今日、主の救いを見なさい。
今日、主の救いを見なさい。 出エジプト記 14章13-14節(旧116頁) コリントの信徒への手紙一1章24-31節(新300頁) 前置き、日本の非主流-キリスト教。 日本でキリスト教は徹底的な非主流です。日本にカトリック教会が入って来てから約500年、プロテスタント教会が入って来てから150年が経ちましたが、日本のキリスト教は、まだ1パーセントの壁を越えていません。なぜ、キリスト教は日本で目立つような成長が出来ないのでしょうか?多くのキリスト教の学者によると、様々な理由の中でも、特に神道のような日本の固有の宗教観の影響があるそうです。明治維新以降、日本は神道が基となる天皇制を中心として国を作ってきたそうです。そのため、多くの人々が、天皇制は非常に昔からあり、それを守ることが、日本の伝統だと思っているようです。しかし、日本キリスト教団の松谷好明牧師は、現代の形のような天皇制は明治以降生まれたと、自分の著書を通して明らかに語っています。江戸時代の天皇制の形は、今とはかなり異なり、日本人の精神世界の根幹までにはなっていなかったということです。江戸時代には神道より、仏教の影響力が強かったそうです。 明治維新を通して欧米の文物を取り入れた明治政府の指導者たちは、ヨーロッパの諸帝国の基となる精神が何なのかについて研究することになりました。彼らはヨーロッパの帝国の精神は、まさにキリスト教であることを悟るようになりました。そういうわけで、最初はキリスト教を日本に持って来ようとしました。『歴史にもしもはない。』という話がありますが、ひょっとしたらキリスト教が日本の国教になったかもしれません。しかし、最終的には日本とキリスト教は、あまりにも異質であることを悟るようになりました。彼らは欧米帝国にキリスト教があるように、日本にもそのような精神世界が必要だと思いました。結局、日本ではキリスト教の位置に神道を置き、それを中心として国を導きました。その時から、日本のキリスト教は、引き続き非主流の位置となりました。神道がある限り、日本のキリスト教は常に非主流としてあると思います。それかといって神道や天皇制を取り除こうするのではありません。いや、無くすことは全く出来ないでしょう。ただ私達は私達が非主流ということを認め、非主流が持っている長所を活かし、信仰を守る知恵を持って生きるべきでしょう。 1.大きく派手なもの、主流とは良いものだろうか? 今日、神道とキリスト教の話をした理由は、対抗しようという意味ではありません。ただ私たち、キリスト者はこの日本という国では、大きな勢力を持ちにくいということを話すためです。私は多くの日本の方々に、このような話を聞きました。 「神道というのは、日本人にとっては、まるで空気のようなものだ。日本人のDNAには、神道という精神が潜んでいる。」おそらく、日本人と神道は切っても切れない関係であるという意味でしょう。神道、天皇制は現代日本を成す非常に基本的な文化であり、精神的な基です。即ち神道と天皇制は、日本の主流文化です。イエス様が生きておられた頃、地中海を掌握したヘレニズムという主流の文化がありました。このヘレニズム文化は、地中海地域に住む人々の精神を支える強力な文化でした。ほぼ 全ての人がギリシャ語を上手く操ったり、ギリシャの文化が背景として敷かれたりしていました。ユダヤ人たちも、その文化の中で自由ではありませんでした。どこの国にでも、その国が成り立つ文化があり、精神があります。そのような文化を除いて国を説明することは難しいと思います。しかし、イエス様は、その中でも、福音を宣べ伝え、善を行い、神の国の到来を告げられました。ヘレニズムという文化、ローマ帝国という政治、ユダヤ人という伝統の中でも、イエス様は神の御言葉を教えられました。イエス様はヘレニズムを無くされませんでした。ユダヤ教も、そのまま置かれました。ただし、イエス様は御自分の御業をなさいました。 イエス様は非主流から始められました。しかし、非主流といって何も出来ないわけではありませんでした。非主流のイエス様から生まれた教えは、非主流にも拘わらず、輝いたのです。そして彼を信じた人たちは少ない人数であっても、神への愛と隣人への愛という主イエスの精神を受け継ぎ、自分の信仰を守り、世界の塩と光になるための人生を生きていきました。