王か?パンか?

「私はどのような人生を生きるべきか?」この問いは、古今東西を問わず、すべての人が一度は考える問いだと思います。「私はどのように生きて行かなければならないのか?」忙しい現代人、皆と同じ方向に向かって行きながらも、そのような自分の人生について自ら真剣に問い掛けるべき設問。「私は何のために生きていくのか?」皆さんは、こういう質問への答えを出したことがありますか?アメリカの16代大統領であるアブラハム・リンカーンは「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持つべきだ。」という言葉を残しました。 多分、私はリンカーンが「人は40歳を過ぎると、自分が何のために生きるべきかを弁(わきま)えなければならない。」という意味で、この話を残したのだと思います。もちろん、個人差があるので、早めに気付く場合も、遅く気付く場合もあると思います。私の場合は、聖書のある言葉によって40歳になる前に、何のために生まれたのかについて悟ることができました。その言葉が、まさに今日の旧約本文の言葉です。『人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』 今日は『キリスト者としての私達はなぜ、生まれたのか?どう生きるべきなのか?』について話してみたいと思います。 1.パンへの人間の本性 – ヘロデ王 今日の新約の言葉は5つのパンと2匹の魚の奇跡と呼ばれる非常に有名な物語です。 4つの福音書に、全部登場するほど、多くの深い意味を持っている箇所です。ところで、ヨハネによる福音書を除く3つの福音書では、この5つのパンと2匹の魚の奇跡の物語が出る直前にヘロデ王がバプテスマのヨハネを処刑したという話が出てきます。なぜ、5つのパンと2匹の魚の話の直前にヘロデ王の話が出てくるのでしょうか?まさにパンに隠されている意味について話すためです。異民族の血統の王として正当性が弱かった彼は、自分のパン、すなわち自分の力を保つために、イスラエルの血統の女性との結婚を望みました。結局、自分の元妻を捨てて、イスラエルの血統の異母兄弟の元妻と結婚することになります。バプテスマのヨハネは、そのようなヘロデの行為が律法に適わないと、ヘロデとその新しい妻を糾弾します。するとヘロデの新しい妻はヘロデを操ってバプテスマのヨハネを殺させました。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、この物語が出て来ています。 ヘロデがヨハネを殺した理由は、自分の権力のためでした。異民族の血統を受け継いだ王が民族的な正当性を得るために、律法に禁じられた結婚をし、その結婚についてヨハネが糾弾したからです。ヘロデの新しい妻は、そのようなヨハネの非難を防ぐために、彼を無惨に殺しました。聖書が語っているパンは、単に食べることだけに限るものではありません。先月の聖餐礼拝の説教で、私は食べることは、神様が与えられた祝福ですが、自分の欲望だけを満たすためなら、神様の呪いになる可能性があると話しました。ヘロデはパンに象徴される、自分の権力を強めるために、つまり、自分の欲望のために、神の預言者を殺したのです。 人に適度な権力と富と名誉は必要かもしれません。聖書を読むと、神様も権力と富と名誉を許されました。しかし、権力、富、名誉に酔って暴れた者たちは、結局、神様に裁かれました。私は今日、このパンを権力、富、名誉に喩えようとしています。人間は、このパンへの過度な執心をする傾向があると思います。自分のパンのために、他者に害を及ぼし、他者を憎み、ひどい場合は、他者の命を奪うこともあります。結局、このパンへの欲望が更に大きくなり、他者を踏みにじる権力として象徴される王への欲を出し、そのため、より多くの罪を犯してしまいます。パンへの欲望は、他者のパンを奪い、他者に苦しみを与える暴力になります。このようなヘロデの行為は、イスラエルの民に大きな痛みと悲しみを与えました。私たちの心の中にあるパンは、どのようなパンでしょうか?もしかしたら、それは自分の欲を満たすためのパンではないでしょうか? 2.パンに対するイエスの御心。 ところで、真の権力者である神の独り子、神の御言葉、主イエス・キリストは、このパンについてヘロデとは違う姿を示されます。『イエスはお答えになった。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある。』(マタイ4:4)イエス様は、人はパンだけで生きるものではなく、神様がくださる言葉をもっと大事にして、生きるべきだと言われました。パンだけを求める者は、神の言葉から遠ざかってしまいます。自分の欲望だけを求める者は、神の言葉が持っている正義、公平、愛から離れてしまいます。神の言葉を守って生きては、自分の欲望を満たすことが出来ないからです。イエス様は徹底的に人間のパンより、神の御言葉に従って生きて行かれました。むしろ、イエスは、より多くのパンを持つことが出来る立場から自ら抜け出し、より少ないパンも分け合おうとされました。自分の欲望ではなく、神の御言葉を、より大事に思われたからです。 イエスは、病んでいる、飢えている民を憐れんでおられました。ですので病気を治され、御言葉を聞かせてくださいました。そして、5つのパンと2匹の魚をもって大勢の人々を食べさせてくださいました。イエス様はパンだけを下さったのではなく、まず治してくださり、御言葉を聞かせてくださり、最後にパンをくださったのです。弱い者を慰められ、御言葉を教えられ、その次に食べ物を与えられたのです。イエスは人間の欲望のために、満足感のために、奇跡を起こされたわけではありません。イエス様は神の慰めと、教えの結果として食べ物を与えられたのです。ヘロデ王が自分のパンを得るために他者に害を及ぼし、痛みを与えたとは違って、イエス様は、他者に仕え、癒しと慰めを与えるために、ご自分のパンを分けてくださったのです。 