祈るときには。金泰仁 伝道師(小倉教会)

ルカによる福音書11章1-10節(新127頁) 弟子たちの求めに応えて主イエスが、具体的な祈りの言葉でとして「主の祈り」を教えて下いました。祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主が、それを補足するように5節に、「また、弟子たちに言われた」と記されています。口語訳では、「そして彼らに言われた」と訳されています。原文には「弟子たち」という言葉はなく、「彼ら」と言う言葉が用いられています。ここに記されている、「彼ら」とは、1節に弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言う願いに、主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」と言われて、主が祈りを教えて下さいました。ですから「彼ら」とは弟子たちのことであり、内容的には「弟子たちに言われた」と訳しても間違いではありません。 「弟子たちに言われた」という訳では、主イエスが弟子たちに新たな教えを語り始められた、ということになります。しかし原文は「彼ら」と言っているのであって、4節までの主イエスのみ言葉を聞いた、その彼らに対してさらにこのことが語られているのです。5節の冒頭にある接続詞を(英語で言えばandに当る言葉)は「また」、「そして」、「すると」、「ところが」など様々に訳せる言葉です。その違いは、この接続詞が前の文と後の文をどのように結びつけているのかによります。「また」と訳すと、それまで語られてきたことの並列的な別の内容であることを意識させます。「そして」と訳すと、さらに話が続き、発展していくことを意識させます。ですから、5節では、「そして」の方が相応しいと思います。「彼ら」という言葉から、それまでと別の新しい話を始めているのではなくて、その前の話の続きなのです。「また、弟子たちに言われた」は、文法的には間違っていませんが、語られていることを正しく理解することを妨げています。「そして彼らに言われた」事らの方が本来の意味を表している訳だと私は思います。細かいところですがとても大切なところです。 主イエスはここで一つのたとえ話を語られました。真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、というたとえです。別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったから、そのように真夜中に友達にパンを求めたのです。当時の社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができました。またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなしていたのです。なぜなら、当時の旅行は、危険な荒れ地を命がけで通らなくてはなりません。荒れ野では、水や食料を補給することは容易ではありません。空腹や渇きによって行き倒れてしまう人も多くいました。客人をもてなすとは、歓迎してごちそうを振る舞うのではなく、飢え、渇いている旅人の命を助けるという意味であり、旅人をもてなさず、受け入れなければ、その人は死ぬことになります。つまり、間接的な殺人になるのです。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことです。 7節「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。と記されています。真夜中に、客人をもてなすパンの無い人が、近くの家に助けを求めたときの、友人のあきらかに迷惑そうな対応が記されています。8節に、「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。と記されています。主イエスがこのたとえによって語ろうとしておられることの中心がここにあります。確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ、と主イエスは言っておられるのです。主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という教えをお語りになったのです。 これは、祈りについての教えです。主イエスは、祈ることを教え、祈りの言葉を教えると共に、祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えて下さったのです。私はここに、いくつかの疑問を覚えます。一つには、真夜中に友人の家にパンを借りにいくこの話が、祈りについてのたとえであるとするなら、この友人が神様のことだということになります。そうであるならば、神様が私たちの祈りに応えて下さり、祈りを聞いて下さるのは、「しつように頼めば」、私たちが神様の迷惑を顧みずにしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、仕方なく聞いて下さるということなのか、という疑問です。 さらにもう一つの疑問は、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。 ここに、祈り求めればそれは必ず与えられ事が示されています。