世の人々は、大きなもの、つまり主流が好きです。 20世紀の欧米列強は自国を成長させるために多くの国々を植民地としました。イギリスは大英帝国という名の他に「太陽の沈まない国」と呼ばれました。日本も大日本帝国という名で沖縄、朝鮮、台湾を始め、満州、中国、東南アジア、サハリンに国の広さを広げていきました。 20世紀は、広々として大きいものが善であり、強いのが善でありました。だから、20世紀に生まれ育ってきた人たちの精神界には「大きいのが良い。」という思想が隠れています。近い韓国を例として話したいと思います。就活中の若者たちは財閥を好みます。中小企業ではなく、大企業が好きで、小さな会社よりは、国家機関が好きです。教会も同じです。ソウルの汝矣島という地域には、70万人も登録されている教会もあります。人々は、そのような大きな教会を探していこうとします。そのため、小さな教会は疎外される場合もあります。しかし、果たして大きいことが本当にいいのでしょうか? 2.神は非主流を愛しておられます。 神様が、ご自分の民イスラエルを召された理由について、聖書はこう話しています。 『主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。』(申命記7:7)イスラエルの先祖アブラハムはカルデアのウル生まれの人でした。現代のイラク人の先祖とも言えます。彼は神像を作る職人であり、おそらく偶像を崇拝する者だったと考えられます。ところが、彼は神様に選ばれました。そして、遠く旅立つことになりました。彼はその頃、他の地域の王や皇帝たちに比べれば、あまりにも見窄らしい者でした。跡継ぎの息子もいませんでした。神の命令に聞き従い、カナンの地に辿り着いても、ちゃんとした領土もありませんでしたし、勢力も弱かったのです。しかし、彼には神様への堅い信仰がありました。神様は偉大な神、造り主、主ですので、すべてを成し遂げることができるという信頼を持っていました。彼は最も小さな者でしたが、最も大きな神様を信じたのです。それによって、アブラハムは神様に認められ、イスラエルという民族の祖先となったのです。 しかし、後には、このアブラハムの子孫であるイスラエルでさえ、エジプトと呼ばれる大きな帝国の奴隷として生きることになりました。当時のエジプトは地中海南東を支配する非常に強力な国でした。まるで、今の米国のような巨大国家でした。小さな者アブラハムの子孫、イスラエルも弱い民族でしたので、巨大国エジプトの権力に踏みにじられ、惨めに生きることになりました。しかし、神様は、イスラエルの小ささと弱さを用いられ、神様の御業を成し遂げようとされました。そのため、イスラエルの救いのために一晩でエジプトを滅ぼされました。神様は非主流であるイスラエルを通して、神の国を立てられ、イスラエルを介して、周辺国に神様の栄光と偉大さを伝えることを望まれました。もちろん、残念ながら、イスラエルの歴史は失敗してしまいましたが、神様は、この失敗したイスラエルで生まれたイエス・キリストを、領土と権力を超えて、真の王、最後の日には、全世界を裁かれる王として立てられました。イスラエルは失敗したように見えましたが、神様はこのイスラエルで生まれたイエス・キリストを通して、既に勝利を勝ち取られたのです。 神様は非主流を愛しておられます。 『そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。』(マタイ18:14)『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)神様は、非主流の弱さを強さに変えてくださり、その弱さを通して働くことを喜ばれます。神様の御子イエス・キリストが飼い葉桶で生まれたことをお考え頂きたいと思います。全能の神であるイエス・キリストが人間として肉体を持って来られたのをお考え頂きたいと思います。塵のような人間に限りのない愛を施される神様の愛をもお考え頂きたいと思います。小さくても、神様は決して、私達教会を諦められません。150年の間に1%の壁を越えられない現実に無力感を感じるキリスト者がいるかもしれません。