歴任するほど、影響力のある牧師でした。彼は正統的なキリスト信仰とは違う自由主義的な神学を用い、軍国主義に賛同し、最終的には神社参拝は偶像崇拝ではなく、国民儀礼であるという言い訳をしました。また、彼の導きにより、日本の教会は、神社参拝を行います。それだけではなく、彼の主張の下で、朝鮮の教会も神社参拝を強要されます。韓国のチュ・キチョル牧師は神社参拝を拒否したため、投獄され、殉教しました。大勢の信徒が信仰を守るために投獄されたり、殺されたりしました。一方、大勢の朝鮮の牧師たちは、富田の主張に負け、朝鮮神宮で参拝を行なってしまいます。そのような韓国の牧師たちが、今も韓国のキリスト教の偉大な指導者として尊敬される場合があり、遺憾を禁じ得ません。富田満は、戦後、ちゃんとした懺悔や謝罪もせず、日本キリスト教団の影響力のある牧師として活動し、1961年に亡くなります。 韓国のソウルには楊花津宣教師墓地という場所があります。世界各国から来た宣教師たちを記念するところです。そこには日本人宣教師の墓が一つあります。まさに曾田嘉伊智の墓です。山口県出身の曾田嘉伊智は、植民地朝鮮で朝鮮の孤児たちを自分の子供のように面倒を見た義人です。彼は朝鮮の植民地独立のために朝鮮人たちと協力しようとした人ですが、朝鮮人にはスパイとして、日本人には裏切り者として両方から嫌われた人です。しかし、彼は信仰の力を通して、忍耐し、全ての誤解を乗り越えました。そして真の平和を望み、朝鮮人を助け、日本人を宣教しよう、という一念で生きました。朝鮮人たちは、彼の心に感服し、同胞のように信じ従います。日本が敗戦し、戦争が終わった時、本国に帰ろうとしていた北朝鮮地域の日本人たちが、ロシア軍に無惨に攻撃されたことがありました。当時、近所の教会で伝道に携わっていた曾田嘉伊智は自分が仕えている教会堂に信者、未信者を問わず、日本人を集め、命をかけて守りました。彼は朝鮮の民衆、日本の難民、民族を問わず、主の愛をもって、人々の面倒を見ました。また、80歳頃、福音を伝えるために下関行きの船に乗ります。そして、日本全国を巡り、神の福音を宣べ伝えました。そして1961年に韓国に戻って来て、翌年神様に召されました。 締め括り 富田満と曾田嘉伊智。果たして彼らは神様の審判台で、どんな評価を受けたでしょうか?果たして誰が良い羊そして羊飼いとしての人生を生きたと褒められたんでしょうか?裁きは神様の領域ですので評価出来ないと思いますけれど、聖霊が皆さんの心にお答えをくださると信じ、皆さんのご判断に任せたいと思います。今日の旧約本文に出てくる『羊を養う。』の『養う。』の原文は『面倒を見る、愛をもって治める、付き合う、友達になる。』などの意味をも持っています。私たちは主の羊です。大牧者、主イエスは、私たちを養われます。だから、主は、私たちを守り、愛する友達になってくださいます。その主に愛された私達は、また、他者を愛するために小さな羊飼いとして遣わされました。主から愛を受けた私たちは、今や、他者を助け、愛する友達になる番です。主の羊であり、小さな羊飼いとなる私たちの生活を通して、主は喜ばれ、私たちを祝福してくださるでしょう。来たる一週間、良い羊、良い羊飼いとして、神様の喜びになりますように祈ります。そのような生活のために、主イエスの恵みと助けが、限りなくありますように切に願います。