しかし、祈り求めてもかなえられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しています。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多く有るのです。11-12節に、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。と記されています。親は、魚を欲しがる子供に蛇を与え、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしません。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいません。13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」とあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」とは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間でも、ということです。  私たちは、神様をないがしろにし、隣人を愛することできない罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供は愛し、良い物を与えます。主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を見つめさせることを通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神様の愛を見させようとしておられるのです。7節の友人の姿は、神様ではなくて、私たち罪ある人間の姿を表しています。私たちは、友人だからという純粋な愛によってでは無く、しつこく言ってきてうるさいく迷惑だからと言う理由で、人のために動くような者です。それが、「悪い者である」私たちの姿とも言えます。しかし天の父は、様々な状況や動機によってではなく、喜んで、あなたがたに良い物を与えて下さる、主イエスはそのように語っておられるのです。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神様が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。これは、求めれば得られることになっている、とう法則を示すものでは無く、天の父である神様が私たちに対してどのようなみ心を持っておられるのか、どれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを示しているのです。 13節に、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と記されています。マタイでは、「求める者に良い物をくださる」と記されています。天の父なる神様が私たちの祈りに答えて与えて下さる良い物とは聖霊であるのです。ローマ書8:14-15に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。と記されています。 聖霊は私たちを「神の子」として下さるのです。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけて祈る者とされるのです。聖霊は、私たちを救い主イエス・キリストと結びつけ、それによって私たちをも神の子とし、神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈る者として下さるのです。天の父が求める者に与えてくださるのはこの聖霊です。聖霊を与えることによって神様は私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。このことこそ、神様が私たちに与えて下さる「良い物」です。二つ目として、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるのだろうか、という疑問です。私たちは祈り求めるものは何でもその通りに適えられる、と理解します。そんなことはありません。このみ言葉は、神様は父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという約束を語っているのです。私たちは、子の求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりのままに与える、ということではありません。 子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。そのような関係なしにこの言葉を読むと、神様を人間の欲望を何でも適える便利な物、内出の小槌と見なしてしまうことになるのです。主イエスは1-13節を通して祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、神様の子とされて生きる恵みを味わいます。 その恵みの中で私たちは、神様のみ名こそが崇められることを求める者となります。神様のご支配の完成、御国の到来を求めこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。