イエス・キリストは、いつもご自分の権力と富と名誉よりは、人々の痛みと苦しみと悲しみに眼差しを注がれました。そして、ご自分の愛と御心が、この世で成し遂げられることを望まれました。主イエスはそのような主の御心が、主を信じる者たちに共有されることを望んでおられたのです。ですので、主は弟子たちに『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』と命じられました。弟子たちは、力が足りなくて、子供の5つのパンと2匹の魚を借りて主イエスに差し上げることしか出来ませんでしたが、主はその弟子たちの小さな努力を受け入れられました。その日、主イエスは男だけでも、5000人にもなる多くの人々を満足させるほど、豊かな食べ物を施されました。王としての権力のために、罪のない人を殺したヘロデとは違って、民のためにパンを分かち合った主は、まるでマナと鶉を通して、イスラエルを食べさせてくださった神様を象徴するように、民を助け、生かしてくださいました。 3.我々は、どっちのパンを選んで生きていくべきか? 人間は常に二つの心を抱いて生きていくと思います。自分の欲望を追いかける心、他者への愛を追い求める心。この二つの心が一塊になり、ある時は善を行なったり、ある時は悪を行なったりする時もあります。神様は今日も私たちの目の前に、二つのパンを置かれ、我々がどっちのパンを選ぶか見ておられると思います。私たちが選ぶべきパンは、ヘロデが願っていたパンでしょうか?それとも、イエス様が分けてくださったパンでしょうか?今、私達、皆が追い求めているパンは、どっちの方でしょうか? ヨハネによる福音書ではイエス・キリストを従っていた、弟子たちと群衆が登場します。イエスは飢えた群衆に食べさせるパンのために弟子たちを試み、彼らがどのように群衆を助けるかを見詰められました。弟子たちは、お金では済まない問題だと考えて、弱気になりましたが、それでも5つのパンと2匹の魚を持ってきて、主に差し上げました。彼らの力は弱かったのですけれども、彼らは信仰を持って、主イエスに行きました。そして、イエス様はその信仰に呼応して、多くの群衆を食べさせました。弟子たちは、自分の欲望を満たすパンより、イエス・キリストの御心を成し遂げるパンを求めたのです。そして、そのパンを喜んで主に捧げました。私たちが持っているひとかけらのパン、小さな力、小さな財力、小さな名誉を用いても、イエス様を信じ、彼の御言葉に聞き従うならば、私たちを通して神様の偉大な御業が表されると信じます。 今日の本文の群衆は弱くて病んでいる群れでした。自分たちが食べるパンさえも、用意できない貧しい群れでした。彼らにはパンが必要でした。そこで、イエス様は、かれらを哀れみ、喜んでお助けになりました。しかし、満腹した群衆は、イエスの御心に気付かず、続いて、食べ物を与える王としてイエス・キリストを無理やりに自分らの王にしようとしました。『人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。』(ヨハネ6:14-15)主は貧しい人を愛しておられますが、貧しい人だからと言って、皆が神の御心を知ることは出来ません。彼らは貧しさの中、急におなかが満たされたあまり、主の本当の御心を理解できませんでした。主のパンを食べた彼らは、自分の所に帰って行き、主がいかに自分らを助けてくださったのかを宣べ伝え、彼らも他者のためにパンのような存在として生きて行くべきだったのです。ですが、彼らは、ただパンだけに満足して、自分の在り方は何かについて、悟れませんでした。主はそのような彼らから離れ、退かれました。 王か?パンか? イエス・キリストは王です。ヘロデのように自分のことだけを考える王ではなく、民を愛しておられる王です。イエス・キリストはパンです。ご自分の権力、富、名誉だけのためにパンを求める王ではなく、自らパンになられ、人々に愛と慰めのパンを与えてくださる生命のパンであります。このイエスを信じる人は、ヘロデの道のりではなく、イエスの道のりを歩むべきでしょう。自分だけのためにパンを持とうとする人は、王になろうとする人です。このように生きていく人は、自分の真の王であるイエス・キリストを見違えるようになってしまいます。つまり、主の御言葉の教えを悟ることが出来ないようになってしまいます。群衆がパンだけに満足し、イエスを無理やり王にしようとしたのは、イエスが本当の王であると思ったわけではありません。イエスを通して、自分たちのパン、隠れていた欲望を満たすことが出来るということを悟ったからです。これは王になろうとする、ヘロデのような人間の欲望と、非常に似ている本能です。 主の御言葉に聞き従い、自分のパンを分かち合おうとする人は、自ら、イエスに従い、パンになろうする人です。彼らは真の王であるイエスを認め、そのイエスのように自分自身を犠牲にして、他者を生かす者、つまり、主イエスの御手に用いられるパンになることが出来ます。イエスは、この小さなパンを用いて、自分の御心を成し遂げられ、多くの人々に命を施してくださいます。 「私」という小さな存在が、ひとかけらのパンになり、主の御手によって用いられる時、私たちは隣人に希望と喜びを与える者になるでしょう。そして、隣人と分け合うパンと共に伝わる主の御言葉は、真の魂の糧となり、隣人を福音と救いの道に招くでしょう。今日も私たちは、王になろうとするヘロデの道と命のパンになろうとするキリストの道の分かれ道で生きています。私たちは、いくつかの道を行くのですか?5匹の魚の奇跡を読むとき、私たちは果たして、どっちの道に赴くべきでしょうか?王か?パンか?主に喜ばれる道を選ぶ賢い民として、この1週間を過ごしたいと思います。主の豊かな愛と恵みが皆さんとご家族の上にありますように。