創世記9章18-29節(旧12頁)
ヨハネの黙示録1章4-6節(新452頁)
前置き
神の被造世界は、人間の罪のゆえに汚されました。神は創造を通して、神に礼拝する世界をお造りになりましたが、むしろ、被造物を神に導き、礼拝させるべき人間のために、世界は堕落してしまったのです。神は人間に自由な意志をくださり、自発的な礼拝を受けることを望んでおられましたが、人間は、むしろ自由な意志を用いて、神に逆らったのです。しかし、その後も、神は長い間、人間の悔い改めを待って来られました。しかし、結局、人間は変わらず、神に背く、罪にまみれた存在になる一方でした。神はそれに対する裁きとして、洪水を下されたのです。それでも、神はノアという正しい人のゆえに、裁きの後に新しい世界を許してくださいました。世界は裁かれましたが、正しい人ノアのゆえに新しく始まったのです。しかし、残念なことに世界は再び罪の道に進むようになってしまいました。正しい人ノアの家族から再び罪が生まれ、世界はまた、罪の蔓延るところになってしまいました。世の中が、新たに変わっても、罪は断ち切れられませんでした。今日は、このようなしつこい罪の性質を取り上げ、罪への警戒心を持つ時間になることを願います。
1.カナンの父、ハム。
ノアには3人の息子がいました。彼らはセム、ハム、ヤフェトでした。一部の学者たちは、それぞれ、「セムは東洋人、ハムはアフリカ人、ヤフェトはヨーロッパ人の祖先である」という主張をしましたが、現代では、全く根拠のない主張であると受けとめられています。このような主張が出てきた理由は、ハムが神の呪いを受けたため、ハムの子孫であるアフリカ人が、他の人種に支配を受けるものだという、植民地主義史観に立った聖書解釈のためではないかと思います。しかし、神はすべての人間を平等に愛しておられますので、このような解釈は、聖書全体の文脈とは、合致しません。それでも、今日の本文に、ハムは呪われたという言葉が登場するのは、紛れのない事実なのです。罪が消えた新世界で、なぜ、ハムは神の呪いを受けるようになったのでしょうか?ハムが呪いを受けるようになった理由は、後に登場する、イスラエル民族のカナンへの抵抗を予告する伏線としての意味を持つからです。なぜなら、ハムはカナンの父だったからです。創世記は、モーセ五書の最初の書で、モーセが神様に直接与えていただいた啓示として知られています。ある人は、モーセが直接記録したと、またある人は、モーセの言い伝えを、後世の人が、まとめて記録したと主張しています。いずれにせよ、創世記にモーセの影響が深く染み込んでいるということは明らかです。その意味は、つまり、誰が記録したにしても、創世記の内容自体は、モーセと同じ時代に生きていた人々のための、モーセの教えだった可能性が高いということです。
そういうわけで、私たちは、この創世記を単に礼拝のための経典であるという視点から考えるだけではなく、モーセの時代の人々が直面していた社会的な状況での行動規範としても、読む必要があります。当時、もうすぐカナンに入る状況、あるいは、カナンで生活していた状況で、カナン先住民の偶像崇拝と望ましくない宗教行為は、イスラエル人に良くない宗教性を及ぼす可能性がありました。神の御言葉は、邪悪な行為の禁止、神と隣人への愛のように、多少、守りにくい律法である反面、カナンの宗教は豊作のための宗教儀式として、男女の乱れた肉体関係を勧めるなど、神の御前で罪であることも、罪であると見なさない、快楽の宗教だったからです。おそらく、モーセは創世記を通して、そのようなカナン人の罪の性質が、その祖先であるハムに由来したものであるという警告を与え、彼らに同化せず、抵抗することを警告するために、カナンの祖先、ハムの罪を強調しようとしたのかもしれません。つまり、今日の言葉は、乳と蜜の流れるカナンの地で、カナン人と同化せず、むしろ抵抗して生きて行かなければならないイスラエルの民に、抵抗の正当性と使命感を促すための一種の説明書だと言えるでしょう。神に呪われたハムが持っていた罪の性質から抜け出し、そのハムの子孫であるカナンとは異なる区別された民族、すなわち、聖なる民族として生きていきなさいという、神の御命令だったということです。ハムが呪いを受けた理由については、このような視点から迫る必要があると思います。
2.ハムに残されている罪の性質。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって…わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。…これらを造ったことを後悔する。」(創世記6:5-7)創世記6章には、神が地上に洪水という裁きを下された理由が記されています。心に悪いことばかりを思い計る人間の姿を御覧になり、この世から罪を拭い去るために、人間と全ての被造物に裁きを下されたわけです。しかし、わたしたちは洪水の裁きの後も、依然として人間に罪が残っていることを、聖書を通して確かめることが出来、また、わたしたちの生活の中でも、そう感じます。なぜ、神が洪水でお裁きになり、新たな始まりを許されたにもかかわらず、世の中に、依然として罪と悪が残っているのでしょうか?それは、まさにノアの息子ハムから、再び罪が生まれたからです。 「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(創9:20-22)