神様に対して罪を犯し、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと願いつつ歩むものとなります。神様はこの私たちの祈りを天の父として聞き、私たちに本当に必要なものを与えて下さいます。 私たちに本当に必要なものは、神様との父と子としての関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされます。つまり、主の祈りを心から祈る者とされるのです。主の祈りは祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。この祈りを祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。8節の「しつように頼めば」という言葉は、「恥を知らないことによって」とも訳せます。神様は、私たちが、恥知らずなぐらいに祈ること

祈りを教えてください。

歴代誌下7章14節(旧679頁) マタイによる福音書6章5-8節(新9頁)  祈りを教えてください。 前置き 祈る人の例え話し。 ディートリッヒ・ボンヘッファーは、ドイツの有名な神学者です。彼はナチスが支配していた、ドイツ教会のルーテル教会の牧師でした。 21歳で神学博士になるほどの素晴らしい人材でした。このボンヘッファー牧師は、いくらでも楽な道を選ぶことが出来る人でした。第2次世界大戦の当時、アメリカの市民権を得て、帰化することも出来る状況でした。しかし、彼は神の御前で正しい道を行くべきだと思いました。ですので、彼はナチスドイツに戻って行くことを選んだのです。当時、ドイツはナチスによって暴力の道を歩んで行きました。数多くの命を虐殺しました。また、殆どのドイツ教会がナチスの下にありました。その時、ボンヘッファーはこう思いました。 『気違いの運転手がバスを運転している時、牧師は車に轢かれて死んでいく人を葬ることだけに満足すべきだろうか?それとも、その運転者を引き下ろすべきだろうか。』そして、彼はヒトラーの失脚のために、ある作戦に協力します。しかし、作戦は失敗してしまい、ボンヘッファーは逮捕され、2年後、刑場の露と消えました。 このボンヘッファーは夜明けごとに神様に祈ったそうです。祈りを通して、どっちが正しい道なのか、いつも悩んで生きたそうです。なので、今も彼を尊敬する人が非常に多いそうです。私も尊敬せざるを得ません。そんな彼が祈りについて、このような話を残したと言われます。 『私たちが虚しく費やした時間、堪えられなかった誘惑、弱さと落胆の中で生きること。私たちの生活の中で示される放縦は、多くの場合、朝の祈りを疎かにすることにあるかも知れない。』自分の安泰と出世よりも、どの道が正義の道なのか、悩み、自ら厳しい道を選び、結局、殉教して人生を終えたボンヘッファーは、祈ることにより、自分自身を叱咤しながら生き続けました。そして、その祈りの生のために殉教して生を終わります。祈りというのは願いを叶えるための打ち出の小槌ではありません。祈りとは、神様と信徒の連結の輪です。時には命をかけて守るべき、神の真理の追求です。私たちの祈りはどうでしょうか?今の私たちの祈りが、果たして神様に喜ばれる祈りなのかどうか、考えて見るべきだと思います。 1.我々の祈りは、イエス・キリストを通して、天に上げられます。 「あなたは天からその祈りと願いに耳を傾け、彼らを助けてください。(歴代誌下6:35)」ソロモン王はエルサレムに神殿を建て、民を代表して祈りました。歴代誌下6章を読むと、ソロモンの祈りを読むことが出来ます。今週は、歴代誌下6章と7章を丁寧に読んでいただくことをお勧めします。神殿を完成したソロモン王は、神殿を眺めながら、その神殿で祈る時、神様がご自分の民を哀れんで、助けられ、最後まで導いてくださることを願いました。ソロモン王はイスラエルの神様だけがイスラエルの主であり、助けてくださる全能者だと認めて祈りました。すると、神様はその夜にソロモン王に現れ、今日の旧約本文に記されているように言われたのです。 『もし、私の名をもって呼ばれている私の民が、跪いて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。』(歴代誌下7:14) 神様はソロモン王が捧げた神殿をご自分の民の祈りを聞かれる場所、特別な場所にされました。 「今後この所で捧げられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。 今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでも留める。私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16)、イスラエルの神殿は、特別な所です。実際、神殿という概念は、出エジプト記の時代にもありました。その時は、幕屋と呼ばれる小さな一時的な建物でしたが、そこには、神がじかに刻んでくださった十戒の石板が入った契約の箱を置いた聖なる場所でした。契約の箱は神の足台とよばれましたが、これは神様がこの地上に直接、関わっておられるということを意味します。人間の罪のゆえに、神様との関係が切れたこの世の中に、神様は積極的に関わられ、特に神様が選ばれた民と一緒におられることを意味する、神の臨在を象徴する建物でした。