日本の教会は小さな群れだ、決して大きくはなれないと思う人がいるかもしれません。しかし、我々は悟らなければなりません。大きいのが良いものではありません。大きいのが正しいものでもありません。主流が良いものだとは言えません。唯一私たちに必要なのは、神様が変わらず私たちを愛しておられるという信仰であり、ひたすらに私たちが信じるべきことは、非主流である存在を取られ、主流よりも大切に用いられる神様の力です。 3.神様は非主流を通して、働かれる方である。 アブラハムは、偶像を作って生活する平凡な、カルテデア人でした。モーセはエジプトから追い出されたイスラエルの奴隷の息子でした。ルツはモアブから来た異邦人の寡婦でした。ダビデは8人兄弟の末っ子なので、父に認められない少年でした。イエスは、大工の息子でした。弟子たちは田舎の漁師でした。しかし、神様は彼らを用いられ、当たり前ではないことを、当然に成し遂げられました。『その日、主はエルサレムの住民のために盾となられる。その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのようになり、ダビデの家は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使いのようになる。』(ゼカリヤ12:8)弱い者を特別に用いられる神様は、弱い者を通して歴史を導いて行かれました。神様において、ただ大きくて強いものには何の意味もありません。ある科学雑誌を見ると、これまで見つかった最大の星の大きさが、太陽の1300倍だそうです。ちなみに太陽は地球の109倍です。その大きな星すら、神様に創られたと言えば、果たして、この地上の誰が神様に、『私は強い存在である。』『私は偉大な存在である。』と言うことが出来るのでしょうか?ここに相応しい(ふさわしい)言葉があります。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(ペテロ一1:24-25) 神様は誰よりも強い方ですので、強い者を必要としておられません。ただ、神様は、いくら弱い存在であっても、神様を信頼する者を喜ばれます。そして、神様を信頼する者のために喜んで彼らの道を導かれる方です。神様は今日も私たちのために戦ってくださいます。私たちが神の福音に従い、神の善を行い、イエス・キリストを救い主として信じて、愛するとき、神様は私たちのために戦われ、勝利を勝ち取ってくださるのです。私たちの戦いは、力を伸ばし、教勢が強くなる戦いではありません。私たちの戦いは、神道や仏教への戦いでもありません。私たちの戦いは、愛のない世に愛を与える戦いであり、神様を知らない世に神様の御業を宣べ伝える戦いです。私たちは非主流です。しかし、私たちの敵は主流ではありません。私たちが戦わなければならない相手は、非主流であるから、諦めなさいとする邪悪な悪魔の声に対する戦いであります。私たちは弱いですが、強力な神様は、私たちの数に構いなく、私たちのために一緒に戦ってくださるのです。愛と奉仕と伝道を通して数は少ないですけれども、神様に用いられる私たちになることを願います。 締め括り 今日、我らのために戦って下さる主の救いをご覧なさい。 目の前には、巨大な紅海があります。民の手には剣も、盾も、何もありません。素早い兵車もありません。しかし、背後には、エジプトの強力な軍隊が追って来ています。すぐに殺されるかもしれません。人々は恐怖に包まれて悲鳴を上げています。阿鼻叫喚です。しかし、神様を信頼していたモーセは、民に大胆に宣言します。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。』(出エジプト14:13)神様は弱い者を愛し、助けることを喜ばれます。しかし、その弱い者は、信仰が無くてはなりません。志免教会は小さいです。それでも私たちは福音を伝えることが出来、近所の人々に仕えることが出来、信仰を持って神様を礼拝することが出来ます。結果は、神様に委ねて、私たちは、私たちの信仰と奉仕に力を尽くすべきでしょう。小さい者たちを喜んで用いられる神様を信じます。神様の救いが、私達、志免教会によって、この福岡に広げられることを望みます。