必生即死、必死即生。
ダニエル書4章1-15節(旧1385頁) ヨハネによる福音書 12章20-26節(新192頁) 前置き 今日の説教の題は、日本ではあまり使っていない言葉だと思っています。「必生即死、生きようとする者は必ず死ぬものであり、必死即生、死のうとする者は必ず生きるものである。」という意味で、韓国では、頻繁に使われる漢字語です。世の中に死ぬために生まれる人はいないでしょう。寿命が尽きるまで、生きていく途中、神に召され、世を去ることは当たり前なことだと思いますが、世の誰も早く死のうと思う人はいないでしょう。しかし、時には人が死を覚悟する時もあると思います。戦時中に親が子供を守るために代わって死ぬこと、愛する友人や恋人を生かすために代わって命を投げ出すこと、あるいはイエス・キリストのように、罪人を愛し、救うために自ら十字架の道を選ぶことなどがそのような場合でしょう。 神の国で認められる高い価値の一つは、人が自分だけのために生きることではなく、他人も愛して生きることだと思います。自分だけのために生きていく人は、自分の利益のために他人を死に至らしめることもありますが、他人も愛して生きる人は、他人のために自分を犠牲にすることもあるからです。神様は自分だけのために他人を犠牲にする者を決して赦されない方であり、他人のために自分を犠牲にする人の犠牲を非常に大切にされる方であります。イエス・キリストの犠牲と愛によって建てられた神の国は、今日もキリストの体なる教会の、他者への愛と犠牲によって広げられていきます。自分だけのために生きようとする者は、神様に憎まれるでしょう。隣人のために犠牲を覚悟する者は、神に褒められるでしょう。なぜならば、主イエス・キリストが、そのような御教えと足跡を残されたからです。そのような犠牲と愛はヨハネによる福音書の12章以降に示されるイエス・キリストの十字架の死で、さらに明らかに現れるからです。 1.世に逆らうイエスの御教え。 ラザロを生き返らせたイエスの噂は、エルサレムとイスラエルを越えて遠い地域まで伝えられます。そのためか、今日の新約本文ではギリシア人たちがイエスに会うために来たと記されています。『ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。』(コリント1:22-24)哲学が発達し、知恵を追い求めていたギリシアの文化圏から、ギリシア人がイエスを訪ねてきたというのは、驚くべきことでした。イエス・キリストの福音、「主を信じる者は神様に赦される。主を信じる者は神様に永遠の命を与えられる。主を信じる者は死んでも生きる。」という話は、哲学的な思考を持っていたギリシア人には話にならない愚かな言葉だったからです。しかし、ラザロが生き返ったという噂を聞いた何人かのギリシア人は、哲学と知恵に対する自分らの常識を超えることが、イエス・キリストによって起きたことを悟り、イエス様を訪ねてきたのでしょう。 古代ギリシアの神々は、道徳的ではなく、人間のように罪を犯す存在として描かれました。つまり、完全性が期待できない存在でした。あの有名なゼウスは、他人の妻を寝取り、他の神々も互いに騙し合い、殺し合おうとしました。道徳的にも、能力的にも完璧ではないギリシアの神々には限りがありました。このような完全に失敗した神々への懐疑感により、ギリシアでは、神への探究が活発に起こり、そのような神への懐疑と反感によって、人間への研究が活発に起きたのです。そのため、ギリシアの文化では、神への盲目的な崇拝より、人間を研究する哲学が発達したというわけです。そんなギリシア人にとって、完全無欠なイスラエルの神認識は愚かなものでした。ところが、そのような愚かな神認識のイスラエルで誰かが人を蘇らせたという噂は、彼らに新鮮な衝撃として迫ってきたことでしょう。そういう理由で、ギリシア人は、イエスに会いに来たのかもしれません。 古代の神話で神々は、自分らだけのために、人間を使いました。人間の命は大事にしませんでした。神々は人間を愛さず、ただ用いただけです。しかし、イエス・キリストの父なる神様は、彼らと違いました。弱い者を愛しておられ、命を与えてくださる方でした。