ところで、ソロモン王は、その幕屋を更に大きくアップグレードして、そこから神様が「神の名をもって呼ばれている神の民」と共におられることを望まれたということです。ですが、これは、単にイスラエルの民だけに限られることではありません。周りの他の民族が神殿に来て、神の御前にひれ伏し、主を認めて、へりくだって祈る時、彼らの祈りも聞かれ、癒してくださり、あの神殿を救いの象徴とされるという意味です。神様はこのように旧約時代から神殿を通して、主の民と、また主に戻ってくる異邦人たちを問わず、共におられる方でした。 神殿で祈るとき、神様は祈る者を助けてくださり、癒してくださると仰いました。それでは、この神殿というものが持っている意味を、現代のキリスト者は、どのように理解すべきでしょうか?私は前に他の説教を通して、旧約聖書に記されている神殿が新約のイエス・キリストを意味する重要な象徴であると強調しました。これは新約聖書からも知ることが出来ます。 『イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。』(ヨハネ2:19-21)旧約聖書の神殿は、神様がご自分の民に会ってくださる所でした。神様の民も、神様を認める異邦人も、この神殿に来て、神の御前で祈ることが出来たのです。もちろん、イエス・キリストは、建物ではありません。しかし、象徴的に見ると、イエス様を通して、私たちの祈りが神様に届きます。神殿は祈りの家でした。祈りを通して神様に会う所でした。そして、私たちが生きている今、現代は、神様が神殿だと認められたイエス・キリストを通して祈ることが出来るようになりました。私たちが祈りを終える時、いつも「主イエス・キリストの御名によって祈ります。」と唱えることには、このような意味が隠れているのです。昔の神の民は、神殿で祈りました。つまり、私たちはイエス・キリストの御名によって祈るべきです。別の名を介しては、私たちの祈りが父なる神様に至ることが出来ません。神様が「私の名をもって呼ばれている私の民」と言われた部分を思い起こして頂きたいと思います。私たちが神様が許された、その名前、イエス・キリストの名によって祈るとき、私たちの祈りは、神殿で捧げられた神の民の祈りとなるのです。 2.私たちの祈りは、神の御心に自分の心を合わせる調律です。 今日の新約本文は、イエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えてくださる前に言われた言葉です。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:6)イエス様の時代には、ラビや宗教指導者が広い街や、神殿の庭で他者に目立つように大声で祈る場合があったと言われます。そのような祈りを通して、「私はこんなに素敵な祈りをする。律法についてよく知らない、君たちより、私ははるかに義人である。私は君たちとは違う。」ということを見せて、自分の義を誇るためでした。しかし、イエス様はむしろ、小部屋に入って、ひそかに神様に祈ることを命じられました。祈りは他者に見せるために、あるいは自分自身の欲望を満たすためにすることではありません。 旧約時代、神殿では祭司が1日3回の祈りをささげたそうです。これは、ある種の目に見えない生け贄でした。まるで犠牲の獣を屠って、神様に祭事として捧げることのように、この祈りを通して、自分自身を神様に捧げたということです。獣を屠り、その血を祭壇に振り掛け、神様に生け贄を捧げることのように、祈りを通して自分の欲望、悪、罪を徹底的に棄てて、自分は神に捧げ、神様に相応しい新しい者として生きていくことを切に願うという行為でした。このような意味としての祈りは、むしろ義を誇るのではなく、自分の不正なことを神様に告げる行為であり、悔い改めの行為でした。ところが、当時のラビや宗教家が人々の前で自分の義を誇るというのは、祈りの精神を非常に損なう行為でした。イエス様は、そのような祈りは、間違っているものであり、正しくない行いであることを教えてくださったのです。 皆さん、祈りは調律です。演奏者は、演奏の前に基準音に合わせて調律をします。オーケストラの公演に行くと、公演を始める前に、オーボエ奏者が『ラ音』を出すそうです。この音に合わせて全ての楽器は調律します。これが基準音です。祈りは、神の基準音、すなわち、神の御心に、信徒が自分の基準を合わせる行為です。祈りを通して神様の御心を基準音として認め、それに従って生きていくということです。ですので、私たちは、調律の祈りをするべきです。自分自身の欲望と罪を神の御前で抑え切って、神の御心に沿って行くことを求める行為です。だから、自分の願いを叶えようとする意図だけでは、完全な祈りを捧げることは出来ません。もちろん、私たちは、経済、子供、健康、人間関係のために祈る必要があると思います。しかし、その祈りは私たちの弱さを告白する祈りとなる必要があります。自分が金持ちになり、権力者になって、欲を満たす祈りではなく、自分の祈りを通して、経済、子供、健康、人間関係への自分の弱さを告白するということです。叶えてくださるにせよ、拒まれるにせよ、神様に自分の事情を打ち明けることが大事だということです。そして、神様が与えられるお答えに応じて、願いが叶っても感謝し、叶わなくても感謝することが重要です。そして、そのような祈りの中で最も重要なことは、神様の御心が何かを悟り、それに自分の心を共に重ねていくことです。