神の祝福によって、ノアは農業を始めました。 「今、お前は呪われる者となった。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。」(創世記4:11-12)弟アベルを無惨に殺したカインの罪ために、神は地の呪いを下されましたが、洪水の裁きの後、再び世界を祝福し、新たなる機会を与えてくださいました。ノアはそのような神の加護の下で農業を始め、豊作になりました。おそらくノアは嬉しい気持ちで自分の作物で造ったぶどう酒を飲み、酔って裸になっていたかも知れません。聖書は、ノアが酒に酔ったことと、裸になっていたことについて、一切の肯定的な、あるいは否定的な評価もしていません。ノアが飲みすぎた部分については、私たちにも注意する必要があるでしょうが、今日の本文の主題は、ノアの飲みすぎとは、あまり関係がありません。それでも、あえて意味を与えようとすると、健康に生き、しくじらないためにも、過度の飲酒は控える必要があるということでしょう。それでは、この物語で本当に問題となる部分は何でしょうか?まさにハムがやってはいけないことを犯したということです。
(今日の本文は学者によって、色んな解釈があるため、参考にだけしていただきたいと思います。) 今日の本文の「ノアが…酔い…裸になっていた。」という言葉は、創世記3章に出てくる「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った。」での裸とは異なる表現を使っています。後者は文字通りに裸を意味する反面(エロム)、前者は正しくない淫らな行為と関係があるものです(むき出す・ガラ)。ノアが裸であったという言葉に用いられたヘブライ語の表現を、他の聖書で探してみると、レビ記で20回登場していますが、まさに「誰かを犯して、辱めてはならない」という表現で親族との肉体関係、すなわち近親相姦を禁止する命令で使われています。「ノアが裸になっていた。」という表現には、ノアが妻と肉体関係を持っていたとの意味をも含まれているそうです。ノアが彼の妻と関係するということは自然な行為で、神様に許された、言わば摂理なのです。また、夫婦関係は他人によって侵害されてはならない大切なものです。なのに、ハムは、酒に酔った親のしくじりを見逃さず、その行為を見てしまいました。ここで「見る」というヘブライ語は、創世記3章でエバが善悪の木の実を貪った時、「その木をみると」に使われた表現で、正しくない欲望を含む表現です。つまり、ハムは親の行為を自分の意志で淫らに見たということです。ここから、いくつかの他の解釈も発生します。父の恥部を嘲弄すること、あるいは、母との望ましくない関係を犯すこと等です。つまり、ハムの心に決して、やってはならない淫らな心があったということが、今日の本文の問題点なのです。
3.罪は断ち切れない。
ハムには、淫らな罪の性質がありました。これは、単に性的な放蕩だけを意味するものではありません。旧約では、偶像崇拝について、「淫らに不倫を犯すこと」とよく表現します。ハムが犯した親への悪どい心も、とんでもない大きい犯罪ですが、その淫らな心の中に、また神を離れて、自分の欲望を追求しようとする不穏な思想が隠れていることは、さらに大きな問題なのです。結局、目に見えるハムの罪は淫らな思いを持っていたことですが、目に見えない、さらに大きいハムの罪は偶像崇拝の種を持っていたということです。神が洪水の裁きを通して、新たにしてくださった世界で、正しい人と言われたノアの、その息子によって、再び罪の性質が芽生えはじめました。ハムはカインで象徴される当時の罪人の血統ではなかったのに、結局、正しい人の血統からも罪が生まれたわけです。ここで私たちは罪の性質というのが、人の血統や家柄を通して受け継がれるものではなく、当初から人そのものに潜んでいるということが分かります。このように罪は断ち切れず、しつこく残るものです。ですので、私たちは、イエス・キリストの救いに感謝するとともに、毎日、自分の生活を顧み、自分の中から湧き出る罪の性質を制御するために、絶えず自分のことを弁えるべきです。
先週一週間の自分の生活を省みてみましょう。私たちは、どのような罪を犯してきたのでしょう?砂利も、大岩も、本質は石です。サイズに関わらず、結局、水に沈むものです。罪も同じです。罪は大きさを問わず、それを持っている人を罪人にします。嘘吐きと人殺しへの社会的な非難は異なりますが、神の御前では同じ「罪」なのです。十戒で「殺してはならない。」という戒めに先立ち、「親を敬いなさい」という戒めがあることに注目してください。神の御前では殺人も罪になりますが、親を憎むことも罪になります。同様に、偽り、結婚関係以外の淫らな行為、盗み、隣人を憎むこと、すべてが神の御前では罪になります。残念ながら、私たちも生きていく間、凶悪犯罪は犯さないかも知れませんが、小さい罪は犯したりします。しかし、神様にとっては、その小さい罪も、同じ罪です。したがって、私たちは依然として残っている罪の性質に対して、常に警戒心を持って生きるべきでしょう。私たちの中には、まだ罪が残っているからです。イエスは私たちの罪を赦してくださいましたが、まだ私たちの中の罪の性質を残して置かれました。私たちの罪は、自分が死んで、神に召される時まで、常に私たちについて来るはずです。したがって、常に罪に対して注意し、我らの罪を代わりに背負ってくださったイエス様の恵みに頼って生きていくべきです。
締め括り
「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」(黙示録1:5-6)私たちに罪が残っているにも関わらず、私たちに希望がある理由は、神様が罪に影響を受けない、完全な救い主を立ててくださったからです。正しい人と呼ばれていたノアからは、ハムという罪人が出てしまいましたが、正しい人イエス・キリストからは罪から解放された聖徒たちが出てきます。ノアの息子ハムも、我々キリスト者も罪から完全に自由になったわけではありませんが、少なくとも私たちには罪から完全に自由になっておられ、我々を罪から解放してくださるイエス・キリストがいらっしゃいます。従って、断ち切れない罪に絶望しないで、イエス・キリストを信じて進んでいきましょう。神の恵みが志免教会に豊かにありますように。