そのような神の御心は、イエス・キリストの一言を通して伝わりました。『自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。』(ヨハネ12:25)この言葉を実践でもするかのように、神は自らご自分の命を憎んでまで、人間を愛されました。そのため、神は、最愛の御子イエス・キリストを人間のために死なせたのです。古代の神々とは違い、人間を愛した神、その神の御子イエスはご自分の命を捧げて人間を愛されました。イエスの他者のための死は、自分だけを大切にする、この世の教えに逆らう革命でした。 2.神の力。 旧約聖書の時代は、戦争と帝国の歴史でした。エジプト、アッシリヤ、バビロン、ギリシア、ペルシア、ローマ等の帝国が軍事力で他の国を征服し、被害を負わせながら、自分らの領土を広げていった暴力と戦争の歴史でした。古代帝国は、自分たちが仕える神々が強ければ他の国との戦争に勝利し、その神々が弱ければ、他の国との戦争に敗北すると思いました。また、その神々の息子、あるいはその神々が人間になった者が皇帝だと思っていました。そのため、自分たちの神々と自国の強さを証明するために古代人は多くの戦争を起こし、領土を広げていこうとしたのです。今日、旧約聖書に登場するネブカドネツァルも、そのような皇帝の1人でした。ネブカドネツァルはバビロンの皇帝でした。彼は今のサウジアラビア、イラク一帯を支配していた強力な皇帝でした。 ところで、ある日、このネブカドネツァルが不思議な夢を見ることになります。彼の夢に、一本の大きな木が登場します。葉っぱは美しく茂り、実は豊かに実り、すべてを養うに足るほどの木でした。その木の陰に野の獣が宿り、枝には鳥が巣を作り、生き物はみな、この木によって食べ物を得ていました。しかし、空から聖なる見張りの天使が降って来て、『この木を切り倒し、枝を払い葉を散らし、実を落とせ。その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え。』(ダニエル4: 11)と叫んだのです。つまり、その大きな木が滅ぼされるという意味でした。ダニエルは、その木がネブカドネツァル、本人だと解釈し、高慢なネブカドネツァルが神様に裁かれると予告しました。一年後、ダニエルの解釈のように高慢な言動を発したネブカドネツァルは、神に裁かれ、彼の権威は瞬く間に潰れてしまいました。そして、数年後には、バビロン帝国自体がペルシアによって滅ぼされてしまいました。ダニエル書は、その強大な帝国バビロンと皇帝ネブカドネツァルに罰を与えられた神様の力について、こう語っています。『その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて何をするのかと言いうる者はだれもいない。』(ダニエル4:31-32) 預言者イザヤは、人間について『草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。』(イザヤ40:7)と話しました。人間の力がいくら強くても、その力は永遠ではありません。そして、その権威は神様のご判断とご処分に従って、たやすく壊れてしまいます。だから、この世のすべては神の御前で謙虚であるべきです。しかし、まだ、世の国は、自分の栄光のために、弱い国を踏みにじり、弱い国の血を用いて、自国を大きくしようとしています。世の人々の中にも、そんな動きがあると思います。自分の利益のために、弱者の物を奪い、自分の権力、名誉、富を大きくしようとする人が多いと思います。しかし、このような高慢な国と人間に、神様は威圧するように言われます。『他国、他人を軽蔑し、困らせる高ぶる者よ、私にとってお前は無に等しい。天の軍勢をも、地に住む者をも、私は私の旨のままに裁く。私の手を押さえて何をするのかと言いうる者は誰もいない。』神様は誰よりも大いなる方、強力な方であります。世の誰も神様の御心を妨げることは、決して出来ないでしょう。 3.ご自分を犠牲にして他人を生かす神の恵み。 このように、神様は人間が想像も出来ないほどの力を持って、今日も全世界を支配しておられる方です。主はすべてを成し遂げることが出来る力を持っておられます。