イエス様はこのような調律としての祈りを強調されたのです。 3.主に寄り掛かって祈りましょう。 皆さん、神様はイエス・キリストを現代の神殿にされました。私たちが主に頼って祈る時、その祈りを聞いてくださいます。皆さん、この教会堂は神殿ではありません。ただ建物に過ぎないのです。もし、この教会堂がなくても、我々は公園に集まって、礼拝することが出来ます。誰かの家に集まって祈ることも出来ます。会堂がなくても礼拝も、祈りも可能です。しかし、神様が私たちに与えられた真の神殿であるイエス・キリストがなければ、私たちの祈りは、一かけらも御父に届くことが出来ないのです。皆さん、また祈りは神の御心に自分の心を合わせる調律です。神が臨んでおられることを自分の基準にして、その基準に自分を合わせることです。その基準に合わせて、神様は私達の願いを叶えてくださったり、拒んだりするのです。しかし、その神様の御心に従って、叶っても感謝、叶わなくても感謝する成熟した信仰を持っている私たちになりますように心から願います。 皆さんの祈りましょう。イエス・キリストに頼って祈りましょう。そして、その祈りを自分の欲望と必要だけのためにせず、神様の御心が何なのか?自分がどのように神の御心を悟って行くべきだろうかについて祈りましょう。 『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』(マタイ6:8)神は、すでに私たちに何が必要なのかがご存じです。神の御心に合わせて、私たちに必要な祈りを聞かれ、その願いを叶えてくださると信じます。しかし、時には、自分の思いが神様の御心に合わない場合、拒まれるかも知れません。でも絶望せず、神様の正しさを信じて従って行きましょう。神は、あなたを愛しておられます。神は、あなたが最も良い道に行くことを望んでおられます。私たちに良いものを与えてくださる神様を信じて、私たちは何を祈って行くべきかについて、毎日、へりくだり、主に伺って行きましょう。その時、神様は私たちに最も必要なものを喜んで答えてくださるのでしょう。 締め括り 今後の祈りを通して、私達の人生を通して、神様が許されたイエス・キリストの御名によって、神様に自分を捧げて、神の御心に自分を合わせて、へりくだって真実な祈りを捧げたいと思います。私もこのような祈りの生活で皆さんと一緒に祈って行きたいと思います。常に神様の御心に集中し、その御心を私達の基準として生きて行きましょう。真実な祈りを持って神様に喜ばれる志免教会になりますように祈ります。

頼もしい友達,主イエス・キリスト

詩編118編1-14節(旧957) ヨハネによる福音書15章13-15節(新199) 頼もしい友達、主イエス・キリスト 前置き あやふやな未来、誰が一緒に歩んでくれるか。 何日か前、夕方の散歩道で、羽化しているセミの幼虫に出会いました。近づいている私を見てちょこっと動きましたが、逃げられませんでした。まだ、胴と翼が生乾きだったためです。7年という長い間を真っ暗な地底で育った彼は、もうすぐ飛び上がるところだったのでしょう。もちろん、私は何もせず、『頑張れよ!』と言ってそこを立ち去りましたが、もし、私が獲物を探している鳥だったら、このセミは餌食になってしまったかも知れません。このセミは今日、ある一抱えもあるような木にとまって楽しく鳴いたんでしょうか?それとも、ある鳥のフンになって寂しく土に戻っていったんでしょうか?セミの最後の夏を応援したい気持ちになります。 長い時間、次の段階を準備してきた人が、最後の段階で思いがけず、ひどい目にあって躓いてしまう場合があります。さらに将来が見えないようになってしまうこともあります。人の人生は『一寸先は闇』という諺のように未来は、いつも不透明です。この一匹のセミのように弱い存在が、まさに人間ではないでしょうか。明日、私たちはどうなっているのでしょうか。天地の造り主、全能なる神様は今日もこのような弱い者を招いておられます。セミより、はるかに大事なあなたを神様は愛し、守る事を望んでおられます。未来がまったく見えないあなたへ、あなたの未来に向かって共に歩んで行こうと語られる神様を紹介します。彼はイエス・キリストの父なる神様であられます。 1.御父の御心。 今日の旧約聖書の本文である詩篇118篇はイスラエルの民が強大な国に征服され、70年近くの非常に苦しい時代を経た後、解き放され、再びイスラエルに戻って来て、神様に捧げる礼拝のために作成した詩です。大国の捕囚になったイスラエルが、故郷に帰って来て、非常に長く悲しい記憶を後にし、最後まで民を見守り、再び礼拝できるように助けてくださった神様に感謝と愛を告白する詩です。昔、イスラエルを征服し、イスラエルの民を捕囚として連行した国、バビロンは、イスラエルの力では絶対に勝つことができない強力な国でした。その国が自滅しない限り、100年も1000年も続く強力な国であったのです。しかし、聖書では、神様が、ペルシャのキュロス皇帝を立てられ、バビロンを滅ぼされたと記されています。そのキュロス皇帝はバビロンの征服後、バビロンとは違う方法で異民族が固有の文化や宗教を守ることを許しました。これによって、イスラエルは帰還することになりました。国家イスラエルは滅びましたが、神様はイスラエル民族を捨てられず、将来の準備をなさったのです。今日の旧約聖書の本文は、そのような状況の中で神を賛美するために作られたものです。 この詩編を作成した人は、「主に感謝せよ。」と言っています。「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。」という言葉のように、神様がご自分の民を助けてくださったからです。また、詩編の著者は、「主は私の味方、私は誰を恐れよう。」と書き、神様がご自分に寄り掛かる者の味方になってくださるとも書きました。皆さん、私たちが信じている神様は、単に多くの神々の中の一人の神様ではありません。旧約聖書の創世記は、神様が天と地と万物を造られたと証言しています。イスラエルという民族が生まれる前から、いやこの世界が形を持つ前から神様はおられました。そして、この神様は、初めから終わりまで全てを治められ、愛と正義を通して、世を統治される全能なる御方です。そのような神様が直に(じかに)ご自分に頼る者のために味方になってくださると仰ったのです。この果ての無い広々とした宇宙で、ただ小さい一点のような地球の片隅にある志免町で、目に見えてもいないほどの小さな私たちのために偉大な神様が味方になってくださると仰ったという意味です。 創世記を読むと、神様が世界を造られ、この世界の中に人を立てられたと記されています。そして、この人と世界を御覧になり、極めて良かったと言われました。そのような神様の御心は時間と空間を越えて今もなお、有効です。造り主である神様は今もこの世界と人々を愛しておられます。そして、神様に寄り掛かる人々を積極的に探しておられます。私達の目に見えず、我々の耳に聞こえず、我らの手で触れることはできませんが、それでも心の目と耳とを通して私たちに訴えておられます。『私はお前の味方だ。私を信じなさい。私のところに来なさい。』今日、私が伝える、この説教が御父の切実な呼び掛けだと信じます。神様はあなたを愛しておられます。神様はあなたの味方になることを望んでおられます。皆があなたを棄てても、この神様のみはあなたのために最後まで待ってくださり、あなたを抱き締めてくださるのでしょう。今日も、あなたの味方になるために待っておられる神様を忘れない皆さんになりますように切に望みます。 2.罪のゆえに神様から離れてしまった人間。 しかし、一つ問題があります。人は自力では神様に至ることが出来ないということです。聖書には、このような言葉があります。『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。』(ローマ3:23)人は罪のゆえに、神様に至ることが出来ないということです。 「罪?私は何の罪も犯したことがないのに、なぜ罪を犯したと言うんだ?」と思っている方もいらっしゃるかも知れません。そうですね。私たちは、人を殺したこともなく、盗みなどの悪い行いをしたこともないかも知れません。しかし、聖書が語る罪というのは、単なる凶悪犯罪を示すことではありません。創世記には、人類を代表するアダムとエヴァが神様から離れた話が出てきます。神様は人とエデンの園の全ての木の実を与えてくださり、その代わりにたった一つのこと『善悪を知る知識の木の実を禁じる契約』を結ばれました。善悪の知識の実は、特別な力を持った物ではなく、神と人の契約の証拠品でした。しかし、人はそれに満足せず、神様が禁じられた知識の実を貪り、神様との契約を破ってしまいました。神様を無視し、自ら離れたのです。結局、これは神と人の断絶に繋がりました。聖書は、まさにこの神との断絶を罪と語っているのです。 聖書に記されている罪とは、まるで矢が的から外れることという意味です。実際に罪を意味するヘブライ語には、「外れること」という意味があります。弓を撃つ時、的の真ん中ではなくても、矢が的に当たることが大事です。外れると何のスコアも得ることが出来ません。罪というのはこれに似ています。矢を的に当てないことも罪であり、的に当てることが出来ないことも罪です。もし、殺人や強盗などの犯罪者が意志を持って犯した犯罪が矢が的から外れる罪であれば、人が神様から切れた関係にも関わらず満足し、不足を感じないことは、的に当てること自体をしない罪です。両方、結局、矢が的から外れることであるからです。神様を知らず、生きていく人は、的に矢を当てなかった罪、スコアが得られない罪となります。殆どの一般人は凶悪犯罪を犯したことが無いです。しかし、その一般人だと言っても神との関係が切れている場合、神様から見れば、これは大きな罪になるのです。神様の被造物、神様の子どもである人間が神様を見つけていないからです。自分の根本を無視するからです。 3.主イエスは我らの友。 このような神との断絶は、人間の罪となると共に、不幸となります。イエス・キリストは、このような断絶という罪から私たちを救われるために来られた方です。神様は人と美しい関係を結ぶことを望んでおられます。この関係を結ぶために、イエス様が来られたのです。『私は葡萄の木、あなた方はその枝である。人が私に繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』(ヨハネ15:5)イエス様は神様と断絶した人間の罪を赦し、再び父なる神様と人の関係を初めに戻すために自らを犠牲にした方です。主は人間の誤ちを元に戻し、神の怒りを静めるために十字架を背負い、死なれました。全く罪のない御子が人の罪のために貴い血潮を流されたのです。 