しかし、この神様は、ご自分の強大な力で弱い者を抑圧される方ではありません。高慢で自分のことしか知らない強い者には、はるかに強い方であられますが、弱くて苦しんでいる者には愛を持って訪れる方です。神様は人が強い力によって屈服することではなく、神の言葉と恵みによって、変わることをより喜ばれる方です。だから、神様は財物と権力を持って身勝手に振舞う大きな教会より、小さくても謙虚に主を信じ、善を行う教会を、さらに愛されます。この神様の代表として来られた主イエス・キリストは、あまりにも弱い姿でこの地に来られました。そして他人のために犠牲になられました。強大な力があるにも拘わらず、弱い者のため、病んでいる者を生かすため、自ら一番小さな者の姿をして来られました。主は自ら一粒の麦になって来られました。『はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』(ヨハネ12:24)主イエスは死ぬまで、ご自分の利益ではなく、神と隣人の利益のために、自ら一粒の麦になってご自分の命を捨てられたのです。 イエス・キリストは神のご計画の前に、自分の主張を強調しませんでした。イエス・キリストは生きようと足掻きませんでした。イエス・キリストは死を控えて、父なる神のご計画に聞き従いました。他人を生き返らせ、ご自分のように従順に従う民を生まれさせるために一粒の麦になり、ご自分の命を捧げました。すなわち、主イエスは死ぬために来られたということです。自ら自己を否むために来られたのです。命を捧げたイエス・キリストの犠牲によって、多くの人々が赦されました。『彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』(イザヤ53:5)神様は、強い民を必要としておられない方です。神様、ご自身が一番強い方であるからです。ただし、神様は自ら一粒の麦のようになり、犠牲になって多くの実を結ぶ民、神に自分を捧げる民を望んでおられます。だから、神の民、教会は力ではなく、従順に生きる共同体です。教会の頭なるイエス・キリストがなさったように、主イエスの教会は自らを犠牲にし、神と隣人に仕える共同体です。 自分だけのために生きようとする者は、神様に裁かれるでしょう。他人のために死のうとする者は、神の恵みによって生きるでしょう。自分が一粒の麦となり、自分の利益だけでなく、近所の人々のことも一緒に考え、仕えて生きる時、神様は喜んで祝福してくださるでしょう。今日、私たちが落ちて、主に私達を捧げるべき所はどこでしょうか?私たちが自分を犠牲にし、他人を生かそうとする時に、神様は多くの実りを持って、私たちを祝福してくださるでしょう。『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。』(ヨハネ12:26)イエス・キリストが行かれた道、自ら一粒の麦になり、ご自分を犠牲にされた道、その道の上にイエス・キリストを信じ、仕える者も立っているでしょう。その道で、イエスに従って生きていく時、イエス・キリストの父なる神様は、私たちを大切にしてくださるでしょう。今日、私たちは、果たしてどこに立っているでしょうか?めいめい自分を顧みる時間になることを願います。 締め括り キリスト者の生活は、イエス・キリストが行かれた道に従って生きることです。イエスの道には数多くの苦難が伴います。その道は、幸せばかりの道ではありません。その道は安らぎばかりの道でもありません。しかし、その道には必ず神様の祝福があり、その道には必ず神様の慰めがあるでしょう。イエス・キリストは、直接、ご自分の命を捧げられましたが、いまのところ、私たちは命を捧げることまでは難しいでしょう。しかし、少なくとも、心だけは、命を捧げる覚悟を持って、自分の被害と苦痛に耐え、他人のために生きる人生、キリストを伝える人生にすべく取り組むべきでしょう。必生即死、自分のために生きようとする者は必ず死に、必死即生、主と他人のために死のうとする者は必ず生きるでしょう。自分自身を神様に捧げる人生、私の命を捧げ、他人に仕える人生、私たちの人生を通して、イエス・キリストの香りが、その十字架の愛が、私たちの志免町に広まることを願います。