このイエス様は、父なる神様によって復活され、主を信じる者に葡萄の木と枝のように密接な関係を結び、再び父なる神様と和解することが出来るように道を開いてくださいました。イエス様は生前、このように言われました。『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:13)イエス様は自ら言われました。 『私はあなた方の友人である。』 神様から離れ、罪人として生きなければならない人々に、イエス様は、ご自分の友達という言葉を通して、罪人が神様に戻ってくる道を作ってくださいました。そして、このイエス様を介して人々は父なる神様について知ることが出来ます。神様はイエス様を通して戻ってくる人々を単に捕虜や僕になさらず、イエス様の友達にしてくださいました。ですので、イエス様は、私たちを友人と呼ばれるのです。 「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 (ヨハネ1:12)」 また、神様は私たちをただ御子の友としてのみ思われることではなく、さらに神の子となる資格まで与えられました。イエス様は、私たちをご自分の友に召され、最終的に父なる神様の子供になる資格をくださいました。ですので、もう罪人ではなく、神様を父と呼ぶことが出来る子としてのアイデンティティも許してくださったのです。神様と断絶して生まれた人間が神の御子を友と呼び、自分も神の子となること。それ故に、もはや罪の恐怖に震えないようになること。それが主イエスによって人に与えられた福音であります。私たちの信頼すべき友人、イエス・キリストは今日もご自分の友として、神の子として、あなたを呼んでおられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)あなたの心の戸口の前で待っておられるイエス様のお声が皆さんの心の深いところまで伝わることが出来ますように祈ります。 結論 主イエスの友達。 最後に皆さんにある実話を話したいと思います。 1941年12月7日、旧日本の連合艦隊は、ハワイを空襲しました。まさに真珠湾攻撃です。その空襲の先頭には、淵田美津雄という軍人がいました。ハワイの上空に入っていった淵田は、米軍基地に爆撃を加えました。同時に彼の口から暗号が沸き起こりました。「トラ・トラ・トラ」 その日、日本海軍は、アメリカ海軍に大きな勝利を収めました。この真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まります。戦争の序盤、アメリカは日本にひどく敗れました。半年くらいの時間が経ち、参謀たちと戦略を練ったルーズベルト大統領は、日本本土攻撃を命令します。 B25という爆撃機16台に80人の特殊部隊を前面に出してドーリットル中佐の指揮下に日本に進撃します。その時、初めて東京をはじめ、横浜、名古屋、神戸等の大都市が空襲によって破壊されました。ところで、日本を空襲した特殊部隊員の中にジェイコブ・デシェーザーという人がいました。この時、空襲に参加したアメリカ軍の乗務員は殆ど中国に脱出して帰還しましたが、捕虜となった人も8人いました。その時、ジェイコブも捕虜となりました。 1942年6月5日、太平洋戦争の一番大きな戦いであったミッドウェイ海戦が起きた日、淵田美津雄は盲腸炎のため、戦闘に参加できず、やっと生き残って護送されました。病院で回復した彼は地上職に配属されます。しばらくして戦争は終わりました。退役後、上京した淵田は、ある日、渋谷駅前で、あるアメリカ人に出会うことになります。「私は4年間、日本軍の捕虜でした。」 まだ日本語が上手く話せなかったアメリカの伝道者。彼は日本本土を爆撃した特殊部隊の乗務員であったジェイコブ・デシェーザーでした。アメリカを攻撃した淵田と日本を攻撃したジェイコブが東京・渋谷のど真ん中で出会ったのです。『敵を愛しなさい』というイエス・キリストの言葉に感銘を受けたジェイコブは伝道のために渡日したわけです。その日、淵田はジェイコブから伝道パンフレットをもらいます。その後、淵田もパンフレットの主の御言葉に感動し、聖書を買って読んで神学をして、日本基督教団の牧師になりました。皇軍の士官がアメリカの宗教の手先になったと刃物を持って殺しに来た戦友は淵田に伝道され、長老となったと言われます。結局、戦争のせいで、互いに敵であった彼らはイエス・キリストを信じて、皆、伝道者、信仰者となりました。 互いに憎みあった敵がイエス・キリストに出会い、友達になりました。淵田もイエスの友、ジェイコブもイエスの友となりました。そして、彼らは長い間、信仰の友達として生きて行きました。イエス様がこの二人をご自分の友に召されたからです。人々は互いに憎みあい、対立しますが、イエス・キリストの中では、誰でも友達になることが出来ます。そして、誰でも神の子になることが出来ます。人は出来ませんが、神様はお出来になります。聖書は父なる神様が信じる人の味方でだと証言しました。イエス様が私たちの友だとも証言しました。そして、その約束は今もなお有効です。この全てが、私たちを救われるためにこの地上に来られた主イエス・キリストの恵みのお蔭です。皆さんにこの頼もしい友達を紹介したいと思います。誰よりも信頼できる、私を愛してくださる、私の友イエス様を紹介します。一緒に主イエスを信じ、愛し、神の国に入るまでに歩んで行きたいと思います。今日、志免教会に来られた皆さんに神とイエスと聖霊の豊かな恵みがありますように祈ります。